作品タイトル不明
第5話 崩国の序曲
【世界の 理(ことわり) 】
かつて、この大陸には統一された巨大な国家があった。
その名は『アードラー帝国』。
皇帝の権威は絶対であり、その統治は千年続くものと、誰もが信じて疑わなかった。
だが、巨大な帝国は、人の力では到底抗えぬ災厄によって、その内側から静かに崩壊を始めた。
『黒死の病』と呼ばれる疫病と、それに続く未曾有の大飢饉。
大陸で最も豊かと言われた穀倉地帯は枯れ果て、帝都へと続く街道には、病と飢えに倒れた人々の骸が山をなしたという。
帝国の統治能力は、急速に失われていった。
皇帝は神に祈りを捧げるだけの存在となり、中央からの指令は、もはやどの地方領主の元にも届かなくなった。
かつて帝国に忠誠を誓っていた諸侯たちは、己の領地と民を守るという大義名分の下に、互いに牙を剥き始めたのだ。
こうして、大陸全土を巻き込む、終わりの見えない戦乱の時代が幕を開けた。
後世の歴史家たちが『群雄割拠の時代』と呼ぶ、混沌の時代の始まりである。
『ヴァルゼン公家暦10年 7月1日 カレドン侯領 居城ドラッヘンブルク』
【カレドン侯嫡子ライナルト視点】
父上がヘルデン丘陵で命を落とされてから、まだ十日も経っていない。
帝国の威光が失われた今、父のカリスマだけが、このカレドン領の諸侯を束ねる唯一の楔だった。
その楔が失われた今、居城ドラッヘンブルクに弔問に訪れた貴族たちの間には、次代の覇権を巡る醜い欲望が渦巻き始めていた。
その空気を引き裂いたのは、玉座の間に転がり込んできた伝令の絶叫だった。
「も、申し上げます! ヴァルゼン公、公都アイゼンブルクより四千の兵を率いて出陣! ヘルデン丘陵に向かっているとの報せにございます!」
その一報は、さながら巣を突かれた蜂の群れのような大混乱を巻き起こした。
「な、なんだと!? もう動いたというのか!」
「ヘルデン丘陵だと? まさか、あの地を足掛かりに、一気に我が領内へ攻め込むつもりか!」
「おのれヴァルゼンめ、人の弱みにつけこみおって……!」
「我が領地はヘルデン丘陵に近い! ライナルト様、至急、援軍を!」
「馬鹿を申せ! 貴様の領地などに兵を割いて、本城の守りが手薄になったらどうするのだ!」
父上の死を悼む言葉など、もはや誰の口からも出てこない。
彼らの頭にあるのは、己の領地の安否と、隣人の犠牲を前提とした保身の策謀だけ。
(これが、父上が守ろうとした国の姿か……!)
俺、ライナルト・フォン・カレドンは、玉座の上で唇を噛みしめる。
怒りよりも先に、どうしようもない無力感が全身を蝕んでいく。
「静まれッ! 皆の者、落ち着け!」
俺の必死の叫びも、目前の脅威と己の欲望に駆られた者たちの耳には届かない。
その時、広間に響き渡るような咳払い一つで、混乱を無理やり鎮めた者がいた。
俺の叔父、ゲルハルト伯だ。
「……みっともないぞ、諸君。敵はまだ国境を越えてもおらぬというのに、この様はなんだ」
冷静なその声に、誰もが口をつぐむ。
ゲルハルト伯は、玉座に座る俺を一瞥すると、侮蔑を隠そうともせずに言った。
「ライナルト様。先代の轍を踏むおつもりか? 今、我らに必要なのは、冷静な判断です。下手に兵を動かせば、それこそヴァルゼン公の思う壺。各個撃破されるのが関の山でしょう」
「では、指をくわえて見ていろと申すか!」
「さよう。このドラッヘンブルク城は難攻不落。領民を城内に避難させ、籠城を固めるのです。ヴァルゼン公とても、この大城壁を前にすれば、手をこまねくしかありますまい。時を稼ぎ、周辺諸国からの援軍を待つ。それこそが、唯一にして最善の策」
それは、戦う前から負けを認めるに等しい詭弁だった。
籠城している間に、ヴァルゼン公が領地を好き放題に蹂躙していくのを、ただ見殺しにしろというのだ。
(もう、誰も頼れぬ。ならば……)
俺は、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
広間に集まった貴族たち、その一人一人の顔を見渡す。彼らの目にあるのは、安堵と、卑しい自己保身の色だけだ。
「……叔父上の言う通りかもしれぬな。籠城を望む者は、この城に残るがよい」
俺の言葉に、広間の空気が明らかに緩む。
だが、俺は続けた。
「だが、俺は出る。父上の弔い合戦だ。カレドン家の誇りにかけ、父上の仇を討つ! ……たとえ一人になろうともな!」
俺はマントを翻し、誰一人振り返ることなく、玉座の間を後にした。
背後で、困惑と嘲笑の囁きが聞こえる。
それでも、俺は足を止めなかった。
父が築き、帝国が失ったこの国が、今、内側から崩れ落ちようとしている。
それを止められるのは、もはや俺しかいないのだ。
たとえ、それが玉砕を意味する、どれほど無謀な戦いだとしても。
だが、皆に止められ、出撃は叶わなかった。