軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

SIDEツキシマ

「その貴女が、異国の地で踏みにじられるのが……耐えがたいのです」

言葉にした瞬間、自分でも驚くほど強い感情が滲んでいることに気づいた。本来なら、たかが護衛が口にするべきではない言葉だった。

だがーー長いあいだ沈めてきた思いは、もう隠しきれない。

俺が姫の傍に仕えるようになったのは、もう十年以上前のことだ。

姫がまだ幼かった頃、殿――つまり姫の父君から直々に命を受けたのだ。

「この子を、命に代えても守れ」

あの時の言葉は、今も俺の胸に刻まれている。

それ以来、俺の人生は姫を護るためだけにあった。剣も、忠誠も、生きる意味も――すべてはそのためにある。

あの頃の姫は、今の儀礼正しい大人しい女子ではなかった。庭を駆け回るお転婆な少女で、石段を駆け下り、小さな足はいつも泥だらけだった。陽の光を跳ね返すようなその笑顔は、見ているだけで目を細めてしまう程眩しかった。

俺が剣の鍛錬をしていると、姫は決まって駆け寄ってきた。

「ツキシマ~!」

剣の鍛錬をする俺を真似をして、木の枝を剣に見立てて俺に立ち向かってくることもあった。姫は真剣そのものの顔で挑んでくるものだから、俺は木剣を手に取り、わざと大げさに受け止めるふりをした。「やられた……!」と俺が芝居がかった声で言うと、姫はぱっと顔を輝かせた。「私の勝ちね!」と叫び、わずかに肩をすくめてはしゃいだ。

姫は子供ながらに好奇心の塊だった。殿からは「女子なのだから大人しくするように」と何度も言い渡されていたのだが、当の本人はそんなことお構いなしに、思いつくまま小さな冒険をはじめてしまう。

樹に登って降りられなくなり、俺が抱えて下ろす羽目になったこともある。平民の子供と遊んでみたいと言い出し、裏手の門からこっそり城を抜け出そうとしたこともあった。俺はそのたび必死に追いかけて、振り回される毎日だった。だが、不思議と嫌な気分ではなかった。

ある日、屋敷の裏手にある古い蔵の鍵を見つけてはこっそり開け、埃っぽい書物や古い絵巻を持ち出してきた。姫は絵巻の中の異国の様子が描かれた絵を指さし、真剣な表情で言った。

『ねえ、ツキシマ、海の向こうには別の国があるそうよ。ヒノモトとは建物も食べ物ももまるで違うんだって』

目を輝かせながら、夢見るように。

きっと、あの頃にはもう外国へのあこがれを抱いていたのだろう。『いつか行ってみたいね』と言う姫様に、『俺は想像つきません』とだけ答えた。その返事に不満だったのか、暫くのあいだ姫様は拗ねた顔をしていた。

姫が笑えば心が安らぎ、涙を見れば胸が締めつけられる。

俺の心は、いつの間にか護衛の域を越えていた。

時が流れ、姫は成長し、お転婆もなりを潜め、立ち居振る舞いも凛としてこられた。

その姿は、まさしく“女性の鏡”にふさわしい。

やがて姫はいずれ、国内のどこかの領主家に嫁ぎ、政治の絆を結ぶことになる。

それが姫の宿命であり、この国のための務めだ。

……分かっている。

それが幸せなのだと。結婚して良き妻となり子を産む。それが女の幸せだ。

俺などが立ち入るべきことではない。

護衛としての務めを果たし、嫁がれるその日まで、傍にいればそれでいい。

それでいいはずなのに――。

最近の姫は、まるで別の人のように輝いて見える。異国の言葉を学び、エリザベート殿と肩を並べ、知らぬ景色を見つめている。

その瞳に映るのは、俺の知らない世界。

まるで外の風を胸いっぱいに吸い込んでいるようだった。

本来なら、姫様が喜んでいる姿が見れることは喜ばしいことだ。閉ざされたこの国で、新しい知を受け入れ、広い心を持とうとする。それは立派なことだと思う。

けれど、俺の心境はひどく複雑だった。

何故だろうな。

姫が遠くを見つめるたび、俺の中の何かが焦げつくように痛む。

姫が異国の言葉で笑うたび、胸の奥に小さな棘が刺さる。

まるで、自分の知らない場所へ、少しずつ離れていくようで。

「変わらないでほしい」――そう願ってしまうのは、身勝手だろうか。

いずれ姫は嫁ぐ。そのとき俺の務めは終わる。それは当然のこと。

だからこそ、今だけは、この穏やかな日々が続けばいい。

剣の音と、庭を渡る風と、姫の笑い声――それらに囲まれた世界が、ずっと続けばいい。叶わぬ願いだと分かっているのに、何も変わらないでほしいと希ってしまうのだ。

けれど、姫は止まらない。

姫さまは、風を恐れぬ人だ。

新しい世界へ向かおうとするその背を見て、俺はどうしようもなく怖くなる。

遠くへ行かないでくれ。

その言葉が喉の奥までこみ上げる。たかが護衛がそんなことを口にできるはずもなく。

ただ見守るしかない。変わっていく姫の姿を、手の届かぬ距離から。

どうか、変わらないでほしいと、心のどこかで祈りながら。

「その貴女が、異国の地で踏みにじられるのが……耐えがたいのです」

気づけば、そう口にしていた。

言葉のない時間が流れた。

サクラの口元がかすかにほころぶ。

「ありがとう。ツキシマ。貴方が心配してくれるのは分かってるわ」

彼女は懐かしげに目を細める。

「……いつも、そうだったね。私をずっと守ってくれたもの」

その一言が、心の深いところを揺らした。

サクラは一歩近づくと、まっすぐに俺を見上げた。

「それでも……わたしは行きたいの。」

守られるだけの少女は、いつの間にかいなくなっていた。

籠の中の鳥ではなかったのだろう――背中の羽を伸ばして、今まさに飛び立とうとしている。

……俺を置いて。

「女だからではなく、この国のことを、世界に伝えたいと思ったから。エリザベート様は、私を“姫”としてではなく、“一人の人間”として見てくれたわ……」

しばらく沈黙が続いた後、サクラは少し遠くを見るように目を細め、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「ねえ、覚えてる? 小さい頃、蔵から絵巻を持ち出して父上に叱られそうになったとき、庇ってくれたのも貴方だった。自分が持ち出したと言って。……本当は私が引っ張り回したのに」

口元に、小さな笑みが浮かんだ。

俺は何も言えなかった。

あの日のことは覚えている。叱責を受けているのは俺だというのに、姫はまるで自分が叱られているかのように、泣きそうな顔をしていたから。結局、堪え切れなくなった姫は、自分からすべてを打ち明けてしまった。

「稽古の帰りに、私が転んで膝を擦りむいたこともあったでしょう。そのとき、何も言わずに背中に負ぶってくれたね。……貴方の背中、すごく広くて、あたたかかったわ」

俺の背中が、かすかに熱を持つのを感じた。

姫を背中に負ぶったあの日、落とすまいと腕に力を込めながら、この重さをずっと感じていたい。そんな身の程知らずの願いが浮かんでいた。そんなことを、口にできるはずもなかったが。

「それから……」

サクラの声が、不意に小さくなった。

「……あの祭りの夜のこと、覚えてる?」

覚えている。忘れるはずがない。

姫が十二の夏だった。

城下の祭りに供をした夜、人混みの中で見知らぬ男が姫に近づいた。殿に恨みを持った浪人だった。俺が気づいた時にはもう、男の手が姫の袖を掴んでいた。俺はとっさに姫を背後へ庇い、男と向き合った。刃を抜いた男の切っ先が、俺の肩を深く裂いた。

痛みより先に、姫の息を呑む声が聞こえた。

「ツキシマ、血が……!」

「下がっていてくださいっ!」

それだけ言って、男を取り押さえた。

返り血と脂汗が滲む中でも、姫が無事であることだけを確かめた。それで十分だった。

だが姫は青ざめた顔で俺の肩を見つめ、帰り道ずっと黙っていた。

「あの夜、私……泣きそうだったの」

サクラは少し俯いた。

「ツキシマは私を守って怪我を負ったのに、私は何もできなくて。ただ立っているだけで。……悔しくて、怖くて」

彼女は一度言葉を切った。

それから、少し声を和らげて続けた。

「でも、貴方がいてくれて、どんなに心強かったか」

俺は返事をしなかった。

あの夜の姫の顔を、俺もまだ覚えている。青白い頬と、懸命に涙を堪えようとしていた、その目を。

「翌朝ね、こっそり薬を持ってきたの。父上に見つかったら叱られるから、夜明け前に」

サクラはどこか照れくさそうに、視線を逸らした。

「貴方、寝てたから。起こすのが悪くて、肩に薬を塗って、そのまま逃げ帰ったけど」

知らなかった。怪我の熱で意識が朦朧としていたから。

あの朝、傷に薬が塗られていたことには気づいていた。誰かが、と思いながらも……。まさか姫が、夜明け前に、と考えも及ばなかった。

「……気づいてなかったのね」

サクラは苦笑した。それから、少しだけ寂しそうに目を伏せた。

「貴方はいつもそう。私のことを一番に考えてくれるくせに、自分が傷ついていることは、何でもないふりをして」

胸を、何かが静かに貫いた。

「私ね」

その声は、打ち明け話をするようにひそやかで、それでいて熱を帯びながら零れ落ちる。

「子供の頃、海の絵巻を見せながら『一緒に海に行こうね』って言ったとき、貴方が『想像もつきません』って言ったでしょう。あれ、少しだけ悲しかったの」

俺は息を呑んだ。

「一緒に見たかったのよ。その景色を。……ツキシマと」

庭を渡る風が、一瞬だけ息を潜めたように感じられた。

サクラはしばらく、その風の行方を目で追っているようだった。

風が凪ぐと、ゆっくりとこちらへ向き直った。

「ねえ」

その声は、命令でも懇願でもなかった。

ただ真っ直ぐに、俺の胸の中心へ落ちてきた。

「お願い。私と一緒に来て」

息が、止まった。

「ツキシマがいないと、私……無茶しちゃうわ」

困ったように、それでいて少しだけ甘えるように、サクラは笑った。

あの頃の少女のままの笑い方で。石段を駆け下りて、泥だらけの足で笑っていた、あの頃のまま。

俺は何も言えなかった。言えるはずがなかった。

一介の護衛が、主の願いを断る道理はない。それが建前だ。だが今、俺の胸を揺さぶっているのは忠誠ではなかった。

行きたい。……共に居たい。

その思いが、胸の底から音もなく満ちてきた。

異国であろうと、見知らぬ海の果てであろうと、この方の隣に在れるなら。

傍で剣を握れるなら、その笑顔が無事でいられるなら。

「姫」

絞り出すように、俺は口を開いた。

「俺が共に参れば、貴女の無茶を止められるとは限りませぬ」

サクラが、小さく目を瞬かせた。

「……むしろ、俺がいるからこそ、無茶をしでかすのではないですか」

それからサクラは、ぷっと吹き出した。

「……そうかもしれないわね。だってーー何かあっても、ツキシマが守ってくれるでしょう?」

笑い声が、夜の庭に溶けた。

俺の胸の奥で、長い間張り詰めていた何かが、ゆっくりとほどけていくのを感じた。

「それでも、貴方がいい。貴方が一緒じゃなきゃ駄目なの」

その言葉が、胸に刺さった。

棘のようにではなく――深く、静かに、根を張るように。そのかすかな痛みを抱えたまま、俺はその場に立ち尽くす。

庭の木が、風に揺れた。遠くで鳥が鳴いた。

俺は、ゆっくりと頭を下げた。

「……御供いたします。俺が、貴女を護りましょう」

一度、深く息を吐いた。

この先に何が待ち受けていようと、俺の答えは変わらない。嵐が来ようと、荒波に呑まれようと、果ては海の底であろうとも、俺は貴方についていこう。

「たとえこの身が異国の波に呑まれようとも、貴女が進む道を、俺は支え続けます」

サクラはきゅっと唇を結んだ。

泣くまいと堪えるように、けれど隠しきれない喜びを滲ませる。三日月のように細めた目の端で、涙がきらりと光った。

「ありがとう、ツキシマ。あなたがいてくれるなら、私はきっと、大丈夫」