軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 白燈は誰の名で咲く

予備登録簿の白燈の欄へ、赤い線が引かれた。

取り消しの線ではない。異議申立てが提出された株を示す印だという。

それでも、エレシアには、自分の名前の上を刃物でなぞられたように見えた。

「申立人、アーデン侯爵家。請求内容は、品種育成者名をエレシア・ノルト単独から、アーデン侯爵家管理温室へ変更すること。併せて、母株搬出の適否について審理を求める」

事務官が読み上げた書類の最後には、ラウルの署名があった。

三年間、婚礼の招待客名簿には一向に興味を示さなかった手で、彼はこの申立書だけは随分きれいに書いたらしい。

「異議が出ても、予備審査は予定通り行われます」

セドリックが、登録簿を閉じて言った。

「ただし正式認証までに、権利審理を受ける必要があります。答弁書の提出期限は五日後です」

「五日」

息を飲んだのは不安からだけではない。期限がある方が、動ける。婚約生活では、いつまで我慢すればよいのか誰も教えてくれなかった。

「提出いたします。契約正本と、搬出記録、基準挿し木四鉢の預り証を添付します」

「温度記録も有効です。白燈が何を目的に育てられ、どの条件で性質を保持する株なのかを示せます」

「母の失敗日誌も」

「提出するかは、あなたが決めてください」

エレシアは頷いた。

「提出します。成功した一輪だけがわたくしの仕事ではございません」

セドリックは返事の代わりに、新しい書類挟みを一冊差し出した。厚紙の表紙には何も書かれていない。

「ご自分で、題を付けてください」

エレシアはペンを執り、表紙へ記した。

白燈 育成経過及び権利答弁資料。

育成者 エレシア・ノルト。

自分の名を書く回数が増えるほど、それは主張ではなく、ただの事実に戻っていく。

資料を整える作業は、思った以上に静かな戦だった。

温室の古い売上控えには、挿し木の販売額がアーデン家の雑収入として記録されている。けれど端には毎回、受領した庭師ミカエルの字で「育成株、ノルト令嬢手入」と小さく書かれていた。誰かに見せるためではなく、彼が植物の出所を間違えないように付けていた印である。

「この控えをいただくことはできますか」

ミカエルは唇を結び、深々と礼をした。

「原本は侯爵家の帳面でございますので、持ち出せません。ですが、私の管理手控えなら提出いたします。あの温室で花が持ったのは、エレシア様が毎朝見ておられたからだと、私は知っております」

「あなたが職を失うことになってはいけません」

「花の名を違えるよう命じられて従うなら、どのみち庭師ではいられません」

土に焼けた手が、帽子を握り締める。エレシアはそれ以上止めなかった。人の覚悟まで、守るという名で取り上げてはいけない。

答弁書の束は、夕方には指一本ぶんの厚さになった。

契約正本の写し。

半年前の基準挿し木四鉢の寄託票。

母株搬出時の立会い記録。

初年度からの育成日誌。

過加温で枝が弱ることを示す二年目の試験記録。

ミカエルの管理手控えと証言書。

最後に、エレシアは短い陳述を書いた。

温室の設備を提供いただいたことに感謝はある。しかし、設備の所有は、そこで生まれた育成者の名を無断で変更する許可ではない。白燈は、寒さの中で人の手が時間を掛けて育てた花であり、存在しない祝福の証として扱われることを望まない。

書き終わったとき、ペンを持つ右手が震えていた。

「休みますか」

書類を受領するため来ていたセドリックが問う。

「提出してからにいたします。止まったら、怖くなってしまいそうですから」

「怖くても、ご自身で決めて署名された文書でしょう。でしたら、受付まで私がお預かりします」

職務上の感想に過ぎないのだろう。けれど、息をひとつ置いてからしか答えられなかった。

「……ありがとうございます」

砂を振り、束を閉じる。

そのとき、外の受付で声が上がった。

「ノルト令嬢への面会を求める! 私はラウル・アーデンだ!」

紙の端へ置いていたエレシアの指が止まった。

「お断りすることもできます」

セドリックの声に、彼女は首を振った。

「いいえ。答弁書を提出する前に、聞いておきたいのです。あの方が、まだ何を当然と思っているのか」

面会室に入ったラウルは、以前よりやつれて見えた。けれど手に持っているのは謝罪の花束ではなく、差出人が自分である異議申立書の控えだった。

「エレシア。ようやく話ができるな」

「お話なら伺います、ラウル様」

その呼び名を口にするのも、あと何度だろうと思った。

「君は事を大きくしすぎた。温室の株を持ち出し、植物院へ異議のある申請をし、新聞社へまで文書を送った。聖女様は心を痛めておられる」

「わたくしも、名を外された日に痛みました」

「意地を張るな。私は君の働きを認めている。だからこそ、婚礼は予定通り進めよう。君が白燈の名義をアーデン家と聖女様へ譲るなら、侯爵夫人として慈善温室の運営を任せる。裏方としてでなく、責任ある地位だ」

ああ、とエレシアは思った。

彼は本当に分かっていない。

名を奪っておいて、代わりに高い椅子を与えれば喜ぶと思っている。わたくしが欲しかったのは役目の大きさではなく、最初からわたくしの手をわたくしのものとして見ることだった。

「名義を譲ることはありません」

「では婚約はどうする。両家の面目を潰すのか」

エレシアは膝の上に置いていた封筒を取り上げた。昨夜、父と確認して作成したものだ。蝋にはノルト家の印だけが押されている。

「先にお渡ししたのは履行保留の申し出でした。本日は、婚約解消の申立書をお渡しいたします」

ラウルの顔から血の気が失せた。

「エレシア」

「婚姻前のわたくしの仕事を、許可なく他人の名で献上しようとなさったこと。停止を求めた後も案内を撤回せず、さらにわたくしの育成者名を消す異議を申し立てられたこと。これらを理由として、婚約を続ける信頼は失われたと申し立てます」

「そんな書面一枚で、三年を捨てるのか」

声が揺れていた。怒りか、焦りか、それともようやく痛みを感じたのか。

「三年を捨てるのではございません。三年育てたものを、ここで失わないためです」

封筒を卓の中央へ置いた。

ラウルはすぐには受け取らなかった。彼の視線がエレシアの手へ落ちる。指先には、土が爪の際に薄く残っている。

「君は、こんなに頑なな女だったのか」

「花を育てる者は、折ってよい枝と、折られてはならない幹を知っております」

面会室が静かになった。

しばらくして、ラウルは封筒を掴んだ。乱暴に取ったわけではない。その弱い掴み方が、かえって二人の間のものがもう戻らないと教えてくれた。

「後悔するぞ」

「そうならないよう、自分で選んでおります」

ラウルが出ていくと、エレシアは椅子の背へ片手を置いた。立っていなければならない理由はないのに、膝が動かなかった。

扉の外で、セドリックが距離を置いて待っていた。

「答弁書を、提出なさいますか」

慰めではなく、次に進むかを問う声だった。

「はい」

エレシアは書類の束を持ち直した。

「審査場で、わたくしが説明いたします」

「お待ちしています」

受付へ答弁書を届け、受領印が押される。朱色の印が自筆の名前の脇へ重なったとき、震えはようやく止まった。

事務官が、もう一通の書類を差し出した。

「追加で提出された資料です。聖女マリエッタ様名義の予備審査出品書。出品品種は『聖恵の白薔薇』、育成者欄には聖女様ご本人の署名がございます」

エレシアはその署名を見た。

考える、と言った聖女は、答えを選んだのだ。

「承知いたしました。では、同じ審査台で確かめていただきましょう」

白燈が誰の名で咲くのか。

もう、それを曖昧にする者はいなかった。