軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第39話 帰り道

王立学院の試験を終えた翌朝、俺はヴァレスト公爵家の馬車に乗って王都を発った。

見送りには、ユリウス公爵、クラリス夫人、セレナ、ルーク、それに使用人たちまで出てきてくれていた。

「気をつけて」

クラリス夫人が柔らかく言う。

「ありがとうございます」

ユリウスはいつも通り穏やかだった。

「ハル領での時間を大事にするといい。戻ったらまた話を聞かせてくれ」

「はい」

ルークは最後まで名残惜しそうな顔をしていた。

「今度来たら、もっとすごい魔法見せてよ」

「そっちも勉強しておいてね」

「それ、絶対言うと思った」

セレナは一歩前へ出て、まっすぐこっちを見た。

「次に会う時、私も今より伸びてるわ」

「こっちも負けないよ」

「ええ」

短いやり取りだったが、それで十分だった。

馬車がゆっくり動き出す。

王都の石畳が遠ざかり、公爵家の門が小さくなっていく。

試験は終わった。

でも、何かが終わったというより、ようやく一区切りついたという感じだった。

ハル領までは馬車で五日かかる。

距離だけ聞けば長い。

でも今の俺には、むしろちょうどよかった。

時間がある。

王都での試験が終わったばかりで、気も少し張っている。

何もしないで揺られているより、手を動かしていた方が落ち着く。

だから移動中も、馬車の中でできる範囲の魔法操作を続けた。

大きな魔法は無理だ。

火をつければ危ないし、水を出せば馬車の中が大惨事になる。

だからやるのは、もっと地味なことだった。

指先の一点に魔力を集める。

散らさない。

無理に出力しない。

ただ、流す。

視界の端に、薄青い文字がちらつく。

《魔力流路:微改善》

《出力点:安定傾向》

《集束維持:向上》

いい。

派手じゃないが、悪くない。

ミアが向かいでそれを見ながら、小さく言った。

「王都を出てもやるんですね」

「こういうのは、間を空けると鈍るから」

「試験が終わったばかりなのに」

「終わったからこそ、かな」

王立学院に受かっているかどうかはまだわからない。

でも、もう王都で学んだことを忘れる気はなかった。

ミアは少しだけ笑って、膝の上の帳面を閉じた。

「リオン様って、止まるのが苦手ですよね」

「そうかも」

「でも、前よりは少しだけ、止まるのもうまくなった気がします」

それはたぶん、前より周りを信じられるようになったからだ。

ハル領には父と母がいる。

公爵家ではユリウスやグレインやセレナがいた。

全部を自分一人で抱えなくてもいいと思えるようになったのは、大きかった。

夕方になる頃、馬車は王都の隣領にある宿場町へ入った。

大きな町ではない。

だが、街道沿いの要所らしく、旅人や商人の姿は多かった。馬車の音、荷車の軋み、夕方の呼び込みの声が重なって、ほどよく賑やかだ。

今回の宿は、公爵家の筆頭執事があらかじめ手配してくれていたらしい。

おかげで、宿を探して右往左往することも、最悪野宿になる心配もない。

「さすが公爵家……」

ミアが宿の前で小さく呟いた。

「こういうところも、ちゃんとしてるんだね」

「旅慣れているんでしょうね」

通された部屋は清潔で、食事もきちんとしていそうだった。

宿の主人も、公爵家の紹介と聞いて、やけに丁寧である。

荷を置いて一息ついた頃、階下の方が少しだけ騒がしくなった。

怒鳴り声ではない。

困った時の、忙しい音だ。

俺とミアが顔を見合わせる。

「何かあったのかな」

「少し見てきますか?」

「うん」

階段を下りると、宿の裏手にある厨房の前で、宿の主人と料理人らしき男が眉を寄せていた。

「どうしたんですか?」

そう声をかけると、主人が振り向く。

「ああ、お客様。いえ、大したことでは……」

大したことがない時の顔ではない。

厨房の中をのぞくと、竈の煙がどうにもおかしかった。

火のつきが悪いのか、煙がうまく抜けず、もわっと逆流している。

視界の端に文字が浮かぶ。

《排気:不全》

《火勢:不安定》

《風の流れ:滞留》

《夕食調理:遅延》

なるほど。

「煙、返ってますね」

「ええ……今日は風向きが悪いのか、火が妙に弱くて」

料理人が額の汗を拭く。

「肉を焼いても火が安定しないし、このままだと香りが全部おかしくなる」

その言い方に、少しだけ反応した。

香り。

なら、余計に火加減は大事だ。

「少しだけ見てもいいですか」

主人が戸惑った顔をしたが、公爵家の客に無碍にもできないのだろう。

「は、はあ……」

俺は竈の前へしゃがみ込み、空気の流れを見る。

煙の逃げ道が、ほんの少しだけ詰まっていた。外の風向きも悪い。火そのものより、まず流れを整えた方が早い。

「ミア、窓、少しだけ開けて」

「はい」

次に、俺はごく弱く風を送った。

強くはやらない。

灰が舞う。火が暴れる。

だから本当に少しだけ、煙の通り道を押し出すように。

竈の煙がふっと上へ抜ける。

「あっ」

料理人が声を上げた。

続けて、火の芯へ小さな熱を足す。

火球なんていらない。

こういう時は、火種を整えるだけでいい。

赤かった炭の一部が、じわりと明るさを取り戻した。

「おお……!」

料理人の顔が変わる。

「今だ」

そう言うと、男はすぐに肉を網へ戻した。

火はさっきよりも安定し、煙の匂いもだいぶましになっている。

主人が目を丸くした。

「火の扱いが、お上手なんですね」

「少しだけ」

少しだけどころじゃないことは、自分でもわかっていた。

でもここで長く説明する必要はない。

料理人が焼けた肉の香りを確かめ、驚いたように鼻を鳴らした。

「さっきまでと全然違う……」

そこで、ふと棚の上にある香草が目に入った。

どこか見覚えのある葉だった。

「それ、使ってるんですか?」

そう聞くと、料理人がそちらを見る。

「ああ、これか。最近入ってきたやつだ。名前は……なんだったかな」

主人が横から答える。

「青葉草、ですよ。ハル領の方から回ってきたって話で」

その言葉に、胸の奥が少しだけ動いた。

「ハル領から?」

「ええ。まだ数は多くないですがね。焼いた肉の臭みを取るって、街道の商人が勧めてきまして」

主人は楽しそうに続ける。

「実際、これがなかなか評判で。うちでも試しに使い始めたんですよ」

ミアが横で小さく息を呑んだ。

俺も思わず、棚の青葉草を見つめる。

北村で始めたものが、もうここまで来ているのか。

主人はさらに言った。

「それだけじゃありません。南村とかいうところの豆や芋も、このごろ前より質がいいって話で。ハル領、最近ちょっと面白いって、商人の間じゃ小さく話題ですよ」

面白い。

その言葉が、妙に嬉しかった。

大きな評判じゃない。

王都中が知っているわけでもない。

でも、たしかに外へ届き始めている。

俺が王都にいる間も、あの領地の流れはちゃんと止まっていなかったのだ。

料理人が、焼き上がった肉を小皿にのせて差し出してきた。

「お礼にもならないですが、味を見てください」

「いいんですか」

「もちろんです。あんたが助けてくれなきゃ、今日の夕飯はずいぶんひどいことになってました」

ありがたく一口もらう。

火の入り方はちょうどいい。

肉の臭みもかなり抑えられている。

青葉草の香りも、ちゃんと立っていた。

「おいしい」

そう言うと、料理人が嬉しそうに笑った。

「それなら良かった」

主人も深く頭を下げる。

「ありがとうございました」

「いえ、たまたまです」

そう返しながらも、心の中ではたぶん、かなり顔がゆるんでいたと思う。

部屋へ戻る途中、ミアが少し興奮した声で言った。

「聞きましたか、今の」

「うん」

「青葉草も、南村の作物も、ちゃんと外へ出てるんですね」

「みたいだね」

「すごいです……」

その言葉に、俺は小さく笑った。

「いや。すごいのは、たぶんみんなだよ」

北村の村長。

南村の村長。

石切り場の若者たち。

父と母。

ハル領に残って流れを支えている人たち。

俺が王都にいる間も、ちゃんと前へ進めてくれていたのだ。

窓の外を見ると、宿場町の空はもう藍色に沈み始めていた。

明日もまた馬車は走る。

そして、その先にはハル領がある。

早く、自分の目で今の領地を見たい。

そんな気持ちを、前よりずっとはっきり自覚しながら、俺は眠りについた。