軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

5

国境を越えた瞬間、空気が変わった。

文字通り、だ。王国側の温暖な風が、国境の山脈を越えた途端に冷たい北風に変わった。夏だというのに、吐く息がわずかに白い。馬車の窓から見える風景も一変していた。緑の丘陵地帯が針葉樹の深い森に変わり、灰色の岩肌がところどころ顔を覗かせている。

「これが帝国……」

「ええ。北部はもっと寒いですよ。首都のアイスジルバーは、冬には街全体が雪に覆われます」

マルタが懐かしそうに目を細めた。

国境の検問所では意外なほどスムーズに通過できた。王国の渡航許可証を見せると、帝国側の兵士は「デュラン公爵家の令嬢殿か」と言って、帝国貴族学院への聴講生登録の書類を渡してくれた。父が事前に手配してくれていたのだ。

「ギルベルト、ここまで大丈夫?」

御者台の老騎士に声をかけると、短い返事が返ってきた。

「問題ありません。帝国の道は王国より整備されておりますな。さすが軍事国家」

ギルベルトは寡黙な男だが、道の状態には敏感だ。三十年間デュラン家の馬車を守ってきた経験がものを言っている。

国境から首都アイスジルバーまでは、さらに三日の道のりだった。

道中、帝国の街や村をいくつか通過した。王国との違いが目についた。まず、建物が石造りで堅牢だ。寒冷地に適した厚い壁と急角度の屋根。窓は小さく、暖炉の煙突が必ずある。街の中心には必ず広場があり、そこに帝国旗——銀地に蒼い鷲——が掲げられている。

人々の服装も違った。毛皮の襟がついた外套、革のブーツ、手袋。夏でも上着を羽織っている。表情は王国の人間より硬いが、宿場の主人は親切だったし、食事も温かかった。黒パンとシチューと焼いたソーセージ。素朴だが体が温まる味だ。

「帝国料理は質実剛健ですわ。華やかさは王国に譲りますが、こちらの方がお腹は満たされます」

マルタがシチューをお代わりしながら言った。故郷の味が嬉しいのだろう。

宿場で耳にした会話も興味深かった。帝国語は七年間マルタに教わったから聞き取れる。

「今年の冬は厳しくなるらしい」「陛下が南部の交易路を整備する勅令を出したそうだ」「学院の入学者が増えているって話だぞ」。

民が政治の話を日常的にしている。王国では考えられない光景だ。王国の平民は、貴族や王族の決定をただ受け入れるだけだった。帝国の民は、自分たちの国がどう動いているかに関心を持っている。

実力主義。ゲームの設定で読んだ言葉が、こうして肌で感じられると重みが違う。

四日目の昼、ついにアイスジルバーが見えた。

馬車の窓から身を乗り出して、息を呑んだ。

山間の盆地に広がる巨大な都市。白い石壁に囲まれた街は、遠目には銀色に輝いて見える。街の中央にそびえるのは帝城ヴァイスブルク。白銀の尖塔が何本も天に向かって伸び、その先端に蒼い旗がはためいている。

美しい、と思った。

王都ルミエールの華やかさとは違う。厳しく、冷たく、それでいて凛とした美しさだ。この国の在り方そのものを体現しているような街並み。

「着きましたわ、お嬢様。アイスジルバーです」

マルタの声が少し震えていた。二十年ぶりの故郷なのだ。

「マルタ、帰ってきたのね」

「いいえ。私はお嬢様のお側におりますよ。でも——ああ、変わっていませんわ。城壁も、あの尖塔も」

街に入ると、すぐに帝国貴族学院に向かった。

学院は帝城の東側、小高い丘の上に建っていた。王国の学園が白亜の優雅な建物だったのに対し、帝国の学院は灰色の石で造られた質実な建築だ。装飾は最小限で、代わりに堅牢さが際立つ。門には帝国の紋章と、「知は国の礎なり」という銘文が刻まれていた。

受付で聴講生登録の手続きを行った。書類を確認した事務官は、私の名を見て眉を上げた。

「ルクレシア王国のデュラン公爵家? 珍しいな。王国から聴講生が来るのは久しぶりだ」

「お世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」

帝国語で答えると、事務官は少し驚いた顔をした。

「帝国語が話せるのか。それは助かる。学院の講義は全て帝国語だからな」

手続きは事務的に、しかし滞りなく進んだ。寮の部屋を割り当てられ、来週から講義に出席できるとのことだった。

手続きが終わり、事務棟を出たところで——

足が止まった。

事務棟の前の広場に、馬車が一台停まっていた。ただの馬車ではない。白銀の装飾が施され、扉には帝国の紋章。御者の服装も一般のものではなく、帝城の紋章入りの制服だ。

皇帝の馬車。

心臓が跳ねた。

馬車の扉が開き、一人の男が降り立った。

——銀髪。

光の加減で白にも見える、冷たい輝きを放つ銀の髪。長身で、黒い軍服のような上着を着ている。白い肌。そして——紫水晶の瞳。冷たく、深く、底の見えない色。

エドヴァルド・フォン・ヴァルトシュタイン。

ゲームの画面越しに何度も見た顔だ。でも画面の中の彼は、所詮は絵だった。今、目の前にいるのは生身の人間で、纏っている気配がまるで違う。

冷たい。

夏の日差しの中にいるのに、彼の周囲だけ温度が下がったように感じた。それは比喩ではなく、実際に微弱な魔力が漏れているのだろう。氷の属性を持つ皇帝。原作設定の通りだ。

彼の後ろに、もう一人の男が続いた。眼鏡をかけた細身の男。整った顔立ちで、どこか飄々とした雰囲気がある。宰相補佐官クラウス——原作でエドヴァルドの側近として登場するキャラクターだ。

エドヴァルドは学院の事務官と何か言葉を交わしていた。視察のようだ。事務官が緊張した面持ちで書類を差し出し、エドヴァルドが目を通している。

逃げよう、と思った。

まだ準備ができていない。帝国に着いたばかりで、身なりも旅の疲れが残っている。こんな格好で皇帝に会うのは——

「そこの」

冷たい声が飛んできた。

凍った。文字通り、足が凍りついたように動かなくなった。

エドヴァルドの紫の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。

「見ない顔だな。学院の者か」

事務官が慌てて答えた。

「は、はい、陛下。本日聴講生として登録されたばかりの——ルクレシア王国からの留学生でございます」

エドヴァルドの目が細くなった。

「王国の留学生。名は」

声が出なかった。一瞬だけ。でもその一瞬で自分を叱りつけた。何をしている。前世でブラック企業の役員プレゼンを何度もこなした女だ。皇帝一人にたじろいでどうする。

背筋を伸ばし、帝国式の礼をした。右手を胸に当て、軽く頭を下げる。

「セラフィーナ・デュランと申します。ルクレシア王国のデュラン公爵家の者です。本日より聴講生としてお世話になります」

帝国語で、できるだけ落ち着いて。

エドヴァルドは無表情のまま私を見つめた。数秒の沈黙が、やけに長く感じた。

「デュラン。聞いたことがある。王国の公爵家だな」

「はい」

「王国の公爵令嬢が、なぜ帝国に」

その質問は来ると分かっていた。嘘はつかない。でも全てを話す必要もない。

「婚約を解消いたしました。王国に留まる理由がなくなりましたので、帝国の学院で学びたいと思い、参りました」

「婚約を解消した」

エドヴァルドが復唱した。その声には何の感情も読み取れなかった。興味があるのかないのかすら分からない。

「王国との関係が悪化しつつある中、王国の公爵令嬢が帝国に来る。その意味を理解しているか」

「理解しております。だからこそ、正式な手続きを経て参りました」

「ふん」

それだけ言って、エドヴァルドは背を向けた。クラウスに目配せをすると、馬車に向かって歩き出す。

クラウスが一瞬だけこちらを見て、小さく会釈した。その目には好奇心の光があった。

皇帝の馬車が去っていくのを、私は立ち尽くしたまま見送った。

心臓がまだ速く打っている。

ゲームの画面越しに見ていた彼は、こんなに冷たくなかった。いや、違う。ゲームでも最初は冷たかった。好感度がゼロの状態では、プレイヤーにすら氷のような態度を取るキャラクターだった。

それが、少しずつ溶けていく過程が好きだったのだ。

「お嬢様、大丈夫ですか? お顔が真っ赤ですよ」

マルタが心配そうに覗き込んできた。

「大丈夫。大丈夫よ。ちょっと——緊張しただけ」

「皇帝陛下に直接お声をかけていただくとは。幸先がよろしいのか、それとも……」

「分からないわ。でも、少なくとも存在は認識してもらえたはず」

馬車が完全に見えなくなってから、大きく息を吐いた。

想像以上だ。この世界のエドヴァルドは、画面の中のキャラクターとは比べものにならない存在感を持っている。見られただけで息が詰まった。話しかけられただけで体が強張った。

でも。

逃げ出したいとは思わなかった。

むしろ——もっと知りたい、と思った。ゲームには描かれなかった彼の全てを。

空を見上げた。帝国の空は高く、澄んでいて、どこまでも青い。

ここが、私の新しい舞台だ。