作品タイトル不明
第112話 バルザフ、目を覚ます
『アヴァロン帝国暦2年 12月中旬 帝都フェルグラント 昼 雪』
【皇帝の右腕オルデンブルク公爵グレン視点】
大雪に見舞われた翌日。帝都フェルグラントは、静かな白い雪に覆われていた。
昨日、城門の外で雪に埋もれかけていたバルザフは、城の客室に運び込まれ、懸命な治療を受けていた。
なんとか一命を取り留め、峠は越したとのことだったが、彼は一向に目を覚ます気配がない。
高熱にうなされ、青白い顔で浅い呼吸を繰り返している。
(このままじゃ、本当に死んじまうかもしれないな……)
なぜ、はるか北方の地から、これほど無理をしてまで急いで戻ってきたのか。
その理由を聞き出すためにも、まずは彼に元気になってもらわねばならない。
俺は重い足取りで城を出ると、冷たい空気を吸い込み、ふらりと街の路地裏へと向かった。
◇◆◇
たどり着いたのは、あの奇妙な『闇バー』だ。
重い木の扉を開けると、天井から吊るされたランタンのオレンジ色の炎が、店内をぼんやりと照らし出していた。
獣の油が燃える匂いに、焼き豚の香ばしさ、そしてワインとエールの香りが混ざり合った、ここだけの独特な空気が漂っている。
カウンター席には、先客が一人だけいた。
黒い神官服に身を包んだ男。かつてはチェーザレと呼ばれ、今は闇の 眷属(けんぞく) ユーディルと名乗る男だ。
俺は彼の隣の席に腰を下ろすと、店主にワインを注文した。
「……」
「……」
俺とユーディルは、言葉を交わすことなく、ただ黙々とワイングラスを傾けた。
彼もまた、何かを考えるように静かにグラスを見つめている。
やがて、俺はグラスを置き、ぽつりと口を開いた。
「バルザフが、危ないんだ」
ユーディルが、わずかに視線をこちらへ向けた。
「昨日の大雪の中、城門のすぐ外で倒れているのを見つけてな。命は助かったが、まだ目を覚まさない。あの強欲な商人が、命を懸けてまで何かを伝えようとしていたみたいなんだが……」
俺は、雪に埋もれていた馬車の様子や、バルザフの深刻な容態について、詳しく事情を説明した。
話を聞き終えたユーディルは、腕を組み、うーむとしばらく考え込んでいた。
そして、静かに立ち上がると、俺の目を見て言った。
「それなら、新たに得た力を使ってみましょう」
「力? お前がこの間、闇の教皇から授かったという……?」
「ええ。人の身を捨てた対価として得た力。それがどれほどのものか、試すには良い機会です」
俺はユーディルの言葉に頷き、急いで彼を連れて城の客室へと戻った。
◇◆◇
客室のベッドでは、バルザフが苦しげな呼吸を続けていた。
付き添っていた医官や侍女たちを下がらせると、部屋には俺とユーディル、そしてバルザフの三人だけになった。
「では、始めます」
ユーディルはバルザフのベッドの脇に立ち、静かに両目を閉じた。
彼が胸の前で両手を組むと、部屋の空気が一変した。
(なんだ、この感覚は……)
冷たくて、それでいてどこか心地よい、絶対的な静寂。
ユーディルの足元から、あの時と同じように黒いもやが立ち上る。
だが、その漆黒の闇の中から、ふわりと、あり得ないはずの純白の光が生まれ始めたのだ。
闇と光が混ざり合い、銀色の粒子となってユーディルの手からこぼれ落ちる。
それはまるで、夜空に輝く星屑のようだった。
銀色の光の粒は、ゆっくりと宙を舞い、バルザフの苦痛に歪んだ顔や、熱を持った胸へと吸い込まれていく。
光が触れるたび、バルザフの呼吸が次第に穏やかなものへと変わっていった。
青白かった頬に血の気が戻り、きつく結ばれていた眉間が解けていく。
部屋全体が、言葉では言い表せないほど神秘的で、神聖な空気に包まれていた。
やがて、ユーディルが静かに目を開け、手を下ろす。
光の粒子は幻だったかのように、ふっと空中に溶けて消えた。
「……う、ん……」
微かなうめき声と共に、バルザフのまぶたがピクリと動いた。
そして、ゆっくりと、その目がうっすらと見開かれた。
「バルザフ! 気がついたか!」
俺が身を乗り出して呼びかけると、バルザフはぼんやりとした視線で俺を捉え、ひび割れた唇を微かに動かした。
「……旦、那……」
かすれた、しかし確かな声だった。