軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

SIDE カミル

淡い桜色が、視界いっぱいに広がっていた。風が吹くたび、花びらがやわらかく宙を舞い、光を受けてきらきらと揺れる。

隣を歩くエリザベートは、その光景にしばし目を奪われたあと、ふわりと微笑んだ。

あまりにも穏やかなその表情に、いつの間にか僕の視線は彼女へと縫い留められていた。

そっと、手を取る。

指先に伝わる温もりは、風に散る花びらよりもずっと確かで――

エリザベートが、今この場所にいるのだという事実を、静かに胸へ刻み込んでくる。

彼女は桜を見上げながら、どこか懐かしむような目をしていた。

まるで初めて見る景色ではなく、思い出しているかのように。

満開の桜の下を歩くエリザベートは、本当に楽しそうだった。

花びらの雨の中で無邪気に笑うその姿を見ていると、理由も分からぬまま、胸の奥がざわりと波立つ。

境内の中心に立つ一本桜を見つけた瞬間、彼女はぱっと声を弾ませた。

「わあ、大きな桜の木だわ!」

天へ伸びる太い幹。空を覆うほどに広がる枝。

無数の花が咲き誇り、風に乗って舞い落ちるその光景は、あまりにも現実離れしていて――

そして、なぜか、ひどく危うく見えた。

「……綺麗だ」

気づけば、そう呟いていた。

桜にではなく――桜よりもずっと美しく、僕の目を、心を、攫っていく彼女に。

エリザベートは僕の手をほどき、吸い寄せられるように桜のもとへ歩み寄り、太い幹に手をついて空を仰いだ。

その背中を見た瞬間、胸の奥に、正体の知れない不安が込み上げる。

――このまま、どこか遠くへ行ってしまうのではないか。

気づけば、僕は背後から彼女を抱きしめていた。

「な、なに。どうしたの、カミル」

戸惑った声。

「……エリザベートが、桜に攫われてしまう気がして」

自分でも馬鹿げていると思った。

それでもその言葉は、胸の奥からどうしても溢れてしまった。

「もう……なにそれ。ずいぶんロマンチックなことを言うのね」

鈴を転がすような、軽やかな笑い声。

けれど僕は何も返せず、ただ腕に力を込めた。

「カミル……?」

不安げに呼ばれる声に、今度は僕の方が胸を締めつけられる。

彼女を抱く腕が、わずかに震えているのが分かった。

「……君は、不思議な人だ」

長い沈黙のあと、ようやく言葉を選ぶ。

「エリザベート。君が何かを隠していることくらい……前から、分かっていた」

小さく息を呑む気配が、背中越しに伝わる。

「僕は医者だ。人の表情や癖を見るのが仕事みたいなものだからね。

君の話には、知らないことが多すぎる。医学の知識も、言葉の選び方も……それに、あの目だ」

時折、彼女は遠い場所を見ているような目をする。

ここではない、どこか別の世界を映しているような――。

「エリザベートが秘密を抱えているのは……ずっと前から、薄々気づいてた」

腕の中の温もりが、ほんの一瞬、強張った。

彼女には、最初から小さな違和感があった。

知らない知識が多いのではない。――知らないはずのことを知っている。

僕は、君がくれた知識に何度も救われてきた。

医師として判断に迷ったときも、妹を救えずに打ちひしがれていたときも。

君の言葉はいつだって、僕にひとつ先の景色を示してくれた。

それでも。

王太子妃教育だけで説明できる範囲を、君は越えていた。

ヒノモトに来てからも同じだ。

この国の風土や文化を、初めて触れるものとしてではなく――

すでに知っているものとして語っていた。

それでも僕は、何も言わなかった。

気づかないふりをした。

違和感に名前を与えず、疑問を胸の奥へと押し戻した。

もし、それを言葉にしてしまったら。

もし、君に――「君は、一体何者なんだ」と問うてしまったら。

――君は、ここからいなくなる気がした。

理屈では説明できない。

医師として、最も信用すべきではない種類の確信。それでも、その予感だけは、どうしようもなく真実味を帯びていた。

そして、何より。……君は、時折、遠い目をしていたから。

今見ている景色とは別の何かを、胸の奥に重ねているような――そんな目を。

その目を見るたび、心が締め付けられた。

だから、踏み込めなかった。

怖かったんだ。君が、どこかへ行ってしまうかもしれないのが。

「実は前世の記憶がある」と告白されたとき、確かに驚いた。

「……わたし、元々は、この世界の人間じゃないの」

けれど同時に、ひどく納得していた。

――やはり、そうだったのか。

君が語る世界。

科学が進み、忙しく、それでも確かに存在していた「日本」という国。

その言葉一つ一つが、これまでの違和感を無理なく繋ぎ合わせていく。

腕の中の君は温かくて。

けれど、怯えるように震えていた。

――失うかもしれない。

このぬくもりを。積み重ねてきた時間を。

それでも――今、君はここにいる。

僕の腕の中で、泣いている。

それだけで、十分だった。

「ありがとう、話してくれて」

そう口にした声は、思いのほか穏やかだった。

君がどこから来たとしても。どんな過去を背負っていようとも。

今、僕の心を掴んで離さない君は――間違いなく、エリザベートだ。

僕らはその後、宿へと移動した。

湯から上がっても夜はまだ深く、並んで腰を下ろしながら僕らはゆっくりと言葉を交わした。

これまでのこと。これからのこと。

過去と未来が、穏やかに溶け合っていくような時間だった。

「これからも、あなたと一緒に……もっと多くの場所を見て、知らない味を知って、手を取り合って歩いていきたい」

エリザベートが描く未来の中に、当たり前のように自分が含まれている。

その事実が、胸の奥をじんわりと温めた。

湯けむりの向こうに揺れる星空が、彼女の想いを包み込むように瞬いている。

月光は彼女の瞳に映り込み、夜風が、ふたりの髪をやさしく揺らした。

もう、言葉はいらなかった。

語らずとも、心の奥深くで通じ合う何かが確かに結ばれていると分かる。

耳に届くのは、宿に満ちる夜の気配――

遠くの虫の声。

風に揺れる木々の音。

そして、互いのかすかな呼吸。

この時間が、永遠に続けばいい。

そんな願いが、ごく自然に胸に浮かんだ。

僕は、静かに決意する。

君の抱えるすべてを受け止めよう。

過去も、秘密も、迷いも――その全部を。

そして、君と共に生きていく。

それが、僕の選んだ未来だ。