軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

閑話 二度目の飛行

夜明けの霧が芝を淡く濡らす頃、訓練場の中央に据えられた三つの大きな袋が、ゆっくりと呼吸を始めるように脹らんだ。薄く織った布の地色は乳白、縫い目は丁寧に二重にかがられ、糸目がわかりやすいように青い糸で縫われている。

手配に奔走したのは、当然ながら、王宮魔法士ブルース部長である。自由にやりたがる魔法士をまとめるというか、抑え、押さえているお人だ。

そしてこの計画を聞きつけた騎士団員たちが、こぞって乗りたがり、それを抑えられない騎士団長が、三個作ることを希望し、資金を寄付した。

魔法士たちは次は自分たちが乗るんだと、主張してブルース部長を悩ませたが、なんとか今回は抑え込んだ。

気球のそばには、ジョンに跨ったリリーがいる。彼女は馬上で体勢を保っているが、そばにハリソン殿下がいて、なにやら話しかけていた。

一人だけ騎乗しているのは、転ぶと危ないからだ。

危険だから観覧は許可してないが、こっそり来ているのは、お忍びの国王である。傍らには宰相が控え、護衛のために騎士団と魔法士がさりげなく散らばっている。

騎士団長は厳しい表情をしているが、期待が隠せない。

旗が三度振られ、合図の角笛が鳴る。地上の綱が解かれ、三基の気球は大地の重みから糸が切れたように、ひゅう、と伸びやかに空へと抜けていく。

歓声はさほど大きくはない。人々は声よりも息を呑み、上を見上げ、掌を額に当てながら、その有り様を理解しようとしている。

風は南から、やわらかく吹いて。籠の中の人影は、喜びに震えている。

二基は予定通りにあたりを一周すると、しぶしぶと言った風に降りてきた。地上にちかづくと乗り手は、重そうに持ち上げた綱を地上に落とした。

騎士団五人ばかりが、綱を持つと気球はぴたりと地上に縫い留められた。ついでゆっくりと地上に着いた。

問題はもう一基だった。乗り手は地上の指示も最初の計画も無視して、高い所にとどまり続けた。

そして風が段々強くなって来た。その一基は、風に甘える子どものように北西へ遠ざかっていた。

「あぁあれだとすぐに隣国の首都に到着するのではないか!」国王は宰相に向かってこう訴えていた。

「――落とせ」騎士団長が命令した。

反対意見は出ない。どうせ楽しく乗って降りてきたくないだけだと全員が認識しているのだ。

弓隊とリリーは移動していく。

人のいない河に向かって、空に向かって、気球を狙って、一斉に矢は放たれた。

矢に遅れること数秒。気球に矢が当たると同時にリリーが乗り手に向かって治癒魔法を打った。

乗り手は治癒魔法で少しだけ光輝きながら、手を振りながら落ちた。落ちた衝撃で籠がバラバラになった。

その一部始終を、国王は少年のような顔で目を見開いて見ていた。指先を震わせながら、思わず声を張る。

「これがあれば、世界征服も夢ではない!」

若き魔法師たちが目を丸くし、従卒は互いの肘をつつく。宰相は咳払いひとつで、その場の空気を落ち着かせた。

「陛下。まずは、我らの世界を飛び越えぬ範囲から始めましょう。征服を夢見るには、倉の麦も人手も、まだ足りませぬ」

国王は照れ臭そうに鼻を鳴らし、しかし空から目を離さない。「征服」という音の派手さがひとり歩きしないよう、宰相は追い口を利く。

「空を使えば、冬の峠が閉ざされても薬が届けられます。川向こうの村に橋をかけるより早く、兵站を運ぶこともできる。夢は夢のままで悪くはない。しかし夢を現実へ下ろすのは、地面の計算でございます」

国王は顎を引き、のちに小さく頷いた。王の頷きは、夢の否定ではなく、夢の設計図へと変わる合図だ。

宰相の口元に、見逃される程度の笑みが走る。

落とされた気球に乗っていた男は、騎馬に囲まれて徒歩で全力疾走させられて帰って来た。

ブルースは手元の記録板に、風向・温度・上昇時間・下降手順・異常時の対応と結果を、荒い字で書き連ねていた。手を止めたのは、魔法師団の若者たちの輪から聞こえる、押し殺した声のせいだ。

「帆布も籠も、もう少し小さくできるのではないか?『焔のない火』に合わせた構造、やるなら今だ」

「風のベクトル制御を術式に組み込めば、手持ち出来る大きさに出来ないか?」

「小さければ、こっそり内輪で試せますよ。騎士団に内緒でやれますよ」

「気球を背負えば、籠なしでもいけるのでは?温度制御は術式と器具の二重化で軽くなりませんか?」

「体を鍛えると落ちてもピンピンしているのでしょうか?わたし少し走ります」

彼らは、落とされた一基を「失敗」とは呼ばなかった。それは勇気ある実験だ。「次の図面」の輪郭だ。魔法士団員の評価は高い。

騎士団長は彼らの横を通りざま、わずかに頷いた。判断の責を負う者の頷きは重い。

お忍びの王がしぶしぶ帰る頃、陽は傾き、いつもの夕焼けが美しかった。

王は立ち去り際にもう一度だけ振り返り、低く呟く。

「やはり、あれは夢の翼だ」。その言葉を聞いたのは、宰相と、運悪く近くにいた書記官、騎士団員だった。

彼は、その夜、宿舎で仲間にこう言った。

「王様、少年みたいな顔してたぜ。ハリソン様に似ていた」笑いが起き、すぐに静まった。誰も馬鹿にはしなかった。

夢を見る顔は、誰の胸にも覚えがある。王の夢は空を飛ぶことか?世界征服か?

多分、王自身もわからないだろう。

若い術師が黒板に「空の舟」と題した円を描いた。輪の中に、風・熱・浮力・素材――それぞれの文字が、次の会議までに研究すべき課題として、ぎっしりと詰め込まれていく。

訓練場の外れにまだ人影があった。ブルース部長だ。彼は燃焼器具を分解し、細かな煤の具合を確かめ、帳面に書きつける。

「焔なき焔、出力安定。実験飛行に異常なし。見学:王」。最後の一行を少し迷ってから「王、夢に目潤む」と付け足し、苦笑した。

数字と部品しか信じない男にしては、ずいぶん詩的な記述だ。だが、この日のことを正確に記すなら、あの涙もまた必要なデータに違いない。

帰路、宰相は王の馬車に同乗し、静かに言った。

「陛下、世界は広うございます。征服なさるより、まずは渡りましょう」

王はしばし黙し、やがて「ならば、どこへ」と問う。

宰相は頬に風を受け、「困っているところへ」と答えた。

王は「うむ」と短く答えた。車輪が石畳を刻む。いつかあれに乗ってやる。と王は決心していた。

月が出て来た。昼間に矢で裂かれた帆布の切れ端が、杭に引っ掛かったまま小さく揺れる。

やがてそれも、夜警の兵が回収して歩哨小屋の釘へ掛けた。彼はそれを“記念”と呼んだ。失敗ではなく、はじまりの破片。

明朝、彼はきっと仲間に見せるだろう。「見ろよ、空の匂いがする」と。