軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

秘密の宝物と胸底の温度

「あら、久し振りにこちらで見たわね」

それは、王都で迎えた新年のことだった。

少しだけやることがあり、一人で行動している時、そう声をかけてきた女性がいる。

その涼やかな黒い瞳を見返し、ノアベルトは作りものの微笑みを淡く刻む。

声をかけて来たのは、かつてこの王都に入り浸っている時に何度か誘いに応じたことのある、正妃の契約の精霊だった。

扇情的な藍色のドレスに、ひらりと翻る裏地が血のように赤い。

ひやりとするくらいの美女なのだが、これがどんな生き物なのかを知って近付かない男も多かった。

「もう、ここは飽きてしまったからね。君はまだここにいるのかい?」

「あら、勿論よ。好きなだけ殺し、好きなだけ傷付けても感謝され、限定された条件で頭を使って愉快に遊べるのはここだけだわ。それに私は、私の契約の人間をとても気に入っているの」

そう微笑んだ彼女は、ふと、怜悧な美貌が際立つ一人の妖精に目を止めた。

そうされたことに堪らなく不快感を覚え、ノアベルトは瞳を細める。

「…………あの妖精を見ているのかい?」

「ふふ。綺麗でしょう?あれで彼は、かつては叡智深く勇猛とされた妖精の一族の若き王だったのよ。彼の羽を毟るのは楽しかったわ。彼の屈辱に歪む顔もね。………でも今はもう、私の管轄下にないの。どうしてかしらね。或る日突然、飽きてしまったのよ」

「…………まぁ、そういうものじゃないかな。もう充分に遊んだんだろう?」

「ええ。それはもうたっぷりと。………でもそうね、もうあの妖精では楽しめそうにないから、今夜は私と一緒に踊らない?」

その微笑みは残忍で高位の精霊らしく美しかったが、ノアベルトは吐き気を堪えなければならなかった。

我が物顔で肩に回された手にも、拘りもなく微笑めたのはいつまでだったろう。

あの頃は、この精霊が細い手で縋るこの身が、彼女の守護する王妃や伴侶を、そしてその子供を損なうことを楽しんでいるのを知らないことを心の底で嘲笑っていた。

適当に言葉を重ねてその場を立ち去ると、ノアベルトは、手早く構築した排他的な魔術空間に逃げ込む。

壁に背を預け、一度だけ強く瞼を閉じた。

「…………………あーあ、この国の行く先がどうでもいいなら、あんな精霊なんて引き裂いてやるのに」

そう呟いて口元を片手で覆うと、前髪を片手で掻き上げた。

きりりと唇を噛み、歪んだ微笑みを深める。

「でもまぁ、あの王妃が死んで守護が離れる頃には、あんな精霊達は邪魔なだけだよね。王妃だってまぁ、死者の国に行った後は、どうなろうがこの国を脅かしはしない」

その言葉を重ねて微笑みを深めると、ようやく胸の奥に凝った苦しみは和らいだ。

その時にきっと、あの女達は思いもかけない魔物の怒りを買っていたことを知るだろう。

その時に浮かべるであろう絶望と恐怖を思い浮かべ、少しだけ溜飲を下げた。

「…………さて、戻ろうかな。あの二人を守らなくちゃだからね」

だが、そんないつかの彼女達の受難を想うよりも、その言葉の方が余程気持ちを明るくしてくれた。

そんな事実に目を瞠り、ノアベルトは奇妙な安堵に包まれる。

(こういうのは、知らなかった)

壊し歪めることばかりを楽しんでいたあの頃にはなかった喜びが、今はここにある。

そう思ってくるりと魔術の擬態を踏み駆けてゆくと、廊下の角を曲がったところですいと手を伸ばされた。

顔を上げれば、深い瑠璃色の瞳をこちらに向けた妖精が、どこか呆れたような顔をしている。

「迷子になったかと思いましたよ。この王宮にはあまり良くないものがおりますから」

そう言ってノアベルトを持ち上げてくれたのは、リーエンベルクにいる時よりも鋭い目をしたヒルドだ。

ノアベルトは思わず、銀狐姿のままで、せいいっぱいすりすりしておいた。

今はもう、ヒルドの羽はきちんと六枚ある。

「…………ネイ?」

ヒルドは不思議そうだが、そんな彼がこの王宮でどれだけの忍耐を強いられたのかを思えば、ノアベルトは優しい友人を大事にしたくなる。

その隣にはエーダリアがおり、第一王子の采配から、ヴェンツェルの代理妖精が一緒にいた。

(へぇ、…………上手いことをするな)

一緒にいる代理妖精の表情は固いが、それはエーダリア達を警戒する上で同行を命じられた案内役の憂鬱を示す為の体裁で、実際には彼等を守っているのだ。

ヴェンツェルには、このエーダリア達を失う訳にはいかない理由がある。

(それは多分、ガレンとウィームの加護を失う訳にはいかないという政治的な理由とは別に、第一王子の個人的な感情としても………)

あの第一王子もまた、ノアベルトと同じようにエーダリアを気に入っていた。

たったそれだけのことで、ノアベルトはヴェンツェルを見直したくらいだし、今ではもう、この暗く醜い王宮からエーダリア達を逃すことに手を貸したと知ったことで、ヴェンツェルには好感を抱いてすらいる。

「………ここはもう我々の場所ではなくなったのだと知っても尚、あの方を見るとひやりとしますね」

「…………王妃は変わらないな」

「ええ。あの方は契約の精霊の恩恵を受け、長らく変わらない姿のままですから」

ヒルドとエーダリアがそう囁き合うのは、一際高いところに王と共に立つ、この国の正妃だ。

引きずる程に長いケープは透けるような淡い金色で、漆黒のドレス姿がその資質そのもののように際立った。

深みのある真紅と白の装いのヴェルクレア王の伴侶として、その美貌はこの上なく強く揺るぎない。

そんなヴェルクレアの正妃は、健やかな女性の姿のままでその容貌の時を止めている。

少女の域を脱し妖艶な女性としての美貌を誇るその肢体は、きっと普通の人間の目から見れば羨望のものなのだろう。

しかし魔物の目には、正妃のその姿は決して美しくは見えなかった。

人間にはやはり、その生まれ持った魔術の幅と質、そして運命の織り上げる祝福により、魂に見合った姿形がある。

艶やかな漆黒のドレスを纏った正妃には、その生まれ持った魔術と運命の健やかさがない。

それを魔物は醜いと思うだろうし、或いはその醜さを愉快だと思う者もいるだろう。

妖精達はあの王妃には決して近付かない。

竜族も同様で、やはりあの王妃を嫌厭しているようだ。

そんな風に歪んで整った美しく悍ましい王妃が、この国の王妃なのだった。

ふわりと風もないのに揺れる黒髪に、ノアベルトは目を細めた。

銀狐の尻尾をエーダリアの首に巻きつけ、その隣に背筋を伸ばして凛と立つヒルドをしっかりと見ている。

もし、この中の誰かがノアベルトの守護するものを傷付けるのだとしたら、その時は今度こそ、この王都を滅ぼしてしまおう。

(あの、統一戦争の日より長く暗く、その手筈はいつだって整っている)

ノアベルトがその準備を既に整えていることを知っているのは、恐らくシルハーンくらいのものだろう。

或いはもしかしたら、ウィリアムあたりも気付いているかも知れないし、案外アルテアあたりも、既にこの王都に何か仕掛けをしているのかもしれない。

(僕の場合、それは滅ぼす為だった)

くるりと回る。

あのラベンダー畑で、揺れるスカートの裾を見ている。

香草と石鹸の香りのする店で語り合った不思議な夜。

そしてその後の、不思議な不思議な予感を喪って、這いずるように生きた暗く凍えた日々。

いつかここを悪戯に傷付ける日々にも飽いたら、この国を滅ぼすのも悪くないと考えていた。

でもそれは、ただ無くなるだけだ。

だからもしかしたら、ノアベルトがヴェルクレアの王都とその王族達を生かしておいたのは、憎しみですら失わないようにとするその為だったのだろうか。

「…………さて。これで今年も、新年の義理は果たしたな。あの術式の効果が途切れないことを願うばかりだが、………きっともう、大丈夫なのだろうな」

そう微笑んだエーダリアが、つま先を踏み替えて踵を返す。

隣に立ったヒルドも微笑みを深めた。

二人がこちらを見たので、ノアベルトは力強く頷いておいた。

エーダリアが編んだ禁術は、常にノアベルトが監視している。

それが緩むようなことが決してないよう、常に手入れもしていた。

「私の一族を滅ぼした者の持つ術があなたと私をここから逃したのですから、不思議な縁ですね」

「…………そうだな。………エドラ?」

「ここはもういいでしょう。早々に立ち去りますよ」

「ああ、言われなくてもそうするところだ」

「我々代理妖精にとっては、例え主人の母君だとしても、あの方の気配は耐え難い」

ノアベルトも全く同意見だったので、尻尾でばしばしとエーダリアの後頭部を叩いた。

頭をぽふぽふとされたエーダリアが苦笑するのが分かって、ノアベルトは心の奥がむずむずする。

それはノアベルトがリーエンベルクに住むようになってから、頻繁に胸をざわめかせる思いであった。

かつて一度だけそれを知ったとすれば、それはきっと、ネアに出会ったあのラベンダー畑の夜だけなのだ。

あの日にノアベルトが貰ったものは、熱に浮かされるような恋情や欲望ではなく、今こうして足の下に踏みしめている守るべきもののような、このぬくもりへの道行きだったに違いない。

(だから僕は、絶対にネアの手を離してはいけないと思ったのだろう)

「やれやれ、もう自然にしていて大丈夫ですよ。足踏みはもう止めたら如何ですか?」

ふわりと頭の上に手が乗せられた。

ヒルドの手は軽く、そして優しく撫でてくれる。

その手に撫でられると、ノアベルトは幸せな気持ちになるのだ。

ついつい尻尾をふりふりしてしまい、エーダリアがまた苦笑する。

(ああ、………僕はとても幸せだ)

だから爪を研ぎ、牙を磨き、時には最後のその時に動かす術式を手入れしにこの王宮を訪れ、いつかこの幸せに手をかける者があればただ滅ぼすのみだと、そう強く思う。

かつての彼等を傷付けた者達を恐怖のどん底に突き落とすのは、さぞかし楽しいだろう。

(………でも僕は、多分そんなことをすることはないだろう。だって僕はもう、この手の中にある大切なものを手放しはしないから)

「すまないな。魔物とて、この王宮の空気はあまり良いものではないだろう。我慢が出来なければ…」

「おや、そうは思わないようですよ。しかし、我々には分からないような不快感もあるかもしれませんね」

それなのに彼等は、ノアベルトの心配ばかりする。

また心がむずむずして、ノアベルトは尻尾をふりふりして一声鳴いておいた。

窓の外の景色は、ウィームとは違う。

この時期でも雪が降ることはそうそうなく、寒くはあるものの決して降った雪が薄く積もる以上のことにはならない。

ヴェルリアの港町は賑やかで、大国の王都としての装いも華々しく、まるで美と魔術の叡智の万華鏡のようだが、ノアベルトがこの街を美しいと思ったことは一度もなかった。

塩の魔物と呼ばれるノアベルトだが、潮風の香りのするこの土地よりも、雪の香りがするウィームがいい。

(それに、同じ海なら、ネアと一緒に電車で行った土地の海の方が好きだ)

灰色の静かな海と白い砂浜。

静謐さが漂い、柔らかな時間の流れるあの小さな町。

(そうだ。僕達はもう色々なことを共に乗り越えた)

咎竜の呪いやレーヌの呪い、死者の国に落とされたことや、光竜の事件に闇の妖精の事件。

ヒルドが友達になってくれたあの日に、ネアが部屋をくれた日と、エーダリアが契約を望んでくれた日。

(シルが僕を友達だと言ってくれたし、ネアを大事にするウィリアムはそんなに嫌いじゃない)

そんなことを考えていたら、誰かに背中を撫でられた。

「この狐は、やはり生きているのか………」

「兄上…………」

かつてはその心を削る為の罠にもかけた第一王子に撫でられ、けばけばになったノアベルトに、エーダリアがどこか困ったような顔をする。

「ヴェンツェル、小さな生き物を触る時には声をかけてからにしないといけない」

「お前は新年も口煩いな」

「それと、抱いてみたいならエーダリアにお願いしなければ駄目だ」

恐ろしいことを言い出したのは、この第一王子の契約の竜だ。

かつての統一戦争時、恐らく誰よりもウィームを焼いた竜だ。

しかしノアベルトは、この竜が殺しながら慟哭していたのを知っている。

雪竜達を殺し、悲鳴を上げて逃げ惑う人間達や、愛しい人の亡骸を抱いて絶叫している妖精達を薙ぎ払い踏み潰し、塵芥のように殺しながら、この竜も泣いていた。

愛するものが全て焼け落ちたと思っていたあの日。

王族の生死を確認する為に、王宮から引き摺り出されて王宮前の広場に並べられた焼け焦げた遺体の山。

その焦げ臭さを思い出し、ぶるりと身震いした。

「すみません、兄上。どうやら知らない者に触られるのは苦手なようです」

「何だ、まだ人馴れしてないのか」

ふと我に返ると、そんなやり取りが頭の上でなされていた。

ノアベルトはエーダリアの腕の中にいて、なぜか守られている気持ちになる。

「そこまで繊細でしたか?」

「ヒルド…………」

「ですが、やはり少し疲れているようですね」

ヒルドには、その統一戦争の最後の日の、焼け焦げた遺体の山が築かれたリーエンベルクについて語ったことがある。

それはヒルドが、目の前で、後ろ手に縛られ一列に並べられた親族達が、次々と首を刎ねられていったその日の夢を見たのだと、話してくれた日のことだった。

何とか逃げ延びさせた女子供達は、自ら羽を落として人間に紛れた。

しかし、羽を落とした妖精はひどく短命になる。

彼等の血を引く者はいるかもしれないが、もうこの世界にヒルドの同族が生き延びている可能性はとても低い。

ヒルドが己自身と引き換えにして救った筈の仲間達も、裏切り者の精霊の一族にことごとく殺されてしまったのだとその時に知った。

ヒルド曰く、統一戦争でほとんどが滅ぼされてしまった雪のシーも、ディートリンデくらいしか生き残っていないのだそうだ。

今の代の雪の妖精達は新しく派生した幼い者が多く、ディートリンデはその若い一族がシーとしての力を得るまでは長生きしないといけないなと、そう話しているのだそうだ。

(ネアも、家族を全員亡くして、一人でずっと暮らしていたと聞いた)

でも今は、みんなが幸せそうだ。

ウィーム王家の血筋を利用出来るかどうかを思案する為だけに産み落とされ、ヒルドに母親を殺され、一人でこの王宮を生き延びた幼いエーダリアも。

(実は僕は、エーダリアを知っているんだ)

それはとても遠い昔のこと。

弔いの鐘の音が響く夜明け前の王宮で、小さな子供が泣いている。

その子供がウィームの血を引く子供だと知り、何人もの人外者達が密かに守護をかけていた。

それでも王族の血に纏わる悪意は幾つもあり、その一つが手を届かせてしまい、幼い王子を殺しかけていた夜。

ノアベルトはたまたま通りかかりその騒ぎに気付いたので、浴室に立て籠もって歯を食い縛っている王子を嚙み殺そうとしていた魔物を捕まえると、その魔物を差し向けた貴族の館に放り込み返してやった。

きっと、扉の隙間からこちらを見ていた小さな子供には、その魔物を排除したのが誰なのかまでは分からなかっただろう。

ノアベルトは勿論ウィーム贔屓だったが、それ以上に人間が嫌いだったので、その場に残されたエーダリアを気遣うこともなかった。

ただ、立て籠もった者を殺そうと襲いかかる真っ赤な火獣の姿を見た時、救えなかったもののことを思い出して咄嗟に動いていただけ。

「もういい時間だな。ガレンに移動するか」

「なんだ、こちらに泊まっていかないのか?」

「我々が手の届くところにいることで、いらぬ騒ぎが起きても堪りませんからね」

「それもそうだな。ガレンなら安心して眠れるだろう」

そんなやり取りをするエーダリアとヴェンツェルの向こうで、ヒルドはウォルターに、ちびふわという生き物を見てみたいと言われて苦笑している。

あの宰相の息子は、ダリルの弟子なのだそうだ。

ネアも気に入っているというので、顔を覚えておこうと考えて見上げると、じっとこちらを見ている。

そろりと近寄って来たので、ノアベルトはさっとエーダリアの腕の中に隠れた。

ゼベルと同じ目をしていたので、危険を察したのだ。

「今年も長かったな…………」

「ああ見えて、ヴェンツェル様はあなたのことをかなり気に入ってますからね」

「そうみたいだね。僕はあの王子とは色々あったけれど、今はエーダリアを大事にしてるからなかなかに気に入ってるよ」

「そ、そうか………」

「ありゃ。エーダリア照れたでしょ」

「照れてはいないぞ!」

「ヴェンツェル様の本心の分かり難さはかなりのものですが、エーダリア様は分かりやすくなりましたね」

そう微笑むヒルドは、最近のエーダリアが少しだけ心を緩めたことを喜んでいるらしい。

逆にダリルはその変化を警戒していたようだが、ノアベルトから、その変化を補って余るくらいに自分が腹黒いので心配しなくていいと話をしてやり、特別研修を免れたことをエーダリアは知らない。

「ねぇ、エーダリア。ガレンの部屋を見せてよ」

「…………あ、………いや、あくまでもあそこはガレンエンガディンの執務室だからな。客間がある。それに、執務室にあまり外部の者を入れるのも……」

「おや、…………まさかそこに、ダリルや私が購入を禁じた特殊な魔術書を隠し持っていたりなどしませんね?」

そこでエーダリアは、分かりやすく視線を彷徨わせてしまったので、その夜はガレンのエーダリアの部屋の大捜索をする羽目になった。

エーダリアが半泣きで捨てないでくれと取り縋っていたが、ヒルドとノアベルトが容赦なく捨てなければならない危険な本が二冊もあったので、定期的に掃除をしに行く必要がありそうだ。

ノアベルトも銀狐に甘い騎士達から買って貰ったボールを幾つか隠し持っているので、それをヒルドに見付からないようにしなければならないと、しっかりと気持ちを引き締めることになった。