軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

69. 目覚め方が不穏過ぎます(本編)

誰かと、とんでもない約束を交わした気がする。

酩酊の底から浮かび上がりながら、ネアはそんなことを考えていた。

そして薄く目を開けば、製作元があまりよくない仕事をしたのか、寝台はごつごつしていた。

ふわりと鼻孔をくすぐるのは、甘く苦いオレンジと香草の複雑な香り。

リーエンベルクに出現する幻の浴場の香りに似ているが、もう少し秘密めいた濃厚なものだ。

(ジャスミン、オレンジ……ラベンダーに、ダマスクローズ)

香りを読み解こうとしていたら、微かな歌声が耳に届いた。

誰かが鼻歌を歌っている。

低く甘く美しい旋律が揺れ、その心地よさにうっとりと耳を傾ける。

しっとりとした温もりに頬を寄せ、もう一度眠りにつこうとして、ぎくりと固まった。

(……………今は何時だろう)

最後の記憶は、大晦日の怪物達に心が折れて、グローヴァーを夜の盃で呷ったところだ。

二杯も飲んだので眠れたのだろうかと思ったが、それにしては不可解な疲労感がある。

お酒を飲んだ際の疲労感とはまた違う、狩りの後の筋肉疲労に似た感覚に眉を顰めた。

ごろりと寝返りをうってみようと思ったところ、何かから滑り落ちそうになってホールドされる。

「…………ディノ?」

またしても魔物に乗り上げて寝たのだろうかと思って寝惚けたまま名前を呼ぶと、頭の上で呆れたように苦笑する気配があった。

その声なき声の含みの温度に、ひやりとする。

(……………誰?)

ものすごく嫌々なのを押し殺して、ネアは薄く片目を開けた。

その途端、目覚めてしまったことを激しく後悔する。

「………誰か私の記憶を消して下さい」

「対価によっては消してやらないこともないが、高くつくぞ?」

心から不可解なことに、本日ネアが乗り上げていたのは、この場に不在であった筈のアルテアだった。

紫がかった艶のあるマホガニー色のスリーピースの上着を脱ぎ、ベスト姿で白いシャツの袖は捲り上げられている。

折り上げた袖口を留めるバンドは銀色の細工が美しく、相変わらずの洒落者具合だ。

しかし、そんなことよりも、そのアルテアに抱えられた状態でいるのが大問題なのだ。

(これはまるで、お子さんをお腹の上で寝かしつけているお父さんの図………)

「ここは………年越しをしようとした部屋ですが、何がどうしてこのような構図になったのでしょう?」

起き上がってすぐさま離れたいのだが、ちょうど今、アルテアは頭上でグラスを傾けている。

急に頭を上げればお酒をかぶってしまうので、ネアは不服ながらにも現状維持に甘んじていた。

「静かだろう。全員死んでるからな」

「不安を煽るばかりの単語は止めて下さい。それと、起き上がらせて下さい」

「これだけの惨状を作りだした張本人はお前だろう」

「ごめんなさい、聞こえませんでした」

「やれやれ、やっと子守から解放されるな」

グラスをどこかに置いたアルテアが、両手で器用にネアを起こしてくれた。

アルテア自身はクッションの上に上半身を乗せているようで、やや半身を起こしたような状態で不安定にもお酒を飲んでいたようだ。

そして、上半身を起こして部屋を見回したネアは絶句した。

「……………この惨状は、殺人事件でしょうか」

「犯人はお前だぞ」

「ありえません。私がゼノを殺すことだけはない筈です」

「他は殺す余地があるのかよ…………」

部屋は幸い、損傷していたり料理が散らばっていたりすることはないようだった。

綺麗に片付いた年越しのお祝いの装飾をそのままに、参加者達だけが死屍累々と床に倒れている。

窓際にエーダリアとヒルドが倒れており、ディノはすぐ側の絨毯の上に倒れている。

問題のゼノーシュは、反対側にあるソファセットの前のテーブルに突っ伏すように倒れていた。

「大変です!グラストさんがいません!!」

「ああ、あの騎士なら湿布薬を取りに行ってるところだ」

「酷いです。なぜに私を、アルテアさんに預けたままにしたのでしょう」

「あのな、言っておくがお前が俺を呼び付けたんだぞ?」

「む…………。そうなのですか?」

「ついでに言うが、俺の、今後十数年分の大晦日の差し押さえもされたな」

「……………差し押さえ」

ネアは遠い目で記憶を辿った。

ぼんやり覚えているとんでもない約束は、恐らくこれのことだろう。

差し押さえに至った理由は一つしかないので、手放すのも少々複雑である。

「そして、私は自立した人間ですので、自分の足で立ちたいと思います。背中の手を離して下さい」

「自信を持つのは構わないが、転倒するなよ」

「………心配してくれるのは珍しいですね」

「この位置でお前が転倒した場合、確実に俺の上に落ちるだろ」

「心が傷付いたので、模擬転倒試験をするのもやぶさかではない思いです」

「やめろ」

おそるおそる床に立ってみたが、足元がふらつくこともなくお酒は完全に抜けている。

そこで足元に落ちている魔物を介抱しようとしたネアは、壁にある絡繰り時計の時刻に凍りついた。

「…………まだ、新年になったばかりなのですね」

「ああ。ついさっきの怪物で出納めだ」

「それはもしや、最後の一人が見る最悪のやつですか?」

「ああ。どんな見目だったか説明してやろうか?外見は……ぐっ?!」

アルテアが悪さをしようとしたので、ネアは立ち上がったばかりの膝から力を抜くだけのエコ動作で、悪人の腹部にどすりと座り込んだ。

魔物なのだから生来のもなのか、しっかり筋肉がついているので左程ダメージというわけでもないが、いきなりだったのでアルテアは一瞬声に詰まった。

「意地悪を続けるようであれば、このまま現在地で弾んでやります」

「…………そういう遊びがしたいなら、もっと背徳的なものを教えてやるぞ?」

「そういうことを言うとこのブーツで…………ブーツはどこでしょう?なぜ私は靴下だけなのでしょうか」

「お前のブーツがあまりにも狂気的だったんで、シルハーンが脱がせた」

「…………なんと。ご主人様を勝手に武装解除するなんて、酷い魔物ですね」

「それは攻撃されなかった場合の話だな」

ヒルドの靴紐が通されたブーツはすぐ側に揃えて置かれていたので、ネアはアルテアに腰かけたままブーツを履き始める。

特に嫌がられる様子もないので、やはり魔物はベンチ並みには頑丈であるらしい。

「つまり、私はこのブーツで皆さんを殺害したのですか?」

「悪いが、俺が来た時にはもうシルハーンとゼノーシュしか残ってなかったぞ」

「もしや、ゼノに悪さをしていませんよね?!」

「お前が、コルヘムを勧めたせいで昏倒したんだ。あの酒は、俺達でも余程の馬鹿でない限り飲まない」

「お酒の無理強いは寧ろ嫌いな方なのに……」

「お前が、前の会で飲んだ酒より強い酒があると知って、それも飲めるのか無邪気に尋ねた結果、張り切って挑戦してあの様だ。頭からテーブルに落ちたから、あいつの歌乞いは湿布を取りに行っている」

「ゼノ、可哀想に………!」

お酒が強いことを褒められて喜んでいたので、グラストも居たのなら、いいところを見せようと張り切ってしまったのだろう。

張り切るゼノーシュの可愛い姿が想像出来て、ネアは勿体ないものを見逃した悔しさに歯噛みする。

「ディノには何があったのですか?」

「お前のブーツを脱がす時に欲をかいて、まだ片足のブーツを脱ぎかけだったお前に蹴り倒されたんだ」

「何となくですが、それは自業自得ですね」

「シルハーンを床に沈めた後、お前は自分で脱いだ靴を揃えて、どういうわけか俺の上で熟睡した」

「解せぬ」

「それは俺の台詞だ。竜が云々とか呟いていたな……」

「サラフさんを倒そうとしたときのトラウマのようです」

「………だから、首裏を引っ掻かれたのか」

「アルテアさんには逆鱗がなくて残念でした」

ものすごく嫌そうな顔をしたアルテアの上から立ち上がり、ネアは床の上に転がったディノに近付くと、両手で丁寧に頭を抱えて膝の上に乗せて調べたが、幸い出血しているようなこともなく、いつぞやのノアのように床に落とされた衝撃で意識を失ったらしい。

そのまま窓際まで歩いてゆき、エーダリアとヒルドの生存も確認する。

ゼノーシュも見てきたが、こちらはおでこが赤いものの可愛く眠りこけているだけだ。

戻ってきたネアは、再びディノの傍に膝をついた。

「ふと思ったのですが、高位の魔物さんは、皆さん案外脆弱ですね」

「お前だからだ!守護が手厚過ぎて、攻撃を受け止めるのがほぼ不可能な域に達してるぞ」

「と言うことは、私はとても強いのでしょうか?」

「期待を裏切るようで悪いが、そもそも守護を与えた側は、守護対象者からの攻撃には弱いものなんだ」

「そう言えば、最近守護が増えたそうですが、お心当たりはありますか?」

「一つはウィリアムだが、もう一つは見慣れないな」

さらりと告白されて、ネアはようやく謎の一部が解けた。

ディノも誰からのものか判別がつかないようであったので、かなり謎だったのだ。

「ウィリアムさんだったんですね!」

「お前の靴紐が死の舞踏だからと、上手く扱えるように調整した結果だ。触媒がなければ、あいつが守護を与えることは滅多にない。扱いを間違えれば、持ち主ごと滅びかねないのが終焉だからな」

「となると、もう一つはどこから来たのでしょう………」

ネアが首を傾げると、アルテアは少し嫌そうな顔をした。

ポーズではない本気の嫌がりようであったので、ネアはますます眉を深く顰める。

「守護には、魔術階位の貴賤がある。実力はともかく、相当に階位の高い魔物からの守護だ」

「私の周囲には、ディノとゼノと、ウィリアムさんにアルテアさんくらいしかおりませんが」

「…………ノアベルトはどうだ?」

「む。………ノアからは、晩御飯以外のものを受け取らないよう、気を付けていたのですけれど」

「あいつは口が上手いからな」

「同じ畑の中の無益な争いですね。………痛いです」

優雅に足を伸ばしてから起き上がったアルテアが、指先でネアの後頭部をぱちんと叩いた。

さして痛くはないが攻撃なので、反撃するかどうか思案する。

「守護は益ばかりじゃない。相互間のものは、相手との間に一定の絆が出来るものだ。いい加減、お前はぶくぶくと貯め込むばかりじゃなくて、捨てることを覚えろよ?」

「まぁ!守護は後からお断りすることも出来るのですか?」

「守護を与えた者より上の階位がいればな。お前の場合、シルハーンがいるんだから削りたい放題だろ」

「しかし、そうなるとディノは、どうしてそれを推奨しないのでしょう?嫌そうにしていましたが、捨てるようには言われませんでしたよ?」

「堅牢に出来るのであれば、より硬くしたいんだろ。過剰なものも考えものなんだがな。とりあえず、ノアベルトのものはどうにかしろ」

「そうですね。解除出来るのであれば、ぽいっとします」

しかしなぜか、自分で勧めておいて、アルテアはネアがそう答えると意外そうに目を瞠った。

グラスを取ろうとして手を伸ばしたまま、ぴたりと動きを止める。

「………構わないんだな」

「はい。特にいらないですよ?」

「ふうん」

「アルテアさん?………あ、起きましたね」

会話の途中であったが、膝の上の魔物が目を開いた。

何度か瞬きをして可哀想な感じであるので、ネアは秀麗なおでこをなでてやる。

「ディノ、もう新年ですよ。今年もよろしくお願いしますね」

「ネア?………酔いは醒めたのかな?」

「ええ。ディノは、どこか痛むところはありますか?」

「大丈夫だと思うよ。………気を失ったのは、二回目だ」

「…………もしやそれは、どちらも私が要因なのでは……」

「…………うん」

「大事な魔物が怪我をしても嫌なので、もう酔っ払いに悪さをしようとしては駄目ですよ?」

自分の行いを誰かが告げ口したことがわかったようで、ディノはじっとりとした目で酒杯を傾けているアルテアを一瞥する。

アルテア自身はその視線を気にした風もなく、立ち上がってまだ残っている料理を物色し始めた。

「もう年も明けたし、アルテアは帰そうか」

「仕事の詰めどころで呼び出されたんだ。夕食くらい取らせろよ」

「そう言えばまだお料理も残っていますね。デザートをいただいていませんでした!」

伸び上がって周囲を見回せば、小さなケーキが幾つか残っているようなので、ネアはさっと魔物を膝の上からどかして立ち上がる。

ぞんざいに扱われた魔物が悲しげにしていたが、運動の直後なので軽くお腹も空いているようだ。

(……………運動?)

「………ディノ、エーダリア様とヒルドさんは、どうしてあのようになったのでしょう?」

「ネアが、ヒルドの羽を触りに行ったのを、エーダリアが止めに入ったんだよ。背後から押さえようとしたから、君に反撃されたんだ」

「…………………ヒルドさんは」

「ヒルドは自業自得だね。羽の件も誘いをかけたのはヒルドの方だし、気にしてないと思うから放っておいていいよ」

「目が覚めたら謝りますね」

少し落ち込んだネアに、さっそく食べ始めているアルテアが振り返る。

「そもそも、カーテンを引かなかったのが最大の要因だろ」

「カーテンとは何でしょう?」

「アルテア、帰ろうか」

「ディノ、黙って下さい!」

魔物が異様に慌てたので、ネアは実力行使でディノの口を手で押さえた。

なぜか頬を染めた魔物がぴたりと黙る。

「大晦日の怪物を見えなくする為に、特殊なカーテンで覆うのが普通だぞ。……お前、やっぱり知らされてなかったな?」

「………誰もそんなことは一言も……」

お酒に逃げるしかない程怖がらせられたネアは、ゆっくりと視線を持ち上げて、叱られる予感にふるふるしている魔物の目を覗き込んだ。

「ディノ、どういうことでしょう?」

「………ご主人様」

「さくさくと白状しなければ、お部屋を別にします」

「最初は風物詩だから見せてあげようと思ったんだ。でも、怖がってるネアが可愛いからつい……」

「さてはエーダリア様もグルですね?」

そこは仲間を庇うことなく、ディノはすぐに頷いた。

この会では、いつもよりエーダリアと話しているような気がして微笑ましく見ていたが、だからだったのだとネアは惨憺たる気持ちで怒りを噛み締める。

「わかりました。ディノは、当分ご褒美禁止です」

「ご主人様?!」

「そして、今回ばかりはエーダリア様も許しません!!」

「ネア………ごめん」

「エーダリア様には、一週間鶏肉禁止令を出してやります!」

「ずるい、軽過ぎる」

「おい、あいつの罰がそれっぽっちでいいのか………」

魔物達は罰が軽いと不服そうであったが、ネアはそのペナルティがどれだけ上司の心を抉るか知っている。

弾劾する準備は整ったので、早速起こしにかかることにした。

泣き言を言いながらまとわりつく魔物をどかしつつ、男前にエーダリアの胸元の服地を掴んで揺さぶってみる。

「………おや、意識を失っていたようですね」

当のエーダリアより先に、隣で倒れていたヒルドが目を覚ました。

片手を床について半身を起し、鮮やかな羽はヴェールのように床に広がっている。

宝石を切り出したように硬質にもなるのに、意識をしていないときには布のように柔らかくなる妖精の羽が、ネアは未だに不思議で堪らない。

主犯ではないが、知らなかった筈もないので、ネアは警戒心を剥き出しにしてヒルドを見つめた。

「ネア様……?」

「ヒルドさんは、カーテンのことを知っていたんですね!」

「ああ、怪物封じのカーテンですね。……もしかして、ご存知なかったのですか?」

「………知りませんでした」

まるで本当に驚いたように問い返されて、ネアは目瞬く。

あえてカーテンを閉めなかったのは確かだが、ヒルドはその理由を知らなかったのだろうか。

疑ってしまったことが申し訳なくなり、眉が下がってしまう。

しかしそんなご主人様の表情に、ディノが目を細めた。

「ネア、ヒルドは確信犯だよ」

「む…………、騙されるところでした!」

「まさかとんでもない。ネア様は勤勉ですので、ご存知の上でも体験されるのかと思っていたんですよ」

「ヒルドさん、知っていればお酒には逃げません……」

「それは失礼いたしました。至らずに怖い思いをさせてしまいましたね」

真摯に謝罪されて、ネアは渋々追求を諦めた。

ヒルドが現在も床に座っているのは、ネアが攻撃したからであるらしい。

暴力を振るうのもそうだが、この美しい妖精を床に座らせてしまったことで後ろめたくなってきたのだ。

「………ヒルドさん、立てますか?どこか痛くないですか?」

「ええ、ご心配をおかけしましたね。頑丈ですのでこれくらいでは。それにしても、毒の魔物の酒はさすがに強いですね……」

「毒の魔物さんのお酒………」

会話の流れを汲みあげると、どうやらヒルドは元々かなり強烈な酒を試した直後であったので、薙ぎ倒されたエーダリアを受け止めきれずに諸共昏倒したらしい。

(そうか、酔ってたから羽を触らせようともしたのか…………)

何となく背景が見えてきて、それがあまりにも悲惨なものではなかったので、ネアはほっとした。

どのような経緯で再び危険なお酒に手を出したのかわからないが、最大の刺客は夜の盃なのかも知れない。

「エーダリア様を起こしたいなら、その手を離せば起きるでしょう」

「ヒルドさん、それはもう一度床に頭が激突するからでは……」

「エーダリア様も前線で鍛えておりますからね、それくらいでは損傷しませんよ」

とてもいい笑顔で言ってのけるが、明朝には儀式の挨拶が控えているウィーム領主なので、さすがにやめてあげようとネアは思う。

新年の儀の挨拶で領主の頭が腫れ上がっていたら、ウィームの民も可哀想だ。

「カーテンのことを黙っていたので、一週間鶏肉禁止令にします!」

「畏まりました。そのように料理人にも伝えておきましょう」

くすりと微笑んだヒルドの穏やかさに、ネアも思わず小さく微笑んでしまった。

それを知らされた時のエーダリアの表情は是非に見たい。

ヒルドが立ち上がれば、くたりと床に広がっていた羽が、ぴしりと伸び渡る。

しかし、立ち上がった直後にヒルドは僅かに顔をしかめた。

(まだ酔いが残っているのかな………)

「………ヒルド、気が付いたか」

ある程度の人数が復活したところで、湿布薬の袋を持ったグラストが部屋に戻ってきた。

同僚が目を醒まして安堵したようだが、ネアとヒルドは、グラストの服装が妙に乱れていることにはっとする。

「グラスト、何かあったんですか?」

「ああ、うっかり屯所に向かう道中で最後の怪物に遭遇してしまってな。一戦交えた」

「その様子だと、屋外ですね」

「押しのける前に日付が変わってくれて良かった。今年は蛇の怪物だったぞ」

「なぜ、毎年境界線が安定する土地にいながら、最後の時ばかりあなたは一人で結界の外に出てしまうんでしょうね……」

「面目ない。……ネア殿も目が覚めたようで良かったです。アルテア殿、こちらをお任せしてしまい申し訳ありませんでした」

「いんや。全員意識がなかったから、ただの子守りだったしな」

どんな癖者も受け流してしまう、不思議にどっしりとした穏やかさというものがある。

グラストはまさにその典型的なタイプで、アルテアでさえ彼には悪さをする様子はない。

当初、ゼノーシュはアルテアのことを警戒していたようだが、ある意味最大の安全域はグラストではないだろうか。

戻ってきたグラストは、過保護な父親のようにぐっすり眠っているゼノーシュのおでこに湿布を貼っている。

そちらに自然に歩み寄ったヒルドが、グラストの腕にあった大きなかぎ裂きのような服の切れ目を、何も言わずに修復していた。

そのあたりに付き合いの長い同僚同士の阿吽の呼吸が見えて、ネアは少しほっこりする。

「エーダリア様が目を醒ましたら、乾杯だけし直しましょうか」

そう言うヒルドがグラスを取り上げたので、まだ飲むのかとネアが渋面になると、彼は微かに悪戯っぽく微笑みを深めた。

その側でアルテアは、牡蠣がお気に召したようで黙々と食べている。

魔術で温度と鮮度の管理をする覆いはかけているが、魔物は牡蠣にあたったりしないのだろうかと、少しだけ不安になった。

「それにしても、大晦日はその年を体現する出来事があると言いますが、まさにその通りでしたね」

ヒルドの言葉に、ネアは首を傾げた。

「そのような言い伝えがあるんですか?」

「ええ。私も三度目はないよう慎重にならなければいけませんね」

「となると、……ディノは叱られる、エーダリア様はしでかす、ゼノは可愛くて、グラストさんは面倒見が良いというようなところでしょうか。アルテアさんは何でしょうね」

「お前達の騒動に巻き込まれる、だろ。ゼノーシュだけ評価がおかしいぞ」

「可愛いは正義です。………ところで、お仕事は大丈夫なのでしょうか?」

「ん?………ああ。詰め時だったが、新年で気が緩んだところでまたひっくり返すさ」

「…………何をでしょうか」

「さてな。年明けに遠方の国が一つ政権交代するぞ」

「アルテアさんを呼びつけた私は、社会貢献をしたような気がします」

不穏な遊び方をしているようなので、ヒルドとグラストの、政治的な調整への関わりがある二人は少し緊張感を強めたようだ。

それっきりアルテアは口を噤んだが、狡猾な手段を用いてでも調べ出したいかもしれないので、ネアはこっそり夜の盃をヒルドに手渡しておいた。

「ネア、………新年の最初の日は、伴侶や家族を大事にする日なんだよ」

暫く羽織もの状態で無視されていた魔物が、悲しげに訴えてくる。

ちらりと振り返れば哀れっぽい眼差しをしていたので、仕方なく三つ編みを引っ張ってやる。

「仕方ありませんね、新年のお祝い用に、少しだけ解禁します」

「ご主人様!」

(私の大晦日は、何を体現したのかしら。……酔っぱらって魔物に丸め込まれて、みんなでわいわいして、美味しいご飯を食べて、酔っぱらって暴れて………)

あまり思わしくない結論が出たので、ネアは渋面で首を振った。

今年は是非とも心躍るような素敵な年にしたい所存なので、夜の盃とエシュカルには気を付けよう。

ふと、目を醒ます前にアルテアが口ずさんでいた歌のことを思い出す。

(ああ、そうか。聞いたことがあると思ったら、あの歌だったんだ)

かつて自分が歌ったことのある、懐かしい世界の歌だったのだと思い至り、ネアは小さく微笑んだ。