軽量なろうリーダー

嫁いだ先は因習領地(?)でした

作者: ぴょる

本文

転生者だからと言って特別なことはなかった。

とある伯爵家のご令嬢、ソニアとして生を受けた時から、前世の記憶があったというだけ。

転生した先の世界は中世ヨーロッパに似ているようで、だからと言って特に元ネタがあるわけでもなさそうだった。予言者のようなことはできないし、前世では特に何かに秀でた専門家というわけでもなかったから、知識で無双なんてことも当然できなかった。

だから周りからは、ちょっと大人びた考えをするご令嬢としか思われなかった。

そして時が経つにつれ、自分が転生者であることも忘れ、ただのご令嬢、ソニアとして教育を受け、社交に出て、お茶会で友人やご婦人達と微笑みあうような日々を送っていた。

そんな私に、縁談が来た。

縁談の相手は、インスモア領の領主の息子。フィリップ・インスモアという青年だった。

インスモア領。

王都からずいぶんと離れた辺境の地で、正直なところ社交界ではあまり耳にしない名前だった。

インスモア領は大きな湖を抱えた土地で、その豊かな水源のおかげか、根菜の産地として知られているらしい。王都の市場にも細々と出荷しているようで、品質は悪くない。特産品というほどではないが、ほぼ毎年安定して収穫があるとのことで、飢えに苦しむような土地ではなさそうだった。

家の格としても申し分なかった。インスモア家は長い歴史のある家で、王都の貴族とも細く長くつながりを持つ由緒ある家柄。政略的な側面があることは分かっていたけれど、それはどの縁談も同じことだ。

数度の顔合わせを経て、私は婚約を了承した。

相手のフィリップ・インスモアは、物腰の柔らかな青年だった。寡黙というわけではないが、多くを語るわけでもない。ただ、こちらの話をきちんと聞いてくれる人だという印象を受けた。悪い人ではなさそうだ、と思った。

今思えば、その時点でもっと領地のことを調べておくべきだったのかもしれない。

しかし当時の私には、インスモア領がどういう場所かなど知る由もなかった。

---

馬車がインスモア領に入った瞬間、空気が変わった気がした。

王都の喧騒とはまるで違う、静かで落ち着いた空気。遠くに見える湖の水面が、曇り空の下でも不思議と光って見えた。

正直なところ、辺境の地と聞いて多少の覚悟はしていた。閉鎖的な土地特有のよそ者を値踏みするような視線。あるいは貴族の嫁をどこか持て余すような空気。そういうものを想像していた。

だが、全くの杞憂だった。

領地に入ると、道沿いの領民たちがこちらに気づいて会釈をしてくれた。子供が手を振ってくれた。物珍しそうにこちらを見る目はあったが、敵意も警戒もなかった。

インスモア家の屋敷に到着すると、使用人たちが整列して出迎えてくれた。皆丁寧で温かみのある笑顔だった。

そして義父、現領主のインスモア卿が私の手を取り、満面の笑みで言った。

「よくぞいらしてくださいました。貴女のことを、首を長くしてお待ちしておりましたよ」

その喜びぶりは、お世辞とは思えないほど本物に見えた。少々度を越しているくらいに。

フィリップから義母のことは事前に聞いていた。彼がまだ幼い頃に亡くなられたとのことで、だからこそ義父にとって息子の嫁は特別な意味を持つのかもしれない、とその時は思っていた。

用意された部屋は広く、調度品も丁寧に整えられていた。侍女もひとり付いてくれた。冷遇の欠片もない、それどころか歓迎されすぎているくらいの待遇に思わず胸が温かくなった。

インスモア領に来て良かった、と素直に思えた。

---

違和感を持ったのは、その日の夜。晩餐の時だった。

テーブルに並んだ料理は豪勢だった。王都の晩餐会にも引けを取らない品数で、湖で取れた魚の料理や、この土地ならではの根菜を使った煮込みなど、どれも丁寧に作られているのが見て取れた。

「歓迎の席ですから、どうぞ遠慮なく」

義父がにこやかに言う。フィリップも「どうぞ沢山召し上がって」と柔らかく微笑んだ。

素直に嬉しかった。

さて、では遠慮なく……と手を伸ばしかけた瞬間だった。

義父がすっと立ち上がった。

続いてフィリップも。

気づけば周囲の使用人たちも、一斉に背筋を正していた。

「ソニア、立って」

フィリップの静かな声に、私は反射的に立ち上がった。

そして義父が、朗々と言葉を紡ぎ始めた。

「深淵に揺蕩う観測者、ヨグ=ル=シェオル=トァサの御名において、我らは今日の糧を捧げ、また賜る。願わくば、その眼差しが絶えず我らを照らさんことを」

室内が、しんと静まり返った。

次の瞬間、フィリップを含めた全員がその言葉を静かに復唱した。

私だけがぽかんと口を開けたまま立ち尽くしていた。

……今、なんと?

深淵? 観測者? ヨグ……なんとかという名前は一体……

混乱したまま周囲を見回すと、誰もが至って真剣な顔をしていた。義父は厳かに目を閉じ、使用人たちも神妙な面持ちだった。フィリップでさえ、いつもの穏やかな表情のまま、ごく自然にその言葉を口にしていた。

やがて全員が静かに席に着き、何事もなかったかのように晩餐が再開された。

「驚かせちゃったね」

フィリップが少し申し訳なさそうに言った。

「インスモア領で食事の前に行う挨拶なんだ。父が先に言うから、あとは皆と一緒に復唱するだけで大丈夫だよ」

なるほど、食事の前の挨拶。

確かに王都でも、教会の教えに倣って食事前に神へ感謝を捧げる習慣があると聞いたことがある。地域によって形が違うのは当然のことだ。ましてやここは王都から離れた辺境。独自の形をとっていても不思議ではない。

ちょっと長くて、ちょっと物々しい「いただきます」のようなものか。

……うん、きっとそういうものだ。

「わかりました。次からは私も一緒に」

そう答えながら、魚の料理にフォークを伸ばした。

料理はとても美味しかった。

---

晩餐を終え、侍女に部屋へと案内された。

侍女は実に手際が良かった。就寝の準備をてきぱきと整えてくれて、慣れない土地での初日の夜にもかかわらず、不思議と落ち着いた気持ちでいられた。

「では、布を外しますね」

侍女が当然のようにそう言って、ドレッサーの鏡にかかっていた布をさらりと取り払った。

……鏡に布?

そういえば部屋に案内された時から布がかかっていたが、てっきり埃よけか何かだと思っていた。

「あの、普通は……かけたまま寝ないのですか?」

おそるおそる聞いてみると、侍女はにこやかに振り返った。

「夜は外すものですから」

はあ、そうですか。

……そうですか?

疑問は解消されていなかったが、侍女の笑顔があまりにも自然だったので、それ以上聞けなかった。

「おやすみなさいませ」

侍女が部屋を出ると、静寂が訪れた。

ベッドに横になると、羽毛がふわりと体を包んだ。実家の自室と遜色ない寝心地だった。移動の疲れもあったのだろう。私はあっという間に意識を手放した。

---

翌朝、清々しいほどによく眠れていた。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

侍女がにこやかに朝の支度を整えながら尋ねてくる。

「ええ、おかげさまで。ぐっすりと」

ベッドの寝心地は大層良かった。

私は侍女の手を借りて身支度を整え、朝食の席へと向かった。

食堂に入ると、義父とフィリップはすでに席についていた。

「おはようございます」

「おはよう、ソニア」

フィリップが穏やかに微笑む。義父も「よく来てくれました」とにこやかだ。私も席につき、さて……と思った瞬間、二人が立ち上がった。

ああ、そうか。朝食もか。

私も慌てて立ち上がる。義父が朗々と唱え始める。

「深淵に揺蕩う観測者、ヨグ=ル=シェオル=トァサの御名において……」

昨夜より少しだけ心の準備ができていた。フィリップたちに合わせて口を開く。覚えきれていない部分はもごもごと誤魔化しながら、なんとか最後まで復唱した。

それが終わると、何事もなかったかのように三人で朝食をとり始めた。

パンは柔らかく、スープは温かかった。昨夜に引き続き食事はとても美味しい。

しばらく和やかに食事が進んだころ、義父がふと口を開いた。

「して、二人とも。昨夜はどのような夢をご覧になりましたか?」

「……夢、ですか?」

思わず聞き返してしまった。義父は至って真剣な顔で、こくりと頷く。

フィリップは特に驚いた様子もなく、静かに答えた。

「私は湖の底を歩いている夢でした。水の中なのに息ができて、遠くに何か大きなものが見えた気がしましたが……そこで目が覚めました」

「ふむふむ」

義父は満足そうに頷いている。フィリップの夢の話をメモでもしたそうな勢いだ。

「ソニアは?」

フィリップが私に視線を向ける。

「あ、えっと……特に夢は見ていなくて。ぐっすり眠れたものですから……」

「そうですか」

義父は一瞬だけ何かを考えるような間を置いた。しかしすぐに柔らかい笑みに戻って言った。

「よく眠れたなら何よりです。ただ、もし夢をご覧になる夜があれば、その内容をぜひ聞かせてください。どんな些細なことでも構いません」

「……はあ」

なぜ夢の内容を。という疑問が喉元まで出かかったが、義父の笑顔があまりにも穏やかで飲み込んでしまった。

「わかりました」

困惑しつつも頷くと、義父はまた満足そうに頷いて、スープに口をつけた。

フィリップがそっと耳打ちするように言った。

「気にしないで。父の……癖のようなものだから」

……夢の内容を毎朝聞くのが癖なのか。

そうですか、と私は曖昧に微笑んだ。

朝食が終わりかけた頃、義父が改まった様子で切り出した。

「ところで、婚姻の儀についてですが」

フィリップが静かに姿勢を正す。

「今のお二人はまだ婚約者の間柄。正式な夫婦となるためにも、七日後に領民に向けた婚姻の儀を執り行いたいと思っています」

七日後。随分と早いと思った。

「この領地では、婚姻の儀は領民も共に祝う大切な行事でしてね。ずいぶん楽しみにしているようです」

義父は嬉しそうに言った。

「……楽しみにしていただけているのですね」

「ええ、それはもう」

にこにこと笑う義父を見ながら、私はなんとなく背中がうすら寒いような気がした。

---

朝食を終えるとフィリップが「よければ領地を案内するよ」と声をかけてくれた。

慣れない土地のことを少しでも知っておきたいと思っていたところだったので、喜んで申し出を受けた。

午前中の空気はとても清々しく歩くのに丁度いい気候だった。フィリップは道沿いの畑や農地を丁寧に説明してくれた。

「この辺りは主に根菜を育てているんだ。芋が中心で、土地の水はけがいいから育ちやすいんだよ」

畑はしっかり手入れが行き届いていた。領民たちがこちらに気づいて会釈してくれる。フィリップも顔見知りと言葉を交わしながら歩いていた。領地の人間に慕われているのが伝わってきた。

そしてしばらく歩いた先に、それは広がっていた。

「わぁ、大きい……!」

湖だ。昨日馬車の窓から眺めてはいたが、近くで見ると更に迫力があった。見渡す限りに広がる水面は日の光を受けてきらきらと輝いていた。あまりにも広くて、対岸がかすんで見えるほどだった。

水は透き通っていて、でも底は見えない。どこまでも深いような、吸い込まれるような感覚がした。

しばらく二人で黙って湖を眺めていると、フィリップが静かに口を開いた。

「……いろいろ、驚かせてごめん」

「え?」

「昨日の食事の挨拶とか。鏡のこととか……」

少し申し訳なさそうな横顔だった。

「気にしないでください」と私は微笑んだ。「地域によって習慣が違うのは当然のことですから」

「……実は、他にもいろいろあって」

フィリップは湖を見つめたまま続けた。

「船で湖を渡る時は、必ず一席分を空けておかなければならない。誰も座らせてはいけないんだ。荷物も置いてはいけない」

「一席を……」

「それから、満月の日は深夜に鐘が鳴るから、その時は起きて湖の方角に向かって礼をしなければならない。雨の日でも体調が悪くても関係なく」

私は黙って聞いていた。

「それから、湖から引いた水は必ず一度外に出してから使う。飲む前には三度揺らす……」

フィリップは小さく息を吐いた。

「本当にごめん。大変だし、不気味だよね」

その声には疲れのようなものが滲んでいた。

「いいえ」と私は首を振った。「この領地の伝統で大切なものなのでしょう。私も馴染めるよう努力しますね」

フィリップは少しだけ黙った。

湖面に風が吹いて、さざ波が立った。

「……全部、数年前にできたルールなんだ」

「え?」

思わず顔を向けてしまった。

「そうなのですか。てっきり昔からのものだと思っていました」

「僕が子供の頃はそんなルール一切なかった。長老から聞いても、そんなルールは初めて知ったと……」

フィリップの声は穏やかだったがどこか遠かった。

「数年前、作物が不作になった年があった。その年から父が変わっていって……少しずつルールが増えていったんだ」

私は黙って続きを待った。

「最初は、神にすがりたくなる気持ちもあるだろうと思って受け入れた。でも年々増えていくし、領民にも課すようになって……」

フィリップは一度言葉を切った。

「おかしいとは思ってる。ただ、指摘すると父は激昂してしまうから……」

そう言って困ったように微笑んだ。

その笑顔が少し痛々しく見えた。

私はもう一度湖に目を向けた。きらきらと光る水面は穏やかだった。

「昔はどんな感じだったんですか? この領地の習慣とか……」

フィリップは少し考えてから、懐かしむように答えた。

「子供の頃は……年に一回、この湖の周りで祝祭があるだけだった。領民みんなで集まって、食べて、歌って。賑やかで楽しい行事だったよ」

「祝祭ですか」

「うん。この湖の遥か底には神様が眠っている、っていう言い伝えがあってね。その神様が湖や領地を守ってくださっているんだって」

湖の底に眠る神様。

「ヨグシェ様、って呼ばれてた。もっと上の世代の人は底見様って呼ぶこともあるね。それらが領地に伝わる名前で……その神様へのお礼に年に一回祝祭を開く。それだけが伝統だったんだ。……まぁ、その祝祭も今は重々しい儀式のようになってしまったんだけど」

ヨグシェ様。

私はその瞬間、食事の時の光景を思い出した。義父が朗々と唱えていたあの言葉。

深淵に揺蕩う観測者、ヨグ=ル=シェオル=トァサ。

「……あの、食事の時の祈りで言っていたヨグ……なんとか、というのは」

「そう」

フィリップは静かに頷いた。

「ヨグシェ様の正式名称らしい」

らしい、という言葉が少し引っかかった。

「正式名称?」

「父が文献から見つけてきたんだ。数年前に。それまでは誰もそんな名前知らなかった。ヨグシェ様とか底見様とか、そのくらいの呼び方しかしてなかったから」

フィリップは少し苦い顔をした。

「それからだよ。正式名称で呼ぶことが推奨されて……今では食事のたびに全員で唱えるようになった」

私はもう一度あの長い祈りの言葉を頭の中で繰り返した。

ヨグ=ル=シェオル=トァサ。

この穏やかな湖の底で眠る神様の名前。

私は湖を見た。きらきらと光る水面のその遥か底を。

眠っている神様。

ヨグシェ様。

なんとなく、ヨグ=ル=シェオル=トァサという名前より、ヨグシェ様という呼び方の方がずっとこの穏やかな湖に似合う気がした。

---

それから数日が経った。

食事の前に唱える長い祈りも、夜に布を外す鏡も、少しずつではあるが慣れてきた。満月の深夜に鐘が鳴った時は少々驚いたが、フィリップが事前に説明してくれていたため、そこまで問題は無かった。

そんなある日、侍女から声がかかった。

「婚姻の儀のドレスを合わせたいのですが、よろしいでしょうか」

もちろんです、と答えた。婚姻の儀まであと数日。そろそろそういう準備が始まる頃だと思っていた。

運ばれてきたドレスを見て、私は少し首を傾げた。

それは真っ白なロングドレスだった。

ただし、レースもない。フリルもない。刺繍もなければ飾りひとつない。首元も袖も、露出を抑えたシルエット。アクセサリーの類も一切なかった。純白以外の何もないドレスを、私は初めて見た。

「……随分、シンプルなのですね」

思わず口から出た。

「領主様のご命令ですので」

侍女はにこやかに答えた。

そうですか、と私は鏡の中の自分を見た。ドレス自体の仕立ては悪くない。生地も上質だ。

ただ、本当に何もない。

なんというか……花嫁というより、何かの儀式の参加者のようだった。

その日の夕方、フィリップと話す機会があった。

ドレスのことを話すと、フィリップは申し訳なさそうに眉を下げた。

「本当にごめん。日程も段取りも衣装も、全部父が勝手に決めてしまって……」

低い声だった。

「本当はもっと期間をおきたかった。二人でじっくり話し合って、ソニアの希望も聞いて、それから決めたかったのに」

フィリップは少し間を置いた。

「それに、ソニアのご両親のことも気になってる」

「両親?」

「婚姻の儀まで日がなさすぎて、王都からお呼びする時間が取れなかった。ソニアの大事な日なのに、ご両親が来られないというのは……」

そこまで考えていてくれたのかと思った。自分でも気にしていたことだったからその言葉は胸に沁みた。

フィリップは少し声を落として言った。

「……王都で、もう一度式を挙げるのもいいかもしれない」

「え?」

「ソニアのご両親や親戚も呼んで、自分たちで好きなように全部決めて。ドレスも式の内容も二人で選んで……」

フィリップは少し照れたように視線を外した。

「二回式を挙げるのは変かもしれないけど……でも、インスモア領での儀式は父が決めたもので、ソニアの気持ちが置いてけぼりになってしまっているから……」

しばらく言葉が出なかった。

装飾のないドレス。両親のいない式。全部義父が決めた段取り。私はそういうものを仕方ないと飲み込もうとしていた。でもフィリップはそれをちゃんと見ていてくれた。

「……ありがとうございます」

気づいたらそう言っていた。

「とても嬉しいです」

フィリップが少し目を丸くして、それからふわりと笑った。

その笑顔を見て、ああ、この人で良かったと心から思った。

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夕食の席に着くと、義父はいつにも増して機嫌が良さそうだった。

「衣装合わせをしたと聞きましたよ、ソニア殿。いかがでしたか」

「はい、素敵なドレスでした」

嘘ではない。仕立ては確かに丁寧だったから。仕立ては。

義父は満足そうに頷いた。

「あのドレスはね、特別に誂えたものなんです。余計なものは何もいらない。純粋に、清らかに。それが大切なのです」

清らかに。

私は曖昧に微笑んだ。

「そうそう、式の段取りについてもそろそろお伝えしておきましょうか」

義父は嬉しそうに続けた。

「婚姻の儀は夕刻に行います。二人で湖のほとりに立ってもらって……」

「夕刻に、ですか」

「ええ。湖を一周していただきます。道沿いにいくつか台が設置してありますから、そこに順番に火を灯しながら歩くのです。一周し終えたら完了です」

湖を一周しながら火を灯す。

私はその光景を頭の中で思い描いた。日が落ちて暗くなっていく湖のほとりを、二人で歩きながらひとつひとつ火を灯していく。

絵としては幻想的で美しいかもしれない。

かもしれないが。

「それは……昔から行われてきた儀式なのですか?」

思わず聞いてしまった。フィリップから昔からのルールはないと聞いていたから。

義父は一瞬だけ間を置いた。

「……形を整えたのは最近のことですが、その精神は古くからあるものです」

答えになっていない気がしたが、義父はにこやかに続けた。

「ヨグ=ル=シェオル=トァサも、きっとお喜びになられます。二人が共に火を灯す姿を、その深き眼差しでご覧になるでしょう」

テーブルの向こうで、フィリップがわずかに目を伏せた。

私は黙って、スープに視線を落とした。

温かいはずのスープが、なぜかその瞬間だけ、ひどく冷たく感じた。

湖の底で眠っているはずの神様が、私たちの儀式をご覧になる。

背中を何かが静かに撫でていったような気がした。

---

その夜、私はベッドに入ったまましばらく天井を見つめていた。

眠れなかった。

義父の言葉が頭の中でぐるぐると繰り返された。

湖を一周しながら火を灯す儀式。装飾一切なしの純白のドレス。昔からのルールは何もないのに、まるで古くからある伝統のように語られる段取り。

どうにも落ち着かなかった。

私はそっとベッドから出た。

ランプに火を入れて部屋を出る。廊下は静まり返っていた。深夜の屋敷は物音ひとつなく、自分の足音だけが響いた。

図書室は屋敷の案内をしてもらった時に場所を確認していた。あそこなら何か手がかりがあるかもしれない。この領地のこと、湖のこと、ヨグシェ様のこと。

調べたくていてもたってもいられなかったのだ。

廊下の角を曲がったところで、ふと前方に光が見えた。

ランプだった。

誰かがいる。

立ち止まると向こうも立ち止まった。

お互いに、しばらく黙ったまま見つめ合った。

「……ソニア?」

「……フィリップ?」

フィリップだった。寝間着の上に上着を羽織って、片手にランプを持っていた。

少しの間沈黙があった。

「図書室に……行こうとしていて……」

私が先に言うと、フィリップは目を丸くして、それからゆっくりと息を吐いた。

「……僕も同じだよ」

察した。

今夜の夕食の後、フィリップも眠れなかったのだろう。義父の言葉が引っかかって、今までの事も含め、ついに限界になったのだろう。

私たちは顔を見合わせて、どちらからともなく歩き出した。

図書室の扉を静かに開けると、紙と埃の混じった古い匂いがした。

ランプを掲げて中を見回す。壁一面に本棚が並んでいて、背表紙を見る限り歴史書、農業の記録、地誌、法典……様々な種類が混在していた。

「領地に関係する古いものは奥の方にあるはず。探してくるよ」

フィリップが小声で言って、奥の棚へと向かった。

私はしばらく入り口近くの棚を眺めた。ヨグシェ様について書かれた本など都合よく見つかるはずもない。ならばと視線を動かして、宗教と儀式に関する書物が集まっている一角を見つけた。

何冊か抜き出して床に腰を下ろした。ランプを傍らに置いて、ページをめくり始める。

最初の一冊は各地の祭祀についての記録だった。斜め読みしながら似たような事例を探す。

しばらく読み進めると、興味深い記述に行き当たった。

この世界には、神秘的な存在に対して「干渉しすぎない」ことを美徳とする文化が各地に根強く存在するらしかった。

別の本を開く。神秘主義の歴史についての記述があった。

曰く、古来より神秘への憧れと畏怖は表裏一体であり、「近づきすぎると危険」という認識は東西を問わず広く共有されてきた、とある。

さらにページをめくると、「節度」という概念についての章があった。

神秘主義における節度とは……毎日深追いしないこと。必要以上に呼ばないこと。神秘的な体験を絶対のものとして扱わないこと。畏れを持って距離を保つこと。

私はそこで手を止めた。

毎日深追いしない。必要以上に呼ばない。

頭の中で、食事のたびに唱えるあの祈りの言葉が響いた。

ヨグ=ル=シェオル=トァサ。

毎日何度も名前を呼んでいる。

必要以上に。

「……真反対だ」

思わず声に出てしまった。

「え?」

奥からフィリップの声がした。

「あ、ごめんなさい。ただの独り言」

私はもう一度その文章を読み返した。

神秘への節度。近づきすぎることへの戒め。

この領地で今起きていることはその全てと真逆だった。毎日名前を呼び、夢の内容を報告させ、満月の夜には礼をする。義父はヨグシェ様を遠ざけるどころかどんどん引き寄せようとしている。

ならばそれは、何を意味するのか。

しばらくして、奥の棚からフィリップの声がした。

「……あった」

私は本を置いて立ち上がり、ランプを手にフィリップのもとへ向かった。

フィリップは薄い冊子を手にしていた。表紙は色褪せていて、文字もかすれかかっている。

「祭祀の記録みたいだ。インスモア領のかなり古いもの」

二人でランプを寄せて、ページをめくった。

几帳面な筆跡で祭りの様子が記されていた。年代を示す数字を見ると、数十年前から百年以上前にかけての記録らしかった。

内容はどれも似ていた。

夏の終わり、湖のほとりに領民が集まる。歌を歌い、食事をともにする。湖に向かって感謝の言葉を述べ、花や果物を水面に流す。それで終わり。

どこかの頁には、子供たちが湖で泳いだとも書いてあった。

「……楽しそうだ」

フィリップがぽつりと言った。

私も思った。怖くない。暗くない。ただの明るい夏祭り。

さらにページをめくると、祭りの中で唱える言葉が記されていた。

フィリップの記憶にはない言葉とのこと。

フィリップと二人でそっと声に出して読んだ。

短い言葉だった。

訳すとすれば……どうか安らかに眠ってください。あなたのおかげで今年も実りがありました。ゆっくりお休みください。

そういう意味合いの言葉だった。

私は息を止めた。

眠ってください。ゆっくりお休みください。

「フィリップ」

「……うん」

フィリップも気づいていた。

「今の食事の挨拶、眠れって言葉……一度も出てこないですよね」

フィリップはゆっくりと頷いた。

「昔の祭りは……ヨグシェ様を眠らせるためのものだったんだ」

図書室にしんとした沈黙が落ちた。

ランプの灯りの中、二人は古い記録をしばらく見つめていた。

結局、その夜は答えが出なかった。

二人で並んで古い文献を読み、わかったことをひとつひとつ確認し合った。昔の祭りは神様を眠らせるためのものだったこと。神秘への干渉は節度を持って行うものだとされていること。今義父がしていることは、その全てと真逆だということ。

でも、だから何だという話だった。

「父に言っても聞かないと思う」

フィリップが静かに言った。反論する気にはなれなかった。

「そもそも」と私は言った。「ヨグシェ様が本当にいるかどうかも、わからないですよね」

フィリップは頷いた。

「この世界で神秘的なものを信じている人は多くない。僕も……正直、実在するとは思っていない」

そうだ。この世界には魔法もなければ奇跡もない。神様がいると言われても、それは昔の人が豊作を祈るために作り上げた話かもしれない。義父が文献から掘り起こした正式名称も、儀式も、全部ただの空騒ぎかもしれない。

フィリップが見る湖の夢も。

私が時々感じるあの寒気も。

気のせいといえばそれまでだ。

「父が……何かに縋りたかったのはわかるんだ。不作の年は本当につらかったから」

フィリップが静かに言った。

「ただ、それがここまでになるとは思っていなかった」

私は古い祭祀の記録を棚に戻した。

二人でランプを手に図書室を出て廊下で別れた。

「おやすみなさい」

「……おやすみ」

自室に戻ってベッドに入っても、やっぱりしばらく眠れなかった。

天井を見つめながらぐるぐると考えた。わかったようで何もわかっていない。義父の目的も、儀式の意味も、ヨグシェ様の真偽も。

婚姻の儀まであと数日。

儀式は滞りなく終わって、私とフィリップは正式に夫婦になる。義父の風変わりな習慣と折り合いをつけながら私はこの領地で暮らしていく。

そういうものだ。

そう思いながら、私はようやく目を閉じた。

---

婚姻の儀の朝は、霧が深かった。

窓の外は白い靄が屋敷の庭を覆っていた。湖の方角は完全に霞んでいて水面すら見えない。空も雲に覆われていて、どこか息が詰まるような重さがあった。

侍女に手伝ってもらい、あの白いドレスに袖を通した。鏡に映る自分を見る。装飾のない純白が霧の多い今日の空気にやけに馴染んでいた。

それが少し嫌だった。

屋敷の玄関前に出るとフィリップがいた。白いタキシードを着ていた。シンプルで一切の装飾がない。私のドレスと揃いだった。

二人で顔を見合わせて、どちらからともなく苦笑した。今日はもう前に進むしかなかった。

湖に到着すると義父が近づいてきた。

いつもよりどこか浮足立っていた。足取りが軽く目は爛々と輝いている。

義父の周りには何人かの領民がいた。

その領民たちも義父と同じ顔をしていた。高揚したような、どこか昂ったような表情。お祝いの場にいる人間の顔というより、長年待ち望んでいた何かがついに来たというような顔だった。

「……あの人たち」

フィリップが小声で言った。

「どうしました?」

「父とよく一緒にお祈りをしていた人たちだ」

フィリップの声は静かだったが、その目は細くなっていた。

領民のひとりが近づいてきて私たちに松明を差し出した。

火がついている。

「さあ、これをお使いください」

興奮気味の声だった。笑顔だがどこか熱に浮かされたような目をしていた。

「湖の周りに台がございます。ひとつひとつ、火を灯しながら一周してきてください」

私はフィリップと松明を受け取った。

「行こう」

フィリップが静かに言った。

二人で歩き出した。

霧の中に、湖がぼんやりと浮かび上がっていた。水面は暗く、静かで底が見えない。

松明の火が白い霧の中で揺れた。

---

湖のほとりの道は、思ったより整備されていた。

足元には平らな石が敷かれていて歩きやすかった。ところどころに台が設置されていて、近づくたびに私たちは火を移した。小さな炎がひとつ、またひとつと灯っていく。

霧の中に橙色の光がぽつぽつと並んでいく様子は、確かに幻想的だった。

私達はあまり話さなかった。でも沈黙は苦ではなかった。

しばらく歩いたところで、フィリップが言った。

「疲れたら無理しないで。休もう」

「大丈夫ですよ」

「ドレスで長距離歩くのは大変だろうから」

私は素直に頷いた。

着実に火を灯しながら進んでいくと、半周ほどのところに平らな岩があった。二人でそこに腰を下ろして少しだけ休んだ。

湖は静かだった。霧のせいで対岸は見えない。水面は暗く、ランプの光だけが淡く反射している。

後ろを振り返ると、灯してきた炎が霧の中にぼんやりと並んでいた。

「もう少しだね」

フィリップが言った。

「そうですね」

しばらく黙って湖を見ていた。

波一つ立たない、静かな水面だった。

休憩を終えて、また歩き出した。

日はいつの間にか完全に落ちていた。空には雲が厚く垂れ込めていて、星も月も見えない。辺りは松明の灯りだけが頼りだった。灯してきた炎が背後に連なり、これから灯す台が前方の霧の中にぽつぽつと見えた。

あと少しだ。

一周を終えて戻ってくると、義父たちが待ち構えていた。

「お帰り! よくやってくれました!」

義父の顔は上気していた。周りの領民たちも拍手をしたり声をあげたりして出迎えてくれた。お祝いの場のような賑やかさだった。

ただ。

「これは……」

フィリップが小声で言った。

いつの間にか、湖のほとりに祭壇のようなものができていた。石を積み上げて布を掛けたもので、上には花や果物、そして見慣れない紋様が刻まれた石板が置かれていた。松明の灯りに照らされたその祭壇は、お祝いというより、何か別の目的のために作られたもののように見えた。

「さあ、ここに立って」

義父に促されるまま、二人は祭壇の前、湖のほとりに立たされた。

すぐそこに暗い水面があった。

領民たちが周囲を囲んでいた。皆一様に高揚した顔で、こちらを見ている。

義父が祭壇の前に立った。

そして両手を広げ、高らかに声を上げた。

「深淵に揺蕩う観測者よ、ヨグ=ル=シェオル=トァサよ! 今こそ目覚めよ! 我らが捧げる二つの魂を生贄として捧げん! その御手で受け取り給え! いあ! いあ! いあ!」

領民たちが復唱し始めた。

声が重なり、湖のほとりに響き渡った。

私は頭が真っ白になった。

生贄。

今、生贄と言った……?

「な……」

隣でフィリップが息を飲むのがわかった。

「何を言っているんだ、父さん」

フィリップの声は静かだったが、震えていた。

「フィリップ、ソニア殿、怖がらなくていい。これは名誉なことなのです。ヨグ=ル=シェオル=トァサのご加護のためには、お二人の魂が必要で……」

「父さん!」

その時だった。

湖の水面が揺れた。

風もないのに。波紋が中心から広がるようにゆっくりと。

次の瞬間、水面の中心が盛り上がった。

領民たちの復唱が止まった。

義父の顔が歓喜に染まった。

「来た……来たぞ……!」

フィリップが私の手を強く掴んだ。

湖の水面が、さらに大きく揺れた。

---

それは例えるならば天球儀のようだった。

幾重もの環が回転している。

軋む。

脈打つ。

軌道がゆっくりと噛み合っていく。

湖面が揺れる。

否。

揺れているのは水ではない。

湖という“器”そのものが、

内側に眠る何かに呼吸を合わせ始めていた。

ヨグ=ル=シェオル=トァサ。

その真名が呼ばれるたび、

湖面に波紋が広がる。

夥しい湖水が球状に浮かび上がり、

その内部で無数の環が回転している。

青銅にも、

骨にも、

星の軌道にも見える輪。

その中心には、

眼によく似た“観測”があった。

それは湖底に眠るもの。

それは人々を見つめ続けるもの。

それは微かな信仰によって眠り続けたもの。

かつて人々は、

祭りの灯を流すだけだった。

畏れすぎず、

忘れすぎず。

ただ“そこにいる”と認めるだけでよかったのだ。

だが愚かな信奉者たちは、

真の名を暴き、

血を捧げ、

眠る神を無理やりに観測した。

故に。

それは応答した。

無数の環が回転を始める。

湖畔の木々が捻じれる。

空が裏返る。

あれは“視線”だ。

世界そのものを外側から見つめる、

巨大な観測機構

そして。

天球儀めいたそれが、

ゆっくりと湖から身を起こした。

滴る湖水が雨のように降り注ぐ。

無数の眼が開く。

観測が始まる。

---

領民たちが悲鳴を上げた。

さっきまで義父とともに高揚していた顔が一瞬で恐怖に塗り替わった。転がるように押し合うように、我先にと逃げ出していく。

松明が落ちる。誰かが転ぶ。誰かが構わず踏み越えて走る。

あっという間に湖のほとりには三人だけが残された。

義父は逃げなかった。

両腕を広げたまま湖に向かって立っていた。顔は上気して、涙を流していた。歓喜の涙だった。

「ああ……ああ……! 来てくださった……! ヨグ=ル=シェオル=トァサ……!」

義父の声は震えていた。恐怖ではなく、感動で。

「どうか……どうかこの領地に平和を……豊穣を……! 我らの信仰を受け取り給え……!」

無数の眼が義父を見た。

その瞬間、義父の言葉が途切れた。

表情が変わった。

歓喜でも恐怖でもない。何か別のものに。人間の顔が作れる表情の、限界の外側にあるような何かに。

「……っ、あ、あああ、あ?」

義父はそのまま半狂乱になりながら湖へと歩き出した。まるで引き寄せられるように、一歩、また一歩。

「父さん!」

フィリップが叫んだ。駆け出そうとして思わず止まった。

本能が止めていたのだ。

湖に近づいてはいけない。あそこに踏み込んではいけない。全身がそう言っていた。

義父は湖に入った。膝まで、腰まで、胸まで。そして最後は静かに沈んでいった。

水面が一度だけ大きく揺れた。

それきり、義父の姿はなかった。

「父、さん……」

フィリップの声がかすれた。

私は動けなかった。足が地面に縫い付けられたように、その場から一歩も動けなかった。

観測者がそこにいた。

無数の眼が開いていた。星々がこちらを向いていた。環が回り続けていた。

眼が、私の方を向いた。

そして。

止まった。

巨大な観測機構が、初めて戸惑うような間を見せた。

その時、声が聞こえた。

声、と言っていいのかわからなかった。耳で聞こえたのか、頭の中に直接響いたのか、それすら判然としなかった。

「繧ェ繝槭お繝翫ル繝「繝?」

言葉だった。

でも全く聞き取れなかった。この世界の言語でも、前世で知っているどの言語でもない。音でも振動でもない、もっと別の何かだった。

「……え」

私は思わず声を出した。

「な……何?」

観測者の無数の眼はまだ私の方を向いていた。

「繧ェ繝槭お繝翫二、モノ?」

また聞こえた。今度は少し聞き取れた。

……に、モノ。

え、煮物?

環の回転がわずかに変わった。

「繧ェ繝槭お繝翫ル繝「繝?、オマエ、ナニモノ。」

今度ははっきりと聞こえた。

無数の眼が私を向いていた。しかし焦点が定まっていなかった。カメラのレンズが合わせるべき対象を見失ったような。見ているのに見えていない。観測しようとしているのにできていない。そんな空気だった。

何者、と問われている。

しかし何者と言われても。

「魂が、チガウ」

環がゆっくりと傾いた。無数の眼が瞬く。

「コノ理の中に、存在し得ない魂」

存在し得ない。

「これは観測し得ない魂だ」

この世界の理。つまりはこの世界の法則。この世界で生まれ、この世界で育ち、この世界の魂として存在する、そういう枠組みの中に私はいない。

私の魂はこの世界のものじゃない。

なぜなら……

「……私が、転生者だから」

「転生者」

観測者が復唱した。言葉というより、概念がそのまま頭に流れ込んでくるような声だった。

「成程」

少しの間があった。

「支配者の気まぐれか」

支配者、という言葉が妙に引っかかったが、今はそれどころではない。

「見えないから正常なのか」

どこか独り言のような響きだった。観測者自身もこの状況を測りかねているようだった。

無数の眼がまた私の上で彷徨った。見えない何かを探すように。いるはずのものを確かめるように。でも焦点は合わない。合わないまま向いていた。

私はちらりとフィリップを見た。

フィリップは青ざめた顔で立ち尽くしていた。観測者の眼が向くたびに表情が歪む。それでも逃げずに私のそばにいた。

おそらく観測者と目が合えば発狂する。先ほどの義父がそうだったように。

でも私はそうならない。

観測されないから。この世界の理の外にある魂だから。

だとすれば。

今、この場で観測者と話せるのは私だけだ。

意思疎通できるならチャンスだ。

私は観測者の方を向いた。焦点の合わない無数の眼を真正面から見た。

「一つ、聞いてもいいですか。

……貴方は……眠りたいの?」

環がゆっくりと回り続けていた。水が滴り落ちる音だけが聞こえた。

しばらくの沈黙の後、観測者が答えた。

「呼び声が、騒がしい」

うんざりしたような響きだった。これほどの存在がうんざりするのかと妙なところで驚いた。

「姿を見せつけられるのが煩わしい。視線が煩い」

視線。鏡のことだ、と即座に思った。夜は布を外す。夜の間、鏡がこの存在に向けられていたのだ。

そして呼び名。食事のたびに。ヨグ=ル=シェオル=トァサ、ヨグ=ル=シェオル=トァサ、ヨグ=ル=シェオル=トァサ。毎日何度も、正確な名前で呼び続けていた。

義父が課したルールの全部が、この存在を揺さぶり続けていたのだ。

「必死に呼ばずともここにいる。真の名で呼ばなくていい。過度に認知しなくていい。必要以上に見なくていい」

文献の言葉が頭の中で重なった。

毎日深追いしない。必要以上に呼ばない。神秘体験を絶対化しない。

そして古い祭祀の記録。年に一度集まって、感謝を伝えて、それだけでよかった。

全部繋がった。

「……そういうことだったんだ」

思わず声に出た。

義父は豊穣を願って、もっと強く、もっと深く、もっと頻繁に崇拝すれば良いと思い込んでいた。そしてのめり込んでいった。でもそれは違った。この存在はそもそもそういう神ではなかった。

どれだけ崇めても、不作は来る。災害も来る。

私は観測者を真正面から見た。

「わかりました。もう真の名前は呼ばない」

観測者の眼が私の上で止まった。

「名前を変えて人々に伝えます。広く、浅く、ただ在ると知っているだけの、そういう形で認知されるように」

観測者は答えなかった。

でも環の回転が、わずかに緩やかになった気がした。

私は隣に向き直った。

「フィリップ」

フィリップは青ざめたまま、でもしっかりとそこに立っていた。

「文献で見た、あの言葉……覚えていますか」

フィリップの目が一瞬揺れた。それからゆっくりと頷いた。

私はフィリップの手を取った。冷たかったけどしっかりと握り返してくれた。

二人で湖に向かって立った。

あの古い記録に書いてあった言葉を、静かに口にした。

「ーーーー。」

どうか安らかに眠ってください。

ゆっくりお休みください。

そういう意味の言葉。

声は震えていたかもしれない。発音が正確だったかもわからない。でも二人の声は霧の中に静かに溶けていった。

湖面が次第に静まっていった。

環の回転が少しずつ、少しずつ、遅くなっていった。

無数の眼が、ゆっくりと閉じ始めた。

---

義父は結局見つからなかった。

湖を隅々まで探したが何も出てこなかった。義父は正式に失踪扱いとなった。

フィリップはしばらくの間複雑な顔をしていた。

悲しんでいたのだと思う。でもその悲しみは単純なものではなかった。怒りも、後悔も、安堵も、罪悪感も、全部が綯い交ぜになっているような顔だった。私にはかける言葉が見つからなくて、ただそばにいることしかできなかった。

それでも、フィリップは前を向いた。

父の失踪から間もなく、フィリップはインスモア領の新たな領主となった。

彼が最初にしたことは領民への謝罪だった。

広場に集まった領民の前に立ち、フィリップは静かに頭を下げた。

「父が課していたルールについて謝罪します。食事の前の祈りも、鏡のことも、満月の夜の礼も、全てもうしなくていい」

領民たちがざわめいた。

「ヨグシェ様への信仰を否定するつもりはありません。でもあのやり方は間違っていた。本来の形に戻します」

一人の老いた領民が、ぽつりと言った。

「……正直、ほっとしました」

こうして、インスモア領にあったありとあらゆる儀式が撤廃された。食卓から祈りの言葉が消えた。夜に鏡の布が外されることもなくなった。もちろん、満月の深夜に鐘が鳴ることも。

領地は少しずつ、穏やかさを取り戻していった。

---

王都での結婚式は、晴れた日に執り行われた。

場所は二人で選んで、ドレスも二人で決めた。

純白のドレスだったが今度は違う。レースがあって、フリルがある。胸元には細かな刺繍が施されていて、首にはきらきらと光るアクセサリーがあった。髪には小さな花が飾られている。

鏡の前に立つと、侍女が目を細めた。

「とてもお似合いです」

今度はその言葉が素直に嬉しかった。

式には私の両親はもちろん、親戚もたくさん来てくれた。母は泣いて父は笑った。

フィリップは濃紺の礼服を着ていた。飾り気のない白いタキシードではなく、金の刺繍が入った、ちゃんとした婚礼の衣装だった。

私の姿を見た時、フィリップは少し目を丸くして、それから静かに微笑んだ。

「……とても似合ってる」

「ありがとうございます。フィリップも」

二人で笑いあった。

---

それから、インスモア領は変わり始めた。

きっかけは些細なことだった。王都の友人に手紙を書いた時に湖のことを話したのだ。あの澄んだ水面のことや霧の朝の幻想的な景色のこと。するとその友人が、一度見てみたいと返事をよこした。

そこで私は思った。

この湖、観光資源になるのではないか。

作物が不作だった年はとても大変だった、とフィリップから聞いた。だったら収入源はたくさんあった方がいい。

フィリップに話すと、最初は首を傾げた。

「こんな辺境の領地に、わざわざ人が来るかな」

「来ますよ。だって本当に綺麗な湖なんですもの。それに……」

私には、もうひとつ考えがあった。

「伝説があるじゃないですか。湖の底に眠る神様の。そういう話、人々はきっと好きですよ」

フィリップはしばらく黙って、それから苦笑した。

「……そっか」

まず湖のほとりを整備した。歩きやすい遊歩道を作って、休憩できる場所を設けた。ついでに婚姻の儀で義父が作った祭壇もちょっと綺麗にして、案内板を立てた。

そして私はあるものを作った。

ヨグちゃん、である。

デザインはかなり試行錯誤した。本物は天球儀めいた幾重もの環と無数の眼を持つ存在だったが、それをそのまま形にするわけにはいかない。

環はまあるくシンプルに。眼はひとつだけ、大きくてくりっとした可愛らしいものに。全体的にころんとした丸い輪郭で、色は湖を思わせる青みがかった色で……。

名前はヨグちゃん。

正式名称のヨグ=ル=シェオル=トァサとは似ても似つかない、語呂のいい親しみやすい名前だ。

そしてこれが大ヒットした。

陶器のヨグちゃんがよく売れた。ヨグちゃんの焼き印が押されたクッキーも飛ぶように売れた。刺繍入りのハンカチや小さな置物、絵葉書などなど。作るそばから売れていった。

「可愛い」「不思議な感じがする」「家に飾りたい」

観光客たちはそう言いながら、次々と買い求めた。

観光案内のガイドも雇った。ガイドの説明はちょっと盛り気味だったがそれがまたよかった。

「この湖の底には、古くから神様が眠っているとされています。かつては選ばれた者だけがその存在を知ることを許されたと言われており……」

観光客たちは目を輝かせて聞いていた。

もちろん細かいところは全部フィクションだったがそれでいいと思った。

正確に認知されなくていい。広く、浅く、ほどほどに。

ヨグちゃんの絵の描かれた袋に根菜を詰めた土産物も、気づけばよく売れるようになっていた。もともと品質の良い野菜だったから、一度食べた観光客がまた買いに来てくれるようになった。

辺境の地、インスモア領に人が集まるようになった。

宿が必要になると小さな宿屋ができた。そして宿屋ができると食堂ができた。食堂ができると土産物屋ができた。

領民たちの顔がどんどん明るくなっていった。

ある日、フィリップが湖のほとりに立つ私の隣に来て、穏やかな顔で言った。

「まさかこうなるとは思わなかったよ」

「でしょう」

「ヨグちゃんがあんなに売れるとは」

「可愛いですからね」

フィリップは少し考えるような顔をして、それから静かに笑った。

「……そうだね。可愛いね、ヨグちゃん」

湖は今日も穏やかに光っていた。

その遥か底で、ヨグシェ様がすやすやと眠っているといいなと思った。

ほどほどに認知されて、広く浅く愛されて、どうかゆっくりお休みください。