軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十章13 『血では汚せない』

――王都ルグニカの貴族街、『賢人会』の一員であるマイクロトフ・マクマホンが所有するその邸宅は、清貧で知られた主の気質を反映した落ち着いた外観をしていた。

貴族の多くは夜会や宴席を好み、自らの権勢を誇るためにたびたびそうした催しを開くものだが、マイクロトフはそうした貴族らしい振る舞いを選ばなかった。若い時分から王国の文官として頭角を現し、その能力を買われてきた賢老は、自分の生涯を王国に捧げる姿勢を示すかの如く、妻を娶ることもなく、身を粉にして王国に尽くしてきたのだ。

それ故に、貴族街のマクマホン邸を目を引く派手さが支配したことは一度としてない。――それも、今日このときまでの話。

大勢の命が無惨に断ち斬られ、散らばった亡骸が血と死の香りを漂わせる惨状、それがマイクロトフ・マクマホンの生涯をも終えさせた、このときまでだった。

愕然と、信じられない光景を前に、ナツキ・スバルは身動きを封じられていた。

「――――」

招かれ、しかしここまで生者と誰一人出会うことのできなかったマクマホン邸。おそらくは屋敷の警護と使用人だっただろう十三人の死者、いずれも一撃の元に斬り捨てられ、命を奪われたものたちを見届け、辿り着いたのがこの最奥の一室だ。

設えられた机や書棚からして、ここはマイクロトフの執務室だろうか。

王国の未来を憂え、様々な問題の対処にその頭を悩ませ、働かせただろう賢老が過ごした歴史ある場所――その奥の壁に、件のマイクロトフが寄りかかっている。

両足を投げ出し、壁に背を預けた姿は、まるで遊び疲れた子どもが寝てしまったような様相だが、その表現は大筋では間違っていない。――賢老は、眠りについていた。

斬り落とされたルグニカの国旗に覆われ、二度と覚めることのない眠りに。

そして、その事切れた賢老の傍らに――、

「クルシュ、さん……?」

崩れ落ち、皺深い顔の瞼を閉じたマイクロトフ。それを足下に置いたまま、半身でこちらを振り返る相手を目にして、スバルの声が情けなく震える。

そこに立っていたのは、軍服めいた濃紺の装いに身を包み、長い緑髪と琥珀色の瞳をした美しい女――その左目を大きな眼帯で覆ったクルシュ・カルステン。悠然とした立ち姿をした、スバルのよく知る人物だったのだから。

「――――」

そのスバルのたどたどしい呼びかけに、クルシュが琥珀色の隻眼を細める。彼女は手にした細身の剣を握り直し、視線を鋭くしたまま薄い唇を開き、

「怯えの風が吹いているぞ、ナツキ・スバル。――何に怯える?」

「おび、え……? 怯えって、俺が? それは……」

「そもそも、卿は何をしにここを訪れた? マイクロトフ・マクマホンと卿との間に、個人的な接点があったというのか?」

「それは、本人に呼ばれて、俺も聞きたいことが……」

「今日この日に? 解せないな。卿の聞きたいことというのは? 王選絡みか、あるいは他の密談か? 図星を突かれたわけではないが、動揺は風を増す一方だな。改めて、今一度卿に聞こう。――卿は、私の知る本物か?」

「――っ」

怒涛の如く、詰問を畳みかけてくるクルシュに圧倒され、うまく言葉が継げない。

まだ目の前の情報を処理し切れていない状況で、舌鋒鋭く斬り込まれるクルシュの言葉は、まさしく刃のようにスバルを圧するものだった。

なおも厳しく、クルシュはその眼差しでスバルの胸を切り開きにかかるが――、

「――そこまでなのよ」

「ああ、見ていて気持ちのいいものじゃないな」

そのスバルとクルシュのやり取りを見かねて、横から割り入るのが二人。スバルと手を繋いでこの場にいるベアトリスと、同行したティーガだ。

ベアトリスはその小さな手の感触で、ティーガは斜めに進み出てクルシュの視線を遮ることで、どちらも呑まれるスバルを我に返させてくれた。

おかげで呼吸を思い出せて、スバルは遅れて噴き出す冷や汗に熱を冷まされる。

その間に、三日月形の曲刀を手にするティーガがクルシュと向かい合う。彼は被った帽子の唾を下ろし、目元を隠しながら「なぁ」と呼びかけ、

「色々と誤解を招きやすい状況だってことは自覚した方がいいな、公爵さん」

「誤解?」

「そうさ、誤解だ。なにせ、これだけ大勢が命を落としていて、王国の重鎮も亡くなられた現場なんだ。そこに、剣を握ったあなたが立っていたら、誰でもこう思う。――この屋敷の人間を殺したのは、クルシュ・カルステン公爵なんじゃないか、ってな」

あくまで、彼らしい言い回しを崩さないまでも、それは直球の問いかけだった。そしてそれは、スバルもまた何より優先して確かめたかった事実だ。

「――――」

ティーガの言う通りだ。

この、マクマホン邸で起こった惨状、主であるマイクロトフを含めた全員を皆殺しにした最重要容疑者は、紛れもなくクルシュだ。

だが、クルシュの人となりを知るスバルは、その疑惑を真っ向から否定したい。

クルシュは高潔で、正しい判断に則った行動ができる傑物だ。

『記憶』を失い、凛とした貴族らしさは作り直すことが必要になっても、それでも芯に残された善性と、人としての良識は決して『暴食』にも喰らい尽くせなかった。

そんな彼女が、こんな暴挙に手を染めるなんてことはありえない。あるはずがない。

だから、スバルは彼女の口からはっきりした否定の言葉を聞きたかった。

クルシュもまた、スバルたちと同じようにマクマホン邸の異変に気付いて駆け付け、辿り着いたときには手遅れだったのだと、そう言ってほしい。その悔悟と怒りを胸に、マイクロトフたちを殺した相手を突き止め、一緒に罪を償わせる。

そのための、否定の言葉が彼女の口から――、

「卿はどうやら、白々しさ極まりない手合いのようだ」

そのスバルの祈りを余所に、表情を変えないクルシュがティーガを見据え、言い放つ。それを受け、ティーガは軽く肩をすくめると、

「手厳しい評価だが、甘んじて受け取ろう。それで、どうなのかな?」

「――――」

「マイクロトフ・マクマホン卿を殺したのは、あなたなのか? ――クルシュ・カルステン公爵」

「――そうだ」

重ねて、今度こそはっきりと問うたティーガに、短い応答があった。

それは疑惑を肯定し、スバルの祈るような期待を裏切る、最悪の答え――思わず、スバルの喉が掠れた音を立て、今の短い返事が頭蓋の中で幾度も反響する。

そのスバルの激しい動揺を後押しするように、クルシュは微かに顎を引き、

「この屋敷にいた関係者と、マイクロトフ・マクマホンは私がこの手で斬った。このものたちは王国に仇なす、逆賊だ」

「――それは公爵、あなたの方だ!」

「ま――っ」

瞬間、吠えたティーガが一足跳びに距離を詰め、その曲刀――シャムシールを振るい、クルシュへと流麗な剣撃を見舞っていた。

「待て」と、そう言い切る隙も与えない迷いない初撃、しかしそれをクルシュは手にした剣を切り上げる軌道で打ち払い、鋼と鋼のぶつかる快音が執務室に響き渡る。

その一音を切っ掛けに、両者の間で鋼の悲鳴と火花が爆ぜ始めた。

「――――」

火花散らす剣戟が始まり、広い執務室を舞台に二人の剣士が互いの技を披露する。

クルシュが振るうのは、真摯に剣に邁進したものが修める剣の技――『記憶』を失う前の白鯨との戦いや、『記憶』を失ったあとのプリステラでの戦いでも、彼女の描く剣筋の真っ直ぐさは変わらず、鋭い剣閃は縦横無尽に空間を薙いで、跳ね回った。

一方、身を低く、コマのように回転するティーガの剣技は独特なものだった。

相対するクルシュを始めとして、スバルの知る剣技に秀でたものたちは、ユリウスやヴィルヘルム、それにセシルスといったものたちで、剣より手刀や蹴りの印象が強いラインハルトを除けば、いずれも正当というべき技を磨いた剣士たちである。

その彼らの剣技を正道と呼ぶなら、ティーガのそれは邪道とされる代物――真っ向から相手を斬り伏せるのではなく、手先や足先を容赦なく狙い、虚実を交え、敵の意表を突くことを良しとした、勝利を貪欲に求めるものの技――、

「せあ――っ!」

裂帛の気合いと共に放たれた剣撃、それはシャムシールを逆手に握り、通常とは異なる軌道を描いて相手に迫る剣閃だった。それをクルシュが身を反らして躱せば、次いで繰り出されるのは鞭のようにしなるティーガの長い足。

剣撃の間に織り交ぜられた蹴りが、まるで踊りのような一連の動きとして機能し、途切れることのない剣風を生んで、向かい合うクルシュへと襲いかかる。

その、コマ回しのような高速の連撃に、クルシュは表情を変えないまま、素早く的確な足捌きで距離を保ち、一振りの剣を合わせてめまぐるしい攻防の主導権を狙う。

靴に鋼板でも仕込んでいるのか、蹴りに合わせるクルシュの剣にも足を落とされず、正統派の粋を極めたクルシュに、邪道の剣士は一歩も引かない戦型を見せた。

「手練れだな。『神龍教会』ではそのような剣の振るい方を教えるのか?」

「生憎と我流だよ。昔から、手癖も足癖も悪くてね!」

「勇ましい風だ。嘘ではないな」

ティーガの蹴りを鼻先で躱し、唐竹割りの一撃をクルシュが放り込む。それをティーガが逆手の曲刀で受け、鍔迫り合いになる両者がそう言葉を交わす。

一進一退の攻防、どちらも優れた実力者故に、その優位は一方に傾かないが――、

「――スバル! しっかりするかしら!」

「――ぁ」

「ショックを受けて当然なのよ。でも、呆然としてちゃダメかしら!」

そう言って、ぴょんと跳ねたベアトリスに頬を叩かれ、スバルは目を見張った。

弾けるような衝撃に、スバルはまたしても自分が思考を停止させ、ティーガとクルシュの戦いに見入っていたことを理解する。――ベアトリスに、深く感謝だ。

確かに、ショックを受けている。冷静に状況を顧みたら、とてもではないが平静を保てそうにない。だから今、冷静に事態に向き直る前に、すべきことを。

「マイフレンド」

見れば、そのスバルとベアトリスのやり取りを視界の端に収め、クルシュと剣を押し付け合うティーガの唇が、小さくそう音を紡いだのがわかった。

その目的語のない呼びかけに、しかしスバルはティーガの意図を察する。彼が求めるのは助力や助太刀ではなく――、

「――外に」

この状況を知らせ、クルシュの暴挙を止めなくてはならない。

幸いにして、今の王都にはスバルの頼れる戦力が大勢いる。ガーフィールやヴィルヘルムもいるし、ラインハルトだっているのだ。

ここは貴族街なのだから、このマクマホン邸以外の屋敷にも、騎士や衛士が配置されているはず。そうしたものたちを呼んで、クルシュを取り押さえる。

そして――、

「――――」

――そして、クルシュを罰するのか。マイクロトフを殺した、国賊として。

「残ってもらおう。まだ卿の見極めが済んでいないのでな」

頭の片隅を、逃れられない躊躇いが過った瞬間、剣風がスバルの頭上を奔った。

「うお!?」と反射的に首をすくめるスバル。その逆立てた髪の先端を掠めながら背後に抜けた剣風は、すぐ真後ろにあった部屋の上部を直撃、入口周辺の天井を、壁を斬風で破壊し、その崩落で部屋の入口を埋めてしまう。

「逃げ道を……!」

封じられた、と理解した瞬間、スバルは自分の中の選択肢が削られ、あまりにも手札が乏しい状態に陥っていることを否応なく思い知らされた。

「――ッ」

逃げ道を塞がれたということは、この場を離脱する選択がなくなったということだ。

この鉄火場で、もたもたと瓦礫をどけて退路を確保する時間なんてない。陰魔法のミーニャは物理的な火力に乏しく、入口をまとめて吹き飛ばすような力は期待できない。

すなわち、スバルたちにできることは、傍観か介入の二択――この状況で、傍観なんて選択肢だけは絶対にありえない。

だが、介入するということは――、

「――戦うのか? クルシュさんと?」

意味が、わからない。

現実が、理解できない。

目で見たものを、認められない。

だってそうだろう。そこにいるのはクルシュ・カルステンだ。スバルは彼女を尊敬している。王選で対立する陣営であろうと、その人徳は認められて当然だ。クルシュは気高く高潔で、為政者としての努力と精進を欠かさない優れた人格者で、きっと王器という意味では、スバルを初めて魅せた人物だった。白鯨を討伐し、その功績を彼女の口から認められたとき、それがどれだけナツキ・スバルの人生において大きな意味を持ったか、それは誰にも否定できないし、させない。

エミリアへの愛おしさを優先させた。でも、あのときスバルは確かに思ったのだ。

クルシュ・カルステンは紛れもなく、ルグニカ王国の王に相応しい一人なのだと。

「――もうやめてくれ、クルシュさん!」

故に、そこでスバルが選べたのは、最も腑抜けた手札と言わざるを得なかった。

「――――」

そのスバルの裏返った訴えに、激しい剣戟を交わすクルシュは応じない。彼女の視線は真っ直ぐ、自分と相対するティーガに向けられている。

だが、自分を無視はできないはずと、そう信じてスバルは声を張る。

「剣を下ろしてくれ! 頼む! どうすりゃいいのかはわからねぇ! わからねぇけど、俺も話すから! 何とかなるように、話してみるから!」

いつの間にか、ベアトリスに取られているのと反対の手は、首元に下がっている黒球を強く強く握りしめていた。――アルとは、交わさなきゃならない言葉の多くを交わせないまま、無理やりその意思を封じ込めるしかなかった。

そのアルを凶行に走らせた切っ掛けになったプリシラの死は、スバルにとって失ったものを取り戻すことができない、絶対的な喪失の重さを刻み込んだ。

話すこともできないまま、自分の知っている相手を失うかもしれない。――今のナツキ・スバルにとって、それは自分の死よりもはるかに恐ろしいことで。

「こんな風に終わりたくねぇよ! こんな……なんもかんもわからねぇまま、好きな人たちと別れ別れになんかなりたくねぇ!」

「スバル……」

「頼む! 頼むよ! お願いだから……頼むから……やめてくれぇ」

どれだけ悲痛な顔で訴えているのか、声を振り絞るスバルの横顔を見つめ、瞳を揺らしたベアトリスが唇を噛んだのが見えた。

不甲斐ない。情けない。大精霊ベアトリスのパートナーなのに、その賢くて優秀な力を何にも役立てられないで、こんな風に喚き散らすしかできないなんて。

「頼むよ……」

そうと、自分の無力さがわかっていても、スバルには選べない。逃げられないならクルシュと戦うなんて、そんな割り切った考えには走れない。

一度、出会った相手とその後の関係性が激変することはこれまでにもあった。

でも、その多くはマイナスな印象を、ポジティブな印象に変えたという意味だ。

その逆のケースは、トッドとアルの二人以外にない。――そこに、クルシュを加えるだなんて、とてもではないが耐えられないのだ。

「――――」

拙く、たどたどしいスバルの訴えは、激しさを増していく剣戟に掻き消されかねないほどか細いものだ。あるいは、この戦いにおけるスバルの存在ほどに軽視され、クルシュの耳にも届かないのではと思われるほどに。

しかし――、

「――卿の言葉に嘘はなさそうだ」

「――っ」

そう、得心したような呟きが聞こえ、スバルはハッと目を見開く。

ちょうどティーガを間に挟む形になりながら、邪道の剣士越しにスバルと、こちらを見るクルシュとの視線が交錯する。

その琥珀色の瞳との相対に、スバルは自分の言葉が届いた期待を抱き――、

「ならば、卿のことはこの場では後回しとしよう」

――刹那、言葉を発したクルシュを中心に、暴力的な風が室内を席巻した。

「な――」

全身が圧を感じた瞬間に足が浮かび上がり、スバルはそれがクルシュの巻き起こした風によるもので、彼女の得意とする剣技――『百人一太刀』が、方向性を定めずに全方位に向けて放たれた結果であると直感した。

本来なら、一方向にまとめて放たれるはずの強大な風の刃、それを束ねずに四方に広げることで発生した風圧は、戦いで荒れた執務室を容赦なく揺るがし、分厚い本や、まとめられていた資料、それに死した賢老の亡骸さえも舞い上げる。

だが、スバルが状況を把握できたのも、そこまでだった。

「が――っ」

無防備に浮かび上がった体、それが猛烈な勢いで天井に激突し、息が詰まる。とっさに腕を引き寄せ、胸に抱え込んでベアトリスを守ったが、それだけだ。

「スバル!」と叫ぶベアトリスをきつく抱いたまま、スバルの体は風に乗り、壁に叩き付けられ、受け身もできずに無様に床に放り出される。

「――ぅ」

全身、余さず軋む痛みに押され、肺の中から最後の一息がこぼれると、スーッと頭の奥が冷え切っていく感覚があり、マズいと直感する。

『死』とは違う。だが、意識が消えかけている。ベアトリスの無事を優先しすぎて、自分を疎かにした報いだ。ぶつけた頭に穴でも開いたみたいに、そこから意識が流れ出していってしまう。――マズい、マズい、マズい。

「ダメ、だ……」

今、意識を失ったら、クルシュに誰が言葉を投げかけるというのか。

ティーガは知らない。クルシュの人となりを、本当の善良な心の持ち主であることを知らない。誤解している。止めなくては。クルシュはいい人間だ。話せばわかる。

話せば、わかることなんだから。

「……わか、る、から」

だから、お願いだから、俺の言葉に耳を塞がないでくれ。――そう、遠のく意識の最後の最後まで願い続けながら、スバルの意識はトプンと闇に沈んだ。

沈んで――、

△▼△▼△▼△

「――そうだ」

「――――」

不意に、意識の覚醒があった瞬間、スバルは平衡感覚を失いかける。

直前までの自分と、瞬間的に切り替わった今の自分との差異を脳が理解できず、それが手足に作用し、パニックを起こしたのだ。

足が、地面に乗っている。当たり前だが、立っているのだ。立っている。当たり前。本当にそうか。立っているのが当たり前の状態だったか。そうでなかったから、今まさに天地がひっくり返ったような感覚を味わって――、

「違う」

今、スバルが意識すべきなのは、ひっくり返った天地のことではなかった。何故、天地がひっくり返ったと感じたのか、その原因の方だ。

そしてその原因は、言うまでもない。――時を、遡ったのだ。

「――――」

膝の力が抜けかけたスバル、その視界には激しく荒らされる前のマクマホン邸の執務室と、斜めに両断された国旗に抱かれたマイクロトフの亡骸がある。その亡骸の前には、半身で振り返る緑髪の女性と、スバルより半歩前に出た青年の背中。

クルシュとティーガの対峙だ。それも、この受け答えがあったのは――、

「この屋敷にいた関係者と、マイクロトフ・マクマホンは私がこの手で斬った。このものたちは王国に仇なす、逆賊だ」

取り返しのつかない、問いかけへの致命的な肯定があったそのときだった。

「――それは公爵、あなたの方だ!」

驚愕に血を凍らせるスバルの前で、裂帛の気合いを吐き、ティーガが飛び込む。

逆手にシャムシールを構えたティーガの剣舞が始まり、それを真っ向から受けて立つクルシュとの、邪道と正道を往く剣士同士の斬り合いだ。

連鎖する鋼の快音と飛び散る火花、それらが乱舞する執務室の戦いを目の当たりにしながら、スバルは最初に堪えた平衡感覚と別の理由で眩暈を起こしかけた。

「そんな、馬鹿な……」

口元に手を当て、押し殺した声が漏れる。傷口から滲み出す血のように止めようのない衝撃が、スバルの頭をガンガンと内側から殴っているようだった。

――『死に戻り』だ。『死に戻り』を、した。

意識が途絶する寸前、スバルを吹き飛ばしたのはクルシュの起こした風であり、それで壁や天井に激突、床に叩き落とされ、気絶させられた。――その後、スバルがこうしてこの瞬間に舞い戻ったということは、目覚めることなく『死に戻り』したということ。

あの状況で気絶したスバルの命が奪われたというなら、手を下したのは――、

「――スバル! しっかりするかしら!」

「――っ」

「ショックを受けて当然なのよ。でも、呆然としてちゃダメかしら!」

先ほどとは異なる理由で硬直したスバルを、先ほどと同じ励まし方でベアトリスが正気に引き戻す。彼女の小さな掌に頬を打たれ、その痛みと熱が、スバルを我に返した。

「悪い、ベアトリス」

打たれた頬を手の甲で撫でて、スバルは軋むほどに歯を噛みしめる。

間に『死』を挟んでも、この事態におけるスバルの混乱と動揺は欠片も薄れない。それでも、起きた出来事を嘘だと否定して、認めないと喚いたところで結果は同じだ。

クルシュとティーガの戦いに介入する勇気を出せないまま、みっともない泣き言を喚き散らしてスバルは死ぬ。――クルシュの手に、その命を摘ませることになる。

「ダメだ」

それを、させてはならない。

クルシュ・カルステンに、ナツキ・スバルの命を奪わせてはならない。スバルが弱いせいで、彼女の高潔さを貶めさせることなんてできない。

クルシュの手を、スバルの血で汚させることなど、あってはならないのだ。

「ベア子、手を貸してくれ」

「――! 言われるまでもないのよ!」

ショックとパニックで、理性というパズルのピースはバラバラになったままだ。

しかし、そのばらけたパズルの中から、それでもはっきり形として見えるピースだけを掴み取り、スバルは頼もしさしか感じないパートナーの手を強く握り返す。

眼前で続いている攻防、クルシュとティーガの戦いは実力伯仲で、まさしく一進一退というべき様相を呈している。

クルシュの実力を知るスバルとしては、彼女に匹敵する剣力を発揮したティーガの実力に舌を巻きたいが、現状では押し切る決定打――『百人一太刀』を有するクルシュの方がそれを有しているのは明確な不利だ。

ティーガもそれを知ってか知らずか、距離を詰める戦法を選んでいるおかげで、クルシュに風を練る時間を与えていない。しかし、その剣戟の合間にも、クルシュが形勢を塗り替える風を溜め込んでいると、スバルは身をもって知っている。

故に――、

「魔法には頼るなよ、マイフレンド!」

「元々使えないぞ、マイフレンド!」

頼もしいのか頼りないのか、呼びかけにそう応答する声があって、スバルは腕を引き上げ、ベアトリスを自分の胸に抱え込む。そうして二人、頬が触れ合いそうなぐらいの距離感から、同じ攻防をしっかり目に収め――、

「「――E・M・T!!」」

重なる詠唱、それと同時に執務室に広がったのは、スバルとベアトリスの二人を中心として展開された不可視のフィールド――構築されたマナの術式をほどき、無力化、その効力を失わせるアンチ魔法魔法というべきオリジナル技、E・M・Tだ。

このフィールド内では魔法を使うことはおろか、マナを燃料にした『ミーティア』や魔造具さえも不具合を起こしてべちゃべちゃになる。ベアトリスに言わせれば、べちゃべちゃになった状況に適応し、術式を編まれると話は変わってくるらしいが。

「ビックリしたロズワールの横っ面を引っ叩く隙ぐらい、余裕で作れるかしら!」

「いわんや初見なら……何がなんやらってなるだろ!」

展開されたフィールドの効果、それはスバルたちだけでなく、剣戟を交わしている二人をも呑み込み、その影響下に引きずり込む。

自己申告通り、魔法を使わないティーガの戦術には影響を与えないE・M・Tだが、切り札に風を編んでいたクルシュの方はそうはいかない。

スバルたちの詠唱に、何がくるのかと身構えていたらしきクルシュは、E・M・Tのフィールド効果が自分に及ぼした影響に、その隻眼をちらとこちらに向けた。――『死に戻り』する前にも、スバルはクルシュと視線を交錯した。

そのときの期待は裏切られ、スバルはあえなく命を落としたが――、

「投降してくれ、クルシュさん! 勝ち筋は消した! 百人一太刀は使えない! 使わせない! ここまでだ!」

震えそうになる声を虚勢で塗り潰し、スバルは曲がらぬ強い意志を演出する。

弱腰で、泣きそうな声で、悲痛な訴えで変えられる現実はないと思い知った。今ここで必要なのは、相手にこちらの意志を伝えるだけの強烈な言霊だ。

言霊には、魂を込めなければならない。――心の底から、相手を、自分を騙し切れ。

ナツキ・スバルは、戦ったら割に合わない相手だと、信じ込ませろ。

「――――」

真っ直ぐ、スバルの黒瞳と、クルシュの琥珀色の隻眼が眼光を比べ合う。その間、一度強く剣と剣が打ち合い、クルシュとティーガの剣戟にも区切りがついた。

曲刀を携え、半身に構えるティーガは、スバルたちを背後に庇う立ち位置のまま、

「と、そう俺の友人は忠告してる。さらに付け加えるとしたら、その友人はあなたにとっても友人だったんじゃないかと推察するんだが……耳を傾けちゃどうだ?」

「ティーガ……」

「はっきり言って、俺にはあなたの剣を一方的に奪って制圧するだけの力はない。取り押さえようとしたら肉を切らせる覚悟がいるし、最悪、命はないだろう。それは俺も、後ろの二人も望むところじゃない」

そう告げるティーガの眼差しは、油断なくクルシュの一挙手一投足を見据えている。

あるいは彼からすれば、クルシュに綻びの一つで生まれれば儲けものぐらいの気持ちでスバルに乗っかったのかもしれない。それでも、ティーガが伝えたそれは、紛れもなくスバルの意思を噛み砕いて浸透しやすくしてくれたものだった。

ティーガが、スバルとクルシュの間にあった出来事を把握しているはずもない。

むしろ、王選周りの話を知っているなら、陣営同士対立した間柄だと先入観があって然るべきだ。だが、ティーガはここでのスバルの短い言動から、クルシュとの関係が決して単純な対立関係になかったことを推し量ってくれた。

そのティーガの物分かりの良さに便乗する。――クルシュを、取り押さえてみせる。

取り押さえて、それからだ。全ては、そこから万事うまくいくよう考える。

「私は――」

「――ミーニャ」

祈るような心地でいるスバル、そこにクルシュが口を開きかけた刹那、スバルに抱きかかえられるベアトリスが手をかざし、紫紺の輝きが彼女の足下を穿った。

足先に突き立った紫矢の一撃、それが執務室の床を結晶化させ、ひび割れさせる。

「迂闊な動きは慎むかしら。E・M・Tの中でも、ベティーとスバルだけは魔法を使える例外なのよ。その軽口男とやり合いながら、こっちの相手も務まるかしら?」

「今の軽口男って評価には傷付いたが、自分たちの魔法は使えるのか。反則だな」

「そういうコンセプトだからな。でも、そういうことだ」

こちらの優位を突き付けるベアトリスの牽制、それに機先を制され、クルシュの表情が微かに強張ったのがわかった。それが、ここまでスバルたちを脅威に数えていなかった彼女が、しっかり明確にこちらを警戒対象に含めた反応だ。

そうされることへの痛みはある。が、脅威と思われたなら僥倖だ。分が悪いとなれば、彼女も正しい判断ができるはず――、

「なるほどな」

言って、クルシュが何気ない動きで剣を振り、誰もいない虚空に軌跡を描く。

意表を突く動きだったが、それはおそらく、E・M・Tの効果を確かめる動きだ。生まれるはずの剣風が生まれず、『百人一太刀』の不成立に彼女は首肯する。

そして――、

「――ナツキ・スバル、卿は何をそこまで恐れている?」

またしても、クルシュの問いが飛んでくる。

しかし、今度は最初とは違う。戸惑いに呑まれることなく、歯を噛んで耐える。

「戦いの結果か? 己や、傍にいるものの安否か? 王国の行く末? それとも」

「――――」

「――それとも、私の正気か?」

噛んで、含めるような問いかけだった。

その問いかけに対しても、スバルは表情筋の全てを使って現状を維持した。自分の弱気や尻込みが、何一つ相手に伝わらないよう、渾身の顔を作った。

全霊を込めたそのスバルの顔に、クルシュは何を見たのだろうか。

ただ短く、クルシュは唇を薄く開き、

「そうか」

とだけ、呟いた。

「公爵、こちらの要求は伝えた。どう答えてくれる?」

スバルとクルシュの間に生じた、言葉にならない一瞬の感情の嵐。それを意識的に無視するように、ティーガが厳しい声でクルシュに再度問うた。

声に込められた緊迫感は、はっきりと、これが最後通牒だと告げている。ひしひしと、再び高まる剣気、それに晒されるクルシュが、ティーガを見た。

「卿らの要求はわかった。この状況下で、風を封じられた私の方が不利だ。それ故に投降しろと、これがそちらの主張だな」

「――。そうだ。ここからは、俺とベア子も加わる。勝ち目は……」

「――ないと、そう断言するのは早計だぞ、ナツキ・スバル」

凛と、スバルの虚勢を踏みつけるように言葉を被せ、そう言い放つクルシュが剣を持たない左手をゆっくり持ち上げる。――その、白い手袋に包まれた細い指が触れたのは、左目を覆った大きな眼帯だ。

顔の左側を大きく隠す眼帯、それは『龍の血』の影響をフィルオーレの用いた秘蹟の力に癒されながら、いまだ完治していないと当人が語っていた部分。それが細い指先をかけられ、毟るように剥がされるのを目にし、スバルは瞠目する。

何故なら――、

「あまり長く見せたい姿ではない。――私も、女なのでな」

そう言ったクルシュの、眼帯を外して剥き出しになった左目は、彼女本来の琥珀色のそれと違い、金色に輝いていた。爬虫類のように細い瞳孔と、眼下を毛細血管のように走る光のライン――それを見て、スバルの脳裏をあるワードが電撃的に過る。

「――ぁ」

それが、正しいかどうかもわからない。

ただ、今のクルシュの、人非ざる金色の目を見て、思ったのだ。

「――――」

――クルシュ・カルステンの左目は、『龍の眼』となっていたのだと。