軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

22話 心に寄り添って

数日後、私はセルジュ家に招かれた。

石畳を踏むたび、靴音が凛とした空気に溶け込んでいく。屋敷は公爵家のそれと比べれば控えめだが、手入れの行き届いた庭園は広く開けていた。だが、その奥に進むほどに、風は次第に冷たさを帯びてゆく。静けさの中で、心だけがじわじわと波立っていた。

やがて、案内されたのは本館の陰にひっそりと佇む離れ。

まるで世界から切り離されたような寂しい場所だった。差し込む陽光でさえ、遠慮深くカーテン越しに佇んでいる。

扉の前でカミルは立ち止まり、しばし黙してから口を開いた。

「……妹は今、人と会うことすら辛いようで。もしかすると、無愛想な態度を取るかもしれません。どうか気になさらずに」

抑えた声の奥に、にじむような焦りが見えた。兄として何もしてやれないもどかしさ、医者としての無力感。それらすべてが、彼の横顔に刻まれていた。

「ええ、大丈夫よ。彼女の気持ちに寄り添えるよう、頑張るわね」

微笑みながら頷く。震える指先をそっと握り直し、私は扉の前に立った。

「……入ってもよろしいかしら?」

扉の向こうから返事はなかった。けれど、カミルが頷いたのを確認し、私は意を決して取っ手に手をかけた。

柔らかなカーテンが揺れる、わずかに日差しの差し込む小部屋。

その奥、ベッドの上で、一人の少女が膝を抱えてうずくまっていた。やつれた腕が痛々しいほどだ。薄く乾いた髪が肩に落ち、指先の骨ばった輪郭があらわになっている。

まるで、少し触れただけで崩れてしまいそうな儚さ。

「……誰……お兄様の、知り合い?」

か細く投げられた声は、壁越しに届くように遠い。

彼女──リリィは、振り返らず、まるでこの世界と距離を置くように自らを閉じ込めていた。

その姿を目にした瞬間、私は息を呑んだ。目をそらしたくなるほどの痛ましさが胸を突いた。

こけた頬、力を失った瞳。無理な絶食を続けてきたに違いなかった。

それでもなお、顔立ちの端々に、愛らしかった少女の面影が残っている。彼女は本来、美しく咲くはずの花だったのだ。それが今、自らを傷つけることでしか存在を保てないほどに、心を追い詰められてしまったのだ。

「ええ。カミルとは、少し前から親しくさせていただいてるの。今日は、お会いできて嬉しいわ」

出来る限り優しい声になるよう努めながら、ゆっくりと部屋に入った。

私は少し距離を置きつつ、ベッドの側にある椅子に腰を下ろす。手も触れず、詰め寄らず、リリィとの間には安心できる距離を保った。

しばしの沈黙のあと、リリィはぽつりと呟いた。

「……綺麗ね、あなた」

ぽつりとこぼれた一言には、嫉妬でも羨望でもない、自分を責めるような深い自己否定の影が潜んでいた。

「そうかしら?私も、つい最近まで自分の姿が嫌いだったのよ」

静かに返した言葉に、リリィの肩がぴくりと震える。

「……嘘、よ。そんなの、絶対に嘘」

その声には怒りと混乱、そして傷ついた心を守るための精一杯の抵抗が滲んでいた。

「あなたみたいな人に、私の気持ちが分かるわけない。痩せていて、美しくて、お兄様にも信頼されてる人に……私みたいな、惨めで、汚くて……醜い私の気持ちなんて……!」

言葉が涙に滲んで、かすれていく。ひとつ、またひとつと声が崩れていくたび、張り詰めていた彼女の心が、音もなく脆くひび割れていく、その瞬間――

私は立ち上がり、音を立てぬように彼女の前へと歩み寄る。

「そんなことはないわ」

囁くように紡いだ声は、今にも泣き崩れそうな彼女の中に、ほんの少しでも届くだろうか。

私はほんの一瞬、迷ったあとで言葉を続けた。

「……社交界に出たことがあるのなら、きっと私の噂を聞いたことがあるはずよ」

その言葉に、リリィはわずかに顔をこちらに向けた。涙を湛える瞳が、戸惑いと不安に揺れている。

「噂……?」

掠れた声がこぼれる。

私は唇を引き結び、一度だけ目を閉じた。過去の自分の姿を思い出す。

そして――静かに笑った。憐れみではなく、あの苦しい日々を乗り越えた者の強さを湛えて。

「“アルフォンス殿下の醜い婚約者”。豚のように太っていて、見苦しいと嘲られたその令嬢が……この私、エリザベート・グラシエルよ」

「え……嘘。……でも、貴女は今……綺麗で、痩せてて……」

リリィが目を見開く。信じられないと言いたげに。

その戸惑いは、かつての自分を重ねた私には、痛いほど分かった。

「嘘じゃないのよ」

私は彼女の隣に手をそっと差し出した。触れようとはしない。ただ、寄り添うために。

「だからこそ、分かるの。リリィ……誰にも会いたくない日があったわ。鏡の前で、目をそらしてしまう日も。涙が枕を濡らす夜も、私にもあったの。……でもね、そこから変わることは、決して不可能じゃないのよ」

リリィは言葉を失い、ただ、私の顔を見つめていた。震える肩。まだ消えない羞恥と恐れ。

私は声を落とし、囁くように問いかける。

「ねえ、私の方法を試してみない?絶食したり苦しいだけのやり方じゃないの。ちゃんと食べて、心と身体をいたわる方法よ」

「……そんなことが……本当に、できるの……?」

その声は、かすれていて、か細かったけれど、その奥にほんの一筋の希望が見えた気がした。

「ええ。グラシエル家では、私だけでなく、使用人たちも実践しているの。誰も無理はしていないわ」

彼女の瞳に、一筋の光が宿ったように見えた。

それは、かつての私自身が初めて希望を見たときと、どこか似ていた。

「……じゃあ……少しだけ……」

ぽつりと漏れたその言葉は、霧の中から届いた祈りのようだった。

「……少しだけなら、信じてみても……いいかもしれないわ」

私は強く頷きたい気持ちを抑えて、慈しむように微笑んだ。

その小さな勇気を、壊さぬよう、胸の奥でそっと受け取るように。

「ありがとう。まずは、あなたに合った方法を、一緒に考えましょう。焦らず、ゆっくりと……ね」