軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【41】かつての

ハロルドはその冬、約二年ぶりにかつての妻――マルグリットに会いに行っていた。

「久しぶりね」

その人は今、旧王都ダラゴのそばの小さな離宮で、静かな暮らしの中にあった。

たまには会いに行く、と言って別れながらも、ハロルドが彼女と顔を合わせるのは、実際にはあの北の離宮で別れて以来初めてのことだった。

「ああ」

彼女と必要以上に会うことは、もう互いのためにならないとわかり切っていた。

ハロルドが未来を向くためにも、彼女がこの先、穏やかに暮らしていくためにも。

「元気そうで良かったわ」

「……君も」

最後に別れた日の記憶と寸分たがわぬ姿で、彼女はこの小さな離宮の女主人として佇み、優雅な所作でハロルドを出迎えた。

この二年――定期的に信用できる家臣を使わして、手厚く監視の目を置いてきた。

寂れた立地にある寒々しい離宮で、警護と監視の双方を兼ねた兵士たちと、わずかな供回りの侍女に囲まれて。

マルグリットはあの日以来、時折ハロルドやかつて親交のあった貴族たちに手紙を送るほかは、特に外界と関わりを持たず静かに過ごしていた。

ハロルドはふと、通されたマルグリットの私室の、窓際の壁に造り付けられた文机に視線を向けた。

特に来訪を知らせずに来たから、ほんの先程まで彼女は書き物でもしていたようだった。机の上には筆記具が広げ置かれている。

「このインク壺、まだ持っていたのか」

気になったのは小さなインク壺だった。陶磁器と金属の装飾で作られたそれは、確か彼女と結婚した頃に、ハロルドが彼女に贈ったものだ。

マルグリットは彼の視線の先を追って、ああ、と気がついたように微笑んだ。

「私はずっとそれを使っているわ」

……彼女と共に王宮で暮らしていた頃でさえ、ハロルドはそういうことに気がつきはしなかった。

「聖書のね、写本をしていたの。インクはとても高価なのに、水で薄めたものではなくて贅沢に使わせてくれてありがとう。おかげで私の写本は、近くの修道院でとても評判が良いらしいのよ」

彼女を幽閉した当初から、彼女の祖国ロートラントは声高に抗議を叫ぶばかりで、これまで一度としてマルグリットに経済的な援助の申し入れをしてこなかった。

結果的に、彼女の生活を今支えているのはハロルドだった。

「そのくらいは気にしなくていい」

政治の舞台から遠のかせたとはいえ、彼女を経済的に困窮させることはハロルドの本意ではなかった。

つかず離れずの距離を保ちながらも、定期的に彼女の周囲の人間に報告を上げさせ、書き物のインクや消耗品の幾つかくらいは節約せずに使うよう、時には細々としたことまで言付けることもあった。

もともとハロルドが彼女のためにしてやれることは、そう多くはなかった。

今日、久々に会いに来たのも、なにも感傷に浸るためではなかった。

「――先日の、君からの手紙を読んだ」

ハロルドは、室内に置かれた簡素な木組みの椅子に腰を降ろした。

布張りの椅子は綿入りで、座り心地は案外悪くはなかったが、重心を踏みかえて足を組んだだけで椅子はミシリと軋んだ音を立てた。

「俺の意見は、先に使者にも伝えさせた通りだ」

マルグリットはその場に立ったまま、変わらず穏やかな微笑をハロルドに向けていた。

先日、彼女から届いたのは、ある一つの申し条についての長い長い手紙だった。

その内容は、侍女たちと共に出家を願い出、修道院に入ることを望む、という趣旨のものだった。

「なんでも君の希望に沿うようにしよう。――ここアウスタリアの、新たな国教会の修道院に身を寄せる限りにおいては」

使者や手紙を介したやり取りだけで終わらせられる問題でもないとわかっていたから、ハロルドは重い腰を上げ、こうして彼女に会いにやって来ている。

「私に改宗しろというの?」

マルグリットはプロスペロ教の主派の根強いロートラントの出身だ。彼女自身も敬虔なプロスペロ教徒だった。

マルグリットは先般、そのプロスペロ教皇から発布された婚姻無効の証文によって、正式にこの国の王妃という地位を追われることになった。

「そうだ」

そういう裏切りにあってさえその胸中は揺らがず、彼女がその引き際として修道院を寄る辺に頼るというのも、考えてみれば皮肉な話だ。

「改宗したら、何が変わるの?」

ただ、今現在の国策の状況を鑑みるに、マルグリットを古いプロスペロ主派の修道院に入れる許可は出せなかった。

「体裁が違うだけだ。信仰は何も変わらない」

アウスタリア独自の教義などはさほど重要なものではないし、実際プロスペロ教皇にアウスタリアの国教会自体を「異端」と位置付けられないように調整しつつ、手を回してハロルドは新たな国教会の教義の確立を図っている。

けれどマルグリットは、まるで楽しいことでも聞いたかのようにおかしそうに笑った。

「体裁なんて。神の前では愚かなことよ。くだらないわ」

ハロルドはそれに、努めて静かな口調で答えた。

「そうだ。神の前では何も変わらない。だがそのくだらないことの一つで、現世の理を守ることはできる。……マルグリット、君をこの先も、安全に守ることができる」

二年前に別れた当時と今とでは、周囲を取り巻く環境も二人の力関係も、何もかもが異なってしまった。

マルグリットは実質的に、ハロルドの決定を受け入れるしかない立場にあったし、本人もおそらくそれを承知している。

マルグリットとの婚姻無効をハロルドに証文で告げた教皇は、しかしマルグリットの身柄を彼女の祖国へ返還することを求めなかった。

彼女の祖国ロートラントは、彼女を見捨てた。

あの国が政治的な利用価値を失った王妹を、むしろ邪険にしているだろうことは明らかだった。

某国内にも色々と事情があるのだろうが、九歳で祖国を離れたマルグリットに肩入れする陣営は少なく、政治情勢の安定しない国内に彼女の安寧の場所はないのかもしれない。

「マルグリット。君が選んでほしい」

この国で出家して修道院に入りたいと言い出したマルグリットは、そうした祖国の雰囲気を理解しているだろう。

彼女は元王妃としての体面を保つことは愚か、日々の生活を守ることでさえ、今やハロルドの善意に頼らなければならないような状況にあった。

「君が納得する道を」

彼女と対等な立場では話せなくなったせいで、ハロルドはマルグリットに殊更に優しく接しなければならなくなった。

かつての妻、そして憐れな従妹姫を、必要以上に悲愴な境遇に置くことを彼は望んでいなかった。

――しかし一方で、譲歩はあり得なかった。

それはハロルドの強硬な姿勢を示すものでもあったし、彼が初めから、できうる限りの手を打って彼女との妥協点を定めたことの証左でもあった。

「あなたは、私が改宗して出家したら嬉しい?」

ハロルドは答えなかった。

マルグリットが今選ぶことができる道は二つ。このままこの離宮で暮らし続けるか、国教会に改宗し、国教会の新たな修道院に入るかだ。

マルグリットはわずかに首を傾げながら、ゆっくりと瞬いた。

「修道女になったら、何を祈るべきかしら。別に、現世に望みも未練も、もうないのに」

彼女の声音はずっと穏やかで、忙しない王宮で暮らすハロルドにとっては、この離宮に流れる時間自体がひどく鈍重で緩やかなものに感じられた。

「そういう人間こそが神に仕えるべきなんだろう。俺のような欲深い人間ではなく」

「あら。あなたはそんなに欲深い人間になってしまったの?」

マルグリットがあまりにも以前のままと何も変わらないから、ハロルドは一瞬ここがまるで、以前彼女と長く暮らした旧都の王城の一室ではないかと錯覚するほどだった。

「ハロルド。あなたは何を望んでいるの?」

だから彼は、特に気負いもなく答えた。

これまで誰にも言わなかった。

言えなかった本音だった。

「――俺はできるだけ、長く生きて、この国を見続けたいんだ」

そして、言ってからハロルドは、どうしようもなくて苦笑した。どうしても自嘲的な気持ちを抑え切れなかった。

マルグリットはまたおかしそうに笑っている。

「大それた願いね。そう長くはないわよ」

恐ろしいことを言う。ハロルドと同じ顔で。

彼女自身、呪いのつもりもないように。

「ねえ、私もあなたも。……私の母は、今の私と同じ歳の頃にはもう死んでいたわ。あなたは健康な人々と関わって、すっかり忘れてしまっているのかもしれないけれど。私たちにどういう血が流れているか、本当はわかっているでしょう?」

彼女にもハロルドにも、おそらく今まさに直接的な健康不安があるわけではない。

しかし薄命の一族に生まれついたという意識は、彼らにその可能性を自覚させるには充分だった。

「毎年寒くなると、体の節々が痛むでしょう。年々それはひどくなって、そのうち朝も起き上がれない日が増えるわ。あなたは特に、風邪を引くと息も苦しくなって、長引いてしまうから。体を鍛えて、大人になってからは随分丈夫になったけれど、でもそれも幾つまでもつかしら。もう体力で補えるほど、私もあなたも、若くはないのよ」

一緒に曾孫の顔を見ましょうね、なんて。

十歳年上の夫に、ベルタはなんの疑問もなくそう言える。

そういう未来を当然のように見ている彼女は、それがハロルドにとってとんだ夢物語であるとは、きっと考えもしないのだろう。

『長い目で見れば』――。そんな言葉で、ハロルドの治世がこの先も長く続くと楽観視できるのは、ベルタの強さでもあり、健康な一族で生まれ育った人間の残酷さでもあった。

マルグリットならばきっと、ハロルドを今更そんな言葉で縛り付けようとはしない。

次代を担う王太子のために、今できることをできるだけやり切らなければならない。それでたとえ、彼自身は独善的な暗愚と揶揄されて、泥を被ることになったとしても。

――どうせそう、長くは続かない。

「それでも、俺は欲深い人間なんだ」

それが自分にとって、どれだけ大それた願いであるかを理解している。

それでもハロルドは、信じてくれる人と共に行きたいのだった。

「少しでも長く」

優しさと強さで彼を縛り付け、どれだけ自分の存在がハロルドを救ったかなんて、きっと到底理解しない人。

この先もずっと、ベルタが疑いもなく信じる道の先を、ハロルドもできるだけ長く見ていたかった。

「それが夢なんだ」

マルグリットは最後に一つ、驚いた顔をした。

「夢なんて。……あなたがそんなことを言うのは、不思議ね」

彼女も彼女で、もう既にハロルドとの間に流れる時間が、完全に隔たってしまっていることを感じたのかもしれなかった。

マルグリットは今の質素な生活に馴染んでも、その美しさはいっそ恐ろしいほどに衰えというものを知らなかった。

清貧の暮らしの中、静謐な色をたたえて佇んでいても、彼女はきっと今すぐにでも宮廷社会に返り咲けるほど美しい。

けれど彼女の時間はもう、閉じているのかもしれなかった。

「あなたのことが少しだけ羨ましくなったわ。良い出会いがあって良かったわね。私はそういうものにはもう、出会いたくもないけれど」

言い条のわりに、マルグリットの祝福は真摯だった。

これから彼女の人生に起こるあらゆる出来事が、彼女にとってはもう遠くの事象でしかないのかもしれない。

彼女はそもそも、自分に残された時間を信じてもいない。

「ねえ、ハロルド」

マルグリットは、それまで決して詰めようとしなかったハロルドとの距離を一気に数歩分も詰めた。

歌うような軽やかな動作でハロルドの手を取ると、彼を椅子から立ち上がらせる。

触れた指先からは温かい体温を感じたが、少し荒れた手は乾いて、それがふと急に今の彼女の生活を思わせた。

「ねえ。神に仕える女になる前に、最後にもう一度だけ。……なんて言ったら、あなたは笑う?」

彼女の答えはどうやら最初から決まっていたようだ。

この離宮を出て、ハロルドが許すアウスタリアの国教会に身を寄せる。そうして神に仕える女になることは、きっと彼女に残された人生の時間に、有意義な救いを与える。

「愛しているわ」

彼女の声が、かつて耳慣れていた優しい言葉を紡いだ。

ハロルドが今日この離宮に訪れた理由は、彼女の進退にまつわる選択について決着をつけるためだった。

その決着がついて胸を撫でおろす一方で、ハロルドは今の状況で、自分がどう振る舞うことが最も穏当なのかを考えた。

「――……愛していたわ。ハロルド」

もし、ハロルドがそうしても、ベルタはきっと怒らないだろうと思った。

ベルタが嫉妬とは無縁の女だと高を括っているわけでも、彼女が傷つかないと思っているわけでもない。

ただ、誰に何を言われるからと安易な言い訳に逃げられない状況の中で、ハロルドは胸に縋るマルグリットの体を、やがてゆっくりと抱き寄せた。

久しぶりのキスは、身長差も、緩く抱きしめた体の感触も、不気味なほどしっくりと馴染んだ。

けれどハロルドが明確な意図をもって腕に力を込めた瞬間、マルグリットは彼の腕の中で驚いたように大きく身じろいだ。

「――、!」

ビク、と身を震わせた彼女は、距離を取ろうとハロルドの胸を押した。その拍子、近くにあった椅子に足が当たった。

椅子と床が擦れる耳障りな音が立つ。

「…………」

我に返ってみれば、マルグリットは少しも本気ではなかったのかもしれなかった。

あるいは彼女は、ハロルドが絶対に乗らないと思っていたのかもしれなかった。

「……優しいのね。あなたは」

ハロルドは最後に目を合わせて近くで彼女の顔を覗き込んで、それから数歩後ずさり、その体から手を離した。

「最後まで不誠実な男ですまない」

マルグリットがハロルドに期待していた態度が、彼女の言葉に応じないというものだったのだとしたら、きっと彼女を失望させた。

「ありがとう。もう、充分よ」

とはいえ潮時だ。

もうこれ以上彼女と話すことはないし、今後、手紙のやり取りはあるとしても、修道院へ入る彼女とは今まで以上に直接会う機会もないだろう。

今生の別れというわけでもないだろうが、もしそうなってもおかしくはない。

そういう状況に、この期に及んで後ろ髪を引かれ、ハロルドは別れの言葉を探した。

マルグリットはそんな彼を導くように優しく微笑むと、敬虔な信者のように胸の前でそっと手を組んだ。

「あなたの行く末に、どうかたくさんの祝福がありますように」

彼女の言葉は、いつまでも優しく耳に残った。

「――あなたの望みが、全て、そのようでありますように」