軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【21】婚礼の日

その後も慌ただしい日々があっという間に過ぎていった。

婚礼の前夜。

明日は朝早くから起きて化粧や着付けやらをしなければならないし、早く寝たいと思っていたニーナだったが、夜半になってなぜか母が部屋にやってきた。

母の話は、いつも通り長かった。

「ニーナ。良いですか。このような結婚とはいえ、おまえも嫁いでいけばその家の家政を預かる女主人となるのですから、これまでのようにわがままばかりではいけませんよ。ゆめゆめ旦那さまに呆れられ、里に帰されることなどないよう……」

ニーナはそっぽを向いたり自分の爪をいじったりしながら、いつも通り話半分に母の声を聞いてた。

しかし、途中で母がだんだんと言葉につかえるようになり出したのが、母が涙を呑んでいるからだと気がついて、びっくりして瞬時に体を跳ねさせてしまった。

「――ああ、心配だわ」

母は泣いていた。

「私の、私の娘が明日にはもう、嫁に行くだなんて」

母がハンカチで目元を押さえて俯いてしまったので、ニーナはその側でおろおろした。

まさか母が泣くなんて。おずおずと母の肩に手を伸ばし、そっと身を寄せる。母の体からは、小さい頃からよく嗅ぎなれた香水の香りがした。

「別に、嫁いだからといって遠くに行くわけではありませんし。先々のことはわかりませんけれど、しばらくは王都におります」

慰めるつもりで言った言葉に、母はキッと目を剥いてニーナを叱りつけた。

「そのような心構えでどうします! 嫁ぐからには、もう二度と生家には戻らないくらいの覚悟がなくてはいけませんよ」

「ああ、はい。……わかっておりますわ」

本当に母とは気遣いの方向性も合わないし、話も合わない。けれど、こうして母がニーナを案じて泣いていることに何も感じないほど、ニーナは擦れていなかった。

「いいこと。嫁ぐからには明日から、おまえの主人はおまえの旦那さまです。常に旦那さまに従って、旦那さまに可愛がられるようにきれいに着飾っておくのですよ」

「はい。母上」

とりあえず、素直に頷いておけば母が安心するだろうと思ってニーナはそうした。

「何があっても機嫌よく笑っていらっしゃい。旦那さまの両親や、家の古参の使用人にはよく気を遣いなさい。おまえはただでさえ愚図なんだから、もし何か失敗した時も、周りに助けてもらえるように普段から愛想よくしておくのです」

「はい。母上」

「それから、嫁ぐからには、これからはもし父上さまがおまえに何かを言ったとしても、おまえは耳を貸す必要はありませんからね」

「はい。……え?」

父の言葉に唯々諾々と従うだけの人生を送っているような母の口から、初めて父に逆らう言葉を聞いたかもしれなかった。

「父上さまは、もしかしたら別のことをおっしゃるかもしれませんが。けれどいいのです。お嫁に行くということは、そういうことよ」

母の言うことは相変わらずわからない。

「父や兄ではなく、夫に従うようになりなさい」

けれど母は、いつもの上品な化粧を涙で剥げさせたみっともない顔で、ニーナを祝福してくれる。

「そうやって可愛がられて、愛されて、幸せに暮らすのよ。ニーナ」

「……ええ。母上」

娘を嫁に出すのは、どういう気持ちなのだろう。

ニーナも母と同じくらいの歳になれば、いつかこんなふうに泣く日が来るのだろうか。

「きっと幸せになりますわ」

その時になれば、少しは母の気持ちもわかるのだろうか。

婚礼には音楽や歌、それから踊りが欠かせなかった。

その日、北部ペトラ人の新興貴族であるヒメノ伯爵家の娘ニーナと、南部の実力者カシャの子息レアンドロの婚礼は、新たに造営が進む新王都ヴァウエラの市街で華やかに執り行われた。

貴族の婚礼風ではなく、その婚儀は新王都に移住したばかりの市井の人々をも参列客に巻き込んだ、盛大なものになった。

もしこの日、何も知らずに王都へ訪れた旅人でもいれば、今日を何かの祭りの日だと思ったことだろう。

新郎側が親族や家臣たちと共に、花嫁の家に妻を迎えに上がる。

そこからカシャの邸宅まで、大通りを大勢の人間が列をなして徒歩で向かっていくことになるのだが、陽気な人々があちこちで自由に踊っているような大通りを、ましてや方々から祝福の声をかけられて歩いて行くには、普段の何倍も時間がかかるようだった。

「思った通りだ。こういうドレスもよくお似合いですね」

華やかな行列の道中でも、レアンドロは今日のニーナの装いをたくさん褒めてくれた。

「ベールをしたお姿だと事前に聞いてはいましたが、こうして見るとやはり陽の光の下で真白のベールは華やかでとても美しい。ほら、ご覧になって下さい。誰もが花嫁の美しさに目を奪われていますよ」

そういう彼のほうこそ、町娘たちからの憧れや熱視線を一身に集めている。彼が手を振った方向からは、面白いように娘たちの黄色い悲鳴が上がっていた。

レアンドロは、派手な原色の色使いの伝統衣装を身にまとい、実に華やかな笑みを振りまいて歩いていた。

ヒメノの親族が言うには、彼はここ王都に来て初めて国王陛下に謁見した初日も、似たような出で立ちの晴れ着だったらしい。

南部の伝統を――時に中央からは野蛮だ未開だと揶揄されているだろうその文化を、なんら恥じることなく自信と誇りに変えて身にまとい、こうして悠然と新たな道を切り開く。彼はその一族の一員で、そして今日からはニーナも。

「レアンドロさま! おめでとうございます」

「今度は奥さまも連れてうちに買い物にいらしてくださいね」

「所帯をもってもたまには酒場にもいらしてくださいよ!」

徒歩で行き交う往来、振る舞い酒に吊られて踊りにやってきた市民たちの中には、レアンドロに親しげに祝いの言葉をかけに近づいてくる者たちもあった。彼は王都に来てたった数ヶ月で、色々と市街の人々に顔が売れているらしい。

大人たちには酒が、子供たちには菓子が振る舞われ、なんだか皆とても楽しそうだった。

甘いお菓子をもらった子供が、ご機嫌にカスタネットを叩いて飛び跳ねる。

それに合わせて大人たちも太鼓を叩いた。笛やリュート、それからニーナの知らない楽器を思い思いに弾く人たちがいて、彼らは音楽に合わせて歌い、踊っていた。

レアンドロに比べれば少ないが、ニーナにも声をかけてくる市民はいた。

「まあ、おきれいな花嫁さまですこと。どうかお幸せに。分断された我らペトラ人の歴史の、架け橋となられますように」

しわがれた老女に手を握り込まれ、ニーナはその手をそっと握り返した。

貴族の娘として育てられたニーナは、こういう市井の人々の一人一人とろくに関わったこともない。彼らは、彼らを支配する貴族たちのことをきっと嫌っているのだろうと思っていた。

被支配層から成り上がり、急激に貴族化したヒメノ伯爵家のような新興貴族家は、これまでペトラ人であるという出自自体をどちらかと言えば恥ずべき、隠すべきものと考えてきた。

伝統的な王侯貴族を上位に置いた支配構造の中、下層民同士仲良くすることなど単なる傷の舐め合いだとあざ笑い、同胞を追い落としてここまでやってきたような家柄だ。

ただ、そうした価値観も全て、きっと永続的なものではない。

この国は変わっていく。その大きな渦はまだ動き出したばかりで、この国は急激に潮目の変わった濁流の中にあるのかもしれなかった。

歌って踊っての行列は、真昼の新都の大通りを進み、ようやく終盤に差し掛かろうとしているところだった。

少し手前の人だかりから、花嫁たちの前にふと進み出る人影があった。

ニーナは、この数時間のうちにそうして市井の人々から話しかけられることにすっかり慣れていたから、その時も、進み出た女に手を握られるまでは違和感に気がつかなかった。

まるきり市民と同じような地味な服装に身を包んでいたが、その長身の女の手は、労働階級にはあり得ない、指先まで手入れの行き届いたきれいな手だった。

「…………え、」

「ご結婚おめでとうございます」

「! っ……、」

――妃殿下。と声に出しかけて、とっさに口をつぐむ。

臣下の婚礼には顔を出さない慣習なんじゃなかったんですか。

……だからお忍びなのか。

またそんな格好をして、怒られますよ。

相変わらず悔しいくらいに身軽な人。

ニーナは不意打ちに本当にびっくりしてしまって、驚きで声が詰まった代わりに目からぽろりと涙がこぼれた。

昨夜は耐えられたはずの涙だったが、本当は今日ずっと、泣くのを我慢していたのかもしれなかった。

「あらあら。お泣きにならないでくださいな。幸せな日に花嫁が泣くなんて」

「…………嬉し涙ですわ」

適当に強がりながら目元を擦れば、妃殿下はいつも通りの少し困った笑顔でニーナを見おろしていた。けれどその目はいつもよりも優しかった。

「どうかこれから、あなたの人生にたくさんの成功がありますように。平和と祝福を」

「平和と祝福を」

妃殿下の周囲に立つ、おそらく彼女が何者か知らないのだろう民衆も同じ言葉を復唱した。ニーナは知らない。きっと、南部では使われる定型的な寿ぎの言葉。

――あなたこそ。

本当は、こういうドレスを着て太陽の下で笑っているのがきっと何より似合う人。

何事もなければ、南部でずっと彼女の先祖たちがそうしてきたように、自由の中にあって、幸せになっていたであろう人。

そういう彼女が、今では庶民に身をやつさなければ外も満足に出歩けない。

あの冷たい王宮で、頂に立つ一族の妃に相応しい顔で生きていかなければならないのに、それでも人の幸せを願ってそんなふうにきれいに笑える彼女は、強くて美しい。

「……あなたにも」

彼女が歴史を変えていく。

この国の抜本的な転換に、きっとこれから幾度も起こり得る未曽有の国難に、しっかりと地に足を付けて立ち向かっていく。彼女の夫と寄り添い合って。

「あなたに、どうか神のご加護がありますように」

歴史の当事者たる王妃は、今日もその覚悟を事もなく身にまといながら、穏やかな笑顔で笑っていた。