軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

16

使節団との交渉は、一週間にわたって続いた。

表の交渉はクラウスと王国の外交官が担当し、裏では私が帝国側の資料を整理し、王国側の要求を分析し、落としどころを探る作業に没頭した。

毎朝八時に帝城入り。クラウスと打ち合わせをし、昼に交渉の進捗を確認し、午後はエドヴァルドへの報告資料を作成する。夕方に学院に戻り、夜は講義の予習と復習。

ブリギッテには「帝城の仕事で忙しい」とだけ伝えた。詳しい内容は言えないが、彼女は詮索しなかった。代わりに毎晩、温かいお茶と軽食を机に置いてくれた。

「倒れたら許さないからね」

「ありがとう、お母さん」

「誰がお母さんよ」

ブリギッテが赤くなって枕を投げてきた。

交渉が大筋で合意に近づいた頃、エドヴァルドから個人的な招待が来た。

場所は帝城の奥、皇帝の私的な区画にある小さな庭園に面したサロン。公式の執務室ではなく、プライベートな空間だ。

クラウスに案内されて到着すると、サロンには小さな円卓が一つ置かれ、ティーセットが並んでいた。窓の外には、手入れの行き届いた冬枯れの庭園が広がっている。

エドヴァルドはすでに席についていた。軍服ではなく、黒い高襟の上着。執務室で見る私服とも違う、やや上質な生地。整えてきた、のだろうか。

「座れ」

いつもの一言。だが、声が少し硬い。

クラウスがお茶を注ぎ、「では私はこれで」と言って退出した。扉が閉まる直前、こちらに向かってわざとらしくウインクした。何なんだあの人は。

二人きりになった。

エドヴァルドがカップを手に取り、一口飲んだ。私も倣う。帝国の紅茶は王国のものより渋みが強いが、蜂蜜を入れるとまろやかになることを学んだ。

しばらく無言が続いた。

これまでの二人きりの時間——執務室での政策議論や、書庫での読書——とは空気が違う。エドヴァルドが何かを切り出そうとしているのが伝わってくる。

「デュラン」

「はい」

「今回の交渉でのお前の働きは、帝国にとって極めて有益だった」

「恐縮です」

「学院での成績も申し分ない。ヴォルフ教授は卒業論文の執筆を勧めていると聞いた」

「ええ。聴講生の身で論文を書いていいのかと迷っていますが」

「書け。俺が許可する」

相変わらず端的だ。

「それを踏まえて——お前に提案がある」

カップを円卓に置いた。紫水晶の瞳がまっすぐにこちらを見ている。

「俺の補佐官にならないか」

時間が止まった気がした。

「補佐官……」

「正式な帝国宮廷の官職だ。皇帝直属の政策顧問として、俺の執務を補佐する。身分は宮廷官吏。帝国の貴族に準じる待遇を与える」

言葉の意味を一つ一つ噛みしめた。

補佐官。宮廷入り。それは聴講生という一時的な立場から、帝国の正式な一員になることを意味する。

「学院はどうなりますか」

「卒業論文は並行して書けばいい。講義の出席は免除する。実務が最大の学びだ」

合理的な説明。エドヴァルドらしい。

嬉しかった。認められた。帝国で居場所を得た。それは素直に嬉しい。

だが同時に、胸の奥に引っかかるものがあった。

原作の隠しルートでは、このあたりで皇帝がヒロインへの恋愛感情を自覚するイベントがあったはずだ。「補佐官」という政治的な提案の裏に、もっと個人的な感情があるのではないか——と期待してしまう自分がいる。

でも今のエドヴァルドの目は、あくまで真剣で冷静だ。政策的な判断としてこの提案をしている。個人的な感情の色は——少なくとも表面には出ていない。

期待しすぎるな、と自分に言い聞かせた。

「お受けいたします」

「即答か」

「迷う理由がありません。帝国のお役に立てるなら、喜んで」

エドヴァルドが小さく頷いた。

「明日、クラウスが正式な辞令を持っていく。執務室は東翼の三階に用意する。俺の執務室の隣だ」

隣。

毎日、あの人の隣で仕事をする。

心臓が跳ねたが、顔には出さなかった。つもりだ。

「ありがとうございます、陛下」

「礼は要らん。実力で応えろ」

「はい」

お茶を飲み干し、立ち上がった。今日はこれで終わりかと思ったとき——

「デュラン」

また呼び止められた。振り返ると、エドヴァルドは窓の外を見ていた。冬枯れの庭園に、うっすらと雪が積もり始めている。

「帝国の冬は長い。体に気をつけろ」

「はい。陛下もご自愛ください」

「俺は丈夫だ」

「三日徹夜する方が言っても説得力がありません」

言ってから、しまった、と思った。皇帝に向かって生意気すぎる。

だがエドヴァルドは——振り返らないまま、肩を小さく揺らした。

笑った。声にはならなかったが、確かに笑った。

この人が笑うのを見たのは、初めてかもしれない。

胸の奥が、ぎゅっと締まった。

帝城を出ると、雪が本格的に降り始めていた。

白い結晶が街灯の光に照らされて、金色に輝いている。帝国の冬の始まりだ。

馬車に乗らず、少し歩くことにした。雪を踏む音が心地いい。頬に触れる冷気が、火照った顔を冷ましてくれる。

補佐官。皇帝の隣で働く。

嬉しい。本当に嬉しい。

でも——

正直に認めよう。少しだけ、寂しかった。

あの提案は、完璧に「政治的」だった。エドヴァルドは私の能力を評価して、帝国のために活用しようとしている。それは正しい判断だし、私もその期待に応えたい。

ただ。

あの人が私を隣に置きたい理由が、能力だけなのだとしたら。

——欲張りだな、と自分を笑った。

前世では誰にも必要とされなかった。今は帝国の皇帝に必要とされている。それだけで十分じゃないか。

能力だけでいい。能力で隣にいられるなら、それでいい。

でも心のどこかで、小さな声がする。

嘘つき、と。

雪が睫毛に積もった。瞬きすると、白い結晶が溶けて視界が滲んだ。

——泣いてない。雪が目に入っただけだ。

早足で学院に向かった。寮に着くと、ブリギッテが待っていた。

「おかえり。顔が赤いわよ。風邪?」

「寒かっただけ。ブリギッテ、報告があるの」

「何?」

「帝国宮廷の補佐官に任命されたわ。皇帝陛下の直属」

ブリギッテのお茶を持つ手が止まった。

五秒。

十秒。

「……はあ?」

その夜、ブリギッテに質問攻めにされて眠れなかったのは、また別の話だ。