軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

本の虫と鯨の溜め息

こちらの世界で本の虫と言えば、書庫を泳ぐ小魚の姿をした生き物だ。

群れになれば渦を巻き大洋を泳ぐ鰯の群れのようになり、本を守る栞の魔物の餌となる。

そして、手入れを忘れられた大きな書庫には、本の虫が大きく育った鯨が現れるのだそうだ。

こうなってしまうと手遅れで、栞の魔物も鯨は食べようとしない。

特殊な薬剤を焚いて丁寧に駆除するか、時間のかかる魔術を敷いて駆逐するしかない。

とは言えこの鯨もまた貴重なもので、稀少な大鯨の中には失われた古の知識が眠っていたりする。

この世界にも存在する冒険家達や、駆け出しの無所属魔術師達にとっては垂涎の獲物でもあった。

よって、鯨退治の英雄物語は、子供用の絵本では人気の主題となっていた。

「ヒルドさん、今日見にゆく鯨さんは大きいのですか?」

「そうですね、小さな家くらいでしょうか」

「分かりやすいようで、ヒルドさんにとっての小さな家がどの程度なのかわかりませんでした」

「最大規模の鯨ではありませんが、昨年発見された鯨達よりは大きいくらいですよ」

「なんと………。心の準備が出来ました」

ネアは本日、その鯨になった本の虫を見るツアーに連れて来て貰っていた。

参加者はヒルドとネア、そしてお留守番が出来なかったディノである。

ヒルドと出掛けると言うとディノが駄々をこねたので、ネアは叱って留守番させようとしたのだが、伏兵は思わぬところにも潜んでいた。

ヒルドが鯨を見に行くと知り、同じく駄々をこねた人物がもう二名いたのだ。

術式に目のないエーダリアと、同じく失われた書物に目のないダリルだ。

抜けられない仕事があった二人は置いていかれる憎しみを策略に転換し、無理矢理魔物を同行させてきたのである。

ネアとしては一向に構わないのだが、面倒を見る子供が増えた気分なのか、ヒルドの微笑みは若干虚ろであった。

(そう言えば、ヒルドさんと二人で出かけたことってないなぁ)

リーエンベルク内では何かと頼りにしているヒルドだが、プライベートとなると若干読めないので声をかけ難いということもある。

「ヒルドさん、ここはお城だったのですか?」

「いえ。領主の館ですよ。ただ、かつてここには薔薇金の鉱脈があったので、一国の王を凌ぐほどに裕福だった時代があり、その頃の城なのです」

「薔薇金、ですか」

「森の魔術が潤沢な土地ですと、その祝福を受けた資源が育つんですよ。薔薇が咲くように地下に蓄えられ、薔薇の香りと薔薇色の輝きを帯びます」

「だからここは、深い森の中にあるんですね」

そこは深い森に呑まれた館だった。

真っ白で、繊細な尖塔を持つ物語のお城のような館があり、けれどもその大半は鮮やかな森に侵食されていた。

どこか幻想的でもあり、廃墟としての仄かな恐ろしさもある。

そして、みっしりと石壁を覆った藤の花が壮観であり美しくもあった。

ぷんと香るのは、緑の香りと水の香り。

よく見れば、崩れた噴水からはまだ綺麗な水が湧いていた。

小鳥達が水浴びをして楽しげに囀っている。

「不思議だね、終焉の足跡がない」

微かな霧を添わせた森を振り返り、ディノは不思議そうに首を傾げた。

「終焉の足跡がないと不思議なのですか?」

「そうだね。こうして作り上げられた文化が、朽ちているわけだから」

苔むした白大理石の階段を登りながら、ヒルドが小さく羽を広げる。

かつて彼が暮らしていたという国を思わせる程、彼は緑豊かな森の景色に馴染んだ。

「カインの都については謎が多いようです。かつてこの都の守護をしていた魔物が力を失った結果、森の精霊が勢力を増して都を呑み込んだとも、藤の魔物の怒りを買ったとも、奇病により一晩で滅びたとも様々な説があります」

そう教えて貰うと、この森の中の屋敷はとても謎めいて見えた。

人間が作り上げたものに人間の姿がないというのは、偏った目線かも知れないが不思議な感じがする。

チリリと声がして上を見れば、鮮やかな黄色の鸚鵡に似た鳥が飛んで行った。

奥にある大きな木の枝の上には、鳥の羽を持った蛇が集まって雑談しており、ヒルドの羽を見ると小さな歓声を上げて喜んでいる。

「ヒルドさんが大人気です!」

「……ああ、ここには森のシーがいないようなので、見慣れておらず珍しいのでしょう」

「もっと熱い興味を向けている方もいらっしゃいますよ。さっき、狐のような妖精さんが頬を染めて失神していました」

「おや、困りましたね。そのような興味は、望んだ方だけに向けていただければ充分なのですが」

「………今の発言で、木の上の妖精さん達も落下してゆきましたね」

ヒルドの冴え冴えとした微笑みは破壊力が強過ぎたらしい。

翼を持つ蛇達もぼさりと落ちていった。

「ネア、ほら百足だよ」

「………しばらく別行動しましょうか」

「ご主人様?!」

ネアがヒルドとばかり話していてつまらなくなったのか、ディノが指し示したのは水色の立派な百足だった。

視界の端にも入れず、ネアはさっとヒルドの方に逃げる。

「ディノ様、蜘蛛が苦手なのですから、恐らくネア様はその手の昆虫はお嫌いでしょう」

「細長い蛇は大丈夫なのに?」

「ディノ、蛇と細長い虫は違います!寧ろ、蛇と蜥蜴が苦手なら竜も苦手になってしまいます」

「ネアにとっての竜って何なんだろう……」

魔物が考え込んでしまうと、なぜかヒルドも同じような顔をした。

あまりにも考え込むので、ネアはわかりやすく説明してみる。

「羽のある大きな蜥蜴さんです」

しかし、男二人は絶句してしまった。

「ネア、……竜は人間や妖精の元になった生き物の一つだよ?」

「ネア様、竜に比較的近いと称される動物は、狼だと言われています。決して蜥蜴だとご本人方に言わないように」

「…………狼。鱗の定義とは……」

ネアも謎に包まれてしまったが、よく考えればこの世界の雷鳥はぶーんと音を立てて飛ぶタオルハンカチなのだ。

区分が謎めいているのは諦めるしかない。

「やっぱりネアは危なっかしいね」

「そうですね。しっかりとお守りしていかないとという気持ちになりました」

「………幸せなことに、もう充分過保護にしていただいております」

ゆるやかな螺旋を描く階段を登りきると、大きな装飾扉があり、朽ちて崩れた木戸の向こうに素晴らしい壁画が見えた。

天井の一部も崩れているのか、陽光が落ちている廊下を、さっと兎のような生き物が二本足で駆け抜けてゆく。

あの兎を追いかけたら、また違う異世界に迷い込むのかも知れない。

「場は均してありますから危険はありませんが、見慣れない植物には不用意に触らないように」

「はい。ヒルドさん、これは薬になりますか?」

「…………既に狩りを始めてしまっていましたか」

「髪の毛につきそうだったので払おうとしたら、お亡くなりになりました」

ネアが手にしているのは、玉虫色の蜻蛉のような生き物だ。

慌てたディノが手のひらから取り上げてゆき、ご主人様の手を布のようなものでごしごしと拭いた。

「ネア、この妖精は猛毒だからね」

「あら、悪いやつなのですか?」

「ボームンは知能の低い妖精なのです。魔術階位も低く脆弱なのに何にでも触れてしまうので、種の保護の為に毒を持った一族ですね」

「………もっと別の進化の方法があったのでは……」

ネアは世の無常さをまたしても噛み締め、とは言えボームンは呪い封じの薬になるそうなので、ヒルドにガレンに送って貰った。

鮮度が命の薬材であり、すぐに加工しなければいけないのだとか。

ザハで素敵な晩餐をいただけるくらいの臨時収入になったので、ボームン一族への同情心もすぐに霧散する。

他にもいるのであれば、是非に狩りたい。

屋敷の中はさすがに廃墟然としていた。

崩れた石壁には最盛期はさぞかし壮観であっただろう壁画がひび割れながら残っており、扉が朽ちてなくなった向こうの部屋は緑に侵食されている。

そして、緑だけではなく結晶石のようなものも侵食を深めており、壁や床のいたるところに見事な塊が出来上がっていた。

これは夜になると光るそうなので、夜に訪れたら幻想的な光景なのだろう。

真っ直ぐな回廊を歩き進めつつ、自然というものの力強さに感嘆していれば、目的の書庫のあるという棟に辿り着いた。

そこの部分の扉は何とか残っているようだ。

ヒルドが手をかけてぎしりと開ければ、ぷんと書物と、独特の香の香りがした。

キチチ、と上の方で鳥の鳴き声も聞こえる。

「すごい、………海の中のようです」

ネアが呆然としたのも仕方のないことだった。

円筒形の大きな書架には、まだびっしりと見事な蔵書が残されている。

見上げるほどの高さで、可動式の階段を使って四階まで上がれたようだ。

硝子が落ちてしまった陳列棚には希少本の展示もあったらしく、そちらは空気に晒されて崩れてしまったのか、茶色の土塊のようなものが残っているばかりだった。

そして、何よりもネアが驚いたのは、書庫内のあまりの青さだった。

視線をあちこちに向けても青の要素はないのだが、強いて言えば落ちる影が晴れた日の夕暮れ時のような何とも言えない鮮やかな青さに染まっている。

そのせいで、まるで水族館の中か海の底にいるような気分になってしまうのだ。

「空気が青いでしょう。本の虫が鯨になると、影や空気まで青く育ち、書庫そのものを海とするようです」

そう説明してくれながら、ヒルドは手の甲で壁をこつこつと叩いた。

「………わ、……鯨です!」

ざわりと空気が動き、書架の後ろから巨大な鯨が現れた。

この部屋そのものが元々大きいのだが、その壁から天井にかけて怖いくらいに大きな魚影が頭をもたげている。

ゆったりと体を揺らし泳ぎ出した。

よく見れば、リーエンベルクにもいた本の虫である小さな小魚達が集まり、巨大な鯨になっているようだ。

「………鯨さんは、危なくはないのですか?」

「ええ。駆除の手筈を踏まない限りは、第三者に興味は示しません」

「と言うことは、駆除しようとすると何か起こるんですね」

少し不安になったので魔物に掴まろうとしたところ、魔物は壁際についている謎めいた生き物を見ていた。

イソギンチャクのようで大変気持ち悪いので、あまり近付きたくはない。

すすっと離れると、近くにいたヒルドの袖に掴まった。

「……おや、ご不安ですか?」

「もし駆除的要素がうっかり発動したらという警戒心からです!」

「慎重なのは良いことですね」

「ヒルドさんは、どうやってこの鯨さんを見付けたのですか?」

「信仰の魔物が逃げ込んだ先でしたので」

「………懐かしい事件ですね」

ヒルドは、袖を掴んだネアの手をきちんと腕にかけさせると、鯨の全容が見えるようにと部屋の真ん中に連れて行ってくれた。

見上げた半円のドーム型天井の真ん中を横切るように、巨大な鯨が泳いでゆく。

鯨の周りには、形成から溢れた小魚姿の本の虫達が一緒に泳いでいる。

彼等の泳ぐ姿は、本当に海の中を覗いているようだった。

きらきらと窓の隙間から溢れる陽光の欠片がダイヤモンドダストみたいに輝き、息を吸い込んだ胸の奥まで青く染まるような不思議な空間に、声もなく見入ってしまう。

「ネア、これ…」

「壁に返してきて下さい。イソギンチャクは苦手です」

「ご主人様……」

しかし、嫌な予感がしていた通り、魔物はイソギンチャクをご主人様に持って来ようとしたようだ。

食い気味に拒絶すれば、しょんぼりとイソギンチャクのような何者かを壁に戻しに行った。

あの手を拭いてくれるまで、魔物と手を繋ぐのはご辞退させていただこう。

(……そして、簡単に壁に戻るんだ)

ディノに壁に戻されたイソギンチャクは、やれやれといった風に壁をよじ登ると、体全体を使って明らかに大きな溜め息を吐いた。

「……ディノ、手を拭いて下さいね」

「ご主人様、…………浮気」

「魔物がイソギンチャクに浮気していたので、孤立無援だったのです」

ヒルドの腕に手をかけているのを見付かり、魔物は責めるような視線になるが、イソギンチャクをこちらに持って来ようとした魔物も恐怖の対象だったので自己責任である。

「ほら、手を拭いたからこちらにおいで」

「む。……もう、百足やイソギンチャクを見せようとしませんか?」

「しないから安心して。怖がらせて悪かったね」

そろそろと手を出したので嫌さが伝わったようだ。

本当に申し訳なさそうにしてくれたので、ネアはほっとした。

「………これで安心して…………ヒルドさん?」

またしても本能的な危険を感じて振り向けば、ヒルドが何やら香炉のようなものを取り出していた。

「ディノ様、ネア様をお願いいたしますね」

「あれ、駆除するんだね」

「ええ。腹部にハーレサムの戯曲が見えました。エーダリア様が長年探している擬態書ですので」

「………擬態書?」

「他の専門書に擬態した書物のことだよ」

「そして、あの大きな鯨さんと戦うのですね」

「ちょっと激しくなるから、ネアはこっちにおいで」

「……………鯨さん」

ある程度の時間鑑賞は出来たが、この雄大な生き物が早くも見納めだと思えばほろりと寂しさが募る。

魔物に壁際に避難させられつつ、部屋の中央で薬剤を焚き始めたヒルドを見ていた。

緊張した様子もなく淡々と作業をしている。

低く柔らかな詠唱を短く囁き、カツンと踵を鳴らした途端、ヒルドの足元に花びらが開くようにぼうっと魔術陣が浮かび上がった。

(………すごい、物語みたい)

語彙がないのがとても残念だが、他に言葉が思い浮かばない。

青く染まる書庫の真ん中で羽を大きく広げたヒルドは、溜め息が出るほどに美しい。

天井の真ん中からこちらを見下ろしていた鯨は、薬剤の煙に大きく口を開いた。

ぞわりと壁面が揺れ、みしみしと平面から剥離して実体化してくる。

地震のように建物が揺ればらばらと本が落ちてくるので、ネアは慌ててディノにしがみつく。

幸い結界のようなものがあり、頭に本が直撃したりはしないようだ。

「……ホラーな展開になってきました」

「爪先を踏んでもいいよ」

「解せぬ」

額を付き合わせられそうなくらいに顕現してきた鯨を見上げて、ヒルドは薄く酷薄に微笑む。

その鋭利な微笑みにどきりとしていると、おもむろににヒルドは片手を振るった。

一瞬で青緑の光の粒が凝って、鋭い長剣が現れる。

(剣だ……!!)

少しときめいてしまったネアは、隣の魔物がじっとりとした眼差しになったので慌てて表情筋を整えた。

人間用の剣技とは違うのだろう。

身の丈程の細身の剣をすらりと構えると、ヒルドは充分に力を溜めてから体ごとぶつかってきた鯨に向けて、剣舞のように銀色の剣跡を描いた。

その一瞬の後、ヒルドはひらりと鯨を躱すと、ぽとりと落ちてきた一冊の本をいつの間にか剣を消した片手で受け取る。

体を捻りながら片足の爪先に香炉の持ち手を引っ掛けて蹴り上げると、手に持ち替えてふっと火を吹き消した。

戦ごとと言うよりも、やはり一連の剣舞めいていた。

薬剤を焚いた煙が途切れた途端、斬り付けられてのたうち暴れていた鯨は、ホオォウと深い溜め息のような大きな鳴き声を上げ、するりと壁に戻ってゆく。

「………すごいです」

「へぇ、部分だけ取り出せるんだね」

足元は落ちてきた本で惨憺たる有様だったが、書庫は何事もなかったかのように静まり返っていた。

「長年ここに住まうものですので、出来ればこのまま残しておきたいですからね」

「環境に優しい狩りです!」

「それが擬態書かい?随分と良い保存状態だね」

「鯨の腹の中は時間の概念がないそうです。かつて鯨に飲まれた司書が、百五十年後に救出されたという報告もあります」

「それは興味深いな」

「百五十年も……。こちらに戻ってきてから、しょんぼりしてしまいますね」

ネアは誤って鯨に飲まれないように魔物の三つ編みをしっかり握りつつ、元気に泳いでいる鯨を見てほっとする。

「ここは再開発には向かない土地ですので、また暫くはこのままでしょうね」

同じように天井を見上げたヒルドが、そう言って微笑む。

「そうなのですか?」

「都が滅びた理由が明らかにならない限り、人間が住むには不安要素の方が多くなりますから」

「もし本当に一晩で滅びたなら、呪いが残っていたりするんじゃないかな」

「確かに、そのような土地だと無理をしてまで住みたくはないですね」

であれば、この書庫はこれからも暫く森の奥にひっそりと残っているのだろう。

帰り道を歩きながら振り返れば、満開の藤蔓の上から、翼を持った蛇達が切なげな眼差しでヒルドを見送っていた。

手の中の小さな絵本に視線を落としてから、ネアはふわりと微笑んだ。

危険はないと判断して貰ったので持ち帰ることにしたが、この戦利品を持っていると臨時冒険者になったようでとてもいい気分だ。

余談だが、リーエンベルクに戻ったヒルドが、ハーレサムの擬態書をエーダリアに渡した時、ネアは大人泣きをする男性を見て少々動揺してしまった。

持ち帰ったヒルド自身もとても引いていたので、ネアの心が狭いというわけではないようで一安心だ。

勿論その日、エーダリアは晩餐の席に姿を現さなかった。