軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第六百七十四話 宰相死す

帝国後宮。

そこの主であるブリュンヒルトは部屋に入ってきた我が子を見て、思わず涙を流した。

かつて目に入れても痛くはなかった愛する我が子。

自分のすべてだった。

才能溢れる長子。誰からも愛されていた、もちろん皇帝からも。

自分は愛されていなくても、息子は愛されている。それが一時期、ブリュンヒルトのアイデンティティだった。

飾り物の皇后でもいい。

その代わり、次代の皇帝は自分の息子。帝国史上でも屈指の名君になるだろうと思われていたヴィルヘルムの母。

そうなれれば、すべて我慢できた。

けれど、突然、愛する息子は亡くなった。

重大な戦でもなく、政争の果てでもなく。

ただの国境の小競り合いでの流れ矢で。

深い絶望がブリュンヒルトを襲った。

そして心に生じた悲しみと痛みの矛先は皇帝に向いた。

もっと皇太子を大事にしてくれれば。もっと手元に置いていてくれれば。

思えば思うほど、非難は止まらず。

そして、部屋で一人、なぜそのようなことを言ったのか、と自己嫌悪に陥るというのがここ数年のブリュンヒルトだった。

皇帝に責任がないとは言わない。大切な後継者だった。せめてもっと近衛騎士隊を付き従わせておけば事故は防げたかもしれない。

だけど、それだけだ。

すべての責任が皇帝なわけがない。

自己嫌悪の間、幾度もブリュンヒルトは思った。

どうか戻ってきてほしいと。

理想の皇子でなくてもいい。

才能などなくてもいい。

ただ、生きて戻ってきてほしかった。

自分のアイデンティティを失ったから嘆いていたわけではない。

ただ、ただ。

愛する息子を失ったから、悲しみの底にいた。

それが癒えることはない。

けれど、考えれば考えるほど、息子が傍にいればそれでいいのだという思いは強まった。失って気づいたのだ。

ただ、そこにいる幸せに。

よりその考えが深まったのは、トラウゴットが藩国に向かってから。

たびたび会いに来ていたトラウゴットがいなくなり、寂しさは募った。

その時間がブリュンヒルトを成長させたといえた。

皇后である自分に向き合えたのだ。

だから。

「お久しぶりです、母上」

気付いてしまった。

少し申し訳なさそうに部屋へ入ってきて、挨拶した息子の違和感に。

そう、ヴィルヘルムならそんな風に入ってくるだろう。

ここまで来て、深く反省して入ってくることはない。

少し軽い感じで、けれど心の底は反省している。そんな風に入ってくる。

「……帰ってくるのが遅くなり、申し訳ありません」

「……よく帰ってきました」

一言告げると、ブリュンヒルトは静かに涙を拭いた。

そして、部屋の奥にいたテレーゼに目を向けた。

それにつられて、ヴィルヘルムもテレーゼを見つけた。

「ヴィル……」

「テレーゼ……」

言葉はない。

ただ、ヴィルヘルムは無言のままテレーゼを抱きしめた。

テレーゼは涙を流しながらヴィルヘルムの背中に手を回す。

しかし、目はその奥にいるブリュンヒルトに向いていた。

そしてブリュンヒルトはゆっくりと首を横に振る。

それにテレーゼも小さく頷いた。

二人は同じ違和感を覚えたのだ。

そのまま和やかな雰囲気で進む。

会話は弾む。

懐かしく、待ち望んだ時間。

だけど、疑惑はぬぐえない。

なぜ?

姿形はヴィルヘルムだ。声も仕草も、すべてヴィルヘルムだ。

けれど、頭の中に違うという声がしっかりと流れていた。

五感のすべてがそうだと言っても。

ブリュンヒルトとテレーゼはその声を信じた。

それは直感だったのかもしれない。そうじゃなかったのかもしれない。

だが、その声のほうが信ぴょう性があったのだ。

信じたい気持ちはあった。そうであってほしいと信じたかった。

どんどん、その気持ちは膨れ上がる。

それでも。

「それではまた後で」

ヴィルヘルムが部屋を出たあと、ブリュンヒルトとテレーゼはその場で抱き合った。

涙を流しながら。

二人はヴィルヘルムを失い、人生が狂った。

ヴィルヘルムが生きていたらと妄想し、過去に思いを馳せていた。

そんな二人にとって、今の状況を否定するのは苦しかった。

受け入れたほうがどれほど楽か。

それでも、それでも。

「宰相に伝えるわね……」

「はい……」

二人は気持ちを強く保った。

弱気に流されたら、もう少し観察したい、もう少し様子を見たいと言いたくなる。

そうなれば、きっと決断できない。

今しかできない。

だから。

「あのヴィルヘルムは……偽者よ」

■■■

報告を聞いた宰相の行動は早かった。

偽者ならば捕えることに遠慮はいらない。

支持者たちは皇后が黙らせるだろう。

実母である皇后の主張は説得力がある。

だが。

「やはり連れてきた騎士たちは精鋭中の精鋭か……」

フランツは自らの執務室にいた。

そこにやってきた騎士たちを見て、静かに呟く。

現在、帝剣城には碌な戦力が残っていなかった。

近衛騎士団はすべて出払っており、帝国内で信頼できる戦力の多くは宰相の命令で別の任務についていた。

だから、送り込んだ衛兵が返り討ちにあったことは不思議ではなかった。元々、戦力らしい戦力はすでに宰相の手元にはいない。

宰相からの攻撃を受けて、どんどん騎士は城内になだれ込んでくるだろう。

城内が制圧されるのは時間の問題。

攻撃を理由に、ヴィルヘルムは帝国の実権を手に入れるだろう。

攻撃するならば、ここしかなかったが、その攻撃は失敗した。これ以上待っても、今以上の好機はやってこない。だから仕掛けたわけだが、やはり失敗した。

自分の軍事的センスのなさは自覚していたが、最期にそれで足を引っ張られるとは。

もはやフランツに打つ手はない。

これからフランツは世紀の謀反人に仕立て上げられるだろう。

しかし、それでよかった。

偽物とわかった以上、立太子の儀を進めるわけにはいかない。

そして。

本物ならば自分を殺さない。誤解だと対話を求めるだろう。

けれど。

「やはり、そうか」

騎士たちが剣を抜くのを見て、フランツは笑う。

これで心ある者たちは偽者だと確信できる。

ヴィルヘルムは権力に固執しない。

邪魔だからといって、父の代からの忠臣を排除したりはしない。

だが、偽物はフランツを残してはおけない。そのようなリスクは取れない。長年、帝国宰相を務めてきたフランツは、権力を保持しようとする者にとっては現皇帝以上に邪魔な存在なのだ。

フランツの殺害と皇后の否定。これによってヴィルヘルムの偽者説はより強固となる。

打つ手は打った。

あとは残された者たちがどう動くか、による。

そんなことを思いながら、フランツは愛した妻に別れの言葉をつぶやいた。

「妻にはいつか過労で死ぬと言われたが……違う死に方なのは申し訳ないな。看病をお願いしていたのだが」

すまない。

その言葉のあと、三本の剣がフランツの体を貫く。

流れる血を見ながらフランツはフッと微笑む。

悪くない人生だった。

宿屋の息子に生まれ、帝国の皇子に見出された。

そして数十年、帝国宰相として帝国のために尽くせた。

これほどの人生を歩める者が何人いるか。

すべては思い通りにならなかった。

完璧な最期ではない。

心残りはある。

しかし、それもまた人生だろう。

やれることはやったのだ。

ただ――自分のほうが先に逝くとは思わなかった。

彼は一人で大丈夫だろうか?

そんなことを思いながらフランツは目を閉じる。

「もう……面倒事を……解決できませんな……ヨハネス……」

願わくば。

親友のこの先に幸があらんことを。