『譲り合い』が美徳の国で、婚約者を譲らされたので出ていきます
作者: 作者不明
本文
「わたくしはクラウス様がいないと生きていけませんの。だから、アイリス様。婚約を、譲ってくださいませ」
それは、婚約予定者と初めて顔を合わせて、十五分後のことだった。
銀髪の聖女リリス・モンフォールは、私の前の椅子には座らず、ヘリオス王国の王太子クラウス殿下の腕に寄り添っていた。
私は紅茶のカップを置いた。
「お断りいたします」
到着して三日。正式な婚約文書への署名は、明後日の予定。 そして、婚約予定者本人と顔を合わせて十五分。
その十五分で、私は人生で一度も経験したことのない種類のお願いをされている。
「アイリス様……っ、お願いです……っ」
聖女が、わなわなと震えた。涙が一粒。
「わたくし、生まれつき体が弱くて……クラウス様だけが心の支えで……離れていては、生きていけませんの……っ」
「お気の毒ですわ」
「で、では……っ」
「ですが、お断りいたします」
二度目の拒絶で、聖女の涙が止まった。
止まるのですね、と私は思った。
婚約予定者であるクラウス殿下が、困ったように私を見た。
「アイリス嬢。リリスは本当に体が弱いんだ。幼い頃から、ずっと」
「存じ上げませんでした」
「君は強い人だろう。だから、わかってくれると思って」
ああ。 なるほど。
これは、譲ってほしいというお願いではない。 譲らない私を、心の狭い人間にするための言葉だ。
「殿下」
「な、なんだい」
「私の国カルディアでは、こう申します。不健康な人間が分からないなら、健康な人間と結婚しなさい」
聖女の唇が震えて、止まった。 涙も。
止められるものだったらしい。
「アイリス嬢、待ってくれ。誤解だ」
「誤解、でございますか」
「リリスは本当に苦しんでいるんだ。君のような健康な令嬢には」
「殿下」
「なんだい」
「私が健康なのは、私の徳ではございません。リリス様が病弱……ということにしときますか、それもリリス様の罪ではございません。ですが、それを理由に他人の人生を差し出せと求めるのは、病ではなく、ご本人の選択でございます」
私は紅茶のカップに視線を落とした。湯気はもう立っていなかった。
「はぁ……」
立ち上がって、淑女の礼をした。
「いいですわ……もう婚約式にも出席いたしません。譲れと言われて黙って見ている方と、生涯を共にする理由がございませんもの。好きになさってください」
「アイリス嬢!」
「婚約解消の手続きは、両国の書面にてお願いいたします」
私は扉へ向かった。
廊下に出ると、従者のハンナが軽く頭を下げた。
「お嬢様」
「何」
「カルディアに、あのようなことわざはございましたか」
「今、作りました」
「さようでございますか」
◇◇◇
その夜、私は荷物をまとめ始めた。
「お嬢様、本気で帰国なさるおつもりで?」
「ええ」
「カルディアまで、馬車と船で十日でございますよ」
「十日もあれば、本が三冊読めるわね」
ハンナは、にこっと笑った。四十二歳の侍女の笑顔は、私が知っているどの貴婦人の微笑みより、ずっと綺麗だった。
「それに、帰る前に確かめたいことがあるの」
「この国の方便…失礼しました、国是のことですね」
「ええ。この国で譲り合いという言葉が、どれほど便利に使われているのかを」
ハンナは一礼した。
「昨日から、少し聞き込みをしております」
「さすがね」
「王都の市場では、譲り合いの名のもとに値切る者が少なくないようです。譲り合いとは便利なものですね…」
「まったく美しい国是ね」
「美しすぎるものは、たいてい手入れが必要でございます」
翌朝、王宮から正式な召喚状が届いた。
国王陛下じきじきの呼び出しだった。
拒否すれば外交問題。 応じれば、もう一度あの茶番を見せられる。
私はドレスを着替えた。最も華美ではなく、最も格式のある一着を選んだ。
「ハンナ」
「はい」
「これが、最後の登城になるわ」
「かしこまりました」
「それと、昨日頼んだ件は?」
「こちらに」
ハンナが差し出したのは、四通の写しだった。
すべて、かつてクラウス殿下との縁談が進んでいた令嬢たちの家から、ヘリオス王宮へ宛てられた抗議書の控えである。
正式な婚約者。婚約内定者。婚約式直前だった者。
呼び名は違っても、結末は同じだった。
リリス・モンフォールに泣かれ、クラウス殿下に黙認され、王宮から譲り合いを求められて、去らされた。
「よく集めたわね」
「人は、あまりに理不尽な目に遭うと、忘れたくても証拠だけは残すものでございます」
私は、四通の写しを扇の内側に挟んだ。
◇◇◇
謁見の間には、国王陛下、王妃陛下、王太子クラウス殿下、そして聖女リリスがいた。壁際には、ヘリオス王国の貴族たち。
全員が、私を見ている。
「アイリス嬢」
国王陛下が口を開いた。
「我が国の国是は、譲り合いである。強き者が弱き者に譲る。それが、我が国の誇りだ」
「存じ上げております」
「リリス嬢は体が弱い。クラウスを心の支えとしている。そなたが譲ってくれれば、皆が幸せになる」
「皆、と仰いますと」
「クラウスも、リリス嬢も、この国の民も。皆だ」
「陛下」
「なんだ」
「その皆の中に、私は入っておりますか」
謁見の間が、静まり返った。
答えは、沈黙で足りた。
「入っていらっしゃらないのですね」
「アイリス嬢、それは違う」
「では、私は何をいただけますか」
「故郷へ、安全に帰してやろう」
「婚約式のために海を越えて来た令嬢を、恥をかかせて送り返す。それを恩賞のように仰るのですね」
国王陛下の眉が動いた。
「そなたは言葉が過ぎる」
「いいえ、これでも控えめに申しておりますよ」
謁見の間で、貴族が小さく息を呑む。
「陛下。譲り合いとは、双方が何かを守るためのものでございます。私は、何を守っていただけるのでしょうか」
「我が国との、永続的な友好を」
「私一人を犠牲にして成立する友好なら、次に犠牲を求められるのは、我が国そのものではありませんか」
国王陛下の白い髭が、ぴくりと動いた。
私は続けた。
「陛下。譲り合いとは、強き者が損をする思想ではございません。強き者も弱き者も、互いに立っていられるようにするための知恵でございます」
「……ほう」
「譲ることで信頼を得て、譲られることで助けられる。これが本来の譲り合いです。ですが、ヘリオス王国の譲り合いは、片方だけが永遠に譲り続ける仕組みに見えます」
壁際の貴族たちが、ざわついた。
誰かが何かを言いかけて、隣の貴族に止められた。
「私の国カルディアにも、譲り合いの考えはございます。ですが、私たちは、こう申します」
「申してみよ」
「差し出すことを美徳と呼び続ければ、最後には奪う者だけが残る、と」
謁見の間が、完全に静まった。
「リリス様」
私は、聖女の方を向いた。
「あなたが今までお譲りいただいた令嬢方は、今、どちらにいらっしゃいますか」
「え……」
「クラウス殿下との縁談が進んでいた令嬢は、私が初めてではございませんね」
聖女の顔から、血の気が引いた。
王太子殿下が、ぎくりとした。
国王陛下が、初めて目を逸らした。
「四人」
私は静かに言った。
「クラウス殿下のかつての婚約者、または婚約内定者は四人。全員、リリス様に譲ってくださいませと泣かれ、王宮から身を引くよう求められた」
「アイリス嬢、それは」
「四人とも、ヘリオス王国に留まることを許されず、故郷へ送り返されたそうですね。
一人は帰国後、寝込んだまま社交界に戻らず。一人は修道院へ入り。一人は家の名誉を守るため、遠縁の家へ姿を隠した。そして一人は、今も王宮に抗議書を送り続けている」
「待ってくれ、アイリス嬢、それは」
「殿下。私は、その五人目になるつもりはございません」
私は扇を開いた。
内側から、四通の写しを取り出す。
「こちらは、四家から王宮へ送られた抗議書の控えでございます。内容の真偽は、陛下が一番よくご存じのはずです」
国王陛下は、何も言わなかった。
「陛下。譲り合いの国是は、美しい言葉でございます。ですが、美しい言葉は、しばしば、最も醜い行いの隠れ蓑になります」
「……」
「ヘリオス王国の譲り合いは、もはや国是ではございません。一人の少女の願いを叶えるために、他者の人生を差し出させる道具…いや、婚約者に仕立て上げた者を追い出すことそのものが目的である方もいらっしゃることかと」
国王陛下も、王妃陛下も、王太子も、聖女も、貴族たちも、全員が固まっていた。
私は最後に淑女の礼をした。
「お騒がせいたしました。本日をもって、私はヘリオス王国を辞去いたします。婚約解消の手続きは、書面でお願いいたします。その他元婚約者の方々の処遇につきまして、然るべき対応を取られた方がよろしいと思います。叩けばいくらでも埃が出るのは分かっておりますので」
「アイリス嬢、待ってくれ」
王太子殿下が、 聖女の隣から離れて、私の方へ一歩踏み出した。
「君は、誤解している。リリスは本当に体が弱くて」
「殿下。病が本当であっても、他人の人生を要求する理由にはなりません」
「だが、リリスは」
「それに、殿下はもう一つ、見ようとなさらなかったことがございます」
「な——」
「リリス様は、ご自身の弱さを、少なくとも一部は演出しておられます」
注目の的が変わった。
「昨日、市場で聞いてまいりました。リリス様は毎週水曜日、王宮の護衛を撒いて、街のパン屋へ向かわれるそうですね。療養中で外出もままならないと王宮で説明されている時刻にです」
聖女の口が、ぱくぱくと動いた。
「病弱な方が菓子を召し上がってはならない、などと申すつもりはございません。ですが、外出もできないほど弱っているという説明と、毎週決まって市場へ出歩いている事実は、両立いたしません」
「アイリス様、それは……っ、買って差し上げる相手がいて……っ」
「孤児院に届けている、とおっしゃっていたそうですね」
「!」
「孤児院の院長様に確認いたしました。リリス様から菓子が届けられたことは、一度もないと」
「……」
「強き者が弱き者に譲る国で、ご自分が強き者か弱き者か、もう一度お考えくださいませ」
私はそれだけ言って、謁見の間を出た。
扉が閉まる時、聖女の声が聞こえた。
「ち、違うんです、わたくし、本当に体が」
◇◇◇
翌朝、王都ヘリオンを出る馬車に、私は乗り込んだ。
ハンナが向かいの席に座って、手にした包みを大事そうに置いた。
「お嬢様、これを」
「何?」
「昨日、市場のパン屋さんが、お嬢様にと」
包みを開けると、中にはクリームのたっぷり入った菓子が三個。
「お嬢様のおかげで、胸がすいたと感謝しておりました」
「胸がすいた?」
「リリス様は、その菓子を買うたびに聖女への奉仕として譲ってくださいませと、代金を半額にさせていたそうでございます」
「……まあ」
「ヘリオス王国の美しい譲り合い精神、市場でもしっかり浸透していたようで感心しますね」
私は菓子を一つ手に取った。クリームの香りがした。
馬車が動き出した。
窓の外で、ヘリオン王都の屋根が、朝の光に照らされていた。本当に美しい王都だった。
私はそれを、一度だけ振り返った。
◇◇◇
ヘリオス王国の話が、次に私の耳に入ったのは、二週間後のことだった。
カルディアの父の屋敷で、朝食の席だった。父が新聞を読みながら、ふと顔を上げてこう言った。
「アイリス、ヘリオス王国が揺れているそうだ」
「あら」
「王太子クラウスと聖女リリスの婚約が正式に発表された後、元婚約者達から抗議運動が勃発して外交にまで影響を与えているらしい」
「そうですか」
「火に油を注ぎまくったやつがいてな…民衆まで騒ぎ出して、婚約者騒動の火消しで王宮が対応に追われているみたいだ。市場でも国是の譲り合いを盾に値切る客が後を絶たず、商人たちも組合を挙げて抗議し出したらしい。バカな国是が原因だろと笑い飛ばしていいのやら…」
「あらまあ」
「お前、何をしたんだ…」
「いいえ、お父様。私はただ、あの国の強い方々に、国是の通りに少しお譲りいただこうかと思っただけですわ」
いい気味だな、と父が笑った。
◇◇◇
ヘリオス王国から、最後の書状が届いたのは、それから一ヶ月後だった。
差出人は、クラウス殿下。
封を開けると、長い手紙だった。震える筆跡で、後悔と謝罪が、何度も繰り返し綴られていた。
『リリスは、私が思っていたような聖女ではなかった。形式上婚約者として付き合ってきた者はこれまでもいたが、君は特別だった。やり直させてほしい』
『どうか、もう一度、話し合いの機会を』
私は手紙を読み終えて、机の上に置いた。 ペンを取った。
返事は、たった一行で済ませた。
『殿下。人の人生は、譲ったり、返したりできる品ではございません』
署名、アイリス・レイヴン。封蝋なし。
窓の外で、カルディアの春が、ゆっくりと深まっていった。