軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【26】一歩

その男は、ベルタに対しては今まで向けたことのなかった親しみのある笑みを浮かべて立っていた。

「妃殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」

「お会いできて光栄よ。ヒメノ伯爵」

外朝に設けられた応接のための一室で、ベルタはかの伯爵と顔を合わせていた。

ヒメノ伯爵。

現地ペトラ人の成り上がり貴族ではあるが、彼の柔らかな物腰は既に貴族然としたものだ。

伯爵と顔を合わせるのは無論初めてではないが、同じ場に出席していても、今まで彼とベルタはほとんど私的な会話を交わすことはなかった。

実際今日も、ハロルド経由で話が通っていなければ、こうした場は実現しなかっただろう。

「長くご挨拶も叶わず、申し訳ございませんでした」

伯爵は北方新興貴族の中心人物の一人だし、件の派閥はベルタとはいまだ微妙な距離感にある。

「あなたの立場は陛下から聞き及んでいるわ」

そのヒメノ伯爵が、非公式ながらハロルドの腹心に近い存在の貴族だということを、ベルタはついこの間まで知らなかった。

ハロルドが表向きの権力構造だけではなく、外朝の裏から網の目を張るように有用な人物を引き上げているということは薄々察し始めていたが、その網が実務官レベルではなく貴族にまで及んでいるという実態はあまり知られていない。

ベルタは彼の器用さに、素直な驚き半分、呆れ半分といったところだ。

(陛下はほんと、手先が細やかだこと)

人々は彼を、優柔不断な王、派閥間で揺れるどっちつかずの王と評しさえする。しかし、そう陰口を言う者たちでさえ、実際のところ彼のやりようを認めたくないだけだ。

王には王らしく、専制的で絶対の存在であってほしいと考える層は一定数存在する。高潔すぎる振る舞いは時に、世俗からは理解されない。

(……つくづく損な性分の人)

王の何をもって名君とするのかは、後の時代の人が決めることだ。同じ世代を生きるベルタが知ったことではない。

少なくともハロルドのそうした方針の恩恵によって、彼女は今日こうして、表向きは対立軸にある派閥の伯爵と隔意なく面会することができている。

「我が不肖の娘が妃殿下のお手を煩わせていること、誠に遺憾の極みでございます。本来ならばもっと早くに、謝罪にうかがわせていただくべきにございましたが」

ヒメノ伯爵にとっては、今日まで娘の無礼を棚に上げ、額面通りの対応をベルタに貫いてきたことは色々と不本意なようだった。

「苦しゅうないわ。可愛らしいお嬢さんね」

ベルタは微妙な笑みで応酬した。娘――ニーナの件になると伯爵は弱いようだ。

ヒメノ家は先代から仕官して少しずつ地位を上げ、前王時代に伯爵位を授かった気鋭の新興貴族だ。その一門に隙はないように見える。

そんな彼にとっては、あの娘を出し続けているのは相当に気を揉むことに違いない。

「あなたが陛下と地位よりも近しいのなら、ニーナを早くにペトラ人女官として出仕させたのも陛下のご意向あってのことでしょう」

「左様にございます。……当時の王妃殿下のなさりようが色々と華やかで、新興派閥も黙してはいられませんでした。勢力均衡のためにも後宮内に増員を図る必要が生じました」

ベルタが来る何年か前の話だ。

平たく言うと、当時マルグリットが陛下に次々愛人を差し出してハレムを作り上げてしまった。

寝所での力関係が外朝にまで波及しないよう、新興派閥もせっせと娘たちを出仕させ、後宮という、女しか入れない陣取り合戦の駒とした。

「ニーナはそのあたりの事情をさほど理解していないようだけど」

ニーナの当時の年齢や本人の資質を考えれば、実際に跡継ぎを儲けるような役目を期待されたというよりは、ヒメノ伯爵家からも娘を差し出したという事実が重要だったのだろう。

「私の不徳の致すところにございます。娘は、事情を理解させて出仕させるには幼すぎました。結果として、娘がこれまで側室としての栄耀栄華に興味を向けなかったのを良いことに、長年後宮に放置したままになってしまいました」

個人的な話をすれば、それがもし自分の妹たちなどであれば、ベルタはきっといたたまれなかった。

彼女の不幸は見えにくい。

何か明確な困難を背負わされたわけでも、目に見えた苦境に耐えてきたわけでもない。ただ期待もされず放置された挙句、そこにあるだけの役目すら果たせず問題を引き起こす、困った娘として扱われる。

「伯爵。……あなたから見て、ニーナはどんな娘なのかしら。つまり、何が好きだとか、何が得意だとか」

ただ、さすがに呆れるほど素直で子供っぽい。本当の彼女がどんな人で、この先どんなふうに変わっていく余地があるのか、ベルタにはまだわからない。

最近思わぬ素直さを見せるようになってきたニーナのことが、ベルタは個人的には嫌いではなかったが、とはいえとうに二十歳も超えた彼女にいつまでもあの幼さを許しておけるかという点はまた別の問題だった。

伯爵はベルタの質問に、浮かない顔をした。予想していなかったことを聞かれたような反応だった。

「娘を出仕させてからのここ五年、恥ずかしながら娘のことをあまり把握しておりませんでした。……先日まで、聞き分けの良い大人しい娘とばかり」

「伯爵が父としてニーナに接していた、十五歳までの印象は?」

ニーナ本人と話していても感じることだが、彼ら父娘のありようは新興でありながら、もはや「貴族」としてのそれなのかもしれない。

「そう、でございますね。頭の良い、利発な子でした。他の子供たちと遊ぶより、一人で本を読んだり刺繍をするのが好きな子でした」

ニーナは今も実際、できない子というわけではない。

しかし彼女の回転の速さは今のところ、人生を諦観することと、仕事の手を抜くことにしか使われていない。

人が好い伯爵は、ベルタの質問に対して必死に娘のことを思い出してくれた。

「動物や小さな子にも不思議と好かれる子で」

動物はさておき、そういえばニーナをルイに関わらせたことはなかったなと思い当たる。

「そう。子供が好きなら、今度ルイの遊び相手にもなってもらおうかしら」

これまでは余所者の新興女官として若干の距離があったニーナだが、カシャの縁者に嫁がせるのならば彼女は今後、ベルタにとっても身内ということになる。

先般、相手選びをハロルドに任されてからというもの、ベルタはひとまずニーナのことを知ろうとしていた。伯爵との面会も、その一環ということでもあった。

「……妃殿下のような懐の深いお方にお仕えする機会を得ましたことが、娘にとって何より幸いにございました」

突然ベルタを持ち上げた伯爵に首を傾げるが、彼は当然といった様子で続けた。

「あの子が……こともあろうに陛下の御前で、当家が南部との婚姻の下命をいただいている最中というのに、突然金切り声を上げて叫び出した時は生きた心地もしませんでしたが」

……それは知らない。

「ニーナはその場で陛下に何か直談判したの?」

「いえ、ただ。今更後宮を追い出されたくないというようなことを捲し立て、私がなんとか陛下の御前から引きずって退出した有様でございました」

なんだかんだハロルドは相当驚いたのだろうなと思う。彼のニーナに対する評価の低さも、その時のヒステリーに由来しているのかもしれない。

「まして、妃殿下に大変な粗相を致したと聞き及んだ時は、私はもう官位を息子に譲り、あの馬鹿娘を連れて田舎に下がるしかないものかと思い詰めました」

ニーナが着飾ってベルタに何やら懇願しに来た時の話だろう。

なるほど、あの時のニーナから感じた強い焦燥の理由は把握した。彼女は、よりにもよって南部の辺境に下賜されたくなくて焦っていたのだ。

恐縮しきりの伯爵を前にしていても、ベルタは思い出すと少し面白くなってしまう。

しかしまあ、笑いごとではないのだ。

結局本人がそこまでの忌避感を示した、南部との政略結婚の駒となる将来はなんら変わっていない。

「まあ、その頃に比べれば、ニーナも少しは落ち着いて大人しくなっているということね。ニーナをうまく使いこなせるかどうかは、私の采配次第というところ」

ベルタが話の方向を、多少は建設的な方向に振ったことに気がついて、伯爵は深く頷いた。

「私からもお願い申し上げます。是非とも娘をよろしく導いてやってくださいませ」

「伯爵。あなたは、ニーナにどんな将来をお望みかしら」

ニーナに関してもそうだが、ベルタは今日、目の前のこの伯爵のことも知っておきたかった。

ヒメノ伯。彼はいずれ、ハロルドの統治の重臣となる。

「――彼女がカシャの中枢で権勢を誇ること? それとも嫁いだ先の家で、幸せになること?」

どう答えてほしいというものでもない。ただ彼の人となりを知るための自由解答を待った。

伯爵は特段表情を変えることもなく、温厚な笑みを浮かべたままベルタの顔を見た。

彼はそれまで慇懃に「王妃」に対する態度を取っていたので、目が合うのは初めてだった。

「私が娘に望むのは、あの子が陛下と妃殿下、お二人の治世のためにお役に立つことでございます」

二人の治世、という言い方を彼はした。

「ニーナをお役に立ててください。娘との結婚は、カシャ一族が南部から進出する、また一つ新たな足掛かりとなりましょう。どうか妃殿下がそのご采配によって、今後動かれやすい人脈を築かれますように」

伯爵の言葉は予想外だった。いや、予想外というよりは、予想以上というものかもしれない。

彼女がそうしたいように、彼もまた政治家としてのベルタを図ろうとしているのだ。

「それがゆくゆくは陛下の御為、いずれ国家の利益となり得ることを、私はあの子の父として願っております」

なるほど一筋縄ではいかないようだ。

それにしても、表向きは一応敵対派閥に立っている王妃に対して、彼の期待値が存外に高いことが気にかかる。

「……王妃としては未熟な女を、伯爵は随分買ってくださるようね」

自省から出た発言だったが、伯爵はそれを聞いて、からりと雰囲気を変えていかにも含蓄のある笑みを見せた。

「いやはや、先が楽しみにもなります。妃殿下が立たれてからというもの、特にここ最近の王宮は一気に若返ったような心地が致しますな」

もちろんヒメノ伯爵は、先のメサーロ視察にも帯同していたし、ベルタがハロルドと夫婦喧嘩の醜態を晒した一部始終も把握されている。

「何より妃殿下の隣に並ばれている陛下が良うございます。長年お仕えして参りましたが、初めて目にするようなお顔ばかり。メサーロでの視察の一件も、」

伯爵はすまし通すのを止めて普通に笑い出した。

「っいやあ、陛下もお若い! それにしても、遷都の件では誰より先に妃殿下が爆発なさいましたので。……おかげで現地諸侯が不満を噴出させている暇もありませんでした。むしろお見事な連携にございましたよ」

(……これは一生言われるやつだわ)

「あれは事故よ」

「そうでしょうとも、ああした飛び道具はそう何度も使えるものではありませんな」

夫婦喧嘩も、その翌日明らかに泣き腫らした顔で人前に立たなければならなかったことも、前夜と打って変わってハロルドがベルタに甘くなったことも。

何があったか概ね察されているし、公的な人間としてお粗末な部分をからかい交じりに目こぼしされている。

「お二人を見ていると、これまで止まっていた王宮の時計が動き出したようにも感じます。先日のルイ王子の一件に関しても、王宮内に元気で賑やかな騒動が尽きないというのは新鮮です」

たぶん、今後長く関わる重臣たちに、後々まで酒の席でからかわれるような話題を提供してしまった代わり、遷都案の初手の目処は立ったということだろう。

代償のほうがあまりにも大きいが。

精一杯すましてごまかすか、もう全面的に取り繕わずに受け流すか迷っているうちに、伯爵に先に助け舟を出されてしまった。

「あいや、失礼いたしました。そろそろ陛下とお約束の刻限にございましょう。長々とお引止めしてしまい申し訳ございません」

確かにこの後、ベルタはハロルドに呼ばれていた。

「構わないわ。陛下も執務の合間で良いとおっしゃっていたし」

とはいえそろそろ潮時だ。ベルタは席を立つ前に、一呼吸置いて切り替えようと努めた。

「ヒメノ伯爵、今日はお会いできて良かったわ」

「こちらこそご面談が叶い、何よりにございました。我らが妃殿下と、今後の長きに渡り陛下の御世をお支えしていくのだと、展望が開けたような心地がいたします」

この会談も種類としては密談の部類に入るのだろう。外朝を出歩けば、まだ北部派閥と南部派閥はいがみ合っている。

その意味では双方に、この密談を成功裏に終わらせようという認識の一致があった。

「陛下のご意向に沿うためにも、我々ペトラ人は手を取り合っていくべきにございます」

「ええ、共に。アウスタリアの同一の先祖に恥じぬ道を歩みましょう」

北部ペトラ人に関して、ベルタはこれまで個人的に何か明確な印象を持つのを避けてきた。

王妃たる女が、単なる好悪の情に引きずられるのはまずいという認識があったからだった。

けれど実際に会って安心した。

彼らと共に政治的な役目を演じていくのは、そう悪くはないだろう。