軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 聖女様の花にする

蕾から、わたくしの名札が外されていた。

白い麻紐だけが枝に残り、ほどけた先で風に震えている。その下には見覚えのない銀色の小札が立てられていた。朝の薄日をきらりと返す、聖女の紋章入りの札だった。

エレシア・ノルトは、温室の扉を閉めた手をそのまま離せなかった。

外では霜が敷石を白く曇らせ、吐く息がふわりと消えていく。けれど硝子壁の内側は、昨夜くべた炭と腐葉土の甘い匂いで湿っていた。三年間、冬ごとに指先をひび割れさせながら守ってきた匂いだ。

中央の台に置かれた大鉢には、亡き母から継いだ淡灰色の枝がある。その枝から増やし、寒さに強い株だけを残して、ようやく育った最初の一輪。

白燈。

雪の中で灯るように、と昨晩、育成日誌の余白に名を書いたばかりだった。

「……誰が、これを」

指先で銀の札に触れた。土の湿りを知らない冷たさだった。札の表には、流麗な文字でこう彫られている。

聖女マリエッタ様の祝福により咲く、慈愛の冬薔薇。

薔薇はまだ咲いてもいない。花弁を重ねた蕾が、首をわずかに傾けているだけだ。

「お早いですね、エレシア」

背後から聞こえた声で、身体の奥に残っていた温度がすっと下がった。

振り返ると、ラウル・アーデンが温室の入口に立っていた。青黒い冬外套の肩には雪の粒が残り、隣には白い毛皮の襟巻きをした若い女性がいる。柔らかい栗色の髪に、淡い金の刺繍が入った修道服。先月、大神殿で選定されたばかりの聖女、マリエッタだった。

エレシアは土のついた手を前掛けで拭き、礼をした。

「ラウル様。聖女様。お越しになるとは伺っておりませんでした」

「驚かせたかったのです。マリエッタ様に、完成間近の贈り物をご覧いただきたくて」

「贈り物」

聞き返した声が、ひどく平らになった。

ラウルは気づかず、むしろ満足そうに温室を見回した。彼は育成棚の間を歩くとき、いつも手袋を外さない。枝に触れることもない。けれど来客に見せるときは、温室をまるで自分の楽器か蔵書のように語った。

「今年の冬至、王家では救貧院に新設する温室のために、献花式を催すでしょう。そこでマリエッタ様の慈善計画を公表します。この冬薔薇を、聖女様が祝福によって咲かせた希望の花として献上するのです」

マリエッタは胸の前で手を合わせた。

「わたくし、北の子どもたちにも冬に花を見せてあげたいのです。寒い時期は、パンも心も固くなりやすいでしょう? 白い薔薇が咲けば、寄付を申し出てくださる方も増えると伺って」

悪意のある声ではなかった。そのことが、かえってエレシアの喉に細い棘を残した。

「温室を建てる計画は、たいへん尊いものと思います」

「でしょう。エレシアなら理解してくれると思っていました」

ラウルの笑顔は、先に許諾を得た者のものだった。

「献花式の案内状は今日にも出します。花の名については、少し地味ですから改めてもよいかもしれない。聖女の白薔薇、という方が民にも通じる」

エレシアは、握っていた銀札を土台から抜いた。

細い金属の脚に土がわずかに付く。ラウルが目を見開いた。

「何をしている」

「この札は、まだここへ立てられません」

「なぜだ。聖女様に対して無礼だろう」

「無礼かどうかではございません。これは、わたくしが育成中の株です。登録前の品種に別の育成者名を掲げれば、観察記録と一致しなくなります」

「記録、記録と。相変わらず堅いな」

ラウルは小さく息をつき、マリエッタへ困ったように笑った。

「婚約者は優秀なのですが、花のことになると細かすぎるところがありまして。もちろん、彼女の努力を蔑ろにするつもりはありません。献花が終われば、彼女にも管理の礼を与えます」

「管理の、礼」

三年間、煤けた暖炉を修繕する職人を探し、根腐れを起こした古株を抜き、雪解け水の塩分を測り、夜中に起きて保温布をかけ直してきた。

ラウルの父が病に伏し、屋敷の人間が温室を贅沢品として閉めようとしたときには、エレシアが売れる挿し木を育て、燃料費の半分まで戻した。

それが、管理の礼で片づく。

指の腹に土がこびりついている。エレシアは、その汚れをひどく頼もしく感じた。

「聖女様。こちらの株へ祝福をなさったことはございますか」

問われたマリエッタは、淡い瞳を伏せた。

「本日が初めての訪問です。ですが、花は神のお恵みで咲くものですから、わたくしの祈りが多くの方を呼べるならと……」

「花は神のお恵みを受けます。けれど、枝を選び、根を守り、蕾が凍らない温度を夜ごと保つのは、人の手です」

強く言いすぎた、と一瞬だけ思った。聖女へ向ける声としては尖っている。

だが、ラウルが直ちに眉を寄せたことで、謝罪する気は消えた。

「エレシア。聖女様へ講釈を垂れる場ではない。そもそもこの温室はアーデン家の所有だ。硝子も炭も、我が家が用意した。君はいずれここへ嫁ぐのだから、君の成果も家の名誉に用いられて当然だろう」

蕾の先から、ひとしずく露が落ちた。

小さな音はしなかった。それでも、何かが床へ落ちて砕けたように思えた。

「当然、でございますか」

「夫婦になるのに、どちらのものかと争う必要があるのか。慈善のためだ。喜んで協力すべきだろう」

婚姻後なら。夫婦なら。慈善なら。

そう言われるたび、エレシアは一歩退いてきた。温室に自分の紋章を掛けるのを控え、売上の報告書に育成者名を大きく書かず、婚家の顔を立てることが穏やかな未来につながると信じていた。

花が咲くまでの年月は待てるのに、自分の名前が呼ばれる日だけは、なぜこんなに遠慮していたのだろう。

エレシアは棚の端に置いてあった木札を拾った。昨夜、インクを乾かすために伏せておいたものだ。

白燈。

育成者 エレシア・ノルト。

麻紐を結び直す手は、最初だけ震えた。二重に輪を作り、枝を傷めないゆとりを残して締める頃には、いつもの手つきに戻っていた。

「献花には、育成者の署名が必要です」

「何?」

「三年前、婚約に合わせて交わした育成契約に定めてあります。婚礼成立前に生まれた品種と母株、その記録は育成者に属する。第三者へ献上、販売、名義変更する場合、わたくしの自筆署名と封印が必要です」

ラウルの表情から、初めて余裕が消えた。

「そのような枝葉の文言を、今になって持ち出すのか」

「枝葉を守らなければ、花は咲きませんので」

マリエッタが小さく息を呑んだ。ラウルは何かを言おうとしたが、言葉が続かない。

エレシアは作業籠を手に取った。剪定鋏、紐、封蝋の小箱が入っている。普段なら重さを感じないそれが、今朝は歩く方向を決めてくれる重石のようだった。

「契約の正本は、書庫の青革箱に収められております。いま確認してまいります」

「待て。そんなことで献花の計画を乱すつもりか」

扉に手を掛けたエレシアは、振り向いた。

「乱したのは、花を咲かせた者の名前を外した方ではございませんか」

外へ出ると、冷たい空気が頬を刺した。温室の暖かさを失った身体は震えたが、不思議と足は速かった。

書庫へ向かう前に、厩舎へ寄る。ノルト伯爵家へ急ぎの手紙を届けてもらうためだ。父に頼ることを、以前の自分なら敗北と思ったかもしれない。

けれどこれは助けを待つ手紙ではない。わたくしが、わたくしのものを運び出すための馬車を借りる手紙だ。

白い息の向こうで、温室の硝子が朝日を受けて光った。

あそこに咲く花を、誰の名で呼ばせるか。

その答えを決めるために、もう許しを請うつもりはなかった。