軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

261. それはとても羨ましいことでした(本編)

「ったく、……そろそろ核を見付けないとだな」

その日の朝、アルテアが遠い目をしてそう呟いたのは、夜明け前にネアに噛み付かれたからだろうか。

噛まれた首筋は赤くなってしまっており、それをわざとらしく見せつける。

ディノも何かされてしまったらしく、ご主人様はとても大胆だと目元を染めてふるふるしていた。

とは言えネアは基本的にはとても寝相が良い筈なので、なぜか妙に疲弊している魔物達は、寝相が悪くて反撃されたとしか思えない。

(そもそも、全員が大の字で眠れるくらいの広さにしたのに、噛まれるほどの距離に侵入してきたということなのでは……)

じっとりした目で美味しい朝食をいただき、単純な人間はその美味しさにあっさり至福の表情になる。

身支度などを済ませて、例の素敵な彫像のある部屋に向かったのは、その部屋に魔物達がとある仕掛けをしたからであった。

「……………朝の聖堂は、不思議な荘厳さがありますね」

「荘厳さも何も、この内部は寄せ集められた魔物の残滓で穢れきってるけどな」

「む、むぐぅ!」

「アルテア、ネアは可動域が低いから、それはわからないんだよ」

「むぐぅ!!」

可動域問題で虐められたネアはぎりぎりと眉を寄せ、ご主人様の怒りに気付いたディノは慌てて頭を撫でてくれた。

雰囲気や言動などに擬態はしていないが、今日も髪色は青みがかった灰色に擬態している。

はたりと、アルテアの纏ったケープが揺れる音がする。

片手で肩に長銃を担いだ軍服姿が素晴らしく、ネアは時折その立ち姿に見惚れた。

それを分かっていて時々ふっと微笑む悪い魔物だ。

ディノも髪色を変えているし、アルテアも黒髪の軍人さんな擬態をしているので、何か筋書きがあるのかなと尋ねたネアに、魔物達はセスティアの妄執のようなものが不愉快なので、白持ちであることを晒したくないのだときっぱり言い切った。

加えて幻惑の魔術は理想を形にして欲するものなので、下手にその核に関わる相手の興味を惹くと、この世界に癒着してしまう可能性もあり、危険なのだそうだ。

(そうか、擬態をしていても能力を封じてさえいなければ、あえてあの綺麗な白い髪を見せつけなくてもいいんだ………)

浅はかな人間の思考では、白い髪を見せてどうだ!偉いぞ!とその偉大さで萎縮させてしまいたいという思いになるが、それはあくまでも虚栄心の問題であって、ディノを高位の魔物だと知りながらも利用しようとしたセスティアは、そもそも威圧されてしまわないかもしれない。

今回の事態の解決にはさして役立たない可能性がある、それどころかデメリットの可能性もあるとなれば、魔物達は、寧ろ同族を異質な形で崇拝している人間になど正体を明かしたくはないのだろう。

「ディノは、私と離れていた間に、セスティアさんとどんな会話をしていたのですか?」

ここまで来て、ネアはやっとそのことを魔物に聞けた。

なぜかディノはその時のことを語りたがらず、とても憂鬱そうにするので聞けずにいたのだが、そろそろ知っておかないとと覚悟を決めたのだ。

自分の契約の魔物で婚約者だとしても、今のネアにとってはまだ知り合って間もない男性であるので、不愉快そうな冷ややかな気配を纏われると、それが自分に向けたものではなくても触れるのを躊躇ってしまう。

「………あの棟の前に残されていた私の側に彼が来たので、君が姿を消したということを話したよ。すると彼は、君が軍人の聴取を受けるべき場所は違う棟だった筈だし、担当官はアルテアが擬態していた軍人ではないと言う。君はそれを知っていた筈だと」

「なぬ……」

「………あの椿の棟は有事の際に人外者から逃れ駆け込む為の場所として作られたところなので、何らかの事情で契約の魔物に不信感を抱いて、突発的に距離を置こうとしたのではと言うんだ」

「……………信頼関係が築かれておらず、ディノが私という人間を知らない本当に契約したばかりの魔物さんだった場合、大惨事になる嫌がらせですね………」

「その通りだ。そして、それが嘘だと分かっていても、あまり気分の良いものではない。………彼は、その悩みを君が学園の責任者である自分にも相談出来ず、儀式の時に心を通わせた、外部から来た軍人に縋ったのかもしれないと言うんだ。年頃の少女なので思い余ったことをするといけないので、自分が話をするまでどうか君や、アルテアを断罪せずに待って欲しいと」

「……………顔面だけではなく、耳にも激辛香辛料油を流し込みます…………」

でもそれは、危うく貶められそうになったネアがぞくりとするだけでなく、この幻惑の世界でネアに忘れられてしまっているディノにとっても、どこか胸がざわつくような怖い言葉だったのだろう。

部屋で二人で過ごす時、この魔物は何度も自分に言えずに困っていたり、不安に思っていることはないかと尋ねてきていた。

契約を交わしてもそれは、ネアが本来契約していたのは自分なのだと主張して、ネアを説得してのことである。

自分のことを思い出した訳ではないネアが、内心どう感じているのか、ネアも雄弁ではないからこそ、不安に思っていたところもあった筈だ。

そんな時に、そのセスティアの並べた嘘は、ディノがあまり聞きたくない言葉ばかりだったのだろう。

「ディノ、私はディノが私の契約の魔物だと、そして婚約者だと、きちんと理解していますよ?この数日で知ったディノのことはとても好きですし、何よりも自分が時間をかけてあなたを知り、そして選んだことを理解してその結論には私も賛成しています。なのでどうか、あなたをまだ思い出せない私であっても、安心していて下さいね」

「ずるい。………ネアが虐待する………可愛い……」

「なぬ。なぜなのだ………」

ネアは魔物が疑心暗鬼にならないようにと言葉を尽くしてみただけなのだが、ディノはびゃっとなって目元を染めると、すっかりくしゃくしゃになってしまい、アルテアからはこんなところで契約の魔物を弱らせるなと叱られてしまう。

未熟で脆弱な人間なりに、誠実に向き合った筈なのでたいへん遺憾に思うばかりだ。

「人間を供物に低俗な魔物達を肥やして、この聖堂に澱みを集めているのは、そいつら自体があの像にして祀り上げた者への供物だからだろう。土地を汚している意識はあるのかと疑問だったが、その一件で明確になった。あいつが最も望んでいるのは、変質した下位の魔物達、もしくは高位の魔物による大規模な虐殺だな」

(え、……………)

歩きながら、アルテアがセスティアの目的を教えてくれた。

その言葉から、それとなく返答を濁して昨日の内にはどちらからもその目的を教えて貰えなかった理由が、ネアにも何となく腑に落ちる。

「…………つまりあの方は、ディノが、私の裏切りに激昂し、アージュさんを怒って殺してしまうことを望んでいたのですね?」

「………そして君を。彼はそう考えていた。だからアルテアは、彼に少しだけ考える時間を与える為に、擬態していた軍人が殺され、私がそれで姿を消したかのような痕跡を残していったんだよ」

魔物達から見ても、本来のセスティアは、聡明な魔術師なのだと思うということだった。

そんな彼であれば、全く想定外に何の反応もないとなると、ネア達の関わりや他の可能性を疑って早々に大捜索を始めてしまう可能性もある。

なのでアルテアは、彼が想定した顛末に近い痕跡を、あの部屋に残しておいたのだ。

「…………あの方の、思い通りになったように?」

「いや、あいつの思惑通りじゃないだろう。………高位の魔物がそんなことになったら、この学園規模どころか街一つ潰されることも少なくはない。望まれていたのは、もっと広範囲に渡る粛清や報復だ」

「…………荒れ狂ったディノが、この学園を破壊するというような筋書きだったのですね…………」

「彼が仕組もうとしていたのは、あの像にされた終焉の魔物がこの地を訪れる理由になるような災厄を起こすこと。………人間を餌にした下位の魔物達を集めて狂わせてゆくことで穢れや狂乱を呼び込む、或いはここにいる高位の魔物を激昂させる、もしくは狂乱させることだった。………一定規模以上の災厄は、終焉が事態を収拾する為に現れるからね」

隣を歩くディノの横顔は静かだ。

でもネアは、そんな人間の身勝手な醜さにこの美しい生き物が傷付けられようとしたのだと知り、胸の中がふつふつと煮え滾る。

アルテアは、つまりこの学園そのものが彼の目的の為の祭壇であり、生け贄だったのだと教えてくれる。

セスティアは、リドラにもアルテアへのハニートラップ的なことを仕掛けさせていたらしい。

当初はあちらの魔物の怒りも煽ろうとしたが、あの魔物はそもそもリドラのことをそのようには縛っていなかった。

よって、思わしい収穫は得られなかったのである。

「そうなると、他の軍人さん達にも、あのようなことが成されていたのでしょうか?」

「いや、あいつ等は標的にはしていなかったな」

他の二人の軍人達はまだ若く、どこかで人型の魔物を恐れてしまっていたそうだ。

契約の魔物を持つ歌乞いであっても、気にせず手を出しそうだと思われていたのが、アルテアだけであったらしい。

「まぁ、何の為か餌をぶら下げられているのはあからさまに見えたからな。それなら幸いと、他の二人を獲物にしないよう、あえてこちらに矛先を向けさせるようあれこれと調整はしたが」

けれど、そのどちらでも大きな騒ぎは起きなかった。

終焉の魔物は、この土地を訪れる気配もない。

「だから、彼にとって昨日の出来事程度ではとても足りない。事の顛末に失望していると思うよ。…………ネア?」

「ディノの心を傷付けて、そんな酷いことをさせようとしていただなんて!結果が思わしくなく失望しているのだとすれば、その失望すら、私にとってはとても不愉快です。……………あの魔術師めは決して許しません!ディノ、あやつは必ず懲らしめておきますからね!!」

「ネア…………」

ご主人様に熱く報復を誓って貰い、魔物は嬉しくなってしまったのか頬を染めてもじもじした後、ネアの手にそっと三つ編みを持たせて来た。

とてもご辞退させていただきたい三つ編みの贈呈だったが、ネアは、ディノがどれだけ嫌な思いをしたのかを考えて、頑張って引っ張ってやる。

嬉しそうに目を輝かせるこの魔物が、少しでも人間への不信感を薄めてくれれば良いのだが。

(ディノから、オウクさんやタリナさんの魔物さん達には、ひとまずこの学園の思惑には乗らず、すぐに騒ぎは落ち着くので、事態を静観しているようにと話してくれたようだけれど…………)

彼等のように、優しい絆を結んだ歌乞いと魔物もいるのだ。

契約は命を削るのだとしても、それでもと寄り添えるものはきっとあるのだとネアは思う。

「あの方がどんな思惑を持っていようと、そして歌乞いに関する認識や運用が間違っていようと、この学園はせめて、まっとうにお国の為に歌乞いを育てているところであって欲しかったですね……」

深い深いステンドグラスの青い光を踏みながらネアがそう言えば、ディノが、元々はそうだった筈だよと説明してくれた。

「ここを舞台とした以上、それが彼の本来の目的で理想だったのだろう。けれども、彼は残響の思惑の依り代にされた。あの像を見る限り、そこに向けられた信仰は残響が本来持っていた思いなのだと思う。目的や執着が、この幻惑の魔術に侵食されて書き換えられてしまったのだろうね」

昨日の訪問の際に、魔物達はこの聖堂にちょっとした仕掛けをしてきたらしい。

この聖堂に蓄積されていた下位の魔物達を、綺麗に掃除してしまったのだ。

ネアの歌乞いの儀式の時にも一度排除してしまっているので、またしてもセスティアの計画は一気に後退したことになる。

彼は毎朝ここを訪れているそうなので、その異変には気付いただろう。

とは言え、昨晩の自室待機の後なのでこちらにかかりきりになれもせず、全体集会の後でまたこちらに舞い戻ってくる筈だというのが、ひとまずの予測であった。

核というのは、必ず誰かの心の拠り所である。

執着であり、嫌悪である。

だからこのような時にこそ、セスティアはその核に実際に、或いは心で触れるだろう。

セスティアがディノを揺らして狂乱を目論んだように、魔物達も彼を揺らしてみたというところだった。

そう考えた魔物達は、今もこの場にはいないセスティアを捕捉している。

「であれば、あの素敵な像を盗んでしまえば良かったのではないでしょうか?」

「あれは、この世界に残った残響の願いの中心になるものだ。彼女の狂乱の気配に触れたことがある者に、過分な負荷はかけられないんだよ。もし彼も完全に狂乱してしまうと、ただでさえ真っさらではない彼自身の部分が失われてしまうかもしれない。ここに残る微かな核への執着なども、失われてしまうかもしれないからね」

「それが、品物が核の場合の厄介さなんだ。本人が核なら、どれだけ変質しようがこの世界に埋もれてしまうことはないんだがな………」

ゆっくりと聖堂を歩き、清しい朝の光を透かしたステンドグラスの影を幾つも踏んでゆくと、ふくよかな香の匂いが立ち籠める、大きな柱の横にある小さな祭壇のところに出た。

この祭壇の下の床にあるのが、地下の六枚羽の彫像がある部屋に降りる為の隠し階段なのだ。

地下からは入る事が出来ず、地上からも特定の降り方しか出来ない秘密の部屋になっている。

(アルテアさん曰く、魔術師がよく選ぶような仕掛けばかりという事だったけれど………)

その柱の横の祭壇に隠されたのは、人間しか開けない扉の鍵。

特殊な魔術の組み合わせに、特定の魔術の系譜の血などを鍵にしてあり、アルテア曰くとても緻密だが、分かりやすい組み合わせのものだったようだ。

そんな込み入ったものが果たしてアルテアの言うようにつまらぬ仕掛けなのかは怪しいところだが、仕事人のような秘密道具を取り出したアルテアは、あっさり解除してしまった。

ただ、人間の魂が必要なので最後にネアがちょいっと指先でアルテアの背中に触れる必要はあったが、かちゃりとかちゃりと動くパズルのように柱の根元の床が動いて組み合わさってゆき、地下への階段を現してゆく光景はネアの冒険心をいたく刺激した。

「む。ここは、昨日のようにすぐに閉めなくていいのですか?」

「そのまま開いておけ。すぐにあいつが来るだろう。…………シルハーン、もう大丈夫そうか?」

「問題ないようだ。こちらの世界の根幹の部分が震えたから、彼は今朝、核となるものに触れた筈だよ。こちらの世界の時間で四時間程度なら、触れた核がどこにあるのかは彼から辿れる」

「今朝以降、改変の風はまだ吹いていないな……」

「次の改変が入った時は、私は抑えに徹するしかなくなる。その前に核を固定させられると良いのだけど」

(………改変の風?)

その会話は、魔物二人が素早く交わしたものであった。

ネアにも秘密にはしないが、あまり触れて欲しくないことなのだろうか。

なのでネアは、その部分だけは二人だけの会話として認識することにして、違う部分に対しての疑問を投げかけてみる。

「四時間を過ぎると、少し危ういのですね………?」

「この世界の全体を覆っているような、幻惑の紗が、魔術の証跡を覆い隠してしまうんだ。だから、ここに来てから核を探すのに苦労していたんだよ」

「…………霧が濃くて、前がよく見えないという感じなのですね」

ゆっくりと階段を降りてゆくと、採光の工夫でもしているのか、地上よりも深く豊かな光を集めている地下祭壇が見えて来た。

その光の集まる空間に降りる前、ちょうど階段の最後のあたりが一番暗く、トンネルを抜けて明るい場所に出てゆくような不思議な高揚感と不安に苛まれる。

(……………信仰というものは、この世界でも変わらないのだわ………)

ふと、そんなことを考えた。

それはただ美しく、眼差しの先で胸を打ち魂を震えさせるもの。

跪き忠誠を誓い、もしくは見上げてその偉大さに縋りたくなる。

(終焉を司る魔物さん………。死者の王と呼ばれ、恐らく残響の魔物さんが恐れ、そして愛したひと…………)

恐ろしいから美しく、恐ろしいからこそ望み、触れたいと願う。

そんな心の動きは、隣を歩く魔物を見ていてもわかる気がする。

であれば残響の魔物は、そんな切実さを終焉の魔物に向けたまま、焦がれながら狂っていったのだろうか。

「美しいでしょう。その方は終焉の魔物、死者の王と呼ばれる魔物の王族の一人」

背後から朗々とした声が届き、ネアはぎくりと体を強張らせた。

魔物達は気付いていたのか、特に焦る様子もなく、寧ろ呆れたような顔をするばかりだ。

「セスティア様………」

様付けは却下した筈なのだが、振り返った先でゆっくり階段を降りてくる人を見たら、思わずそう呼んでしまっていた。

長い魔術師のケープには光が落ち、ゆっくりと歩み寄ってくるその歩幅に合わせて裾が広がる。

光の影が落ちた部分が青白く光り、ネアには見えない魔術を身に纏っているように思えた。

「妙なものをこしらえたな。これで、終焉の魔物を呼び出すつもりか?」

そう尋ねたアルテアに、セスティアは柔らかく微笑む。

それはまるで、理解の足りない生徒に教えを説くような、優しさと微かな侮蔑を込めた静かな眼差しだ。

「あなたが生き延びているとは思いませんでしたが、アルズに命乞いでもさせたのでしょうか?…………私を、まるで愚かな狂信者のような目で見るのですね。あなた方が、カルウィの侵攻に向ける思いはより愚かしく、無知も良いところでしょうに」

「お前達魔術師会は、この国の平定こそを望んでいたんじゃなかったのか?盾派のお前は、その最たる提唱者だった筈だろう」

アルテアは、この国の事情にも通じているようだ。

会話という体裁の時間稼ぎを任せておき、ディノは核の位置を特定したらしい。

隣でひたりと微笑んだ魔物の艶やかさに、ネアは味方だと分かっていてもひやりとする。

「勿論、この国を守る為に。戦などを起こさず、かの書によって守られたこの国を、あの一族の思いを引き継ぎ守る為に」

「…………ああ。書が失われたのは、魔術師会にとっては手痛かっただろう。あれがお前達の、この国での権威の象徴だったからな」

ぴくりと、セスティアの口元が引き締められた。

その言葉は、何らかの理由で彼の心の琴線に触れたのだ。

「あれは権威の象徴などではありません。……やれやれ、あなた方はそんな事すら理解せずに、アーサーにあの重責を課していたのですか。だから彼は、死者の日になっても地上に戻らないのかも知れない。あなた方軍人達は、彼が己の人生を捧げてこの国の平定を守護してきた功績をあっさりと忘却し、カルウィの間者にあの書を奪われた彼を国賊扱いとした。…………崖下に打ち捨てられた彼の遺体を見ましたか?彼がどんな思いであの本を守ろうとしたのか、あなた方は知ろうともしなかったのでは?」

それは、静かな静かな言葉だった。

けれどもその言葉には静謐であるからこその無念が滲み、慟哭が滲んでいて、ネアは思いがけず胸が苦しくなる。

この人は大切な人を奪われたのだと思ってしまうと、不本意ながらに心が動いてしまった。

そんなネアの心の揺れに気付いたのか、セスティアの瞳がこちらを見た。

どういう訳か、そんなセスティアの瞳が、ネアの隣にいるディノを見ることはない。

「ふむ。あなたには、幾ばくか響きましたか。あなたの年齢であれば、アーサーがこの国の守護聖人として祀り上げられ、どれだけ敬われてきたのかをご存知の筈だ」

「その方は、…………お知り合いの方だったのでしょうか?」

「ええ。アーサーは幼馴染でした。………そして、私の唯一人の全てを明かし語り合える友でした。だから私は、彼の為であれば何でも出来るでしょう。………けれどもそんな彼は、死者の日にすら地上に戻っては来なかった」

「…………死者の日になれば、死んだ方も地上に戻れるのですか?」

何しろこちらの世界の歴がまだ浅いので、思わずそう尋ねてしまったネアに、セスティアは少しだけたじろいだ。

けれども、ただの物知らずだと考えたのかすぐに彼は頷いてくれる。

「ええ。特定の手順を踏み処刑された者以外は、戻ってこれますよ。アーサーの死因、遺体に残された魔術の痕跡から、彼は戻って来られる筈なのです」

そんなことが可能なのかと驚いたネアが黙ってしまったからか、セスティアは、地上の聖堂の窓からの、ステンドグラス特有の幾重にも色を重ねる光を集めた彫像に視線を向けたようだ。

虹色の光を纏い、翼を持つ美しい男性は聖書の中の尊きものに見える。

「それは所詮、お前が軍部に反感を抱いている理由にしかならん。国を平定させる志を継ぐにしては、随分と妙なものに手を出したな」

「私はあの日、アーサーに会いに行く筈だった。唯一、彼を守れたかもしれないその選択肢を、私は己の多忙さを言い訳にして手放してしまいました。彼に会い謝罪が叶うなら、どのような罪、どのような禁忌とて犯すでしょう。ですが、それが叶わないのであればやはり、この方をこの場に呼び落とし、その身を縛る赦しを得るしかない」

(おや……………?)

ネアはふと、その文脈に不自然なものを感じた。

隣のディノを見上げると、どこか一点を見つめていた眼差しをこちらに向け、小さく首を傾げてくれる。

何かの作業を邪魔してしまったと気付き、ネアは慌てて首を振った。

ディノは、どうやら核を壊すための何かをしているようだが、なかなかに手のかかることであるようだ。

それならと黙っていようとしたのだが、死者の日になれば亡くなった人に会えるということがあまりにも衝撃的過ぎて、それなのにこんなところで足踏みをしているセスティアが我慢ならなくて、ネアは思わず声を上げていた。

「…………ではなぜ、あなたは死んで死者の国に行かないのですか?」

ネアがそう尋ねると、セスティアは鋭く息を飲んだ。

なぜかぎくりとしたように、ディノとアルテアまでもがこちらを向き、全員にじっと見つめられネアは首を傾げる。

(死者に、当たり前のようにまた会えるだなんて…………)

それが限られた日であっても、会える機会はあるのだという。

それがどれだけ贅沢なことか、目の前の人は理解していないのだろうか。

そう思うと胸の中がもやもやして、ネアは地面をがすがすと踏み荒らしたくなる。

(会いたかったのだ…………)

会いたくて会いたくて、事故現場にも墓地にも何度も通ったし、色々なものに願ってみた。

けれども誰も、ネアの前には姿を現してはくれなかった。

そんな風に当たり前に死者の国があるのなら、ネアは叱られても悲しませても会いに行っただろう。

会えるということは、そこにいるということに他ならない。

聖書に謳われるような神がいるなら犯人には天罰が下った筈だし、あの世があるのならネアの家族は必ずどうにかして会いに来てくれた筈だ。

けれど、何も起こらなかった。

あの世すらあるのか定かではなくなり、願い事も枯れ果てたネアは、自分から全ての願いと宝物を奪った人への復讐を始めることにした。

「………死ぬ事が出来ないだけの理由があるのならば、それがあなたの答えなのです。選んだものを尊び、そのご友人への贖罪の気持ちは持ち続けるとしても、自分の心と折り合いをつけて生きてゆけば良いのです。恥じることもありません。人間は身勝手な生き物ですし、大切なご友人よりも選び取るだけのものを人生で得ていると言うことは、とても恵まれたことではありませんか」

「…………あなたは、私に死ねとおっしゃるのですね」

「乱暴に言えばそうなってしまいますね。……でも、何にもおいてそのご友人が大切であれば、会いにゆけばいいのにと思います。探しに行けるというとても恵まれた環境にいるあなたが、私は正直とても羨ましい」

「…………は!………では、あなたはどうですか?その為に自ら命を断ちますか?」

どこか嘲るようなその問いかけに、ふすんと鼻を鳴らして、ネアは正面のセスティアの瞳を覗き込んだ。

微かに眉を寄せたネアを見て、セスティアのその瞳の奥に一抹の困惑が揺れる。

(この人は、何を言っているのかしら?)

罪も犯せる程に、何でも出来ると言ったではないか。

それが本心であれば、これ程お膳立てされた便利な世界もないだろう。

「ええ。私は自分本位ですので、何の躊躇いもなくそうするでしょう。寧ろ、亡くなった方に会える事が証明されている、こんなに恵まれたところに生きていて、どうしてその選択をせずにいられるのかが、私には分かりません。………勿論、それは最良の選択肢ではないでしょうし、賞賛も感謝も、同意だって得られないでしょう。けれど、どんな手を使ってもと言い切るだけの覚悟があるのなら、あなたはそうするべきでした。……それなのに、そんな一番の近道を放棄してここにいるあなたが、その為にこれだけのことをしたのだと告白してみせても、私には到底言葉の通りには思えないのです。………それに、ここにあるのは、本当にあなたのしたかったことなのでしょうか?」

ネアのその言葉に、セスティアは目を細めた。

はたりと、魔法使いのようなケープが温度のない風に揺れ、その足元には恐ろしいことに、喰らわれて凝り集まった魔物達の残骸のような影がざわめく。

「あなたは、ご友人に会いたいのだと言いながら、死者の王を捕らえて自分の手の中に収めることを夢見ています。それは決して同じことではないし、きっと同じ理由でもない。あなたがなさりたいのは、ご友人に会い謝罪することなのでしょうか?或いは、ご友人の責務を引き継ぐこと?それとも、死者の王に会い、その方を捕らえることなのでしょうか?」

ネアがそう尋ねると、セスティアの眼差しが曇り、その心が自身の内側に向けられているのが伺えた。

正気ではないが冷静だと、魔物はセスティアをそう分析していた。

であれば彼が目的や自身の願いを見失っているのは、ここで入り混じってしまった誰かの思いのせいなのだろう。

「私は…………」

声音が揺らぎ、ひび割れる。

「私は、アーサーに会わねばならない。会って、あの日に共にいられなかったことを詫び、彼が守ってきたこの国を守るのだ……」

そう呟いたその声が、刹那くるりと飜る。

「私は、会わなければならないのだ」

その声には歓喜が滲み、ぞっとするような妄執が垣間見えた。

「終焉を司るあの方に会い、この身を滅ぼすと決断させたその罪を贖い、赦しを得てその身に触れたい。………そして、歌乞いに囚われたあの方を解放し、その行いであの方の赦しを得るのだ」

「おかしなお返事ですね。まるで、心が二つあるようです」

首を傾げたネアの言葉に、セスティアはどこか苛立ったように眉を吊り上げた。

「矛盾などしておりませんよ。終焉の方の司る鳥籠は、死の気配と荒廃した大地に展開されるもの。ここに死や破滅を敷き、穢れを薫せれば、あの方はきっとこの地に降り立つでしょう」

「でもそれでは、アーサーさんの守ろうとした国はどうなってしまうのでしょう?」

「ラズィルが完全に失われれば、軍部の愚かな者達も、この国が現在、カルウィの相手を出来る程の余裕などないと思い知るでしょう。鳥籠は、疫病やより多くの死や破滅も引き連れてくる。大いなる者の手によって死の蹂躙を受けた土地が広がれば、人々の心も、より確かな守護を求めて魔術師会へと傾倒してゆく」

「では、それが叶えば、もうアーサーさんには会えなくても良いのですね?」

恵まれた環境のくせに我が儘を言うセスティアに実は苛立っていたネアは、あえてそんな意地悪なことを言ってみた。

絶句してしまったセスティアにやれやれと溜め息をついたところで、隣の魔物が手を伸ばしてネアを抱き締めてくれた。

「ごめん、私が作業をしている間に、不愉快な思いをさせてしまったね。概念だけのような形になっていて実体を持たなかった核を固定したから、もう大丈夫だよ」

「む。実体がなかったのですね………」

それで暫し無言だったのかと、ネアは得心する。

「さてと。やっとこいつの出番だな。お前ごと撃ち抜いても悪く思うなよ」

それまで、ディノと同じように黙していたアルテアが構えたのは長銃だ。

いつの間にか、銃を構えるのに良い場所を見付け出したらしい。

(魔物さんなのに、銃を使うんだ………)

魔法で一発とかではないのかなと考えたネアに気付いたのか、ディノがその理由を説明してくれる。

「ここは、特に幻惑の影響が強いんだ。こちらの世界に元々あるもので破壊しないと、復元されてしまうかもしれないからね」

「ふむふむ。だからディノも、核とやらを実体化させるのに真剣だったのですね……」

すると、ネアはこちらを見たセスティアが、驚愕の眼差しでディノを見ていることに気付いた。

「む。初めてディノに気付いたような驚きぶりですが…………」

「少しだけ時間がかかったから、こちらに意識が向かないようにしていたんだ」

「まぁ、それでディノがいないように振る舞われていたのですね。…………固まっていますので、今の内にずどんとやってしまえばいいのでは……?」

「ご主人様…………」

あまりにも容赦のない見解を示したネアに、魔物はふるふるしながらこくりと頷く。

ディノ達が懸念していた一つの可能性をすっかり忘れたまま、そろそろ帰れそうだぞと、ネアはほっと息を吐いたのだった。