軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

郭公と夜の天幕

かっこうとどこかで鳥が鳴いた。

それは真夜中のことで、ネアはふっと目が覚めて、誰もいない寝室で体を起こす。

「ディノ……………?」

いつもなら、巣の中か隣にいる筈のディノがいない。

不安になって立ち上がったのだが、名前を呼んでしまったのに応えはなかった。

かっこうと、またどこか遠くで鳥が鳴く。

真夜中なのにと考えてネアは怖くなった。

特別な思い入れも意識もない筈の郭公だが、その長閑な鳴き声がひどく不穏なものに思えたのだ。

「ディノ……………」

心細くてもう一度その名前を呼ぶと、窓の外でざあっと雨が降り出す音がした。

一瞬どきりとして飛び上がりかけ、ただの通り雨かと胸を撫で下ろす。

かっこう。

また鳴き声が聞こえた。

ネアは体にかかっていた薄手の毛布を手繰り寄せ、出来るだけ体の多くを覆うことにする。

首飾りの金庫に手を伸ばそうとしたところで、ちかりと目眩がして視界が反転した。

「……………っ、」

いつの間にかそこは夜の森の中で、ネアは艶々としたお出かけ用の靴を履いていた。

さくさくと落ち葉を踏んで明かりのある方に向かえば、サーカスのような天幕があり、その入り口にある造花を飾り付けた門のところで、奇抜な格好をした男性が銀色のスプーンで青いお皿に盛りつけた砂糖を黙々と食べている。

「おやおや、これはまた郭公の夜の天幕にお客が来た。シロップになるか砂糖になるか、はたまた、郭公に貪り食われてしまうかどうなるだろう」

にやりと笑ってそう言われたのに、ネアはもう不思議と怖さは抜け落ちて、そういうものだろうかと首を傾げる。

きょとんとしているネアに、その男性はくくっと嚙み殺しきれない笑い声を漏らした。

「蝕のある年にだけ、郭公は目を覚ます。獲物の頭蓋の内側を食って成長し、食った者の知識や記憶を奪ってそこで子供を育てる。………雌の郭公が好きなのは、愛する終焉の好むような上等の終焉の子供ばかり。終焉の子供を食らうことで終焉に憎まれているとは露知らず、終焉に取り立てられる日を今も尚、待ち続けている」

じゃりじゃりと砂糖を噛みながらどこか劇的な口調でそう話し、男性は極彩色の花柄の上着の裾を引っ張った。

ネアはその人物の片方の手が銀色の義手であることに気付き、その手で馬に乗れるだろうかと取り留めのないことを考える。

どうしてそんな事を考え、自分はなぜここにいるのか。

どこから来て誰に会いに行くのか。

それはもうとても曖昧であるし、何しろこの天幕の向こうからは楽しげな音楽が聞こえてくる。

是非ともそこに行かなければならないと、門をくぐり、暗い森に規則性もなく乱雑に飾り付けられた星型の豆電球の灯りを辿った。

かっこう。

また鳥が鳴き、ネアは天幕の内側に向けて、何枚かの布を持ち上げてはくぐり、歩いてゆく。

やがて、真紅のカーテンの向こうに煉瓦造りの地下に向かう階段が現れた。

「…………このお店、」

ぽつりとそう呟き、ネアは全身の血が体の下に落ちるような感覚に胸に手を当てた。

この階段の下には会員制のバーがあった。

薄暗い店内には抑えられた照明の明かりがぼんやり揺れ、ジャズが流れていて、踊っている者達もいた。

きんきんに冷やしたグラスに注がれるワインやシャンパン。

談笑の輪の向こうで、その人の横顔が見える。

雨音と酒と煙草の煙の香りがヴェールのように折り重なり、ネアは胸が潰れそうになった。

(もっと、空気の澄んだ気持ちのいいところにいた筈なのに…………)

でもそれはどこだったのか思い出せないし、きっと夢だったに違いない。

今夜は美しい秋の夜だったが、ネアは家でお気に入りの紅茶を飲みながら本を読むという素敵な時間を過ごす代わりに、こうして男女の駆け引きや男達の野心が渦巻く薄暗い店の中を歩いている。

決して、この宇宙の中で一際眩しく輝く恒星の一つではないからこそ向けられる、下卑た視線の数々。

ここにいる女達は、望みを叶える為にどんなことでもするだろうと考え、その浅はかさを嘲笑い見下す男達。

そんな眼差しを冷ややかに笑い飛ばし、その懐から執着や権力を奪い取る算段の女達。

そんな中を歩き、冷たい殺意を整えた。

あの人垣の向こう側の人が、まるで鏡の中の自分のような諦観と絶望を瞳に浮かべたのだとしても、それはきっと錯覚の筈だ。

がくんと、体が揺れた。

誰かの遠慮のない手が、腕を掴む。

それを振り払って逃げ出したいという思いを堪え、ただ曖昧に微笑む。

一晩の気晴らしを求めるその誰かに、決して必要以上に取り込まれないよう、けれどもここから追い出されないようにある程度の好感触は与えなければならない。

何と厄介で何と不愉快な時間だろう。

(でも多分、…………ここにはもうネアハーレイはいないのだ)

あの電話を受けて、焼け焦げた両親を見た日から。

あの、胸の張り裂けそうな死亡診断書を読んだその時から。

そして自分にとっての最後の光を奪った相手を見付けたその日から、ここにいた、両親から健やかに育てて貰った人間は死んでしまったのだ。

(わたしは、怪物だ…………)

自分を怪物だと思おう。

あの男性を殺さねば生きられない、身勝手で、醜く悍ましい怪物だと。

そうすれば多分、こんなことでは傷付かない筈だから。

「……………ふうん、今は幸せなのね」

誰かが、暗闇でひっそり笑った。

ゆっくりとそちらを向けば、腰までの艶やかな黒髪の美しい女性が立っていた。

修道女のような灰色の服を着ており、このバーの雰囲気にはそぐわない。

そう思ったところで、ネアは自分がいつかの場所に立っていることに気付いた。

(わたし、いつの間にか階段を下りたのかしら…………?)

細長いグラスに注がれたシャンパンを店内の上品なシャンデリアに翳して、きらきらと光るその影を覗き込むその女性の瞳はエメラルドのような緑色。

ネアと目が合うとくすりと微笑み、どこか少女めいた眼差しになる。

「あなたは、復讐をするのでしょう?」

そう問いかけられ、ネアは、向こうにいるジーク・バレットをちらりと見る。

「それなら、怪物になるあなたには、居心地のいい巣はいらないわね。私にあなたの住んでいる巣をくれる?子育てをしたいの」

「……………私の、巣?」

「ええ。どこだか分からないけれど、あなたの巣はとっても居心地が良さそう。私はね、子育てに最適な巣を見付けるのがとても得意なのよ」

「…………お子さんがいらっしゃるのですね」

そう言ったネアに、女は白い喉元が見えるくらいに仰け反って笑った。

禁欲的な服装だが、どこかが滴る程に邪悪で色めいていて、その得体の知れなさにぞくりとする。

「いいえ、まだよ。私は貰った巣に忍び込んでそこの男と子を作るの。ここにはね、終焉の匂いがして、居心地のいい巣を持つ女だけがやって来られるのよ」

そういうものなのかと頷き、ネアは少しだけ考えた。

あの、古くから父が住んでいた屋敷は、元々は祖父のものであった。

どれだけ離れた異国に住んでいても、帰るのはきっとそこだという執着がある。

父が植えた槿と楓が夏から秋への彩りを深め、春になると様々な花が咲く美しい庭があった。

あの庭で、ユーリは小さな生き物をよく捕まえては見せてくれた。

てんとう虫やバッタ、そして尻尾を切らないように注意して手に登らせた、春に生まれたばかりの赤ちゃん蜥蜴など。

見せてくれた後は庭に放してやり、蜥蜴が苦手で家の扉のところからこちらを見ている母に手を洗いなさいと叱られるのだ。

顔を見合わせて微笑むと、ネア達は手を洗いにいく。

手を洗った後には、きまって美味しいジュースやお菓子が貰えるのだから。

もう誰もいなくても、あそこはとても大切な場所だった。

一人で暮らしていたら胸が潰れて死んでしまうかもしれないけれど、そこはネアだけの繭のようなところ。

包まりながら死ぬのだとしても、構わないと思える大事なお城。

「ごめんなさい。復讐をするのであれば、だからこそ私は私の家を手放せません。あれは、私に残された唯一の正気の欠片なのです。私の愛した者を殺した者を殺す為に、あの家は必要なのです」

そう答えたネアに、女性はとても意地悪な目をした。

「そうなの。でも私はその巣が欲しいのよ」

ああ、これは奪う事や蹂躙することに長けた人の目だと感じ、ネアは背筋を伸ばす。

壊される時にも誇りは失いたくない。

元々、その覚悟で復讐を決意したのだ。

この稚拙な思惑を誰かに気付かれて、どんな恐ろしい目に遭うとしても。

その時の為に持ち歩いているのは、あの黄色い花を咲かせる植物から抽出したものよりも即効性のある、害獣駆除などに使われる毒だ。

「郭公を見るのは久し振りだね」

その時、静かな声が後ろから聞こえた。

聞いたことのない男性の声だと思い、ネアは振り返ってから目を丸くする。

(……………なんて美しい生き物だろう…………)

そこに立っていたのは、背の高い一人の男性だった。

男性は、まるで物語から抜け出してきたような姿をしている。

白いフロックコート、もしくはジュストコールは膝下までの長さで、アメジストやダイヤモンド、アイオライトにタンザナイト、サファイヤやアクアマリン、真珠にムーンストーンと、様々な宝石を縫い付けた、ぎらぎら光らない上品な虹色の輝きを纏う不思議な白い糸で刺繍が施されている。

その刺繍は星や草木、花々を描いた不思議で精緻な模様になっており、ネアはそんな模様を考えた人は天才に違いないとぼんやり思った。

飾り気のないシャツは、その布そのものが美しい。

同じ布地のクラヴァットのドレープや皺が、溜め息を吐きたい程の繊細な影を生み出す。

(…………この人は人間なのかしら?…………もし、神様がいるとしたら、こんな姿をしているような気がする……………)

もしくは、ここまで美しいのであれば、それは悪魔なのだろうか。

ネアは、死んでもいいから誰かの髪に触れてみたいと考えるのは生まれて初めてだった。

その宝石を紡いだような髪にはきっと、緩やかなウェーブがあるのだろう。

それを片側に寄せてゆったりとした三つ編みにして、前に下ろしている。

ふんわりと斜めに流した長めの前髪の下には、内側から光を透かすような水に混ぜた紺色のインクのような瞳。

その瞳には、様々な色が混ざり込み、あまりにも排他的で怖いと感じるような美貌にごくりと息を飲んだ。

(そうか、…………美しすぎるものは、怖いのか…………)

初めて知る事に呆然とし、ふっとこちらを見たその人に思わず体を強張らせる。

するとその美しい男性は、どこか悲しげに微笑んだ。

「…………私のことを忘れてしまったのかい?」

「………………え?」

ネアが、こんな生き物に知り合いはいない筈だと目を瞠れば、水紺色の瞳が悲しげに揺れた。

その微かな動揺と苦しみに胸が苦しくなり、思わず手を伸ばしかけてしまう。

けれども、触れることに躊躇いがあった。

こんなに美しい生き物に触れるのは恐ろしく、恐れ多い気がしたのだ。

ネアがそろりと指先を引っ込めるのを、その人は寂しそうに見つめ、唇の端をどこか義務的に持ち上げた。

それは、無理をして微笑みを作る練習をした日の鏡の中に見た自分と同じような、無機質で不自然な微笑みだった。

「…………それよりも、君をここから出す事が先決だね。郭公は私が排除するから、君は少しだけ私の後ろにいてくれるかい?」

「…………あなたは、良いものなのでしょうか?」

そう尋ねたネアに、彼は小さく息を飲んだ。

「そうか、…………君は、そのように考えるのだったね」

「あなたが、美しく優しいものに思えてもそれこそが罠かもしれません。あなたは、その素性がどうであれ、私にとって私を傷付けない良いものですか?」

「…………自分では分からないけれど、君を傷付けたりはしないと約束するよ」

(でも、その言葉が真実だという確証もないのだわ。…………この男性は、あの女性のことを郭公と呼んでいた。…………あの女性は何なのかしら…………?)

ネアは困ってしまって、ひとまず見比べてみようと、先程まで会話をしていた女性の方を振り返った。

決して彼女の方がいいとは思わないが、判断の材料としてもう一度見ておこうと思ったのだ。

とは言え、振り返るのには勇気が必要だった。

先程の問いかけはどこか邪悪で、なぜか静まり返っている背後が気になってしまう。

よくある怖い話だと、こうして振り返ったその先にあるのは、恐ろしいもののことが多い。

大抵そうなのだ。

「…………っ」

ぐっと喉が鳴った。

そこに居たのは、先程までの美しく残忍そうな人型の姿を失い、こぶのように盛り上がった背中を丸め、毛を逆立てて威嚇する山猫のようになった、灰色の翼を持つ奇妙な生き物であった。

腰掛けていたテーブルの上で、爛々と目を光らせ、鋭い牙を剥き出している。

彼女の背後に見えていたジーク達は影絵めいた動きで、壊れた映写機で映し出されたようにギクシャクと同じ動きを繰り返していた。

「………………万象」

軋むような唸り声が、謎めいた言葉を吐き出す。

その不思議な生き物は、縦長の三つの目をしていて、聖書や神話に出てくる怪物のよう。

(あ、……………この人は怯えているんだわ)

ネアは最初、この猫のような生き物はこちらに襲いかかろうとして体を丸めているのかと思っていたが、どうやら怯えきっているようだ。

けれども、どう見れば焦点が合うのか分からない歪んだ瞳がぞろりとこちらを見ると、先程までの女性と同じ柔らかな声が、ねっとりとした響きを帯びてネアにかけられた。

「ねぇ、あなたの巣を頂戴な。こんな特別なもの、いらないでしょう?私にくれたら、とびきり綺麗な子を産むわ。あなただって、可愛い私の子を見たい筈よ」

その声はまるで毒のようで、細い崖の縁で踏ん張ると自然に断崖の側に足が縺れてしまう時みたいに、全身で拒絶している筈なのに体がそちらに傾ぎそうになった。

ぎりっと歯を食いしばってあまりの恐怖に総毛立ったネアを、背後から誰かがふわりと抱き締める。

「大丈夫だよ、ネア。君のことは、決して渡さないから」

耳元で囁かれた声の、美しさと甘さにくらりとする。

これもまた形を変えた毒ではないかと心のどこかで警鐘が響いたが、その胸元に顔を埋めるようにして抱き寄せられると何も考えられなくなる。

「誘われて森を歩く内に、時間を巻き戻されたのだろう。………こんな風に、困惑している君を捕まえてしまいたくはないのだけど、ここはとても危ない場所だからね。…………蝕の年には郭公が生まれるのはいつものことだが、君達はいつもウィリアムの心を傾ける者を狙うのだね」

郭公に向けられた後半の声は、氷塊が混ざるように冷たくなった。

けれどもきっと、その残忍さも美しいのだろう。

ネアは、これが愚かな罪を罰しに来た天使ならと少しだけ考える。

でも、その安らかな手に逃げ込むことは出来なかった。

やらなければならない事があるのだ。

「…………ああ、万象の君。あの方はまるで、冷たい月の光のように美しく、眠りの淵で揺蕩う幸福のように優しいのです。愚かな私が終焉の揺りかごを望むのは、仕方ありません。…………でも、その美しさもあなた様の素晴らしさには及びません。その子供が良いのであれば、その体のまま、ご奉仕いたしましょう。私が喰らうのは魂と脳だけ。どうかあなた様の巣で、私を抱いて下さいな」

ざっと、音がした。

説明し難い音だが、掴んだ砂を床に投げつけたような奇妙な音で、ネアはそんなことよりも自分を抱き締めた男性の冷ややかな怒りに触れて、その恐ろしさに震えながら息を詰めていた。

「……………もう終わったよ」

ややあって、そう言われて顔を上げれば、こちらを覗き込む美しい瞳があった。

その深さも鮮やかさも見慣れないもので、美しいからこそ恐ろしくなる。

吸い込んだ息を吐き出せないまま頷くと、そっと後ろを振り返ってみた。

そこには、見慣れない擦り切れて汚れた絨毯があり、そこに灰色の砂の山があるばかり。

「……………砂」

「郭公はよく魔物だと言われているが、実際には形を持つ怨嗟のようなものなんだ。どうしてあの砂が残るのかは私も知らないけれど、もう、次の蝕の年になるまでは現れないから安心していい」

「郭公は、…………鳥のような生き物ではないのですね」

「君の知っている郭公は、鳥なのかい?」

ネアが思わずそう呟いてしまうと、男性は瞳を揺らしてどこか嬉しそうに微笑んだ。

話しかけられたことが嬉しかったのか、整った美しい声に僅かな喜びが滲み、作り物の花が芳香を放つようにふつりと綻ぶ。

一度指先を彷徨わせてネアを警戒させたが、自分が動かした指先を、はっとして目で追ったネアに気付くと、もうこちらに触れようとはしなかった。

「ここはね、人間達だけが迷い込む怨嗟や羨望の森だ。今回の君は、たまたま郭公の獲物の要素を満たしていたから迷い込んでしまったけれど、ここは様々な生き物達の狩り場になっているから、もう近付いてはいけないよ」

腕を持ち上げて示され、触れると怖いだろうから袖を掴んでいるようにと言われた。

ネアは袖も手首の肌に触れそうなのでと辞退し、一歩後ろに下がってフロックコートに掴まらせて貰う。

「………歩き難くはないね?こちらでもいいよ」

「…………髪の毛はもっと怖いので、ごめんなさい」

「……………うん。ではそこで。夜の天幕は夜毎に催しが変わる。決して離さないようにね。逸れても必ず助けにゆくけれど、君に怖い思いをさせたくはないから」

先程滲んだ微かな喜びは消え失せ、静かな声は酷薄にも思えて緊張する。

ネアは、自分が見せた頑な警戒心がどれだけ失礼なのかは重々承知していたが、ここが奇妙なところで、この男性が見知らぬ者である限り、決して油断はしないようにしよう。

「…………私は、あの店からこのおかしなところに迷い込んでしまったのでしょうか」

「君の家からではないかな。どうして、あのような店にいたんだい?」

「しなければならないことがあったからです。…………なので、私はそこに戻らなければなりません」

「そんな風に、悲しい顔をしているのに?」

その言葉に、ぎくりとした。

(わたしは、悲しいのかしら?)

確かに、目的の為に入り浸るお店でよく知りもしない男性に腕を掴まれるのはとても悲しかったし、殺すべき誰かの絶望の翳りに気付いてしまうこともとても嫌だった。

街の灯りが雨に滲む中を歩き、傘の向こうに幸せそうで無垢な人達の姿を見るのも苦痛で、誰かが幸せそうに微笑む度に、そこには自分に訪れなかった幸運が舞い降りたのかと、羨ましくてならなかった。

「…………どうでしょう。でも、もしかしたら、私がとても恐ろしいことを成そうとしていて、この心がとても醜く汚れているので、私はこんなところに呼ばれてしまったのかもしれません。…………ここは、地獄のようなところなのでしょう?」

その問いかけに、前を歩く男性の肩が強張ったように見えた。

先程の、砂糖を食べていた男性がいた門の場所を通ったが、そこには空っぽの青いお皿が置かれたテーブルがあるだけで、もう誰もいないようだ。

天幕をくぐって外に出ると、入れ違いに違う入り口から中に入ってゆく男性が見えた。

疲れたように体を屈めた中年の男性は、見間違いでなければ天幕を潜る時に恐怖の表情を浮かべたようだ。

(あの人はどうなってしまうのかしら…………)

天幕に入って行った男性は、シャツの裾がズボンのウエストからはみ出ていて、酷く疲れているようだ。

呼び戻してあげた方がいいのだろうかと考えかけ、見知らぬ人のことなどを案じている余裕はないのだと自分を戒める。

(一つの間違いも犯さず、針の穴をくぐるようにしてでも、ジーク・バレットを殺さなくてはならない……………)

例えば罪のない誰かが殺されようとしているのを見過ごす必要があるのだとしても、それはネアの知らない誰かなのだ。

ひとりぼっちになったネアがいなくなれば、家族の復讐は果たせなくなる。

(苦しい……………)

息を吸っても酸素を取り込めないようで、目隠しをされて終わらない暗闇を歩いているよう。

翼を切り落とされた小鳥が、飛び立てなくて踠いているみたいに、ネアは恐怖の中でじたばたと地面を這いずっている。

寝ても覚めても、ただひたすらに怖くて怖くて堪らないのに。

「…………ネア、怖がらないで。ほら、怖がるとこんな風に蔓薔薇が絡んできてしまうから」

耳元でそう囁かれ、ネアは目を瞬いた。

いつの間にか両足には赤い花を咲かせた蔓薔薇が巻きついていて、男性はそう囁いて微笑むと、その蔓薔薇を素手で引き千切ってくれた。

蔓薔薇特有の細い棘が肌を傷付け、赤い血が流れたが、ぽとりと落ちる前にしゅわりと光って消えてゆく。

「…………っ、ごめんなさい!自分で取りますから………」

「君の肌を傷付けてしまうから、じっとしておいで」

「でも、あなたの手が…………!」

「今の、恐怖でいっぱいの君より、私は幸福だからいいんだよ。こうして守るものがあるから、もう怖くはないんだ」

(……………この人は)

その言葉は小さな子供が怖くないと自分に言い聞かせているようで、ネアは胸が痛くなった。

思わず手を伸ばして、その頭をそっと撫でてやると、男性は驚いたようにこちらを見上げる。

暗い森の中で光るような瞳の輝きに怖くなり、ネアは虹のような光沢を持つ白い髪から手を離そうとした。

はらりと、薔薇の赤い花びらが散る。

「ネア……………?」

「………………む?ここは、どこでしょう。どうして私は、ディノのコートをくしゃくしゃにするように握り締めていて、両足を薔薇に固定されているのですか?」

いつもの寝台で眠った筈なのにと眉を寄せれば、なぜだかこちらを見たディノは泣きそうな目をしている。

「ディノ…………?何か怖い事があったのですか?」

慌ててコートを離して三つ編みを握ってやり、ネアは足を固定する薔薇に注意しながら、体を屈めて大事な魔物の瞳を覗き込む。

「…………君はずっと怯えていて、絶望していて、諦めていた。側にいるのにそんな君の苦しみを拭ってあげられなくて、…………とても恐ろしかったんだ」

「……………ディノ。もしかして、ここはまた幻惑の世界のようなところなのですか?私は、……………ディノを忘れてしまっていたり、…………したのでしょうか?」

「…………ここはね、人間の思考や心の中にある暗闇から続く夜の天幕だ。人間は魔術を取り込む時に、避けようもなく繋がってしまうところだけれど、その内側への扉を開いてしまうことはあまりない」

そう教えてくれたディノは、縋るようにネアを見つめ、また息を吐いた。

「……………私の中にも、その扉があったのですね?」

「人間は誰もが持つものだ。魔術に長けた者は、この扉を施錠することも出来るし、自分で開けない限りは開かない扉なのだけど、その向こうから呼びかける者がいることもある。…………君は、誰かに呼ばれなかったかい?」

「……………そう言えば、真夜中に郭公の鳴き声が聞こえました。でも、その声で目を覚ましただけで、寝台から動かずにいたのですが…………」

ネアの足に絡んだ全ての薔薇を払い、立ち上がったディノは、困ったように微笑んだ。

「郭公はね、…………滅ぼすのは三度目なのだけれど、よく分からない生き物なんだ。断言は出来ないけれど、目を覚ましたことを応えたと認識したのかもしれない」

「……………むぅ。そうなると、防ぎようがないのです」

「安心していいよ。君の場合、あの扉の向こうから誰にも呼ばれないように元々扉を閉めてある。君は一度、夢を介してアルテアのところに行ってしまったこともあるからね」

「…………なぬ。あの時もその扉からだったのですか?」

「行き方は違うけれど、その扉があることで、この森ではない他の道に迷い込むことがある。幻惑の世界の時は、少し違うかな。自身の内側にある道から入り込むのではなくて、内側を攫われたようなものだね」

「……………違いがあるのですね」

ネアがよく飲み込めずに眉を下げると、ディノは、どこか怖々とネアの頬に触れ、優しく撫でてくれる。

「郭公の形を把握出来なくて、こんな事になってしまったけれど、これでもう郭公にも呼ばれないように出来たからね。二度とこんなことは起こらないよ。…………ネア?」

おもむろに両手を差し出したネアに、ディノは目を瞬く。

「私の大事な婚約者がとてもしょんぼりしているので、持ち上げを許可します」

「………………ネア」

「早く、お家に帰りましょう?」

「………………うん」

小さく頷き、ディノはネアを抱き上げる。

「ふふ、やっぱりディノに持ち上げて貰うと、この世で一番安全な場所という感じがしますね!もう、怖いことなど何にもありません」

「……………君は、私が怖くはないね?」

不安そうに尋ねた魔物に、ネアはこつんと額を合わせてやる。

ディノはいつものように目元を染めたものの、どちらかと言えば安堵が色濃く滲んだ。

「まぁ、私はこんなに優しい私の魔物を怖がったのですね?そんな時の為に、食べ物作戦を伝授したのですが、効きませんでしたか?」

「…………私をとても警戒している君は、肌に触れることも嫌がったんだ。食べ物を与えようとしたら、もっと怖がってしまうかと思って…………」

「ふむ。であれば今度からは、そんな時は私の大事な家族、両親や可愛いユーリから遣わされた守り手だと言って下さい。無理やり頼まれたと言ってくれれば、私もさもありなんと納得するでしょう」

ネアがそう教えてやれば、ディノはほっとしたように頷いた。

ぎゅっと背中に回した腕に力を込められ、ネアはやっと安心した様子の婚約者に寄り添う。

「それにしても、明日は海遊びなのに、その前夜の安眠を損なう悪い奴です…………」

「郭公は、一晩に世界のあちこちに現れるものなんだ。観測は難しいものだけれど、ゼノーシュとアルテアがその予兆に気付いてくれたから、今夜はウィーム中で眠っている者達が一度起こされた筈だよ」

「ほわ、あんな怖いものが、たくさんいるのですね……………」

ディノ曰く、蝕の度に生まれてくる郭公は何百といるがその全てが前の蝕のときと同じものなのだそうだ。

雌雄がおり、どれか一体を滅ぼすとまだ巣を奪っていない者達は砂になって崩れてしまう。

特に雌の郭公達はウィリアムに恋をしており、獲物には終焉の子供を選ぶ事が多いそうだ。

遥か昔の事ではあるが、ウィリアムは目をかけていた青年の妹を郭公の一人に乗っ取られ、その剣で滅ぼしたことがあるのだとか。

「許すまじ、郭公め!」

「だから今回も、君が狙われると思った。今の世界で、君程に終焉の守護を持つ者はいないからね。…………追いつくのに少し手間取って、怖い思いをさせたね」

「でも、ディノが来てくれたので私はこの通り元気です。…………それと、雄の郭公もいるのですか?」

ネアがそう尋ねると、ディノは雄の郭公はどんな基準で獲物を選んでいるのかが判明していないので、捕まえるのが難しいのだと教えてくれた。

自分で扉を施錠出来ているような、エーダリアや騎士達は襲われる心配はないそうで、ネアはほっとした。

「夜の天幕自体は、郭公だけではなく様々な者達が出入りしている。雌がいるところには必ず雄もいるのだけれど、雄の郭公を探す為だけにあの天幕を壊してしまうことも出来ないから、私があの郭公を壊してしまうよりも前に獲物を取り込んでいると、犠牲者は出ているかもしれないね……………」

であればそれは、この世界の持つ自然の摂理として仕方がない犠牲なのかもしれない。

喜ばしくはないが、このような世界だからそういう危険もあるのだろう。

ネアがそう納得すると、なぜかまたディノはほっとしたようだった。

「ディノ、今夜は一緒に寝ますか?」

「……………うん。個別包装ではなくてもいいかい?」

「むむぅ。仕方ありませんね」

「良かった…………」

「そして、眠る前に美味しいパイナップルジュースを一緒に飲みましょうか。助けに来てくれた優しい婚約者の為に、ぎゅっと絞りますね!」

そう言われた魔物が本当に嬉しそうに微笑んだので、ネアは安堵した。

翌朝の朝食の席で、アルバンの山の方にある集落で、一人の男性が郭公の犠牲になったという報せがリーエンベルクに届いた。

郭公が子を成すと郭公になってしまうので、内側を喰われたその男性は命を奪うしかなくなる。

魔除けの儀式酒を振りかけると郭公の姿に戻るので、家族や友人達が心を痛めないように、まずはその姿に戻してから討伐となったそうだ。

幸いにもヴェルクレアの他の土地では出現が確認されておらず、被害はそれだけに留まった。

人間は魔術の通り道の奥に、どこかに通じる扉を持っているらしい。

そこには深い記憶の森と、夜の天幕という恐ろしいものがあるそうだが、ネアはそこで見た筈のものは、何一つ覚えていなかった。