軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

325. あわいの街を侮っていました(本編)

「わぁ、夜の市場も賑やかですね!」

ネアがそう言って目を輝かせると、隣に立った金髪の女性は呆れた顔をした。

「弟子、浮かれて迷子になったりしないでよ」

「むむぅ。迷子になる年齢ではないのです。………そして、綺麗な女性の方とお出かけすると何だか楽しいですね」

「あら、やっぱりそう?!」

現在、グレーティアは妖精の肢体を基本形にした華奢な金髪に湖のような澄んだ青い瞳の女性の姿に擬態していた。

実は、元の月闇の竜の資質が強過ぎて、転属にも時間のかかっていたグレーティアは、女性への擬態が成功したことがなかったのだそうだ。

しかしこのあわいの特性が貢献し、物語で絶大な力を誇るウェルバの代理妖精となると、その手による擬態が初めて成功したのである。

これは、役が固定されてしまったからか、どうしても擬態が出来ないネアの代わりに、せめてグレーティアは目立たないように出来ないものかとウェルバが試行錯誤してくれたから出来たことだ。

安全上の措置とは言え、初めて女性の体を得たグレーティアは先程から輝くような微笑みを浮かべている。

細い腰や、華奢な手足が嬉しくてならないのだ。

ネアも、綺麗なお姉さんとのお出かけにどうしても胸が弾んでしまう。

一時的な奇跡だと理解はしていても、お互いの幸福の為に、暫くはこのままでいて欲しいくらいであった。

(グレーティアさんは、男性の服装をしているととっても素敵なおじさま風だけど、このしっとりと年齢を重ねた感じが堪らなく魅力的な女性姿は嬉しいなぁ…………)

決して若い女性の姿ではない。

だからこそ滲み出る色香や知性は女王めいていて、ついつい同性でも見惚れてしまうくらいである。

勿論、街中で目立たないようにフード付きのケープを着てはいるが、その美貌を覗き込めるネアは眼福であった。

(お母さんという雰囲気が吹き飛んでしまうような美人さんだけど、何だか身内みたいな誇らしさで、こんな風に一緒に歩けるとうきうきする…………)

どれだけ同性に飢えていたのかをあらためて思い知らされ、ネアは繋いで貰った手をぎゅっと握った。

「…………弟子、可愛いわね」

「はい。今の師匠には何だか甘えたくなります」

「やだ、これってもしかして母性…………?」

「そう言えば、師匠は奥様がいらっしゃったのですよね?…………ちょっと失礼な質問になってしまいますが、好きになる方は女性の方なのですか?」

「そうねぇ。私の一族は女しかいないの。だから、女に生まれたかったという欲求から女性の姿に憧れはあるけれど、心は普通に男なのよね。それに、うちの奥さんは強くて綺麗だったのよ。縄や鞭を持たせたら世界一だったわね」

「…………女王様的な…………」

「あらやだ、シーはシーだけど、女王ではなかったわよ。末端の王族の一人だったの。でも、梱包妖精の王女達からもお姉様と呼ばれて慕われていたわ。男勝りで女性に優しくてね、王と王妃からも彼女は王子達より王子らしいとよく褒められていたわ」

「…………お、お友達になりたかったです!お姉様と呼ばれる王子様系の女性だなんて、とびきり素敵な方だと確信しました!」

「ふふ。本当に、とびきり素敵な奥さんだったわ。…………自分の妹の子供達を守って死んだのだけど、こんなことなら月闇の竜のままであなたを守れば良かったと泣いた私に、伴侶になれたことを悔やまないでくれと言ってくれたわ。………生きてきて最良の時間だったって。だから私はね、梱包妖精になれて幸せだと思っているわ」

ふんわり微笑めば、薔薇色の唇が鮮やかだ。

ネアは、悲しい過去を持つグレーティアが、ウェルバやその伴侶に出会えたことに胸が熱くなった。

彼にその幸福を与えてくれたのは、悲劇の夜に命を落とした勇敢な少女なのである。

(………そっか、だからグレーティアさんは、あんなに大好きなお義父さんがここにいても、ウェルバさんと一緒にここで暮らすとは言わないのだわ)

ウェルバをここから解放出来ないとなれば考えるかもしれないが、それを一番に持ってこないのは、グレーティアには梱包妖精として生きることに誇りがあるからなのだろう。

(いいな。…………この二人には、幸せでいて欲しい。その、リンジンとかいう魔術師めが、この二人を傷付けませんように……)

ネアはあの後、カードからディノにその魔術師について尋ねてみた。

すると、ディノは知らなかったものの、戻ってきたノアが知っていて、遭遇した場合は出来るだけ会話をしないようにと言われた。

“生粋の壊れた部類の魔術師だね。自分が好きで他者を見下していて、残忍で享楽的。クライメルに似てるって言っても伝わらないから、………そうそう、ネアが僕宛の手紙の呪いで会った方の白夜みたいな感じだよ。確か、黒髪に緑の瞳のやたら背の高い男だったけど、姿は変えてるかもだからなぁ……”

その人物像は、ウェルバやグレーティアから教えられたリンジン像とも一致するので、魔物からの目で見てもそうなるのであればと、ネアは用心しなければ気を引き締める。

ノアは、ディノに食事もさせてくれたようだ。

ネアが作り置きしておいたスープと、特製のおやつパンケーキを出されてしまい、ディノは食べざるを得なかったらしい。

やはり、あまり食べたり休んだりすることに積極的ではないようで、ネアが、今日は三日月の日だから大丈夫だと話せば少しほっとしたようだ。

“けれども、巡礼者達は物語の外側の者だ。物語上、君を損なう事が出来ない代わりに、物語の外側の要素から働きかけることが出来る。くれぐれも用心するんだよ”

頼りになるノアが側にいてくれるからか、ディノが少し落ち着いたようなので、ネアはそれも嬉しかった。

こちらとの時間を比較して判明したのだが、時間の流れは、このあわいの方が早いらしい。

それも、読み物から派生した物語のあわいの特徴なのだろう。

“ムガルについては、今回のことが落ち着いたら私が話をしておくよ。彼は階位にあまり頓着しないからね、このカードから私の言葉を読ませたり、君が私の言葉を伝言するくらいでは行動をあらためはしないだろう”

“うーん、もしまた邪魔になったら、きりん箱でいいかなぁ………”

ムガルの行いについては、荒ぶって首を掴まれたとしか報告していないものの、魔物達は一概に冷ややかだ。

とは言え、遠隔で何かを命じても聞き分けるような魔物ではなく、だからこそ、統括の魔物ながらに仕事を放り出して何年も引き篭もっていたらしい。

“もし、手に負えないようであれば、エルダーシャを壊してしまうよと伝えておくといい”

“わーお、シルの目が笑ってないや…………”

“エルダーシャさん…………”

“ムガルが想いを寄せる魔物だ。確か、ガーウィンの枢機卿の一人の契約の魔物だったかな…………。それでムガルは、ヴェルクレアの統括になりたがったのだからね”

“………なんと言うか、その方にとってはひどい巻き込まれ事故になるのでは……………”

“かもしれないが、私にも優先順位がある。君を誰かと天秤にはかけられないからね”

そんなやり取りをすれば、こちらも魔物なのだと実感する。

だがこの魔物は、ネアの悲しむ事を分かっていて、このあわいに入れるダナエを、無理矢理送り込んでしまったりはしないのだ。

“因みに、エルダーシャさんは何の魔物さんなのですか?………私のことをムガルさんに報告した巫女さんというのは、恐らくエインブレアさんだと思うのですが…………”

“エルダーシャは、ニワトコの魔物だよ。ノアベルト程ではないが、ニワトコの木の持つ資質の一端として、まじないや魔術を司る魔物の一人で、特に女性の魔術師や巫女達に庇護を与える”

“ディノ、…………その方に何かがあったら、私は、大好きなニワトコの花の飲み物が飲めなくなったりするのでしょうか?”

“ご主人様………………”

魔物はそこで、ご主人様の不穏な気配をカード越しにも感じ取ったのか、実際にニワトコの魔物を傷付けたりはしないと約束してくれた。

ネアは、何となく白髪で小柄な、上品な老人姿で想像していたニワトコの魔物だが、実際にはニワトコの大木から派生したので大柄な白髪の老女なのだとか。

想像しようとすると怖い感じになりかけたので、ネアはそちらの魔物については、あまり深掘りしないことにした。

ぷんと、いい匂いがしてきた。

何かが香ばしく焼ける匂いがして、ネアは、これは甘辛いつけダレで焼いた牛肉であるという推理の下、早急にこの品物を入手すべしという任務を発令する。

トウモロコシの焼ける香りもして、お腹がぐーっと鳴ってしまう。

「と、とうころもしと、お肉…………」

「弟子、興奮し過ぎよ。言えてないから………」

「とうこころろし………?」

「落ち着きなさい。あら、懐かしいわ。チャタプね」

「ちゃたぷ…………?」

ここでネアは、その謎料理名のものがお目当の食べ物だと知り、足踏みした。

チャタプは、ラエタの伝統的な料理なのだそうだ。

少し厚めのクレープのような小麦粉の皮を鉄板で焼き、その上に甘辛いたれを塗って串焼きにした牛肉をそぎ落としたものとマッシュポテトを盛り、網焼きにしたトウモロコシの実を素早く包丁で切り落としてたっぷり乗せる。

生地をくるくるっと巻いて食べる、味付けしっかりめでお腹に溜まる美味しいご馳走だ。

「し、師匠、私はあのチャタプ様を食べます!」

「………何で様付けなのよ。………ほら、味付けが二種類あるわよ。あっちの店には、辛いソースにアヒルの燻製肉のものもあるから」

「…………なんという罠でしょう。苦境に立たされました」

「罠なのね………………」

「これはもう、食べなかった方を後々まで思い出して悔やむという未来が目に見えていますので、賢い人間はどちらも食べますね」

「え?!かなり大きいわよ?」

「ふむ。あのくらいなら、近くのお店で売っている謎の甘い香りのお菓子もいけます」

「……………その胃袋、あの魔物といい勝負だわ」

そこで二人は、魔術の不思議な火の燃える松明が並ぶ、夜市場の屋台の周りに並んだテーブル席を取った。

ここでささっと美味しいものを食べて、宿屋に戻れば任務完了だろう。

何か、決定的な怖いことが起きてしまいそうな不安に胸が苦しくなるようなこのあわいの中で、少しだけ安心して楽しめる時間を貰えてネアは嬉しかった。

チャタプを買ったネア達が椅子に座ると、すぐに大きな水晶のピッチャーを持った売り子が飲み物を売りに来る。

グレーティアが二種類購入してくれて、好きな方を飲んでいいと言われたネアは首を傾げた。

「師匠、この飲み物は何でしょう?」

「西瓜のジュースと、野苺のジュースよ。なぜか飲み物と言えばこの二つなの。この国では、他に夜に飲むのは酒だけよ。水やお茶を常に飲めるのは魔術師やまじない師だけで、普通の人達が飲めるのは昼間だけなの」

大地の祝福のある水や、薬草などを含むお茶は、仕事や家事の為に力を貰う栄養飲料扱いなのだと知り、ネアは驚いた。

後に大国になるラエタには引き継がれていなかった文化だが、このあわいには残っている。

夜に水やお茶を飲むのは、魔術師の他には病人くらいのものだという。

「不思議で、そして何だか面白いですね。…………むぐふ!…………じゅわうまです。お肉の油と濃いめの味付けに、お肉の美味しい味を吸ったマッシュポテトと、バターの風味のあるトウモロコシが堪りません…………」

初めて食べるチャタプは、とても美味しかった。

ネアはその美味しさを噛み締め、こうなるとやはり、今の所生活面で一番辛かったのは死者の国だと順位付けした。

お祭りが近いという事で、街のあちこちは夜でも賑わっている。

篝火は淡いオレンジ色をしていて、ウィームのように悪い妖精などを追い払う為の香料を投げ込んだりはしないようだ。

薪と油の燃える匂いは当たり前のもの過ぎて新鮮で、周囲には妖精や精霊などの姿はあまりない。

(普通の街で、普通の国だわ…………)

ダーダムウェルの物語は人間の物語だから、ここに住んでいるあわいの住人の殆どは人間なのだった。

人知を超えるような存在が登場すると物語の構成が狂うからであるらしく、だからこそレイラは、自分がこちらに降りる時用に透明な存在としての役割を一つ作っておいたのだという。

あの後ムガルは、レイラに嫌がらせをしたいので、このあわいの傍観者役を埋めておいてくれないかと、巡礼者達に頼まれたのだと白状した。

ラエタのことを色々と知っていただけあり、ムガルは巡礼者の一人であるリンジンという魔術師を当時から知っていたのだ。

(妖精の門でこの中に迷い込ませた誰かを、確実に怪物にする為の措置だったのではないかと、ウェルバさんは話していた………)

彼等が標的にしていたのは、公爵位の魔物ばかり。

だからこそ、このあわいには、あわいの影響を受けない傍観者役の抜け道があることを知っている可能性がある。

それを事前に潰しておくという周到さは、彼等をよく知らないネアですらひやりとするものだ。

(ウェルバさんは、流行り物の愛国心だと話していた。でもそれは、………私にはもっと重くてどろどろとした妄執のように思える)

そしてもう一つ発覚したのは、なぜかそのリンジンという魔術師が、ウェルバの真名を調べていたということだ。

ムガルはよく知らず、他の魔物達もそう呼んでいたのだから、ダーダムウェルで合っているとリンジンに教えてしまったらしい。

『私との、魂の入れ替えを試そうとしたのかもしれんな』

ウェルバは、そう考えているようだ。

巡礼者になったことで、彼等は自由意志で旅をやめて地上に戻ることは叶わない。

であればこのダーダムウェルのあわいを乗っ取り、このあわいでは絶対的な力を持つ存在となることを目論んだのではないだろうかと。

(そう考えれば、少しだけ繋がる気もする。このあわいの主になれば、かつて自分達と反目したウェルバさんの力なんて借りなくても、自分の手でこのあわいに呼び寄せた敵を滅ぼせるかもしれない…………)

巡礼は彼等に与えられた罰だ。

逃げ込んだあわいの中でそう成り果てる者もいるが、リンジンの場合は、咎人としてあわいの巡礼者であり続ける呪いをかけられているそうだ。

永劫に彷徨うことは、耐え難い苦痛なのか。

それとも、その人物にとっては愉快な探求の旅なのか。

「…………不思議ですね。この国の人達は、しっかりここに生きていて、笑ったり怒ったりしていて、ここもまた、一つの普通の国のように思えてしまいます」

二つ目のチャタプも食べ終え、ネアはナプキンで口を拭きながらそう呟いた。

「そうねぇ。かつてこんな国に住んでいた私には、もっと不思議なものに見えるわ。目を閉じて開けば、今までの日々は夢だったんじゃないかと思うくらい、いつかの夜にそっくり。…………でも、夢じゃ困るわね。大事な奥さんが夢だったら耐えられないわ」

「……………私も、そんなことを思うことがあります。目を開いて、やっと手にした大切なものが夢だったら、…………それはとても恐ろしい」

そう話したネアに柔らかく微笑んで、グレーティアはその瞳をゆらりと冷たく細めた。

「…………弟子。私はね、これっぽっちの時間を一緒に過ごしただけなのに、あなたが可愛いと思うわ。一緒にいて情が移ったのかもしれない。…………でもね、やっぱりどうあっても、私はお父様が誰よりも大切なの。…………だからもし、あなたの知る誰かがここに呼び落とされて怪物になったら、その怪物がお父様を傷付けようとしたら、……………私はその怪物からお父様を守ると思うの」

真っ直ぐにこちらを見てそう言い、グレーティアはどこか悲しげに微笑んだ。

その微笑みはとても美しくて頑強で、ネアは目を瞠ってから受け止め、ゆっくりと頷く。

「…………ええ。私でもそうするでしょう。私はお二人がとても好きですが、………やはり、私の大切な人を傷付けようとしたら立ち塞がる筈です」

「…………ごめんなさい。こんな小さな子に、辛い事を言わせたわね。………でも、その時になって裏切るのは嫌だったの。私はかつての、こんな国で暮らしていた頃のように強くはなくなった。…………だから、手に余るかもしれない全てまでを守るとは言えないわ」

その言葉を聞いて、ネアは不思議な胸の昂りを感じてこくりと頷いた。

(ああ、…………この人の線の引き方は、よく分かる)

ネア程度の知見で物事を分かった風に言うつもりはないが、やはり誰にだって限界というものはある。

それを超えてみんなを守るのだと言える事は無垢さだとは思うが、こんな風に不安定な状況で言われてしまったら、ネアの場合はかえって不安になったと思うのだ。

だから、ほっとして微笑んだ。

きっと、こんな事を話せたのは二人きりになれたからだろう。

何となくだが、ウェルバは、自分以外の多くの人達の事まで背負い込みそうなタイプに思える。

彼は、ただ任せておけと言ってしまいそうな優し過ぎる領域の人で、こちら側は、そうは言えない臆病で利己的な生き物の区画なのだ。

(でも、同じ感覚だと、………楽になる)

「実は、…………そう言って貰えてちょっぴり安心しました。もし、この先に困った事が起きても、師匠がウェルバさんを守っていてくれるのなら、ちっぽけな私が余裕がなくて私の事だけを考えてしまっても、罪悪感に押し潰されずに済みそうです」

もし、ネアの大事な魔物が我慢出来ずにこちらに来てしまったら。

もし、狙われた誰かが、あの巡礼者達の罠にかかって、ここに連れて来られてしまったら。

その時にネアは、とても残酷に冷酷に、自分の大切なものの為に線引きをつけるだろう。

選べるものを曖昧にして失うことだけは、とてもではないけれど耐えられない。

(世界中にたくさんの人達がいるのに、どうして私ばかりと、何度思っただろう………)

あの劇場の事故、病気の弟に、両親のこと。

失うばかりで一枚のカードもなくなった手のひらを見下ろし、まだ沢山のカードを持っている人達を羨んだ。

だからもう、手の中にある大切なものは一個だって誰にも渡さない。

この強欲さや身勝手さが、まるで呪いのようなものだとしても。

(だからグレーティアさんの言葉は、裏を返せば、私にもそうしてもいいんだって言ってくれたみたいだった…………)

「ふふ、…………実はね、私は狡い大人だから、あなたはそう言ってくれるだろうと思っていたのよ?」

「まぁ、計算尽くだったのですか?」

「そう。だから、あの揚げドーナツは買ってあげるわ」

「…………シロップがかかっている方ですか?」

「仕方がないわねぇ」

そう微笑み合い、さて甘い物でも買って帰るかというところであった。

「おい、喧嘩だぞ!」

「なんだ、酔っ払いか?!」

「細工師のダスタンと、研ぎ師のダイダルだ。…………おお、いいぞやっちまえ!!」

突然、近くで喧嘩が始まったのだ。

ぎょっとして立ち上がったネア達の周囲も、あっという間に騒ぎに飲み込まれてゆく。

どうやら、祭りの装飾を巡る二つの組合の代表者達の喧嘩らしく、それぞれの組合に属する住人達も連鎖的にあちこちで揉め始めたのだ。

(お、お祭り怖い……………)

ウィームの民も祝祭ではかなり荒ぶるが、この辺りは職人や農夫なども多い下町の市場なので、男達はなかなかに荒々しい。

貴族達が暮らしているのは、国のもっと高台の方なのだ。

たくさんの人が集まって押し合いへし合いが始まり、避難を始めたネア達も飲み込まれてしまう。

よりにもよって狭い路地のところにいたお陰でぎゅう詰めにされたようになり、大柄な男達の群れに押し流されたネアは、グレーティアの姿が見えなくなってしまった。

「弟子、はぐれないで!!」

「むぎゅ!ま、待ってください。誰かに足を踏まれ…………ぎゃ!」

踏まれた足が固定されているのに、上半身が人並みに流されそうになったネアは、逞しい働く男達の波に溺れそうになった。

「あんた、危ないよ!子供がいるだろうに!!」

すると、どこかのお店のおかみさんが、あっぷあっぷしているネアを救出してくれて、軽々と小脇に抱えて通りの隅っこにある井戸の横に避難させてくれた。

「あ、有難うございます………。まさかのここで死んでしまうかと思いました」

「大丈夫かい?馬鹿な男達は、熱くなると周囲が見えなくなるからね。この騒ぎが落ち着くまで、動かない方がいいよ」

「………ふぁい。連れが流されてしまいました」

「そりゃ困ったねぇ。すぐに落ち着くとは思うんだけど。……………ちょっとあんた!!松明を倒すんじゃないよ!!」

ネアを助けてくれた恰幅のいいご婦人は、喧嘩に夢中で危うく松明を倒しそうになった男達を叱りに、通りの方に出て行ってしまった。

仕事終わりでお酒も入って荒ぶる男達に、女性達も、食べ物をひっくり返すなだとか、暑苦しく殴り合うんじゃないと声を荒げて叱り飛ばす。

昼間に街に出ていた時から気付いていたが、このブンシェの人々は体が大きいので大迫力だ。

どこかのおかみさんに殴り飛ばされた男性が吹き飛ぶのが見えたり、一対一の拳の対話に入ってしまった筋骨隆々とした男性達がいる。

泣き出した子供やお皿の割れる音。

それいけそこだと、囃し立てる無責任な酔っ払いまで。

これはもう阿鼻叫喚の様相であると、このような騒ぎに慣れないネアは、井戸の横でふるふるしながら立ち尽くしていた。

「ええと、………お姉さん大丈夫?」

そんなネアに声をかけてくれたのは、近所の子供だろうか。

スケッチブックのようなものを持ち、呆れ顔で通りの方を見ている。

「…………踏まれた足を気にする余裕もないくらいの大迫力で、動けなくなりました…………」

「お祭りが近くなると、週末はこうなるんだ。煩くてかなわないよ」

「………良くあることなのですか?」

「うん、明日の夜もこうなるかなぁ………」

そんな恐ろしいことを教えてくれたのは、どこかゼノーシュを思い出させる巻き毛の髪の毛の男の子だった。

ゼノーシュと同じくらいの年恰好に見えるので人間であればまだまだ子供なのだろうが、このような下町の子供らしく、少しだけ大人びた目をしている。

(前の世界だったら、十ニとか、三歳くらいかな………)

癖のある銀髪に緑色の瞳なのだろうが、こうして夜に見る緑色の瞳は鳶色にも見える。

何だかエーダリアを思い出して、ネアはほっこりした。

大人びた目をした子供なのもまた、エーダリアを思い浮かべてしまう。

「あなたも、巻き込まれてしまったのですか?」

「…………まぁね。お姉さんは一人で来たの?」

「いえ、一緒に来た方がいるのですが、多分通りのあちら側に押し流されてしまったのだと思います。この騒ぎが収まるまで、待つしかありませんね……………」

「…………ふうん、お姉さんは貴族かな。こういうの苦手そうだもんね。何か、ひ弱そう」

「……………まぁ。そう言われてしまうと少し悔しいですが、通りも渡れなかったので反論の余地がありませんね…………」

「……………こんな感じかぁ」

「……………む?」

「ううん、貴族って細いのなぁってだけ。…………じゃあね、お姉さん。僕はもう行くから」

「つ、潰されてしまいますよ!…………ほわ、すばしっこい…………」

ネアは慌てて止めようとしたが、このような騒ぎは慣れていると言っただけあり、少年は素早く人波をすり抜けて通りの向こうに走って行ってしまった。

「ぐぬぬ……」

これはもう、ネアも少年の真似をしてやってみるか、また足がもげそうになる危険を避けるかで苦悩していると、その間にグレーティアがネアを見付けてくれた。

「弟子、ちょっと、大丈夫だった?」

「…………ふぐ、師匠でふ!もう会えないかと思いました」

「あらあら、髪の毛までくしゃくしゃになって。あなた、こういうのは慣れてないのね…………」

「ふぁい。お尻叩き祭り以来の身の危険を感じました………」

「……………え、何その祭り…………」

その後は、裏道を使って宿のある区画に向かい、揚げドーナツは断念せざるを得なかったものの、ネア達は無事にウェルバと、グレーティアの調教が効果を上げ過ぎてしまったのか、もじもじそわそわしながら部屋の隅っこに転がされているムガルのいる部屋に戻れた。

意識のない間にたくさん森のなかまのおやつを食べさせられてしまったことと、その道の大家であるグレーティアの手によるにゃわなる拘束で、ムガルは何だかとても懐いたようだ。

懐かれたグレーティアは嫌がっているが、専門的な縛り方をしてしまったのが敗因だと、ネアは思う。

とは言えいいことばかりではなく、ネアの攻撃が強過ぎたものか、ムガルは少しだけ記憶も曖昧になってしまい、証人としての価値は下がってしまった。

(…………でも、この様子ならニワトコさんをどうこうしなくても大丈夫かな)

そんな事を考えながら、窓の向こうの緑の塔と三日月を見上げる。

せめて今夜ばかりは、大事な魔物とゆっくりカードでやり取りが出来そうだ。