軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第48話:新たなシステムの萌芽と個の矜持

いつものように協会のロビーに足を踏み入れた瞬間、私は空気が普段とは異なっていることに気がついた。

視線を巡らせれば、壁面に設置された掲示板の前に、不自然なほどの人だかりが形成されていた。

依頼書やパーティー募集の紙、あるいはイレギュラーな事態の報告、協会からの注意喚起が張り出される場所であり、それらを手早く確認して立ち去る場所だ。

それが今は、誰もが足を止め、一点を見つめて動こうとしない。

私は人垣の背後から、その中心にあるものを視界に収めた。

赤い印字で強調された、真新しい用紙。

先日、私が有識者として出席した委員会での議論を経て、協会から正式に発布された新たな暫定ガイドラインだった。

群衆の頭越しに、私はその文面を視線でなぞった。

特定エリアにおける単一種の選択的駆除は、ダンジョンの生態系の均衡を崩し、予測不能な事態を招く可能性がある。

大規模事業者には、定期的なモニタリングと報告を義務付ける。

そこまでは、会議で合意された方針の明文化だ。

私の視線は、その先に続く具体的な運用規定で止まった。

測定値が安全な稼働ペースの上限値を超過し、規格外個体の蓄積が確認された場合、当該エリアでの操業を一時停止し、間引き、すなわち正常化処理を実施しなければならない。

「……明確なブレーキ機構の実装」

無限の資源採掘場として、ダンジョンは無軌道に消費されてきた。

そこに初めて、効率化の限界が定義され、エラー発生時の是正措置が公的な制度として組み込まれたのだ。

私が私の平穏な生活を維持するために構築した論理が、ダンジョン全体の安全性を担保する防波堤として、これから機能していく。

数日後。

ガイドラインの施行は、巨大資本の運用方針に変化をもたらしていた。

ロビーの隅、いつものベンチで靴紐の張力を確認していた私の視界に、紺色で統一された防具の集団が映る。

企業クラン『アルゴス』の部隊だ。

搬入する機材の数は絞られ、定期的に標準個体の捕獲量を抑制し、エリアの個体群構成をモニタリングする工程を新たにマニュアルへ組み込んでいるという。

権藤さんに聞いた。

そして、今、私の視線の先で、もう一つの明確な変化が起きていた。

データアナリストの涼下氏が、手元の端末を操作しながら、『赤き戦斧』や『蒼穹の翼』といった探索者パーティーのリーダーたちと対面している。

言葉の応酬があり、やがて探索者たちが頷き、契約が成立した気配があった。

「……外部委託への移行」

自社のシステムでは処理の難しい規格外個体というエラーの蓄積が確認された際、彼らは無謀な戦闘で自社の高価な機材と人員を消耗させることを選ばない。

即座に操業を停止して機材を撤収させ、そのエラー処理を、現場の不規則な事象への適応力に長けた外部の探索者へ委託する。

大企業としての、冷徹で合理的なリスク管理の実践だった。

また別の日、ダンジョンゲートの手前、準備広場でのことだった。

カビと湿気が混ざり合った冷風を感じながら、私は本日の業務開始に向けた最終工程へ移行していた。

ポーションの配置、サバイバルナイフの被膜、その他、今日使用する資材や機材、念の為に持参していく装備一つひとつを、すべて指差しで確認していく。

すると、重量のある装備が不規則に擦れ合う音が近づいてきた。

大剣を背負った赤茶色の髪の青年、颯真くんだった。

彼は私の前で立ち止まると、缶コーヒーを私に差し出した。

私が最終工程の手を休め、受け取ると、自分の分であるカフェオレのプルタブを開けた。

一口飲んでから、

「俺のところにも『アルゴス』の連中から間引きの依頼が来た」

そう言った。

「けど、断ってやったぜ」

豪快に表情を崩し、彼は肩を揺らす。

「あいつらの尻拭いなんて御免だ。俺は俺のやりたいようにやる。だから探索者になったんだ」

彼の言葉を聞き、私は脳内で現状の市場構造を再評価する。

巨大資本が力で市場の大部分を制圧し、規格品のみを安定生産し続ける巨大な基盤を構築する。

そして、そこからこぼれ落ちる規格外を、現場で活動する個人事業主たちが、特化型の技術を用いて解消し、共生を図る。

相反する運用思想が、互いの領域を補完し合う一つのシステムとして機能し始めている。

ダンジョンという過酷な環境と、それを運用するシステムが、確実により強固なものへとアップデートされていく。

「……颯真くんらしい判断です」

私がそう応答すれば、

「だろ?」

颯真くんは言って、一気にカフェオレを飲み干した。

「じゃあ、またな」

「ええ、また」

彼がダンジョンに赴くのを視界の片隅で見送りながら、私は缶コーヒーを飲む。

そして、中断していた最終工程を再開する。

すべて問題なし。

全条件(コンディション) 、 規定値内(オールグリーン) 。

私が生きていくための業務を開始する。

ダンジョンから定時で戻り、魔石の換金も終える。

カウンターの列から離れ、魔石の買取金が振り込まれた明細を折りたたみ、ポケットへ収めようとした時だった。

私の前に、二つの人影が立った。

紺色の防塵コート。

『アルゴス』のリーダーである瀬能氏と、その斜め後ろに涼下氏だ。

今の瀬能氏に、かつて私に市場からの退場を勧告した時にあったような、氷のように冷徹で見下すような雰囲気は存在しない。

静河さん、と彼女の声が私の名を呼ぶ。

「今からでも、当社の顧問として入っていただけないでしょうか」

破格の条件が提示されることは想像に難くない。

だが、私の答えは決まっていた。

「以前、涼下氏にも同様の提案を受けましたが、お断りしました。お互いにやり方があまりにも違います」

巨大なシステムの一部として組み込まれることは、私の生存確率を他者の決定に委ねる行為に他ならない。

彼女は私の答えをわかっていたのだろう。

「……あなたに初めて会った時、もし——」

瀬能氏はそう続けた。

もし、なんてことがあったとしたら。

……いや、今、『私』がここにいる時点で、それはあり得るかもしれない。

だが、もし、あの時、彼女から誘われていたとしても——。

「——いえ、あなたの答えは、今と変わらなかったでしょうね」

彼女はそう呟いた。

私は微かに笑った。

「では、また」

「ええ、また」

立ち去る前、深く頭を下げてから、彼女は私に背中を向け、去っていく。

涼下氏も同様に、私に会釈してから、去っていった。

彼らの背中が、ロビーの人波に紛れて見えなくなるのを、私はただ静かに見送った。

私は探索者協会を出た。

外の空気はすでに冷たく、夜の気配が濃くなっていた。

巨大な資本がどのように市場を牽引しようとも。

ダンジョンの在り方がどのようにアップデートされようとも。

私の在り方が揺らぐことは決してない。

私がダンジョンに潜る目的は、名声を得ることでも、世界を変えることでもない。

自らの平穏な生活を私の力で維持すること、ただそれだけだ。

私は息を吐き出し、意識を切り替える。

夕食は何にするか。

スーパーに向かい、売り場に並んでいるそれに気がついた。

「……最初はこれでしたね」

私はそれ——塩むすびを手に取った。

久しぶりに食べよう。

あの時の気持ちを思い出しながら。

たまにはそういう日があってもいい。