軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第3話 怖いからこそ、何が起きているのか知っておきたい

船旅は、一週間の予定だった。

セイント・マリー号は、ルーベル王国の港を出て、アステリア連合共和国の港町ミラへ向かっている。

アステリア連合共和国は、いくつもの小国が大国に対抗するために手を結んだ国だ。

それぞれの国には本来の名があるけれど、まとめ役となったアステリアの名を取り、外ではそう呼ばれている。

私が目指す港町ミラも、そのアステリアにある町だった。

船旅の最初の五日間は、驚くほど穏やかだった。

空は青く、海も静かで、白い帆は気持ちよさそうに風を受けていた。

船員たちはよく働き、商人たちは荷物の話をし、旅人たちは海を眺めたり、本を読んだりして過ごしている。

私も少しずつ、船の揺れに慣れてきた。

最初は歩くだけでも足元がふらついたけれど、五日目には片手で手すりを持てば、船の上を歩けるようになっていた。

人間、案外慣れるものらしい。

もちろん、油断はしない。

私は女ひとりの旅人だ。

船の上には商人も、旅人も、護衛らしい男たちもいる。

こちらを珍しそうに見る者もいた。

けれど、面と向かって何かを言ってくる者はいない。

それは、セイント・マリー号の船長がまじめな人物だからかもしれない。

あるいは、私の近くに時々エリオット・レインがいるからかもしれなかった。

エリオットは、不思議な人だった。

旅人のような地味な服を着ている。

けれど、ただの旅人には見えない。

商人の話を聞く時も、船員に声をかける時も、どこか自然に人の中心に立つ。

本人はそれを隠しているつもりなのかもしれない。

けれど、隠しきれていない。

「エレノア嬢は、船旅に慣れてきましたか?」

五日目の夕方、船の上で声をかけられた。

私は手すりに手を置いたまま、横を見る。

エリオットが穏やかな顔で立っていた。

「少しは。まだ、床が動いていない場所でも揺れている気がしますけれど」

「港に着いてからもしばらく続くかもしれません」

「困りますね。せっかくミラの町を歩く予定なのに」

「港町ミラは坂の多い町です。御令嬢には、少し大変かもしれません」

「御令嬢、ですか」

私は思わず聞き返した。

エリオットは少しだけ目を細める。

「失礼。ですが、そう見えましたので」

「ありがとうございます」

私は軽く頭を下げた。

「でも、こう見えても体力には自信があります。幼いころは、よく男の子と間違われましたから」

エリオットが、くすりと笑った。

「それは、港町ミラでも頼もしいですね」

「ええ。坂道くらいで負けるつもりはありません」

「では、朝の市場のほかに、見ておいた方がいい場所をお教えしましょう」

「聖マリアの大きな教会ですね。鐘の塔から見る港は美しい」

「案内書にも書いてありました」

「それから、港近くの食堂で出る魚のスープも有名です」

「食堂までご存じなのですか?」

「私の好きな食堂です。久しぶりに食べられると思うと、もう、お腹が鳴りそうです」

私は思わず笑ってしまった。

たぶん、この人は私の不安を和らげようとしてくれているのだ。

そう感じると、胸の中の緊張が少しだけほどけた。

やはり、はっきりしない人だ。

けれど不快ではなかった。

むしろ、少し面白いと思ってしまう。

この人は何者なのだろう。

ただの旅人ではない。

でも、貴族のように偉そうでもない。

船員とも、商人とも、ごく自然に話している。

私は以前、ルーベル王国の社交界で多くの貴族を見てきた。

彼らの多くは、身分を隠そうとしても、隠しきれない。

自分が上にいるという感覚が、言葉の端や目の動きに出るからだ。

けれどエリオットは違う。

上に立つことに慣れているのに、人を下に見るような目をしない。

それが、私には少し不思議だった。

六日目の朝。

空は快晴だった。

雲は薄く、海は青く、遠くまでよく見える。

私はいつものように船の上へ出た。

潮風は心地よく、帆は大きくふくらんでいる。

今日は良い一日になりそうだ。

そう思った。

けれど、昼前になって、船の上の空気が変わった。

最初に気づいたのは、船員たちの足音だった。

いつもより速い。

声も低い。

荷物を結んでいた縄を確かめ直す者がいる。

帆を見上げて、何かを叫ぶ者がいる。

船長が短く命令を飛ばし、若い船員が走っていった。

空は晴れている。

海も、まだ荒れてはいない。

なのに、船員たちだけが慌ただしく動き始めていた。

近くにいた商人が、不安そうに声をひそめる。

「おい、何かあったのか?」

「まさか、海賊じゃないだろうな」

海賊。

その言葉が聞こえた瞬間、船の上にいた旅人たちの顔色が変わった。

「この航路は安全だと聞いたぞ」

「護衛船は近くにいないのか?」

「荷を狙われたら終わりだ」

ざわめきが広がる。

私の胸にも、不安が落ちた。

海賊。

本では読んだことがある。

けれど、実際に出会いたいものではない。

商船は荷を積んでいる。

香辛料や布、異国の酒のたる。

価値のあるものが多い。

狙われる理由は十分にある。

私は思わず、手すりを強く握った。

安全な航路を選んだはずだった。

それなのに、海賊など。

どうなるの。

そう思った時、頭上から鋭い声が聞こえた。

「鳥が見えない!」

見張りの船員が、マストの上にいた。

風に揺れる高い場所で、片手をかざして遠くの海を見ている。

私は反射的に顔を上げた。

彼は海賊船を探しているのだろうか。

けれど、その声は少し違って聞こえた。

恐怖というより、確認。

敵を見つけた者の声ではない。

何かが見えないことを確かめている声だった。

船員たちの会話が、風に乗って耳に届く。

「カモメは?」

「戻ってこない!」

「鳥山はどうした?」

「さっき崩れた。魚に集まっていた鳥の群れが散ったんだ」

「風が変わるぞ!」

「南東からだ。急に向きが変わった!」

私は息を止めた。

カモメ。

鳥の群れ。

風向き。

海賊ではない。

船員たちは海賊船を探しているのではない。

空と海を見ている。

胸の奥で、昔読んだ本のページがめくれるような感覚がした。

幼いころの私は、よく男の子と間違われた。

じっと座って人形遊びをするより、庭を走り回ったり、木に登ったりする方が好きだったからだ。

母にはよく叱られた。

リリアはその頃から、可愛い子どもだった。

きれいな服を汚さず、上手に笑い、大人たちの前で愛らしく首をかしげる。

私は、それが少し苦手だった。

十歳くらいの頃だと思う。

私はようやく、自分がどう生きなければならないのかを理解した。

女として生きるなら、道は多くない。

よい殿方を見つけるか。

知識を身につけるか。

大ざっぱに言ってしまえば、その二つだった。

リリアは、美しい笑顔と泣き方を身につけた。

私は、知識を身につけることを選んだ。

図書館に通いつめ、朝から晩まで本を読んだ。

歴史。

法律。

契約。

薬草。

地図。

そして、航海術。

もちろん、私は船乗りではない。

帆の扱いも、星を使った正確な位置の読み方も、実際には分からない。

けれど、嵐の前に鳥が逃げること。

魚の群れが散り、鳥の群れも消えること。

風向きが急に変わること。

そういう前触れなら、本で読んだことがあった。

海賊ではない。

嵐が来る。

私は急いで船室へ戻った。

旅行カバンを引き寄せる。

奥にしまっていた小さな薬包を取り出した。

高価な船酔いの薬だ。

これも、悩んだ末に買ったものだった。

店の者は言っていた。

よく効く薬ですが、飲んですぐに効くものではありません。

半日ほど前に飲んでおくとよいでしょう、と。

買った時は、少し大げさだったかもしれないと思った。

でも今は違う。

嵐が来てからでは遅い。

薬を飲むには水がいる。

私は薬包を握りしめ、船の食堂へ向かった。

食堂には、不安そうな顔の乗客たちが集まっていた。

「海賊なのか?」

「船員が走っていたぞ」

「荷物をまとめた方がいいのか?」

そんな声があちこちから聞こえてくる。

私は水をもらい、船酔いの薬を飲み込んだ。

苦みが舌に残る。

思わず顔をしかめた時、横から声をかけられた。

「エレノア嬢」

エリオットだった。

いつもより少し表情が硬い。

「海賊だと思いましたか?」

「最初は」

「今は?」

私は少し迷ってから答えた。

「嵐だと思います」

エリオットの表情が、ほんの少し変わった。

「なぜ、そう思ったのですか?」

「船員たちの言葉を聞きました。カモメが戻らない。魚に集まっていた鳥の群れが散った。風向きが変わった。海賊船を探しているというより、嵐の前触れを確かめているように聞こえました」

エリオットは黙って私を見た。

「航海の経験が?」

「ありません」

「では、誰かから聞いたのですか?」

「本で読みました」

そう言うと、エリオットは少しだけ笑った。

からかう笑みではなかった。

感心したような、けれど少し不安を隠しきれていない笑みだった。

「本で読んだことを、今この船の上で思い出したのですか」

「本は、使うために読むものですから」

言ってから、自分でも少し偉そうだったかもしれないと思った。

けれどエリオットは、静かにうなずいた。

「それで、薬を?」

彼の視線が、私の手元に向いた。

「船酔いの薬です。半日ほど経たないと効かないと聞いていたので」

「嵐が来る前に飲んだ」

「はい」

「見事な判断です」

私は少しだけ困った。

ほめられるとは思っていなかった。

「本当に嵐が来るかは分かりません」

「来るようです」

エリオットは不安そうに言った。

「船長も同じ判断をしました。今夜はかなり荒れるかもしれないと心配していました」

私は息をのんだ。

やはり。

分かっていたつもりでも、はっきり言われると胸が重くなる。

「怖いですか?」

エリオットが尋ねた。

私は少しだけ考えた。

怖い。

もちろん怖い。

知らない海の上で、嵐に遭う。

逃げ場はない。

船が沈めば終わりだ。

けれど、私はここまで来ると決めた。

怖いから戻ると言っても、もう港は見えない。

「怖いです」

私は正直に答えた。

「でも、怖いからこそ、何が起きているのか知っておきたいのです」

エリオットは、少し驚いたように私を見た。

それから、小さくうなずいた。

「私は、少し船長と話してきます」

「船長と?」

私が聞き返すと、彼は一瞬だけ表情を止めた。

そして、いつものように穏やかに笑おうとした。

けれど、その笑みは少しだけぎこちなかった。

「旅人にも、手伝えることがあるかもしれませんので」

旅人。

その言葉は、どうにも彼に似合わなかった。

けれど私は、それ以上は聞かなかった。

エリオットは食堂を出ていこうとして、ふと足を止めた。

「エレノア嬢」

「はい」

「もし気分が悪くなったら、無理をしないでください」

「それは、こちらの台詞ではありませんか。嵐の前に船長と話すのでしょう?」

私がそう返すと、エリオットは少しだけ目を丸くした。

それから、声を立てずに笑った。

「なるほど。では、お互いに無理はしないということで」

「ええ。それがよろしいかと」

彼は軽く頭を下げ、食堂を出ていった。

私はしばらく、その背中を見つめていた。

やはり、ただの旅人ではない。

けれど、悪い人ではない。

少なくとも、今のところは。

船が、また大きく揺れた。

さっきよりも深く、重い揺れだった。

食堂の机の上で、空の杯がかたんと音を立てる。

乗客たちのざわめきが大きくなった。

「今の揺れは何だ?」

「本当に海賊ではないのか?」

「外が暗くなってきたぞ」

私は食堂の小さな窓へ目を向けた。

さっきまで青かった海の色が、いつの間にか暗くなっている。

空はまだ明るい。

けれど、遠くの水平線に、黒い雲が低く重なっていた。

船員の声が響いた。

「帆を絞れ!」

「荷を縛り直せ!」

「乗客を船室へ!」

ついに来る。

私は席を立ち、船室へ戻った。

机の上に出したままだった地図を畳み、カバンの奥へしまう。

貴重な地図だ。

濡らすわけにはいかない。

それから、寝台の端に腰を下ろす。

心臓が速く打っていた。

不安はある。

怖さもある。

けれど、その中に少しだけ、別の感情が混じっていた。

私は本の中だけで知っていた海に、今、本当にいる。

本で読んだ知識を使い、本でしか知らなかった嵐を、自分の目で見ようとしている。

馬鹿げているかもしれない。

でも、胸の奥が震えた。

恐怖だけではない。

これはきっと、冒険の震えだ。

窓の外で、最初の雨粒が丸いガラスを叩いた。

ぽつり。

ぽつり。

やがてそれは、細かく、速くなっていく。

セイント・マリー号に、黒い雲が向かって来ていた。