軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

337. 場合によっては惨事になります(本編)

「……………と言うことは、君が居なければ収まる話だということだ」

ひっそりとそう呟いたディノに、ネアは機能停止しかけた頭を脳内でこづいて思考の再稼働を図った。

一瞬、お断りするにせよそうですかと頷いてしまいそうだったが、色々と経緯に無理がある。

「待って下さい。その条件に私が符合したということであれ、私はそもそもあなたとはほぼご縁のない赤の他人に等しい身です。どうしてそのようなことになってしまったのですか?」

そう尋ねたネアに、ニケ王子はどこか困ったような優しい微笑みを浮かべた。

多くの人達はその微笑みで彼を慈悲深い主人だと思うのだろうが、ネアにはどこか空虚な仮面のように思える。

この人は自分を装うことに慣れているのだなと思えば、警戒せねばなるまい。

「その前のようなことがあってはいけないと、周到に条件付けをした。中身が入れ替わる危険性も踏まえ、指名した者との会話や関わりを魔術に織り込んだのだが、当人が殺されたことで敷かれた魔術が彷徨ったようだ。その結果、準じてその条件を満たす君に向かった」

「………………ダリル、この人間はいらないのではないかい?」

「…………………そうだねぇ。この国やウィームにとって有用な要素は幾らでもあるのは確かだよ。とは言え、そのどれも、万象の魔物を怒らせても手にしていたいものではないねぇ」

ディノの言葉はもういっそ冷やかな程だが、ニケ王子は相変わらず動揺する気配はなかった。

その眼差しが平坦であるのは明白だが、同時にどこか、複雑な心の動きが時折瞳に過ぎる。

そんな瞳の奥をじっと覗き込めば、ネアは彼が酷く疲れているような気がした。

こんな人を見たことがある気がする。

でもそれはもう遠い記憶で、その人に向けた思いは咲ききった花弁が土に還り、この世界でまた違う花が咲いている。

「アイザック、君は、私がそうであれば仕方ないと、彼の話を快く受け入れるべきだと思うのかい?」

「……………いいえ、我が君。そうではないと言えばそれはそれで、この場を設けたのも不敬ではありましょう。しかしながら、御身であればこの繋ぎを切り絶つことも可能ではないでしょうか?」

「さてどうだろう。可能であることと、不愉快さは別のものだからね」

瞬きすらせずにすっと視線を逸らし、ディノは、困惑が抜けきらずに固まったままのネアの方を向く。

ふっと眼差しを緩めると、大丈夫だよと低く呟いてネアの頬を指の背で撫でてくれた。

そんな様子を見てから、ダリルがやれやれと溜め息を吐く。

またそこでひとつ、ネアは違和感に気付いた。

婚前祓いの呪いは、かなり容赦のない残忍なものだ。

それなのに、ディノもダリルも、不思議と焦ってはいないような気がする。

となるとやはり、対応策というものは存在しているのだろう。

「…………こんな会談を設定した以上、呪いを回避する為の手段は持って来たんだろうね?」

「勿論と言いたいが、今回は持てる手札を呪いのすり替えに使い果たしたばかりだ。俺としても、世界の崩壊の一端を担うのはまっぴらだが、とは言え、友と良き王になり共に互いの国を歪なく繋ごうと約束を交わしている。その約束を諦めてはなるものかと奮起して、無礼さを承知の上であなた方を招き、事情を話したのだ」

「ほお、じゃああんたは、打つ手がなければ殺されても構わないんだね?」

ダリルの問いかけに、ニケは躊躇うことなく頷いた。

「だから、一人で来たのだ。ヴェンツェルに仲介を頼むこともせず、極秘裏にウィームに入ったのも証跡を残す訳にはいかないからだ」

「そりゃまた随分と、諦めのいいことだね」

「……………俺には俺の願いがあり、義務や約束や欲求がある。とは言えその中で、本来は自分自身とは関わりのないところで、絶対的に避けたいことが一つだけあった。万象を損ない世界の崩壊を招くのだけはどうしても避けたい」

「世界を守りたいなんざ、がらじゃないだろう」

呆れたようにそう肩を竦めたダリルに、ディノが短く息を吐いた。

今度のものは溜め息というよりは軽く、ネアは、やはりある程度は折り込み済みの会話なのだろうかと耳を澄ませる。

そんな時のことだった。

「……………それは、かつて君の魂を持つ者が、先代の万象の伴侶だったからかい?」

その問いかけの直後に落ちた沈黙の深さは、ネア自身も、息が止まりそうな程の重苦しさだった。

ずしりと空気が体にのしかかる。

それはさながら、形を成したような感覚だ。

(……………いま、何て…………?)

呆然と目を瞠り、ネアはまじまじと目の前のニケ王子の姿を凝視してしまう。

視線の先のニケも、青い瞳を割れんばかりに見開いて、先程までの作り物の表情を剥落させたまっさらな驚きの表情を浮かべていた。

はたりと、膝の上で組んでいたニケの手が落ちる。

ぎくりとしたように組み直し、けれどもその一幕は、ありありと彼の動揺を晒した。

「…………………グレアム様が、あなたに言いましたか」

「おや、彼も知っていたのだね。だが、彼から聞いたのではないよ。寧ろ、万象である私が、前の世界からの欠け残りの魂を持つ君に、どうして気付かなかったと思っていたのだろう?」

言われてみればその通りであると、ネアはすとんと腑に落ちた。

ディノは、何もなくなった前の世界の崩壊の後に派生した魔物だという。

そして、多くの人達が泰然と、或いは無関心に過ごしていると思っているこの魔物は、とても広く深く世界を眺めているのだ。

であれば、残されたものを見つけ出すことくらいのことは、容易かったに違いない。

「…………………っ、……………では、……………俺が俺である前から、あなたはここに前の世界の欠け残りの魂があると知っていたのか……………」

「この世界の最初の人間達の群れの中に、君はいた。私に名前を残した先代の万象の名を呼び狂死した男を、私が訝しく思うのは当然だろう。始まりの頃の世界は変わらず広かったが、人間達の数は決して多くはなかったからね」

「しかし、…………人ならざる者達が既に多く派生していた筈です。その中で………」

「人間が生まれると、すぐに見に行ったんだ。体を持たずに崩壊より残った精霊達から、私の先代は人間を伴侶にしたと聞いていた。それがどのようなものか、興味が湧いたんだよ」

震える指先を唇に当て、ニケは忘れていた呼吸を取り戻すように深い深い息を吐いた。

先程まで平坦に整えられていた眼差しは忙しなく動き、途中でそんなことに気付き恥じたものか、目を閉じてまた深く息を吐くと、ぴたりと動揺を鎮めた。

それはもう見事なほどの手際で仮面を被り直し真っ直ぐに顔を持ち上げたニケを見て、ネアは、目の前の人の記憶のどこかに大事な魔物が母親のようなものだと口にした先代の万象の魔物の面影があるのだろうかと、ついついじっと見つめてしまう。

(この人の、…………前歴の誰かが、万象の魔物の伴侶だった………………?)

そんなものを背負い、欠け残りの記憶を有するのならば、この人の生きた日々はどれほどの長さなのか。

世界の長さをそんな方法で知らなければならなかったことを恐ろしいと思ったネアの前で、ニケは何とか誂え直した冷静さで困り果てたような微笑みを浮かべてみせる。

その巧みさに感心し、ネアは得心した。

この人はきっと、生まれながらの王なのだ。

それが幸福であるかどうかは別として、確かに彼は、王族としての仮面をかけるだけの胆力と才能に恵まれている。

(もしかしたら、人間の王様はそう在らなければならないのかしら…………)

魔物のように、他の人ならざる生き物達のように、人間は生まれながらにして司るものはない。

祝福や血筋などの差異はあれ、環境や才能の違いはあれ、この世界で人間ほどに何者でもないことを体現できる生き物はいないだろう。

だからこそ、王や王族であることを演じきれる者のその技量だけが、彼らを王や王族たらしめる唯一の術であるのかもしれない。

「これは参った。…………であれば、俺があなたに差し出せるものは本当になくなりました。命以外のものであなたに今回の非礼を詫びるに足りるには、自分ではない遠い誰かの記憶とは言え、その欠け残りの中のものくらいだと考えていたのですが、全てご存知でしたか…………」

「そうだね。君の記憶は、知っているよ」

「………………知っていると仰るということは、あなたは、俺の前の誰かを覗き込んだことがあるのですね」

「一度、その魂を持つ誰かが、私を見に来たことがあるだろう?覗き込みに来た者が、自分は覗き込まれていないと信じていたのも、不思議な話だね」

「……………………あの男の代の時でしたか」

力なく項垂れ、淡く苦笑したニケに、ディノの隣で今は言葉を控え様々なことを思案しているダリルの姿。

アイザックは静かに控えて会談の成り行きを見守っているようだが、この驚くべき事態にこちらも動揺する様子はないので、予めニケがどういう人物であるのかは知っていたに違いない。

(ノアが以前に教えてくれたのは、ニケ王子の魂の欠け残り方が、エルトと同じような形だということ)

人間は特に魂に記憶の刻印が残り易く、欠け残りの記憶を持つということは、高位の人外者達の目からみれば珍しくはないらしい。

魔術を身に持たずに取り込むことに馴染んだ人間という生き物は、内側に様々なものを記録するという行為に長けているし、強烈な記憶の剥落や風化を待つまでもないくらいに、あっという間に死んでしまう。

だからこそ死者達は、死者の国で魂がまっさらになるまで待つのだ。

(だとしても、とても稀有な歩みを持つ人なのは確か。おまけにこの人の記憶の残り方は、前歴だけではなくて、何世代にも渡っての人生が記録されているみたい……………)

何層もの印刷が薄っすらと残った本の頁のようなその魂で、その先代の万象との思い出は一際鮮やかだったりするのだろうか。

それとも、随分昔に観た映画のようにおぼろげなものなのだろうか。

(他にも、そんな風に前の世界のことを覚えている人はいるのかしら…………)

考えれば考える程不思議なことで、例えば砂の預言者の存在を思えば、案外、過去と現在は思わぬところで繋がり、こうして足跡を残しているのかもしれない。

そんな事までを思考のテーブルに乗せれば、婚前祓いの呪いについて考える余裕がなくなりそうだ。

脳内を整理せねばならないとあわあわしていたネアに、事態は無情にも更なる追い討ちをかけてきた。

「私は、君がどういう来歴の者かを知っている。だからこそ私は得るべき者を得たのだと、それを理由に君の魂が在ることを見逃そうとも思っていたのだけれど、残念ながら君は、その橋を自ら崩してしまったようだね?」

その不思議な問いかけに、ぐっと、息を飲み込み損ねて強張ったような鈍い音がした。

ニケの体がぐらりと傾いだようにも見えたが、それよりも顕著なのは彼の表情だ。

(あ、また仮面が落ちた…………)

仮面を剥ぎ落とされ、片手で口元を押さえたニケの顔は今度こそ真っ青だ。

虚ろに見開かれたままの青い瞳は、どこか不吉な空洞のように見える。

そんなニケの様子を眺め、ディノはゆっくりと唇の端を持ち上げた。

嬉しそうでもなければ、愉快そうでもない。

一片のぬくもりもないその怜悧な微笑みはあまりにも凄艶で、胸が潰れそうな程に美しい。

この魔物の姿を毎日見ているネアですら、一度止まりそうになった心臓を慌てて叱咤しなければならなかった。

それは、聖書や物語の中で、君の罪を知っているよと嗤う人ならざるものの美貌だ。

憐れな人々を誘い破滅させる、魅力的で恐ろしいものの微笑みだった。

「ふむ。これだけ基盤が揺らぐとなると、やはり拒絶の間にして正解でしたね………………」

そう呟くアイザックに、ネアはディノの足元の床石がぱきぱきと音を立てて鉱石の花を咲かせているのに気付いた。

いつの間にか長椅子に張られた天鵞絨の織り模様の花が咲き、瑞々しく蔓バラの葉を茂らせて芳しい香りを漂わせている。

真珠色の髪は内側から月光を透かしたかのようで、水紺色の瞳は白銀色の虹彩が際立ち燃えるような鮮やかで暗い光を湛えていた。

それはとても美しい光景だったけれど、ネアは胸が苦しくなる。

あわいで倒れたまま目を閉じたウィリアムを包んだあの花々や、エドワードとの会話でぴしりとひび割れたディノの足元の石畳。

近頃の大事な魔物は、そんな風に心を揺らしてばかりではないか。

思わずそんな魔物の腕に触れたくなり、腕を持ち上げたネアは、視線を肌に感じて顔を上げた。

なぜかニケが、動揺したようにネアの方を見ているのだ。

それは、ネアに助けを求めるというようなものではなく、追い詰められ何かを探るような奇妙な眼差しであったが、ディノが微かに首を傾げると、はっとしたように外された。

「………………俺はもう別の者だと言いたいところですが、あなた方の考えではそうではないのを知っている。であればやはりもう、…………考えうる中でも最悪の状況として、俺には打つべき手はなさそうですね」

ニケのその言葉に、ネアはまた少し考えた。

恐らく、ディノと彼の前歴のどこかには深い因縁めいたものがあるに違いない。

「本当に君はそう思っているのかな。どのような因果であれ、君は白樺のその質を得た。君は人間でそれはただの魔術的な要素であれ、手に入れたものはやがてその血肉になることは、理解しているかい?」

「それは、……………どういう…………」

「望む望まないにかかわらず、君はその魂や肉体、或いは思考のどこかに魔物の一端を宿すのだろう。白樺は決して従順な魔物ではなかったし、善良とも言えない。勝者である君が侵食されるようなことはないだろうけれど、手に入れた力や叡智は魔物の領分だ。であれば君はどこかで、魔物の知識で考え、魔物の力を使えることを知る。そんな君が、私の伴侶にその身に繋がる呪いで触れるのであれば、私にとっては許し難いことだ」

何かを言おうとして唇を動かし、ニケは項垂れた。

彼がどれだけ優れた魔術師であろうとも、如何せん、この場で聞かされたばかりの話が多過ぎる。

(……………でもこれは、ディノに不快さを飲み込んで貰うことさえ出来れば、収まるという話なのだろうか…………)

相変わらず、ニケ王子とディノの間で交わされる言葉には、全く読み込めない部分もある。

とは言えおおよその会話の流れを読む限りは、元々この魔物には、ニケを不愉快に感じている要素が幾許か存在していたのだろう。

だからこそ今回のことで、コップの縁から水が溢れてしまった。

(そうなると、こちらに降りかかった婚前祓いのことを、その前から知っていたりもしたのかしら?ここに来てから、妙に伴侶という言葉が聞こえてくるような気もするし…………)

そう考えかけて、ネアはふっと意識の空白を経た。

そもそも、疑問を持つべき部分がもっと上流にあるような気がしたのだ。

(そう言えば、…………蝕の時にディノから貰った暫定伴侶のものって……………回収していたのだろうか?)

何だか回収された記憶がないのだが、ネアも寝込んでいたりと忙しなかったので、意識が朦朧としている間に済んでしまった可能性もある。

んぐぐっと首を傾げたネアに、ディノが、心配そうにふっと目を瞠った。

その僅かな緩みを見逃さず、ダリルが声をかける。

「……………ディノ、ちょっといいかい?」

「ダリル……………?」

「アイザック、少しディノと話したいから、音の壁を立てるよ。ニケ、あんたは婚前祓いを回避出来る方法が、その魔物の知恵とやらの中にないのかもう一度考えておきな。どうせ魔物の知識を使うなら、その対価に相応しいだけの力を使いこなしてみせるんだね」

ふっと、視界が色を変えた。

何かで遮られているような感じでもないのだが、目で見ても境目が分らないくらいに素晴らしく透明な硝子の壁が張り巡らされたように、一層の確かな魔術に囲まれているような気配がする。

ダリルは深層の令嬢のように口元を片手で覆うと、鮮やかな青い瞳をすっと細めた。

「ディノ、私も知らない因縁が色々とあるようだけど、ニケ王子と何があって、何が不愉快なのかはさておきだね、厄介な男だが今後のヴェルクレアのことを考えるのなら、あの男を王座に就けるのが一番だよ。勿論他の王子達が王座に座ると途端に戦乱が起こるとまでは言わないけれど、一番いい歯車で、軋む音もせずによく回るのはあの王子だけだ。……………勿論、魔物にはそれでもっていう一線はあるんだろうけどね。私の意見を言わせて貰うなら、それは、ゆくゆくはネアちゃんにとっての身の安全にもかかってくるとは思わないかい?」

「君は、私にこの非礼は許すべきだと言うんだね?」

そう尋ねたディノの声は静かだったが、ネアは、どこか面白がるような穏やかさにはっとする。

先程までの不快感を綺麗に拭い去り、ディノは、どこか困ったような淡い諦観を口調に滲ませていた。

「ディノは、…………もしかすると、最初からそうするつもりだったのではありませんか?」

だからこそそう尋ねたネアに、魔物は宝石のような水紺の澄明な瞳を揺らす。

「…………うん。そうせざるを得ないのだろうね。どうであれ、彼が関わる者達は君にとって決して無関係ではない。私が持つ不快感もまた、恐らくは決して棘の実には育たないものだろう。それに、彼の来歴が不愉快であれば、いざとなればその部分だけを削ぎ落としてしまえばいいのだからね」

「……………何やら不穏な言葉が出てきて少し心配ですが、………ディノ、あの方は私とて何の感慨もない方ですが、エーダリア様にとっては恩のある方のようです。それにカルウィは何だか怖い国で、私達にとって大切なシェダーさんがそこにいるのであれば、どうか事態が荒ぶらない方がいいと思うのです……………」

そう言ったネアに、こちらを見た魔物が頷いた。

唇を読まれて会話の内容が漏れるとまずいのかなと思い、ネアも口元を片手で隠して話している。

「…………………いいよ。君がそう望むなら」

なぜその言葉を、この魔物は悲しげに言うのだろう。

「そして、一つ気になったのですが、蝕の時の暫定伴侶の運用はまだ残されたままなのではないでしょうか?」

ネアが婚前祓いの打開策にならないだろうかと考えてそう言えば、魔物は不自然に視線を逸らした。

「……………む」

「…………ご主人様」

ここで魔物を叱ろうかなとも思ったのだが、この部屋での会話の流れを踏まえれば、ディノが何らかの不快感を抑え込んで、妥協をしてくれようとしているのは明白なのだ。

であればそんな魔物は大事にするしかないので、不信感いっぱいの眼差しをしてしまったものの、ネアは表情を和らげた。

「もしかして、まだ何か危ういようなことがあるかもしれないと考えて、残しておいてくれたのですか?であれば、その運用が今回の呪いをどうにかしてくれないでしょうか?」

「……………………うん」

「どうにかするも何も、その暫定措置がある以上、既婚者に婚前祓いは効かない筈だけどねぇ……………」

「……………なぬ。………………と言うことはさては、ディノは最初からこの呪いが私には効かないことを知っていましたね?」

「……………………呪いそのものが問題ないということは知っていたよ。そもそも、呪いが君に紐付いたのなら、その侵食には猶予などない。こうしてウィームを訪れているとはいえ、あの人間もまた、何らかの理由で呪いが君に届いていないことは知っている筈だ」

それは、思いがけない告白であった。

じゃああの深刻そうなやり取りは何なのだと考えかけ、ネアは、これが最初から会談という名目の時間であったことを思い出す。

つまりここは、ニケ王子とウィーム、加えてはネアの婚約者であり契約の魔物であるディノの、駆け引きや交渉の場なのである。

「……………もしかして、だからディノもダリルさんも、すぐに呪いをどうにかしなければとならなかったのでしょうか?私はてっきり、発動までに時間の猶予があるものだと思っていました…………」

「勿論だよ。呪いが動き始めているんだったら、あれこれ議論なんかしている場合じゃない。ネアちゃんに紐付く契約がある相手っていうなら、まずはディノ、そしてアルテアに何か異変があった筈だしね。まぁ、階位の低い呪いに損なわれることはないとしても、呪いの接触は感じた筈だ」

婚前祓いの呪いとは、人間が組み上げた呪いの術式である。

今回は、その呪いを使った姫君が、アクス製の特殊な妖精の呪いでニケの花嫁候補に成り代わっていたというおまけがあっても、それ自体は魔術の回路を繋ぎ変える為のものでしかなく、ネアの周囲を損なう魔術とは別物だ。

となると危ぶむべきは所詮、カルウィで独自に編み上げられた人間の魔術程度でしかないのだ。

その魔術が生まれた土地で生を得たニケにとっては大きな力を及ぼすが、ウィームに住むネア達や魔物達にとってはさしたる脅威ではない。

そう説明されたネアだったが、最も驚いた部分は別のところであった。

「…………………その呪いは、私が皆さんに襲い掛かるのではなく、勝手に、該当してしまう方に影響が出る筈だったのですか?」

呆然とそう呟き首を傾げたネアに、ディノとダリルは顔を見合わせた。

「ネア…………もしかして君は、呪いを成就させるのに、花嫁が自らの家族や友人達を殺すと思っていたのかい?」

「…………………ふぁい。なので、私が暴れたところで、可動域六ぽっちに誰も滅ぼせないだろうとすっかり安心していたのですが…………」

「っていうかその前提なら、ネアちゃんには充分に殺せるからね。きりんを忘れたのかい?」

「は!………………そうでした。絵やぬいぐるみを取り上げられても、私の脳内にきりんさんは永遠に共にあり、いついかなる時もこの世界に降臨させられたのでしたね…………」

「…………………ご主人様……………」

そうなるともうネア自身が生ける兵器といっても過言ではなく、ディノは震える声で懇願するようにご主人様の名前を呼んだ。

そうそう殺戮には走るまいと、ネアはそんな魔物に凛々しく頷きかけてやる。

(つまり………………)

ニケ王子がこのようにウィームを訪れたのは、防げたとはいえ、繋がってしまったことを見逃される筈もない呪いの証跡を辿り、魔物達が自分を見つけ出す前に自分で謝罪をしに来たのだろうという事だった。

それは、決して大仰なことではない。

婚前祓いの呪いを受けたネアの周囲には、魔物の王や最高位に近しい魔物達がいる。

これは、人ならざる者達の怒りを買った人間による、その鎮めの儀式でもあるのだ。

双方既に防がれていることには言及せず、あえて防げないかもしれないという前提を会話の中に残した上で謝罪をするのが、ニケ王子なりの誠意だったようだ。

事件をもう終わったこととして語られることで、その被害の補償を免れるという回避魔術がある。

白い髪の王子はその逃げ道も自分で塞いでみせ、誠実にその対価を支払うという姿勢を示したのだ。

(防げたのだからいいだろうと言うのではなく、防げたことを知らない体で相談して謝罪することで、ニケ王子はより深い謝意を見せたのだわ……………)

この辺りの交渉のお作法はネアには分らないが、この場にいる男達は皆、ネアなどには想像もつかないような言葉裏の交渉をしていたようだ。

「さて、であれば方針は決まったね。何かをあの王子に要求するなら今だってことだ」

「何をどう交渉するのかは君に任せるよ。君ならば、私が望む事や望まないことを分っているだろう」

「信用されているようで嬉しいよ。………………とは言え、あっちも仮にも大国の王位継承者だ。毟り取ってやるにせよ、こっちも裏をかかれないように用心しないとだね」

そう呟きにやりと笑ったダリルに、ネアは先程のディノとニケ王子の会話は、二人だけの会話であるのと同時に、ディノが自分しか把握していないような幾つかの情報をダリルに共有した場面であったとも気付いた。

その場で話せばニケ王子の反応も知れる。

ダリルが何も口を挟まずに二人の会話を聞いていたのは、どんな些細な情報を見逃さないように集中していたからに違いない。

(それにしても、その呪いが繋がるような条件が揃ったって、どんな条件指定をしてしまったのかしら……………)

ネアはふと、そんなことが気になった。

音の壁の魔術が取り払われれば、外ではしたたかな男達が、説得の末和解の方向に向かうのだという体で、また秘めやかな会話を行き交わせる。

ニケ王子はあらためてディノとダリルに謝罪し、ここからは今回の事件の保障についての話になってゆくようだ。

そんな光景を、ネアはじっと見ていた。

(……………人間は嘘つきだわ。強欲で我が儘で、とても残忍な生き物だ)

今日のこの席では老獪さや酷薄さを見せたディノとは言え、この魔物は最初から、ニケを許すしかないことは理解していたのだろう。

であれば、もしそうなるに違いないという見立ての下でここを訪れたのであれば、ニケ王子はかなりの曲者に違いない。

(むぐぐ………………)

とは言えここでネアが、何だか釈然としないと声を上げたところで、そんなことぐらいここに居る者達はお見通しであるし、何とか着地しそうな議論を無駄に混乱させてしまうだけかもしれない。

だから口を閉ざそうと思うネアもまた、したたかな人間の一人なのだろう。

「…………このくらいでいいかね。まだ足りない部分はこの場では決定が難しい」

「…………既に充分過ぎる損失だが。噂に違わぬ悪辣で鮮やかな手腕だな」

「そうかい?この程度で済んだのであれば、あんたは私の爪先に口づけをしてもいいくらいだよ」

「成る程、ヴェンツェルがウィームを珠のように守るのはこの刃を曇らせない為か」

「さぁ、どうだろうね」

ダリルの表情を見れば、ヴェンツェルがウィームに向ける思いは、有用性のある領地としての支配欲ではなく、心を許せる弟の治める土地という一点に尽きるのだと分かっているのだろう。

しかしそれはヴェンツェルの弱味でもあるから、ダリルは有りの侭に言葉にはしない。

幾つかの誓約と書類を交わし、誰かが、かたりとカップを置いた。

今回交わされた書類はアクス商会が魔術的な公文書として管理保管をし、齟齬や魔術の破綻がないかもそれぞれの国の固有魔術に照らし合わせて最終確認をしてくれる。

ネアは、最後の挨拶を終えて立ち上がったニケ王子を見て、影の国でネア達のテーブルを訪れた時の彼の様子を思い出した。

(この人は、自分の身を危うくしても、自分の欲しいものを諦めない人でもあるのだわ…………)

はらりと揺れた黒い豪奢な織り模様の長衣に、重ねた布地の美しさ。

白を有する髪は鈍く光り、しゃらりと漆黒の耳飾りが揺れる。

(この人は今日、ここで何を得て帰るのだろうか…………)

確かにディノとの会話では酷く動揺していたが、今はもう、その横顔にはしたたかな微笑みと有能な為政者らしい煌めきがある。

ふっと、そんなニケ王子がこちらを向いた。

ネアはその青い瞳を見上げ、小さく首を傾げる。

誠実そうな眼差しではあるものの、先程まであった疲弊の翳りのようなものは消えていた。

「すまない、不快な思いをさせてしまった。幸運なことに、婚前祓いの呪いは君に悪影響を及ばさないで済むそうだ。だからと言って俺の不手際は許されるものではないが、ひとまず安心してくれればと思う」

ざあっと記憶の向こうで雨音が聞こえる。

その時に向かい合った人の眼差しを思い出し、ネアはすんと息を吐いた。

その時に見上げた人は、ネアの大事な家族を憎んではいなかった。

人を傷つけることが好きで堪らなかった訳でもないし、かといって偶然でもなかった。

その人が身を置いた環境が、彼を武器として動かし、結果としてネアの家族を殺したのだ。

「……………あなたが得たものが何であれ、あなたにも、ご自身では動かしようのない様々なご事情や枷があるのでしょう。でももし、その爪をまた私の大切なものにかけたのなら、短絡的で残忍な私は、必ずあなたを滅ぼしにゆきます」

見上げた先で青い瞳が揺れた。

ああ、あの時と同じだと思い、ネアはその瞳の色を見上げる。

「…………他の誰かの刃で果てるよりは、君の持つナイフの方が安らかに死ねそうだな」

苦笑してそう呟いたニケに、ネアは微笑んだ。

「あなたはきっと、難しい立場にある方なのでしょう。けれども、自らの身を餌に繋がれた命綱は、こちらからすれば迷惑でしかありません」

「それではまるで、俺がわざと君に呪いを繋いだかのような言い方だな」

「あら、そう聞こえてしまいましたか?混線しない為の条件指定で、なぜだかご指定の方に繋いだ筈の呪いが私に繋がってしまっただけなのですものね」

そう言ってまた微笑んでみせたネアに、ニケは目を瞠ってから小さく笑った。

「これは手厳しい。………確かに、支払うべき保障がある以上、俺はウィームにとっても有用なカルウィの王族にはなるだろう。とは言え、赦されず殺されてしまう可能性もあったのだ。そこまでの危険を冒すには、俺は背負うものが多過ぎる」

「さてどうでしょう?ディノの言うように、あなたの中に魔物の欠片があるのならば、あなたは魔物という生き物の守り方を知っていたのかもしれませんね。この通り、ディノは優しい魔物ですから。……………ただし、ディノは私の大事な魔物なので、あなたには差し上げられません。確かにとても綺麗ですし、あなたにとっては他の誰かの記憶の切れ端とは言え、その姿や心を思ってしまい少しの深まる想いもあるのかもしれませんが、他を当たって下さい」

「…………………ん?」

「……………ネアちゃん?」

ダリルは当初、ほほうという表情でにやりと笑ってこちらのやり取りを見守っていたのだが、会話の雲行きが怪しいと思ったのか、そろりと声をかけてくる。

なのでネアは、隣で静かにしていたディノの三つ編みをさっと掴んで盗られないようにしておき、ふんすと胸を張った。

「ディノと話している時に、この方は何度か複雑な目で私を見たのです。場合によってはヴェンツェル様に相談して、この恋は諦めるように説得して貰った方がいいでしょうか?」

「ネアが虐待する……………」

「でも、おかしな執着を持たれてはいけませんので、妙な含みを持たせてきた以上、しっかりと戒めておかなければなりませんからね。…………念の為に聞きますが、ディノもニケ王子を気に入っていたりは…………」

「……………こんな人間はいらない」

念の為に聞いたのだが、魔物はぺそりと項垂れてしまい、羽織りものになってしまうとめそめそし始めた。

ニケも呆然としていたが、やがて楽しそうに自分の方を見ているダリルとアイザックに気付いたのか、はっと息を飲む。

「…………我が身の潔白を晴らす為に言わせて貰うが、俺は魔物の王に懸想してはいないぞ」

「では無意識でしょうか?これを機に自覚症状が出たり…………」

「……………しないな」

「でも、己の身を削ってでもこうしてちょっかいをかけてきてしまうのですよね?私は性別を超えた愛にも理解はありますが、…………もしや、ディノではなくてダリルさんの方ですか?!」

「……………は?!」

「悪いけれど、あんたは趣味じゃない。諦めるんだね」

「なぜ俺が…………!」

思わず声を荒げかけてしまい、ニケははっとしたように口元を片手で押さえた。

「アイザック、この人間を早く返すといい」

このままご主人様に疑われていたくはないと、じっとりとした眼差しになった羽織りものの魔物がそう言えば、くすりと微笑んだ欲望の魔物が優雅に一礼する。

「では、ニケ様、お帰りのご案内をいたしましょう。必要書類は後日お送りいたします」

ニケ自身もこのままここにいるとろくでもない疑いをかけられると思ったのか、よろよろとしながら扉を出て行った。

簡素な別れで、呆気ない解散だった。

その後ろ姿が見えなくなったところで、ダリルが小さく笑う。

ネア達は部屋に残され、テーブルの上にはいつの間にか紅茶のお代わりと小さな焼き菓子が並んでいる。

帰りの案内が来るまでの時間は、今少しここでゆったり過ごせそうだ。

「ネアちゃん、あれはわざとだろう?」

そう尋ねたダリルに、ネアは微笑んで頷いた。

羽織りものの魔物が、そろりと顔を上げてこちらを見る。

「ええ。………私は、あのような方を、かつてよく知っていました。その人はその身に敷かれた運命の手で押し出され、私の家族を破滅させる怪物になった人でした」

「……………ネア」

困ったような呼びかけに、ネアは回されたディノの腕をぎゅっと掴む。

「だから私は、いつかの誰かに似たあの方が、私の大切なものに意図的に手をかけたのが許し難い。かつてのようにむざむざと奪われるのがとても嫌で、あの方がこちらに不必要に近付けないように悪趣味な威嚇をしたのです。…………ごめんなさい、ダリルさん。交渉の後とは言え、余計な会話を持ってしまいました」

そう謝ったネアに、ダリルはとてもいい笑顔でからりと笑った。

「いんや上出来、上出来。ディノの伴侶になるネアちゃんだからこそ、強引に被せられた濡れ衣だからね。案外ああいう取っ掛かりはね、政治的な交渉でも優位に進めやすい材料になるんだよ」

「……………ネアが虐待する」

「む、…………ごめんなさい、ディノ。生贄にしてしまいましたが、これでもうニケ王子は、気軽にディノには会いに来られませんからね?」

その言葉に目を瞠り、真珠色の髪の魔物は目を瞬いた。

「…………君は、彼から私を守ろうとしたのかい?」

「時に人間は、魔物さん達よりも強欲で愚かで、…………だからこそ厄介なものなんですよ。さっきだって、ディノは長椅子の織り柄が咲いてしまうくらいに心を揺らしていたでしょう?私は、それがとても悲しかったのです」

「彼のような人間を、………君は好まないのかな?」

「…………なぜその疑いを持ったのかがよく分かりませんが、寧ろあのような捻くれた方はあんまり…………」

「そうなんだね…………!」

「ものすごく驚いたように言うということは、私の言動にディノが不安になってしまうようなところがあったのでしょうか?あの方には、個人的に好むような要素はないので、どうか安心して下さいね?」

「うん……………」

そう宣言して頷いてやったネアに、ディノはふわりと艶やかに微笑んだ。

それはまるで大輪の花がほころぶような艶やかさで、不思議な安堵に満ちた瞳は、初めて見るくらいにきらきらと輝いていたのだった。