軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

83話 「希望」

「……」

ティナは片膝を地についたまま視線を足元へとやった。

自分がこの場においてできることがなにもない、という事実。

ティナは勘の鋭いほうでは無かったが、自分という存在が眼前の神にとってあまりにも無価値であろうことは既に理解できていた。

声色か、視線か。はたまたその両方かもしれない。

少なくとも、神マルファスの興味は最初から女神アテナだけに向けられている――という確信にも似た予測。

頭の中に響くようにして聞こえる男神の声。

意識せずとも耳に入ってくるその声に、今はただ意識を集中させた。

危険だと感じた男の正体が高名な神であったこと。それはひとまず安堵に値するだけの材料といえる。

だが、しかし。

マルファスを一目見たときに感じたもの。

その正体にティナは僅かな時間を経てようやく思い当たるものを見つけていた。

それはなにも特別なものではない。

勘などに頼らずとも、これまでのティナ・バレットの中に蓄積した経験。その中に限りなく近い答えがあったのだ。

――悪意。

公爵家であるバレット家。特異な立場であるからこそ優秀な姉と比較され、蔑まれてきた人生の中で、特に敏感に感じることができるようになったもの。

「……」

ただ、それでも今は息を飲むようにして会話の成り行きを見守ることしかできない。

――勘違いであってほしい。そう願いながら。

「意外、だとでも言いたげな顔ですね?」

マルファスは薄くひらいた瞳をアテナへと向け、じっと観察するように見つめた。

その視線を受けて、アテナは困ったように眉をひそめると、逃げるようにして視線をマルファスから逸らす。

返答などせずともアテナのその反応が答えだった。

「……まぁ、たしかに」

マルファスは顎に手を添えて最初にそう、ぽつりと呟いた。

「意外、なのでしょうね。理由などいくらでもあげられるが……それをただ語ってみせるのも芸がない。いや、その前に……」

この場に来てより、常に薄く閉じられていたマルファスの瞼がはっきりと開かれる。

その奥にあった血のように赤い瞳が、怪しい光を宿しながら暗く輝いた。

「そもそもあなたは、私を、知っていましたか?」

穏やかな声で、唐突に。そう問いを投げかけた。

「……え」

思わずアテナの口から声が漏れだした。

簡潔な問いだった。

しかしその意図が分からないからこその困惑の声。

だが、その結果、僅かに静寂が二人の間に生まれていた。

それを切り裂くようにして、マルファスはたたみかけるようにして言葉を続けた。

「マルファスという名に心当たりは?」

一歩、マルファスは足を前に進めた。

瞬間、ゾクリとした悪寒がアテナの背筋を伝う。

答えなければいけない。

知らないと。そう言葉にするだけでいいはずなのだから。

「し――」

ザクリと芝生が音を鳴らした。

「……っ」

声にならない悲鳴がアテナの口から漏れ出す。

アテナは形容しがたい恐怖に身を凍らせていた。

なぜ自分はこんなにも 恐(・) 怖(・) しているのか。

その理由が分からないことが更にその恐怖を増長させた。

マルファスは身を乗り出すようにして腰を折ると、アテナの目と鼻の先まで顔を近づけ、囁くように言った。

「私と会ったのは、これが初めてですか?」

目の前には、赤い瞳が。

それがまっすぐ――自分を見つめている。

顔には笑みが浮かんでいた。

優しい、笑みが。

「あ……」

徐々に歪に吊り上がっていくマルファスの口角を、まるで時間が止まったような錯覚の中でアテナはじっと見つめていた。

瞬間。

突然、マルファスの肩が小刻みに震えだした。

「くくっ……」

マルファスは心底おもしろいといった様子で固まって動けないでいるアテナの耳元に顔を寄せた。

「なにがそんなに恐ろしいというのだ。女神アテナよ。それではまるで赤子ではないか」

「――――」

もはやアテナの中で恐怖の感情など通り過ぎていた。

この感覚をアテナは知っている。

それは最初、女神アスタロトに出会った時にも感じた――。

「あ、あのっ!」

ティナはその場へ立ち上がると焦った様子で声をあげた。

マルファスは眉をひそめると、視線だけをティナへと送る。

その冷たい視線を受けて、ティナはびくりと体を小さく震わせた。

しかし、それでも。

「名乗るのが遅れ申し訳ございません。バレット公爵家が次女、ティナ・バレットでございます」

そう堂々と名乗りをあげると、ティナは思い出したかのように再びその場に片膝をついて従順を示した。

「……ほう?」

この時初めて、マルファスの興味がティナへと向いた。

「バレット家か」

確かめるようにそう呟いた後、アテナの耳元から顔を離すと再び目を細めて穏やかな笑みをその顔に浮かべた。

「それで? 私に何か?」

「……」

ティナはごくりと喉を鳴らした。

明確な用などない、というのがティナの正直なところだ。

だが、己が女神の耳元で歪に笑うマルファスの表情を見て、衝動的に行動した結果が今だった。

冷や汗がティナの額を流れ落ちていく。

人の身で神の領域に割り込んでいったのだ。

それなりの理由が必要だという事は理解していた。

学園に来た理由を問うべきか。

――構うな、と先に釘を刺されている。

正直に女神アテナが怯えていることを話すべきか。

「……」

本当ならばそう伝えたい。

しかし、それはあまりにも不敬が過ぎるという事もティナは理解していた。

「……?」

マルファスは強張った表情で黙り込むティナを不思議そうに見つめていた。

はじめ声をかけられたときに感じた苛立ちよりも、今は好奇心が先にくる。

いや、そもそもなぜ公爵家の令嬢がここにいるのか――その疑問に至ったとき、マルファスは驚きに目を見開いた。

「……まさか、女神アテナと契約を?」

静かに告げられたその問いに、ティナはぎこちなく首を縦に振った。

「は、はい」

「……」

静寂が場を支配する。

草原を駆ける風が、ティナの髪を左右に揺らした。

「ふふっ」

決して短くない時間、口を閉じたまま黙り込んでいたマルファスは、次第にこらえ切れない様子で、笑い声をあげた。

「ふふ……ふははっ」

隠すように手のひらを顔にやって、マルファスは笑う。

その不気味な様子を、アテナもティナもただただ眺めることしかできない。

「フハハハハハッ、そうか……そうか。よもや公爵家の小娘まで……ふはははっ」

マルファスの笑い声が、木霊する。

しかし、いつまでも続くように思えその笑い声は、強い風が吹くと同時に、 ピ(・) タ(・) リ(・) と止んだ。

マルファスは女神アテナへと向き直ると、まるで紳士のように己が胸に手の平を当てた。

そして告げる。

「……女神アテナよ。仲間に、会いたくはないか?」

「…………仲間?」

「ええ。仲間です。同胞と言い換えてもいい。当たり前のことだがあなたの他にも野良神はいるのです」

「……」

アテナは深紅の瞳を揺らしながら黙り込むようにして口を閉じた。

突然の申し出だった。

しかし――。

「神でありながら、彼らは弱い。名が無いばかりか、人の身にも劣るか弱き存在だ」

語りかけるその声色は酷く優しいものだった。

「あなたなら理解できるはずだ。元は野良神であるあなたなら」

「……っ」

アテナは胸の前で手のひらをぎゅっと握りしめた。

その様子を見て、マルファスは顔に浮かべた笑みを深くした。

切り出すなら今だろう――そう思いながら。

「実は……私は個人的に野良神を保護して回っているのですよ」

アテナはまっすぐマルファスの目を見つめた。

「……保護ですか?」

「ええ。保護です。彼らは皆、己が力の無さに悲嘆に暮れている。そんな彼らの為に、ぜひ私と共に来てほしいのです。野良神でありながら、名を授かったあなたに会えば、彼らの中に希望が生まれる」

「……希望」

はっきりとした迷いがアテナの中で生まれていた。

最初に感じていた恐怖が消えたわけではない。

しかし、それとは別に、マルファスの言葉に惹かれるものがあるのもまた事実。

「ええ。恐れる必要などありません。会うだけでいいのです。もちろん会話をするもいいでしょう。さぁ、女神アテナ」

マルファスは手のひらを上にして、右手をアテナへと差し出した。

「この手をとってください。私があなたを導きます」

アテナは差し出されたその手を、じっと見つめた。

――ティナは気づかない。

虚ろに光を失った女神アテナの瞳の様を。

そうして、女神アテナはマルファスの右手をとろうとその白い左腕を動かした。

瞬間――。

「ティナさーん? アテナさまー!」

少女の声が確かに、響いた。

マルファスは苛立たし気に、背中越しに振り返ると小走りで近づいてくるその人影を睨みつけるようにして視線をやった。

「……」

ティナはその一部始終をはっきりとみていた。

苛立った顔をしたマルファスの表情が、次第に驚愕と焦りに満ちていく様を。

「……………………バカな」