軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

巣の中の魔物

ふて寝という言葉を教えてくれたのはネアだった。

ネアはいつも新しい感覚を、そして新しい言葉を教えてくれる。

目新しさだけに心が弾んでいたところから、思うようなものが欲しいとばかり考えるようになるまで、いったいどれだけの短さだったことか。

眩暈のようにただ、ただ、望むばかりだ。

「シルハーン、少しだけ待ってみて下さい」

今日は誰とも話したくないと言ったのだが、無理矢理やって来たウィリアムにそう言われた。

ネアが入浴中で外している時にと、結構強引に部屋までやって来て、やけに上機嫌なので腕でも折ってやろうかと思えば、彼は微笑んでそんなことを言ったのだ。

「彼女は多分、自覚出来ないだけであなたのことが好きですよ」

「ネアが私のことを好きなことぐらい知っているよ」

「いえ、家族愛ではなく、恋としても」

「それは彼女自身が否定していても?」

「ええ。彼女がどうしてあなたの恋人になれないと考えたのか、きちんと聞きませんでしたね?」

聞いてみたつもりだ。

けれどもあまり不愉快な返答を重ねられれば、うっかり強引に手に入れてしまうかもしれない。

もしそんなことになれば、彼女は二度と今のように微笑みかけてはくれないだろう。

大事な魔物だと、穏やかに髪を梳いてくれることもなくなる。

そう考えたら、息が止まりそうになった。

それを思えば、この望みを殺してゆくしかない。

あのオペラの冬の王のように、ただ機会を窺うばかりだ。

「ネアは、えーと………まぁ、その手のことが不得手なようで、あなたの望みに応えられないと思っているんですよ」

「珍しいね」

アルテアよりも寧ろ直接的な表現を厭わないウィリアムが、珍しく言葉を濁したのを不思議に思った。

薄く苦笑してから、けれどもウィリアムはさっと目を逸らす。

かなり言い難そうだが、一体どうしたのだろう。

彼が躊躇するような表現ではない筈だから、ネアのことで言及するのを控えたのだろうか。

「まぁ、つまりそんな訳です。ネアはあなたをきちんと愛しているし、あなたを誰かに渡すのも嫌だと感じてはいる。丁寧に待ってあげれば、彼女も諦めますよ」

「諦めかい?」

「自分なんかより、他の誰かがもっとあなたを幸せに出来るだろうという考えを、諦めるでしょう。でも彼女は意外に頑固ですからね、自分で結論を出すまで待ってやった方がいい」

「ネアは、他の誰かのことなんて考えているのかい?」

「…………ですから、苦手分野があるからですよ。欲求に紐付く部分ですから、我慢させるわけにもいかないと苦渋の選択をしたようですよ」

「別にいくらでも教えてあげるのに」

「……っ、………専門的なことなので、それはどうぞお手柔らかに。彼女はまだ若いですし、素人ですから」

「素人………?」

「普段色々あなたに応えているのは、彼女なりに精一杯頑張っているんですよ。それだけ、あなたのことが大切なんでしょう」

「あんまり応えて貰ってないような気がするけれど、……まぁ確かに、幾つか許容されたものはあるね」

「寧ろ壁はそこだけです。ただ、天邪鬼になって、余所見をしてみせたりすると割と本気で逃げるので、絶対にしないで下さいね」

「他を見る必要なんてないから、そんなことはしないよ」

「後は、時々手を繋いであげて下さい。恋人枠で応えられないのであれば、あなたと手を繋ぐのも控えようと、かなり落ち込んでいましたから」

「…………何それ可愛い」

「でしょう?だから、どうぞもう少しゆっくりと。彼女のような気質の女性を相手にしているにしては、この短期間で随分と詰めた方です。残りは丁寧に仕上げて下さい」

「彼女は、私のことを本当に愛しているのだろうか」

「ええ、あの心の動きはそれ以外のものではありません。俺としては少し不憫ではありますが、彼女が超えることを諦めてしまった最後の階段を、あなたがじっくりと手助けしてやればいいのでは?」

「不憫ねぇ。ウィリアム、君は私のことを何だと思っているのだろう」

「ものすごく専門的なやつですね。俺は二度と御免です」

「専門的……………」

そこで顔を上げたウィリアムが、一礼すると素早く姿を消した。

浴室の扉を開く音が聞こえ、軽い足音に心がざわめく。

この離宮の一角は、貴人の幽閉でも使われた棟なので、生活に必要な施設が密集して設計されている。

ネア曰く充分に遠いそうだが、浴室が近いのもその意図によるものだった。

(…………専門的?)

一部示唆された内容が腑に落ちなかったが、確かに欲求を他者と比べたことはない。

専門的な要素があるのだろうかと疑問に思いつつ、ウィリアムが言ったことを反芻した。

(丁寧に、時間をかけて)

つまりは、彼女が否定した要素はそこだけだというのだろうか。

そんなことでと思わないでもなかったが、確かにネアの思考はいつも謎めいている。

それに、そちらの問題で未熟さを嘆いているのであれば、なんとも可愛らしい話だった。

「……………可愛い」

そう言えばネアは、いつも手を繋ぎたがった。

我慢をさせていると思えば可哀想になったが、我慢をしている彼女も愛おしく複雑な欲が動く。

手を差し出してみたら、どんな表情をするのだろうか。

そう考えると唇の端が持ち上がった。

ネアが扉を開ける音がしたので、慌てて毛布の山に体を倒す。

「あら、まだ巣篭り中ですか?」

柔らかい声には、確かにいつも愛情のようなものは滲むのだ。

この声音でネアが他の誰かに語りかけることはない。

記憶を失った期間は如実に失われた響きであったので、これは育まれたものなのだろう。

顔を上げてそっと背後を窺えば、ネアは寝台の端に腰かけて、髪を拭きながら微笑んでこちらを見ていた。

その甘やかさに思いがけず動揺して、慌てて顔を背ける。

「ディノは私のことが嫌いになってしまいましたか?」

「…………嫌いじゃない」

「ディノ、ごめんなさい。あの言葉は、だいぶ省略してしまっただけで、そのままの意味ではないんですよ」

「…………知ってる」

「わかってくれたのに、拗ねてしまったんですか?」

「ご主人様………」

どんな風に顔を上げ、どんな風に会話をすればいいのだろう。

満たされないときには幾らでも覗き込めたその瞳が、なぜだかとても恐ろしい。

彼女自身すら理解しきれていないところで、その心がこちら側に向いているのであれば、待つことなど容易いものだ。いくらだって待てるだろう。

大事にしたい。

触れたり、微笑ませたりしたい。

でもその全てを形にするには、自分には初めての試みばかりで途方に暮れる。

(ああ、そうか。私は嬉しいのか………)

またそろりを顔を上げれば、ネアはいつの間にか巣の隣に立って、身体を屈めていた。

じっと見上げると、ふわりと微笑んで頭を撫でてゆく。

こうするときに、微笑みをほろりと取り零す彼女の表情が好きだった。

まるで幸せで堪らないというかのように、唇の端で堪えきれずに嬉しそうに笑うのだ。

体当たりしてくれるとき。

手を取ってくれるとき。

料理を分け合ったり、何かを捕まえて満面の微笑みでこちらに駆け寄ってくるとき。

三つ編みに落とす口付けや、腕の中で安心したように深い息を吐くとき。

彼女はいつも、とても幸せそうにする。

「………まぁ、どうして恥らってしまうのでしょう」

「ネアは狡い」

「む。大人の女性として、したたかなのは否めません。狡い大人は嫌いですか?」

「好き」

「じゃあ、ご機嫌を直して下さい。どうすれば元気になりますか?」

「今日は隣りで寝てもいいかい?」

「……………ええ。私の暴言が理由で落ち込んでしまったのですから、止むをえません」

視界の端で、ネアは一瞬狼狽えた後、微かに目元を染めた。

今迄は渋い表情で、寝台をぽんぽんと手で叩いて入れてくれていたので、これは初めて見る表情な気がする。

『あなたの要求は、きちんと彼女に届いていますよ』

ウィリアムの言葉を一つ思い出した。

もし、この反応もまた、積み上げてゆく甘やかさの一欠片になるのであれば。

立ち上がり手を伸ばすと、ネアを持ち上げてくるりと回した。

最初は驚いた顔をしたが、すぐに淡い微笑みを深める。

そう言えば、出会った頃に抱き上げたときは、反撃をして逃げようとするばかりだった。

(あれも可愛かったけれど………)

今はなくなった反応に少し惜しさを感じはするが、やはりこの方がずっといい。

「大丈夫だよ、ネア。私がきちんと教えてゆくからね」

「…………何をでしょうか?」

「ウィリアム曰く、専門的なもの?」

「……………え」

そう言うと、なぜかネアは顔色を悪くして、腕の中で固まった。

微かに震えているのが堪らなく可愛らしい。

「いえ、ご遠慮しておきます。素人には少し高すぎる壁ですから」

「心配しなくていいよ。ネアが怖くないよう、時間をかけるから」

「ご主人様の意向を汲んで下さい。私には荷が重いと思うのです……専門家に…」

「怖くなくなるまで待ってあげるから、ゆっくり始めようか」

「え、話を聞いて。ディノ、…………どうしてそんなにご機嫌なのですか?」

「一年くらい待てばいいのかな」

「怖っ!おのれ、やめるのだ!!」

ネアは久し振りに大暴れをした。

ちょうど懐かしく思っていたところだったので、やはり可愛いなと思いながら自由にさせてやる。

十分もすればぐったりして動かなくなったが、小さく唸り続けていた。

疲労困憊したネアの髪を乾かしてやり、ブラシをかけながら幸せな気持ちになった。

本人にも伝えたのだから、彼女はもう予約済だ。

これで幾らでも、安心して待つことが出来る。