軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

320. あわいの種類が発覚しました(本編)

「…………塔のようなものが見えてきたわね。取り敢えず、人がいるあわいで良かったわ」

「…………ほふぅ。歩きましたねぇ」

深い森を半日近く歩いていたネア達は、ようやく森の切れ目に出たところであった。

本来なら森の散策は楽しいのだが、この森にはなぜか魔術の恩恵深い世界らしい品物はなく、そんな生き物が全くいないのだ。

それは、グレーティアも不審そうにしているおかしな点であった。

「何だか、張りぼてみたいに魔術の気配がとても薄いのよねぇ。それがこのあわいの特性なのかもしれないわね」

「魔術の気配が薄いとなると、………出来ないことも増えてしまうのですか?」

「取り敢えず、私は飛べないでしょうね。市販の転移門などのように元々魔術を籠められた道具を使わない限りは、転移も難しいかしら」

(象ったものだという羽でも、飛べるんだ…………)

それは、グレーティアが妖精に転属はしているからなのか、そのようなものをつけて貰えばネアでも飛べるのかはかなり大きな問題になってくる。

これについては、落ち着いたら誰かに教えて貰おうと、ネアはひそかに心のメモに書き込んでおいた。

そして、森歩きの間に蝕が明けたりしないかなと思っていたが、残念ながら時間軸は一定ではないらしい。

よく分からないが、あわいには、あわいが明けるまでの周期があるのだ。

「………となると、ここでは魔術を備えた道具のようなものの方が便利なのですね」

「そういうものを持っているなら、すぐに取り出せるようにしておきなさい。私は元々身体能力が高い方だけど、あなたはか弱い人間の女の子ですものね」

「はい。備えておきますね」

ここでもグレーティアは、ネアが、どんなものを持っているのかを尋ねたりはしない。

ネアが、自分に対しての備えや警戒としてその品物を使えるように一線を超えないようにしてくれているのだが、その気遣いに舌を巻く思いであるのと同時に、そこまで他人行儀でなくてもいいのにと少しだけ寂しい思いもした。

(でも、グレーティアさんは良かれと思ってそうしてくれているのだわ…………)

それはやはり、ネアがか弱い人間だからだろう。

それなのにその気遣いが寂しいと思うネアは、いつの間にかこの妖精にかなり心を許しているのかもしれない。

そう考えると少しだけひやりともしたので、自分らしくないところまで許してしまわないようにと心を戒めた。

(一応、相手は妖精さんだから………)

更に少しだけ歩くと、森の向こうの塔の全体がしっかりと見えてきた。

深緑色の水晶のような質感の煉瓦造りの独特な美しさがある塔で、屋根は砂色で陽の光をよく集めている。

遠目に見ている間は苔むした塔に見えたのだが、こうして近付いて深緑色の煉瓦を見れば、ネアは、初めてこのあわいで出会う不思議の世界の片鱗のようなものに心が緩んだ。

魔術が少ないと聞いていたが、この塔は立派に魔物や竜がいる世界のものという感じがする。

しかし、ほっとしたネアとは対照的に、なぜかグレーティアが頭を抱えた。

「…………ここが、どこのあわいだか分ったわ。ああ、……………よりにもよって、一番厄介なあわいに放り込まれただなんて」

「……………い、一番厄介なあわい」

ネアは、それは一体どんな凶悪なところなのだろうと慄く。

塔が綺麗に見えたところで気付いたようなので、あの塔は何か特別なものなのかもしれない。

最初の嘆きは女性的だったが、最後に男性らしい低い罵り言葉を呟くと、グレーティアは顔を上げた。

「ここは、本のあわい。特定の本に紐付くその本の中の世界のあわいよ」

「つまり、…………何かの作品の中に迷い込んでしまったようなことなのでしょうか?」

「魔術の規制などが強い国や土地では、物語本の中に様々な知識を散りばめた物語本の顔をした魔術書があるものよ。その多くは童話の体裁だから、強い魔術の下地に、子供達の無垢な感情などが紐付いてあわいを形成しやすいのよね………」

「しかし、そのようなところでは際立って怖い要素はないのでは?」

「考えてもみなさい。物語には起承転結があるでしょうが」

「………………か、怪物が出たり、戦争が起こったり……………」

「おまけに、その物語に敷かれた規則が、このあわいでは徹底されるわ。…………ダーダムウェルの魔術師の塔という本を読んだことは?」

「ごめんなさい、存じ上げておりません…………」

項垂れたネアに、グレーティアがその本の内容を教えてくれた。

その国の都には、ダーダムウェルの魔術師が作った緑の宝石の塔がある。

美しい塔であるし門番がいる訳ではないのだが、強い魔術に守られており誰も入れないという。

とは言え悪さをする訳でもなく国は穏やかで平和であったので、王様もその塔のことを放っておいた。

ところがある日、森から悪い魔術師が怪物を連れてやって来た。

その怪物は人間を食べてしまうので、たいそう困ったお役人が、ダーダムウェルの魔術師に怪物を倒す知恵を授けて欲しいと懇願する。

けれども、人間嫌いのダーダムウェルの魔術師は、人々が助けを求める声になかなか耳を貸さなかった。

そこでこっそり塔を訪れたのが、一人の子供だ。

その子供は古き叡智を備え、特別な魔術のケープを授けられた特別な子供であった。

子供は大きな困難に見舞われながらもその塔を登った。

実はその子供は、ダーダムウェルの魔術師をよく知っていたのだ。

よく知る小さな子供が一人で塔を登ってきたことに驚き、ダーダムウェルの魔術師はその勇気を讃えた。

大事な子供の願いを叶える為に、すぐに恐ろしい怪物を滅ぼしてもくれた。

そしてその国は、再び平和を取り戻したのである。

「………知り合いなら、なぜに大きな困難に見舞われながら塔を登ったのだ」

「ダーダムウェルの魔術師は、どうせまた王様の使いがやって来たのだと思って、自分の部屋に閉じこもっているのよね。だから、可愛がっている子供の訪問に気付かないのよ。その子供は、自分はあなたの知り合いのあの子供だと塔の下から声を上げても良かったのだけど、そうすると、役人達が自分の身を利用して魔術師が無理矢理働かされてしまう可能性もあるでしょ。だから、きちんと訪ねていってその部屋の扉を自分の手で叩いたという話ね」

「礼節を持って向かい合い、困難を乗り越えた者には恩恵があるというようなお話なのですね………」

ネアは心の狭い人間なので、人間を食べる怪物が現われたのなら、最初から知り合いの子供くらい塔の上に避難させてあげ給えと思わないでもなかったが、そこは物語である。

幼い子供が塔を登って魔術師の助けを得られるまでが、その物語の花であるのだろう。

「……………待って下さい。ということは、このあわいには、悪い怪物が出てくるのですか?」

「そういうこと」

「そんな怪物めは、私がえいっと滅ぼしておいてもいいのでしょうか?」

「それはどうかしらね。このあわいの中の規則補正が働くことで、私達はその騒ぎに介入する力や権利を失っている可能性もあるわ。それがこのあわいが厄介だと言った一番の理由。物語の中ではね、その物語の主線が決してぶれてはならないのよ」

ネアはその説明に頷き、深緑色の綺麗な塔を見上げた。

(つまり、その物語の中の結末を再現させなければならないということなのだろうか)

「しかし、あわいとして出来上がったばかりではないのなら、その怪物退治は終わっている可能性もあるのですよね?」

「それはないわね。物語本は筋を違えずに何度も読み返されるもの。ここは恐らく、その物語を繰り返しなぞるあわいじゃないかしら」

「……………その場合は我々は、怪物退治が終わるまで宿屋にでも避難しているしかありません……………」

勝てないのなら戦うリスクは冒せないので、ネアがそう呟くと、グレーティアがこつんとおでこを指先で叩いた。

おでこを押さえて顔を上げると、グレーティアは水色の瞳を鋭く細めた。

「それだけでいい筈もないでしょ。私達はここから出なきゃならないのよ。このあわいの場合、この領域での大きな力を握るのは、あの塔の上に住む魔術師ということになるわ」

「ダーダムウェルの魔術師さん…………」

つまりのところ、物語の流れを踏襲しつつ、ネア達はこのあわいにおいて“解決”の力を握るダーダムウェルの魔術師に会い、その魔術師の力を借りてここを出てゆかねばならないのだ。

「ふむ。早々にその魔術師さんをとっ掴まえ、どんな手を使ってでも働かせれば…………」

「大事なことを忘れているわ。物語本は、役柄がその力を反映するの。彼はこのあわいで最高権力を持つ物語の題名にもなっている魔術師。私達は、役名もないその他大勢」

厳めしい顔でそう告げたグレーティアに、ネアはそんな法則まで適用されてしまうのかと目を瞠った。

それはちょっとやめて欲しいとふるふると首を横に振ってみたのだが、グレーティアは重々しく頷く。

「…………その他大勢の身で、どうやって魔術師さんを脅迫すれば…………」

「力尽くなのは変わらないのね…………。この物語の道筋を追うのなら、私達は魔術師を動かすことの出来る子供を探すことが最優先ね。その子供に協力を仰ぎ、怪物退治の後にでも、私達に力を貸してくれるように頼むしかないわ」

大きな城壁に囲まれた、塔のある国が見えてきた。

現実であればこれは国というよりは、大きな街の規模なのだが、そこも物語らしく様々なものが凝縮されているのだろう。

国の中心に巨大な塔があり、森を背に、向かって左側の奥にお城も見える。

城壁があるので一瞬どきりとしたが、童話の中の平和な国らしく特別検問があるような雰囲気もない。

とは言え、この国の中にはどれだけの子供達がいるのだろう。

その中から、一人の子供を探すのは時間がかかりそうだ。

「何となくですが、そのお子さんは、自分が魔術師さんと仲良しであることを吹聴するような感じではなさそうですね………」

「奇遇ねぇ。私もそう思ってたの。………それと、苦手だけど街中では男のように振る舞うから、あなたも合わせてね」

「お名前でお呼びすればいいですか?それとも、師匠と呼んだ方が無難でしょうか?」

「確かに、名前を取られる危険は減るわね。じゃあ、私を師匠と呼びなさい。私は、弟子と呼ぶわ」

「はい、師匠」

ふわりとどこからか黒い布袋を取り出し、グレーティアはいかにも旅人風の気配を纏った。

ネアもお買い物用の麻袋などを取り出して見せてみたところ、それで良しと言って貰えたのでそのまま肩にかける。

この麻袋は先程から腕輪の獲物用金庫にひそませてあったもので、当面は首飾りの金庫はなかった風に装い、金庫魔術を添付しているのは腕輪だけだという風に運用しようと考えていた。

死者の国の事件の後から、何かが起こりそうな時には首飾りの金庫は見えないように魔術擬態させてあるのだが、そうすることを思いつけた機会であったのだと考えれば、あの時にジュリアン王子に首飾りを狙われただけの意味はあるのかもしれない。

「こんにちは、旅の方。ブンシェの国への入国理由を伺えますか?」

「こんにちは、衛兵さん。私は特殊な荷造りの職人をしているんだ。弟子を取ったので、この国の包装資材にいいものはないかと、買い付けにやって来た」

「特殊な、荷造りの職人さんですか…………」

ネアも、もの凄い肩書きにされたなと内心ふるふるしていたが、滅多にない職人に出会ってしまった衛兵たちも顔を見合わせている。

城門に囲まれたこの国への入り口には、四人の兵士が立っており、ふんわりとした入国審査的なものを行っているようだ。

とは言え、前にいた商人達の様子を見ていても、旅の目的を尋ねるくらいの簡単なものだ。

特に入国に必要な書類や、お金などは存在しないのが物語を基盤としたあわいの世界らしい。

「そうなんだ。案外、色々な形の荷物を縛り上げて荷台に乗せるのは難しいからね。それに、小さな贈りものを包装するのもなかなか繊細な作業だろう?」

「ああ、そういうお仕事でしたか!いやはや、想像力が貧困で申し訳ない」

「いやいや、こんな大男が繊細な作業をするだなんて、少し想像し難いだろうね」

そう微笑んだグレーティアは、はっと目を引くような容姿を、あえて自分で大男だと言ってしまうことと、その柔らかな口調で衛兵達の微笑みを引き出したようだ。

職種が随分と柔和なものだと分ると、兵士達はとても親身になってくれた。

(この方は、人の心象の操作がとっても上手なのだわ………)

兵士達との会話を聞きながら、ネアはそんなグレーティアの会話術に感心してしまう。

見た目の美貌で如何わしい奴めと警戒されがちだからか、グレーティアはその艶麗な容姿を逆手に取った。

騎士達からすれば軟弱にも思える職業が故に、彼等は途端にグレーティアを警戒しなくなったのだ。

「お嬢さんも、包装の職人とやらになるのかい?」

「はい。私はこの通り、ちょっと人見知りでぶっきらぼうなので、師匠のように繊細な包装技術を会得したいのです」

「はは、普通は逆に見えるんだなぁ。お嬢さんの方が不器用か!」

ネアは、交渉などの場をグレーティアに任せるべく、内向的な性格だと強調してみたのだが、おまけに不器用な弟子という肩書も勝手に追加されたようだ。

人の良さそうな兵士達は、この国の市場や商店などが立ち並ぶ区画も教えてくれる。

特に、包装と言えばそうだと思ったのか、綺麗な包装紙のある紙屋やリボンのお店を教えて貰った。

実際には師匠が素敵にラッピングするのは人体なのだと思わないでもなかったが、梱包妖精なので包装もお手のものなのかもしれない。

入国はそのまま簡単に済んでしまい、ネアは、兵士達にこの国での買い物や支払いなどは、貨幣がいいのか、物々交換がいいのか、どのようなものが喜ばれるのかを聞いているグレーティアの横顔を眺める。

けぶるような淡い金色の髪はゆるい一本結びにしてあり、濡れたような水色の瞳が鮮やかだ。

その整っているものの気取らない口調の柔らかさに、ふと、幼い頃はこんな風に父親を眺めていたなと思い出した。

(お父さんは、グレーティアさんのように、ぞくりとする美貌という雰囲気ではなかったけれど…………)

ネアの父親は学者然とした生真面目そうな容姿で、ゆったりと穏やかな優しい声で話すので、話しかけられた人達はすぐに微笑みを浮かべてくれた。

泣いている子供やちょっと取り乱し気味のご婦人を宥めるのも上手だったが、犬にはどうも見くびられてしまうのか、見知らぬ犬にはすぐに吠えられていた。

でもそんな犬達も、その手のひらでわしわし撫でられてしまうと、あっという間に蕩けてしまうのだ。

(不思議なものだわ…………)

この世界に来て、ヒルドのあたたかさと厳しさのバランスを、普遍的なイメージの母親のようだと思うことはあっても、誰かを父に似ていると思うことはなかった。

けれどもこうして見ているグレーティアの印象は、本当はドレス姿の妖精だと分かってはいても、妙に父親めいた雰囲気がある。

「いい宿まで教えて貰ったよ」

微笑んでそうこちらを見たその眼差しの色に、ネアは微笑んで頷いた。

こんな時なのに、不思議に胸の奥があたたかい。

そう思ってほわりと微笑みを返すと、なぜか宿への道中で叱られてしまった。

「気を抜かないように。ここは、物語の中のあわいだから、気を抜くとその善良さに心を蕩かされてしまうよ」

「むぐ。師匠の口調の不思議な優しさもいけないのです。今の雰囲気でお話しされていると、謎に全てを委ねたくなる包容力ではないですか…………」

「私は、赤羽の系譜だからそれもあると思うけどね」

指摘されれば、そんな要素もあったのだとネアはぎくりとする。

その見事な赤い羽が作りものだったとしても、いずれ転属で生えてくるのはその色の羽なのだろう。

つまり、誘惑などに長けた魔術を持つ系譜の妖精なのだ。

(グレーティアさんは、妖精さんになる前はどんな種族だったのだろう………)

初めて見る国の街並みを眺めながら、ネアは隣を歩くグレーティアの背の高さにまた一つ謎を深めた。

これくらいの長身となると、ネアが知る限りはドリーやダナエくらいではないだろうか。

となると、竜種だったりする可能性もあるのかなと考えればわくわくする。

ブンシェの国は、とても豊かで穏やかなところだった。

お伽噺の中に生まれ悪役の怪物に苦しめられる国らしく、善良で穏やかそうな人達が暮らしている。

このあわいの中で生活を成り立たせている以上はそれなりに複雑さもあるのだろうが、ラエタの影絵とはまた別の種類の、どこか平坦な空気と言えなくもなかった。

石造りの建物に、可愛らしいレースのカーテンや植木鉢の花々。

広場には噴水があり、小鳥達が水浴びをしている。

商店には豊かな品々が並んでいて、市場はとても賑やかだった。

「支払は、この国の貨幣か、小さな宝石などでも支払えるみたい。ヴェルクレアの金貨や銀貨なら、質がいいから問題ない…………だろう」

一拍語尾を彷徨わせ、グレーティアは渋い顔をする。

そつなくこなしているように見えても、やはり口調そのものをがらりと変えるのは難しいのかもしれない。

だから、ゆったりとした穏やかな口調になるのだろう。

「食べ物などはどうなのでしょうか?」

「この土地に敷かれた魔術などを見ている限りは、大丈夫そうだね。……………弟子?」

ここでグレーティアは、突然しゃがみ込んで何だか黒っぽい塊をつついているネアに、怪訝な顔をして振り返った。

ネアは、地面に倒れて儚くなりかけているものを覗き込んでから、ちょっと嫌な予感を覚え始めているグレーティアを見上げた。

「師匠、魔物さんを拾いました」

「……………え、魔物なの?」

「はい。そのあたりの目利きは出来るのです。こやつは魔物で、なぜか行き倒れています」

「…………ええと、そこに落ちてる棒で、ちょっとだけ髪の毛を持ち上げられる?」

「お任せを」

動揺しているせいか、少しだけ女性的な語尾になりつつあるグレーティアの指示に、ネアは行き倒れの魔物の横に落ちていた木の棒で、その髪の毛をふわっと持ち上げて横顔をグレーティアに見せてやった。

ネアが気付いてしゃがみ込む前には、まだ薄らと目を開いてこちらを見ていたのだが、近付く前にぱたりと意識を失ってしまったのだ。

「……………高位の魔物ね。………それも、恐らくこちら側の住人じゃない」

「…………となると、投棄されてしまったお仲間でしょうか」

「………………見なかったことにしましょうか」

「戦力にはなりませんか?」

「とは言え、この状態のものを持ち運ばなければいけないでしょ」

ひどく嫌そうにそう呟き、グレーティアは周囲の人々がこちらを見ていないのを確かめてから、行き倒れの魔物の背中をどすっと踏みつけた。

「ぐぇ!」

「……………まぁ、息を吹き返しましたよ」

「さぁ、これで自分の足で歩けるのなら、一緒に連れていきましょ」

「………………どうも無傷にしか見えない行き倒れさん、ご自分で起きられますか?」

ネアがまたつんつんしてみてそう尋ねると、鮮やかな赤い瞳をした男性が弱々しくこちらを見上げた。

「起き上がれない…………」

「まぁ、ではさようならなのです。どうかお元気で」

「お、置いていかないでくれ…………」

「どうすれば、自力歩行が可能になりますか?」

「お腹が空いて立てない…………」

「……………師匠、腹ペコ行き倒れです」

「……………魔物でも、馬鹿じゃ役に立たなそうな気がするわね」

ここでネアは、小さな森の妖精や精霊達にたかられた時用に持っている、予め魔術の縁を切って売られている森の獣用のお菓子を取り出してみた。

小動物用のものだとは口に出さず、そっと行き倒れの魔物に与えてみる。

グレーティアがこちらを見たので、その紙袋を見せれば、森の仲間のおやつと書かれた包装を見てどんなお菓子なのかを察してくれたようだ。

「もそもそするし味が薄い…………」

「栗鼠さん達のお腹にも優しい自然派食品なのですよ。自分の足で立ち、私達によく仕えると約束するのなら、どこかでご飯を食べさせてあげても構いませんが、どうしますか?」

「上等な肉が食べたい。それと、質のいい小麦を使ったパンだ」

「ふむ。面倒臭いので、道端にこのまま打ち捨ててゆきましょう」

「……………何でもいいです」

「…………ほんと、素質があるのよねぇ…………」

野生動物用の甘さ控えめクッキーを貰い、その男性はゆらりと立ち上がった。

大きな鳥のような不思議な黒いコートを着ていて、どこかグレイシアに見た目の雰囲気が似ている。

不思議なことに道行く人々には彼の姿が見えないようで、グレーティアはそんな様子に何やら考え込む姿勢を見せた。

「何だ、小さな人間じゃないか…………」

立ち上がったことで、行き倒れの魔物は、ネアが脆弱な乙女であることに気付いたようだ。

これは無理矢理食べ物を奪えばいいのではという物騒な眼差しになったので、ネアは躾は始めからしっかり派の人間として、ここは厳しく上下関係を徹底させることにした。

「万が一悪さをしたら、まだよろよろしている今の内にそのお口に激辛香辛料油を突っ込み、首から決して食べ物や飲み物を与えないで下さいと書いた札をかけて、道端に捨ててゆきます」

「……………悪さはしません」

「あちらに、串焼き肉や、鉄板でチーズを挟んで焼いてくれる温かいサンドイッチ、とろとろほこほこのシチューまで売っていますが、そんなご馳走を食べさせて貰う為に我々の言うことを聞きますか?」

「はい…………」

邪悪な人間に、美味しそうな屋台の食べ物に視線を誘導されてしまった魔物は、そちらに釘付けになったまま殆ど無意識にこくりと頷いた。

もしゃもしゃの淡いミントグリーンの髪で、顔立ちは整っているもののどこか眠たげだ。

そして、とても切ない眼差しで食べ物の方を見ている。

「師匠、一時的にですが、拾った魔物さんを飼ってもいいですか?」

「息をするように下僕にしたけれど……………」

「む?」

「まぁ、連れて歩くのならいい距離感ね。それと、彼は貪食の魔物よ」

「……………食いしん坊の魔物さん」

「与え方を注意しないと貪欲で残忍にもなるけれど、自分の領土はとても豊かにするから統括の魔物としては重宝されていたわね。………確か、少し前までヴェルクレアの辺りの統括の魔物だった筈だけど」

「……………もしかして、失恋してお仕事をしなくなった魔物さんでは」

「仕事を放棄した訳じゃない。あれは、心の傷を癒していたんだ」

そこでだけ、貪食の魔物はきりっとしてそう弁明した。

きりっとすれば、高位の魔物らしく美しい男性なのだが、空腹のせいか若干背中が丸くなっている。

しっかり視線を持ち上げると、短くもしゃもしゃに見える髪の毛は、襟足に小さなちび結びがあった。

毛質が細く艶やかで緩やかな曲線を描くグレーティアの髪とは違い、羊毛のようなもふふかの髪質である。

(でも、不思議な美しさがある…………。やっぱり高位の魔物さんだからかしら)

美しさの質は違えど、良く見ればどきりとするような人ならざるものの気配と色。

でもそれだけに惑わされなくなったのは、様々な美貌の中での感情の色を見分けられるようになったからだ。

この魔物は、ネアの身近な魔物達の身に纏う雰囲気とは違い、どこか野生の獣めいた気配がある。

得体の知れない魔物らしさという意味ではアイザックだが、その不穏さとも違うように見えた。

(少し怖い雰囲気だったけど、例えばスリジエさんのような異種族感が全面に出た感じ…………?)

だが、この獣は現在行き倒れてしまうくらいに腹ペコであり、貪食の魔物だというくらいなので、食べ物の誘惑には抗えないのだろう。

「一つ聞いてもいい?もしかして、あなたも妖精を門にしてここに呼び落とされなかった?」

高位の魔物の筈なのだが、弟子のペットになるからか、グレーティアも特に敬う様子はない。

「全くその通りだ。これから晩餐だったのに酷いことをする」

「…………その、門になった妖精はどうしたの?」

「訳の分からないことを喚いていたから、ばらばらにしてどこかに捨てた」

「…………まったく。魔物はすぐに妖精を殺すんだから」

「あの甲高い喚き声は、空腹に障るんだ。それと、食べ物をくれるんじゃなかったのか」

「事情聴取の間我慢が出来なければ、まずは激辛香辛料油でお腹をいっぱいに…」

「…………我慢する」

「………………もしかすると、天性の才能なのかしらねぇ」

衛兵に勧められた宿屋はすぐに見付かり、幸いにも貪食の魔物、ネアの記憶が確かならムガルという名前の魔物だった筈だ。

そんな腹ペコムガルの気になって堪らない、シチューのお店のすぐ近くにあった。

このあわいで食事をしたらどうなるのかの実験体にされているとは露知らず、ムガルは美味しそうにはふはふとシチューを頬張っている。

そんなムガルに食事をさせるにあたり、一つだけ奇妙なことが発覚した。

どうやらムガルは、この国の人達にその姿が見えないらしい。

話しかければ、短い間だけは認識されるが、またすぐに透明な存在になってしまう。

だから街中で行き倒れていても誰にも声をかけて貰えなかったようで、どうしてそうなってしまったのかは分らない。

「恐らく、彼は私達のように正式に門から入って来なかったから、このあわいでの役柄がないのかもしれないわね…………」

宿代は前払い制で、グレーティアが支払ってくれた。

ムガルを拾ってしまったことと、身内ではないものの同じ部屋に泊まった方が安全なネアと一緒なので、少し広めの高価な部屋を押さえてくれる。

ネアが自分の分を支払おうとすると、数日分くらいであれば、この宿泊費程度で懐は痛まないと首を振ってくれた。

「因みに、ムガルは、体で宿代を支払うのですよ。見えないことを生かして諜報活動などをして下さいね」

「…………お前、不愉快な女だな」

「私に逆らうとなれば、今夜の食事は、激辛香辛料油か抜きかのどちらかになりますが…」

「逆らわない……………。とても優しい人間だと思う」

「ムガルは良い子ですね」

「……………いい才能だわぁ」

ムガルはこの国の人々に認識されない分、一人では食べ物の調達が出来ないのだ。

一度門の外に出てからやり直せばどうにかなりそうだが、冷酷なネア達はその可能性を敢えて口にはしなかった。

ご飯を貰う為に、渋々ながらも下位の妖精と、下位どころか蟻相当の人間に労働で対価を支払うことになり、ムガルはたいそう不愉快そうだ。

しかし、野生感を全面に出してくる魔物の躾けは初めてではないので、ネアは巧みに手持ちの森のお友達用のお菓子で貪食の魔物を翻弄した。

今回の冒険の仲間は、グレーティアとムガルになりそうだ。

“なので、まずはその魔術師さんの心を開くという、子供を探してみます”

“こちらでは、まだ蝕が明ける兆候はないようだ。ウィリアムやアルテアに、ラエタの者達からの接触もないと聞いている。アイザックは、城に籠ってしまったようだね”

“ダナエさん達は、来てくれたのですか?”

“今、エーダリア達と話しているよ。こちらは、あの、………ふわまるの守護で随分と安定しているから、もし可能であれば、君の隔離されたあわいに入って貰いたいのだけれど、…………物語のあわいは、その中にある要素でなければ侵入が難しい場合もある。私も試みたけれど入れなかったし、ダナエが入れるといいのだけど……………”

いい部屋らしく浴室が二つあるので、ネアは自分の寝室の側の浴室に籠って、ディノとそんなやり取りをしていた。

ムガルはあまり上位の魔物を敬わないが、意外にもバランス感覚のいい魔物であるらしい。

そして、竜族くらいに大柄でふくよかな年上の女性が好きなので、ディノはとても安心してネアを任せられるそうだ。

とは言えディノも、役柄のないムガルがこの世界で出来ることはとても少ないのではないかと言う。

そしてネアは、カードに記されたディノの言葉に、ふと不安を覚えて目を瞠る。

(その中にある要素…………役柄………)

“……………ふと思ったのですが、ダナエさんは、色々なものを食べてしまう悪食の竜さんとして、恐れられていたり忌避されていることがありますよね?”

“…………その物語の、怪物の下りかい?”

“ええ。そこがふと気になったのです。グレーティアさんのお話では、物語のあわいは、その物語を主線に物事が進むのだとか。…………もしダナエさんがこちら側に来て、魔術師さんに斃される怪物の役目を与えられてしまったらと、…………少しだけ考えたのです”

“君の安全を優先したいのだけど、……………そうだね。その物語はたしか、元になった実際の事件があった筈だ。その時の要素を再現してしまうと、危ういかもしれないね。…………ノアベルトや、ダリルに相談してみよう”

ディノは少し躊躇いはしたものの、ネアの不安を汲んで、ダナエの身が安全かどうかを話し合ってくれるようだ。

(もしかすると、……………ここは、魔術師が森から連れて来る怪物を滅ぼす為の、あわいなのではないかしら……………)

当初、グレーティアを門にした魔術師は、ウィリアムやアルテアをどこかに呼び落とそうとしていた。

ネア達がここに廃棄されたのは偶然かもしれないが、あわいの向こう側に追いやられた巡礼者達が、果たしてその外で、高位の魔物を害することなどは出来たのだろうかと首を傾げる。

妖精の門まで考えていたのであれば、もっと自分達に有利な舞台を整えていたと思うのは、考え過ぎだろうか。

(ここが、本来は呼び落とした邪魔者を排除する為に整えられた舞台であったら。………ウィリアムさんやアルテアさん達を呼び込むことが出来なかったから使えなくなっただけの、罠のようなところだとしたら…………)

そう考えると、ネアは背筋が寒くなった。

もしそんな可能性が僅かにでもあるのだとしたら、ネア達は、何が何でも自分達だけでこのあわいを脱出する必要があるのだ。

外から呼び寄せた魔物や竜が、万が一にでもこちらで怪物の役を得てしまったら、どうなるものか。

窓の外に見える、緑の塔を視界の端に収め、また一つ大切なことに気が付いた。

「…………あの塔に住んでいる魔術師は、一体誰なんだろう」

ディノは、物語の元になった史実があるという。

それがどんな事件だったのか、とても気になった。