軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【28】講義

「――こうして、神は人々を救われたのです」

けれど、シスターの宗教講義そのものの内容は、ベルタにとって常に難題だった。

それは知的好奇心を満たす興味深いものでこそあれ、その深い宗教的な帰依には常に疑問符が付き纏う。

「神はあらゆる人々を、信じる人々をお救いになられます。

信じ、求めた時、その罪は許されます。

盲人の物乞いも、貧しい羊飼いも、徴税官も、裕福な職人も。

すべての人々は神の前に平等です」

ベルタは実際、本当に郷に入っては郷に従う気があった。

できることなら、この王家で今後長く過ごしていくためには、その精神世界を理解して信仰を身に落としてしまった方が、きっと生きやすい。

そう安易にさえ考えていたベルタだったが、あまりに自分自身の理解とかけ離れた世界観を、成人後に観念として得ることの難しさに、思いもよらず直面することとなっていた。

「その神は、どこにおられるの?」

「神は遥か高く天上におられます。

天上から地上の子らを見守っておられます。

神はあなたの心の中に宿り、あなたを助けてもおられます」

シスター・ステラのことは人物として好きだし、彼女の話はとても興味深い。

しかし、何度その話を聞いても、ベルタにとってプロスペロ教の教えはおとぎ話の絵本の中に出てくる世界のように遠く、曖昧なものに感じられる。

「……たとえば、異なる宗教には、別の多くの神々を信仰する者たちがいるでしょう。そういう者たちが信仰する神と、あなたたちの言う「神」は何が違うのかしら。多くの神々が天上の世界にはいて、その中の一人が、あなたたちの神?」

「いいえ。神は全ての人々の父たる存在です。人間にとって父はただ一人。……妃殿下のおっしゃる他の多くの神々は、天上の父と同じ場所にはおられない存在にございます」

全知全能の神がただ一人、超越的な父として存在する。

多くの人々がそういう最上段の存在を一様に信じ、思いを寄せているという事実をベルタは意外にすら思う。

天地の創造――この世の理の全てが、ただ一つの存在にとって賄われるという価値観はなかなかに単純で端的だ。

要するに、ベルタはそうした客観視から、思想の内実にまでもう一歩踏み込めない位置での足踏みを繰り返している。

どうやらベルタは夫と、それから、次期国王としてこれから敬虔な教育を受けて育つであろう息子と、決して価値観を同じく揃えることはできないらしい。

講義のたび、ベルタは素直な質問をシスターに投げかけるようになっては、内心ではそう落ち込んでもいた。

「――人は死んだらどこにいくの?」

「現世での行いによって人は裁かれます。

現世で善き行いをしたものは天国で永遠の命を与えられ、

悪い行いをしたものは、地獄で刑罰を受けることとなります」

「天国とは、天上におられる神と同じ場所?」

「そうであるとも申せますし、そうでないとも申せます」

きっとの教えの文脈を何も理解しない、無礼で不躾な質問を繰り返しているだろうに、シスターは毎回の問答に真摯に考え、答えをくれた。

「……みんな、天国に行きたいものかしら。たとえば生前の親しい人々が多く地獄にいるというのなら、天上の世界で一人きりで居ても寂しくはない? 死後に二分された世界に別れるというのは。私は、私の大切な人たちと同じほうに行きたいわ」

「まあ。死してなお、刑罰を得ることとなってもにございますか?」

「天国で退屈な思いをするよりはずっと良いと思うの」

シスターは驚いた顔をした後にふふ、と笑った。

「でも私は、地獄が何かはきっと知らないから、こんなことが言えるのかもしれないわ」

「ご心配なさらずとも、妃殿下の大切な方々はきっと善き行いの方々にございましょう。皆さまが天上の世界で再会なさり、きっとお幸せに暮らせます」

ベルタはふと、彼女たちのような敬虔な信徒にとって、ハロルドが行った国内改宗はどう映っているのかということが気にかかった。

「陛下が、政治的な理由で国教を改革したことを、神はお怒りではないかしら」

実際のところ彼の行為は、宗教世界では許される余地のある善行だろうか。

ベルタの言葉に、シスターは少しだけ眉を上げた。

ベルタ自身は、別に天国でも地獄でもどちらでも良いような、今はまだ信仰の入り口に佇むだけの小さな価値観しか有していない。

しかし敬虔な信徒であるだろうハロルドが、現世のための行いによって地獄に落とされるようなことがあるとしたら、それは可哀想なことのように思う。

「……彼は、下手に現世の利得に理解があるから。あり過ぎるから、少し心配だわ。それが必ずしも神を裏切ることではなくて、現世で多くを預かる王としてのやむを得ざる仕儀であると、いつか彼を審判する係の方が、考慮に入れて下されば良いのだけれど」

シスターは少しの間を置いて、笑うことを耐え切れなかったようにおかしそうに笑みこぼした。

「……ご心配ございませんわ。きっと、陛下の審判を行う方は、妃殿下のようにお優しい御心の持ち主であられるでしょう。神は寛容です。そして陛下は真摯に、この国家の王権を全うしていらっしゃいます」

神や宗教的な教えが本来、とても寛容なものであるということは、シスターとこうして接するたびにベルタも実感を深めている。

ベルタは徹頭徹尾、俗世の都合で宗教世界に飛び込もうとしている不届き者に過ぎないが、そういう人間にもこうして門戸を開いてくれる可能性のある教えというのは、それだけでも懐が深い。

「もしもご心配ならば、日々の祈りを捧げる際に、共に陛下のことも思い出して祈って差し上げて下さい。自らのためだけではなく、大切な人々のために祈ることも、人の子に許された美徳です」

そうして宗教講義を受ける日々は続いたが、ベルタにとってそれは、自分がきっと本質的な理解には至らないという確信を強めていくような日々でもあった。

「――どうして人々は、神に救いを求めるの?」

「我々が、原罪を抱えた罪深き存在であるからです。

神の御名のもと、罪を許され、魂の救済を求めます」

ある日ベルタは、そうした問答の中、ぽつんと本音を漏らした。

「私は、あなたたちの言う、『救済』を求めていない人間かもしれないわ」

言ってしまった言葉は途端に、ベルタの胸の中でどうしようもなく腑に落ちた。

それを理解したいと願う反面、ベルタはきっと根本的に救いを求めていない人間だ。

どうしてそうなのか。異なる文化の中で育った所以であるのか。

それともベルタがもともとそうした人間で、彼ら彼女らとは、思い描く世界の輪郭が違うのか。

ベルタは無言のまま、シスターを見上げた。

彼女に何かを言ってほしかった。

そして許してほしかった。

彼らとベルタが異なる種類の人間であることを。

ベルタが、一生ここで余所者として過ごしていくことを。

昼下がりの礼拝堂には、ステンドグラスの越しの鈍い陽光が差していた。

柔らかい影が室内を照らし、静粛で厳かな時間をくれる。

ベルタはこの教会という空間が、決して嫌いではなかった。けれど、それだけだ。

「――……そうであるのかも、しれません」

しばらくの沈黙の後、シスターから返ってきたのは、穏やかな頷きだった。

ベルタは彼女の、長い年月の中で深く皺が刻まれた、その年老いた相貌を見つめ続けた。

彼女はついにベルタを啓蒙することを諦め、失望しているのかと思った。

「お許しくださいましね」

けれどシスターは、少しも変わらない微笑みをベルタに向けていた。

「私は、こうして妃殿下と近しくお話をする以前は、恐れ多くも妃殿下が神を信じておられないという事実を、お可哀想にと存じておりました。神の愛をご存じなく、いつも孤独な御心を抱え、きっと妃殿下の内心は、深く傷ついておられるのだろうと。……私は、ただ信仰を解き、あなたさまをお救いするためのお導きができたらと、そう考えておりました」

彼女がどのように考えてベルタに接していたか、なんとなく察していたベルタは、別にそのことに傷つきはしなかった。

ただ、シスターが自らそれを告白することだけが意外だった。

「けれどそれは、とんだ思い違いでございました。この歳になっても、浅慮が恥ずかしゅうございます」

彼女は礼拝堂の教壇を静かに降りて、そっとベルタの手を握った。小柄で腰の曲がった修道女は、座ったベルタと視線の高さもさほど違わなかった。

真摯な距離で彼女と目が合う。

歳月の中で白濁したような、灰色がかった青い瞳は、けれどベルタが今まで見た何よりも澄んだ色をしていた。

「あなたは、信じておられます。己自身を。そして何より、人の清らかな誠意というものを」

神を前に己の原罪を認めず、救いを求めて祈らないと言い切るベルタのことを、彼女はどうやら許しているらしかった。

「妃殿下。既に信じ、愛し、幸せであるあなたは、真実、信仰というものを必要としていないのかもしれません」

彼女たちのように深く信仰に帰依する者たちは、決して排他的ではないのだという理解に触れるたび、ベルタは同時に彼女たちと同質的な存在になれないもどかしさを味わうことになる。

「……けれど私たちは、共に歩むことができるかしら」

たとえ信仰を同じくしていなくとも。

文化の隣人としてわかり合い、受け入れ合って、共に生きていくことができるのだろうか。彼女と二人きりのこの空間を一歩外に出れば、まだまだ他者に寛容とは程遠い世の中だ。

この多様な文化の往来である国に、過去に起こったどんな分断すらも、永続的なものではないと信じられるような。

希望はあるのだろうか。

「……ええ、ええ。あなたのような方が、国母として立つ国はきっと」

シスターの、灰色の瞳にきらりと光った涙の色を、ベルタはその後もずっと忘れなかった。

なぜならそれが、ベルタが見た、彼女の最後の顔になったからだ。