軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十章12 『呻き』

――その日は朝から快晴で、来たる揚々とした未来を祝福しているようでもあった。

「なんて考えるのは、ちょっと浮かれすぎか?」

「ベティーはそうは思わんのよ。実際、フィルオーレの秘蹟が期待通りの効果を発揮するんなら、スバルの浮かれ気分はただの前祝いってだけかしら」

「勝手に前祝いってなると、やっぱ浮かれすぎな気がしてきたな」

手を繋いで隣を歩くベアトリスのフォローに、スバルは空いた手で自分の頬を掻く。

事情が事情だけに、浮かれ気分も仕方ないと自分を擁護したいところだが、それへの自分の貢献度の低さを考えると、やはりはしゃぎすぎな感は否めない。

実際、スバルが直近の予定――水門都市プリステラに向かい、『神龍教会』の秘蹟による魔女教被害者たちの救済、それが行われる場面で役立つことはない。

ただ功労者の一人となるエミリアの騎士として、何よりあの都市での激闘を知る一人として、あの戦いが残した忌まわしい爪痕が癒える瞬間に立ち会いたいだけだった。

「だから、このところハードワークが続いてるラインハルトに頼んで、プリステラまで連れてってもらう遠征組にまぜてもらったんだ」

「当然、ベティーも一緒についてくのよ。氷漬けにした住民を溶かすエミリアと、あの街に心残りのあるガーフィールとオットーも一緒かしら」

「ガーフィールは、仲良くしてる家族さんのお父さんが『色欲』被害者だって話だし、オットーは……復元師に任せてた本の回収、か」

「らしいのよ。……まったく、抜け目のない男かしら」

ぷりぷりと頬を膨らませ、そう呟くベアトリスの複雑な心中をスバルは慮る。

プリステラでオットーが復元師に預けた本とは、『強欲の魔女』エキドナが遺したとされる『叡智の書』――ただし、ロズワールが譲り受けた方の本だ。その内容を確かめたい一心で、ほとんど燃えカスの状態から持ち帰ったというオットーの執念もさることながら、それを直せると豪語したという復元師の実力も信じ難い。

ただそれは、自分が渡された『叡智の書』を焼失させてしまったベアトリスにとって、何とも言い難い心境になるものであろうとも。

「心配いらないのよ、スバル」

「ベアトリス……」

「ベティーの未来の道しるべなら、今はスバルがいるかしら。燃えカスも再利用しようとするオットーの貧乏根性にはドン引きなのよ。でも、それがロズワールの鼻を明かせるっていうんなら、悪くない気分かしら」

「……そか」

こちらの心配を余所に、そうパワフルに胸を張るベアトリスが愛おしくなって、スバルはその可愛い契約精霊の頭を心行くまで撫でくりした。

前述の通り、ラインハルト便を使ってプリステラに向かうのは、奇しくも以前のプリステラに向かったのと同じメンバーになる。できればスバルは陣営全員で動きたいところだったが、過労でダウン中のラムに無理はさせられない。

そこに他陣営から同行するのが、竜車を運ぶ役目を負ったラインハルトと、その監督役を務めるらしいフェルト。――そして、今回の遠征の主役であり、キーパーソンのフィルオーレと、そのお目付け役のサクラだ。

「正直、やることが渋滞してる今、いきなりフェルトとフィルオーレを一個の竜車で引き合わせるのって、混ぜるな危険過ぎって気がしないでもねぇんだが」

「でも、聞いた話だと、二人の顔合わせ自体はとっくに済んでるって話なのよ」

「ああ、フィルオーレが初めて城に顔を出して、クルシュさんの治療をした日だってな。その日のうちに二人が出くわして……フィルオーレに徽章を持たせて、王選候補者の資格があるかどうか確かめたのもフェルトだって話らしい」

「怖いもの知らずにも程がある娘かしら。普通、自分の立場が危うくなるとか、そういうことを考えて二の足を踏むもんなのよ」

「元々、自分の出自のことなんて当てにしてなかったんだろ。そういうとこ、スパッとしててカッコいいと思わされちまうな」

そうしたフェルトの生き様の潔さには、多くのものを惹きつけるカリスマがある。

実際、フェルトを玉座に座らせたいと望むものたちは、その彼女の言動や行動、在り方に魅せられ、その小さな背中に理想を見出すことでついていっている。

それが混じりっ気なしの、フェルトの魂の輝きが生み出した成果なのだとしたら、まさに今の状況は余計なあやが付いたも同然だった。

「フェルトとフィルオーレ、どっちかは本物の王女で、どっちかは偽物、か」

「そもそもがおかしな話かしら。その二人のどっちが本物にしろ、可能性を利用するつもりがあるのなら、もっと積極的に言っていかないと宝の持ち腐れなのよ。大勢に信じさせて、大勢に疑わせて、それが一番の使い道のはずかしら」

考えれば考えるほどに、生き残った王女説は使われ方に無理があるのを感じる。

ベアトリスの言う通り、せっかくの強力なアドバンテージをまるで活かせていないどころか、フェルトとフィルオーレには、どちらかが本物であるなら、どちらかは確実に偽物であるというマイナスイメージが付いてしまったとすら言える。

そうなると、まずやはり気になるのは――、

「――結局、教会が何を考えて、フィルオーレの存在を伏せてたのか、だ」

フィルオーレの話では、彼女は十五年前、教会の前に捨てられていたところを拾われ、そのままみなし子として『神龍教会』の養護院で育ったのだとか。そこで相当な箱入り娘として教育され、ほとんど外を知らない、無知な行動力の怪物が誕生した。

その行動力の結果が、今日の混沌を生み出した点についてはともかく、『神龍教会』は彼女の外見の特徴も、年齢も、そして名前すらも把握していたはずだ。

それが、ルグニカ王族と結び付かなかったことなど、絶対の絶対にありえない。

ましてや、フィルオーレの操る秘蹟に、『色欲』や『暴食』の大罪司教たちの権能に対抗し得る力があるなら、それは王族を襲った病にも力を発揮したのではないのか。

だとしたら何故、ルグニカ王族は『神龍教会』に見殺しにされたのか。

「せめてその謎は明らかにならなきゃ、誰も納得できねぇだろ」

折しも、王選の開催が王国全土に知れ渡っている今、誰が時代の玉座に座るのか、王国中の人々が注目している。いい意味でも悪い意味でも、人々は王選候補者の目立つ行いを見逃さず、そして忘れないだろう。

だから、『神龍教会』が何を考えているのか、どうしても知りたい。

そのために――、

「――マイクロトフさんのお誘いは、渡りに船だったな」

「なのよ」

言葉少なに頷くベアトリスの隣で、スバルは先日の一件――王選参加の要請を受諾するフィルオーレに付き合い、エミリアと共に城の会議室で、マイクロトフとやり取りした時間のことを思い出す。

騎士選びにおけるフィルオーレの爆弾発言、それが飛び出したことで騒然となり、最終的にバタバタした〆方になってしまった一幕だったが、スバルには収穫もあった。

それが『賢人会』の重要人物であり、おそらくはルグニカ王国でも有数の識者であるマイクロトフが、スバルと話すための時間を取ってくれるという約束だ。

ギャースカとやかましいフィルオーレ劇場が続く傍ら、ダメ元で話がしたいと持ちかけたスバルに、マイクロトフは快く頷いてくれて。

「ふぅむ。でしたら、ナツキ殿のために予定を空けましょう。ちょうど、私の方からも内々にナツキ殿とお話ししたいことがありましたので」

「それはめちゃめちゃありがたいですけど……俺に話、ですか?」

「ええ。確かめたいことと、お伝えしたいことと、相談したいことと……すみませんが、年寄りの長話にお付き合いいただければ幸いです」

そう言って、マイクロトフは好々爺めいた笑みを覗かせながら、スバルに自分の住居の場所を教え、その内々の約束のための時間を用立ててくれた。

その日取りが、火の刻の後ろにはプリステラへ出立する予定の今日なのだ。

その一大事の前に、スバルはマイクロトフとの約束通り、一人で――否、前もって断りを入れた、一心同体のベアトリスだけを連れ、約束の住所を目指していた。

「マイクロトフさんからの話……聞きたいことと話したいことはともかく、相談したいことってのがなんかおっかねぇが、俺の方からも質問がわんさかあるからな。理想は、竜歴石の実物をどっかで見せてもらうことなんだが」

「竜歴石は、『龍の血』やらと同じように厳重に管理されてるって話かしら。でも、その働きが何に近しいか、ベティーが見れば仮説は立てられるはずなのよ」

「別に竜歴石そのものが怪しいと思ってるわけじゃねぇけど、王族の全滅は見過ごしておいて、そのアフターフォローの王選だけ描写が充実してるってのは、な」

そこに何らかの悪意や作為、そうしたものがあったのではと邪推してしまう。まさか、王族の死までも何かに仕組まれていたなどとは思いたくないが。

「――――」

霊廟で、実際に命を落としたルグニカ王族たちの石棺をこの目で見た。――愛された王族たち、とりわけ第四王子の死が見知ったクルシュやフェリスに与えた影響を考えれば、そこに何者かの意思が介在した場合、スバルはその何者かを決して許せない。

そう考え、ベアトリスと繋いだのと反対の手に、スバルが力を込めたときだ。

「――そいつはまた、ずいぶんと物騒なことを考えてるんだな、マイフレンド」

不意に、横合いからかけられた軽妙な声音に、スバルはハッと振り返る。すると、通りの交差するT字路の頂点、こちらに手を振る瀟洒な青年が目に留まった。

その気安い呼びかけに、スバルは相好を崩すと、

「マイフレンド? いきなり馴れ馴れしい奴だな……」

「おいおいおい、お前が先にそう呼びかけてきたんだろ! 梯子を外すな!」

「冗談だよ。また会えて嬉しいぜ、ティーガ」

くわっと目を剥いた青年――ティーガは、悪びれずに手を差し出したスバルの顔を薄目で睨み、それから肩をすくめたあとで、その手を握り返した。

無事に握手が交わされ、友情の再確認は完了だが、

「ベアトリス嬢も、ご機嫌麗しゅう。また会えて光栄だ」

「ベティーも苦しゅうないかしら。……でも、なんでお前がここにいるのよ」

「それはそっくりそのまま、俺の方からも同じ台詞を返させてもらうよ。こそこそしてたわけじゃないけど、一応、内緒の呼び出しのはずなんだけどな」

「内緒のって……まさか、お前もマイクロトフさんに?」

「――。ってことは、そっちもか?」

目を丸くして互いを指差すスバルとティーガ、その二人の間に立ったベアトリスが、背伸びしてその互いを指差す二人の腕を下ろさせる。

その可愛い仕草も手伝ってか、ティーガは「は」と柔らかく息を抜くと、

「なんだ、尾行されたのかと思って焦ったよ。いくら何でも、子連れで尾行はしないだろうと思ったんだが……いや、やめとこう」

「なんだよ、途中でやめるなよ。怒らないから言ってみろ」

「そうか? なら言うけど、『幼女使い』って有名なナツキ・スバルなら、子連れで尾行もお茶の子さいさいかもしれないなと……」

「てめぇ、誰が『幼女使い』だ、この野郎!」

「怒らないって言ったから話したんだろうに!」

久々に飛び出した不名誉な二つ名に、憤慨するスバルが相手に掴みかかる。が、ティーガはそのスバルの手を全部鮮やかに躱すと、サッとベアトリスの後ろに隠れた。

その清々しいまでの悪足掻きに、ベアトリスはスバルに向かって肩をすくめ、

「話が進まないから、ここいらで手打ちにするかしら。スバルの方が大人になるのよ」

「ちっ、わかったよ。俺は大人だから、子どもみたいな真似したお前にぶちぶち言ったりしないぜ。何故なら俺は大人だからな」

「大人はそんなに大人を誇示しないもんだと思うぞ、まったく」

しゃがんでいた体をひょいと伸ばし、ティーガが帽子の位置を直しながら、足を止めた交差路の、共通した目的地のある方に顎をしゃくった。

「目的地は同じなんだ。たぶん、指定されてる時間も同じだろう。一緒にいこうぜ」

「別にいいんだが、だったら俺だけとか、妙な指定しなくてもよかっただろうに。エミリアたんとかレムも一緒でよかったじゃんか」

「レムさんはともかく、エミリア様はご主人様だろ。自分の用事に連れ回すのかよ」

「連れ回すんじゃなく、できれば片時も離れたくないだけだ」

「それは――」

軽口には軽口を。応酬するつもりで繰り出したスバルに、しかし、ティーガは言葉に詰まったみたいに口を閉じ、しばらく目を泳がせた。

その反応に、スバルはベアトリスと顔を見合わせ、首をひねる。

「どうした? 俺の、エミリアたんたちへのビッグラブが怖くなったのか?」

「そのビッグラブとやらが怖いわけじゃないさ。ただ、スバルの重たい愛情が、俺自身にもよくわからない心の琴線に引っかかった……ってとこかな」

「――。気持ちは嬉しいけど、俺、心に決めた人がいっぱいいるから……」

「一途に見せかけて、最低な奴の発言か!?」

調子の戻ってきた感があって、スバルは小気味いいティーガの突っ込みに笑う。最初から何かと波長の合う相手だと思っていたが、マイフレンドは伊達ではない。

ティーガの方も、笑い出したスバルにつられ、直前の違和を忘れて笑んだ。

「二人とも、はしゃぐのもそこまでかしら。見えてきたのよ」

いつの間にか、スバルたちより少し前を歩いていたベアトリスが、通りの角のところに立ってこちらを手招きしている。大股と早歩き、スバルとティーガは駆け出さない程度に足を急がせ、そのベアトリスの隣にほとんど同時に並んだ。

そして、貴族街の外れ、指定された住所と、聞いていた屋根の色と合致する大屋敷を見つけて、そこがマイクロトフの邸宅であろうと当たりを付ける。

「ティーガは、マイクロトフさんと何の話があったんだ?」

「探し物の相談、かな。スバルたちは?」

「俺とベア子は歴史ロマンの追求、色々王国の暗部について聞きたかったのと、いっぺんでいいから竜歴石を見せてもらえないかなって」

「なるほど。それでさっきの物騒な話に繋がるわけか。老婆心で忠告しておくけど、道端で竜歴石をどうこうしようみたいなことは言わない方が――」

いいぞ、と続けようとしていたのだろうが、ティーガの言葉がそこで中断した。

何事かとスバルたちが振り向くと、マイクロトフの屋敷の門前に向かう途中、屋敷を囲った石塀を睨んで、ティーガが足を止めていた。

そして彼は、その整った秀麗な横顔に確かな警戒を宿し、呟く。

それは――、

「――マズいな、血の匂いがする」

△▼△▼△▼△

左手にベアトリス、右手にギルティウィップ。――二つの頼みをしっかりと手に馴染ませながら、スバルは息を殺し、血臭の漂う邸内を進む。

「――スバル、離れるなよ。お互いの死角を補うんだ」

そう押し殺した声をかけてくるのは、スバルたちの前方を警戒するティーガだ。

身を低く、足音を消しながら歩くティーガの手には、音もなくするりと抜き放たれた刀剣――深く、鋭い弧を描く銀の三日月、シャムシールが握られている。

その佇まいの雰囲気から、彼がその曲刀を自在に使いこなす技量の持ち主であることが察せられ、スバルはフィルオーレは騎士を見る目がないと場違いな感想を抱いた。

「――――」

繋いだ手からベアトリスの緊張が、そしてベアトリスにはスバルの緊張が伝わる。

幸い、スバルよりはるかに落ち着いたベアトリスのおかげで、お互いの緊張が相互に高め合う負のスパイラル、セルフ『憤怒』の権能には陥らずに済んでいる。

――マイクロトフの屋敷は、目を背けたくなるような惨状と化していた。

裏手から屋敷に入り、すでに十人以上の関係者を発見したが、いずれもすでに事切れた惨殺死体となっていて、全員が一刀の元に斬り捨てられていた。

苦しめない一撃を慈悲と呼ぶべきか、実力を発揮させない圧倒を情け容赦ないと評するべきか、死した彼らを装飾する最期の言葉が思いつかない。

ただただ、生々しく瑞々しい死の息吹を間近にし、スバルの心の臓が爆ぜそうに鳴る。

「――――」

事態はすでに、スバルのキャパシティをオーバーしている。そう判断し、すぐにでも屋敷を離れ、助けと応援を求めるのがベターな判断の確信がある。

だが同時に、スバルたちが今乗り込むことで、命を拾える可能性も確かにあった。

何故なら――、

「どれも、殺されたばかりだ」

「……同感なのよ。せめて、誰か一人でも息があればかしら……」

また一人、通路の壁に刻まれた斬撃の痕と、その真下に倒れた亡骸が見つかる。大振りの一撃はその人物を斜めに、背後の壁ごと切り裂くように放たれていた。

袈裟斬りにされた無念の死体の血はまだ乾いておらず、熱を帯びた生臭さには、直前まで生者だったもの特有の、生命力と死が混在した独特の死臭の癖があった。

「帝国での経験がこんなときに活きるのがムカつくぜ……」

ナツキ・スバルの人生において、最も惨たらしく、地獄のようであった光景――それは悩ましくも、多くの顔見知りが屍の山を築いた剣奴孤島の惨状だ。憎っくきトッド・ファングがもたらした災害は、無数の死で以てスバルの世界を焼き尽くした。

あそこでは、たくさんの死を見た。だから、見分けがつく。それがいつ頃に死体になった生者で、それが息絶えるまでにどのぐらい苦しんだものなのか。

「苦しめては、ない」

屋敷の中、見つけた死体はこれで十三人になるが、誰も苦しめられてはいない。だが、それが慈悲の結果なのか、ただの技の冴えの結果なのか、その区別はつかない。

苦しんで死んでいないという事実が慰めになるのは、たぶん、それを確かめた自分たちの心だけ。傲慢と、こんなときにもフェリスの悪罵が脳裏を掠めた。

何故だろうか。もしかすると、この世で何より死を嫌うと言った彼ならば、この悲劇に無力感を覚える今のスバルと理解し合えると、そう思ったからかもしれない。

「クソ」

数え切れないほど多くの死を見てきて、それでもなお、慣れることのない嘔吐感と喪失感を抱えながら、スバルは死者たちの目を閉じさせ、先へ進む。

引き下がらないのは、この始まったばかりの惨劇の中に、まだ生き残った誰かがいる可能性が残されているから。

引き下がってしまうことで、その命の可能性を潰えさせてしまいたくないから。

それに――、

「――マイクロトフさんは、まだまだこの国に必要な人だ」

決して、スバルはマイクロトフと多くの言葉を交わしたわけではない。

『賢人会』という、王国の知恵者たちの頂点にある彼らに、いい思い出だってない。

ただ、数少ない接点と、思い出したくない負の想念で塗りたくられた記憶の中に、スバルが覚えていることが確かにあった。

『あなたが世に恐れられるような、そんなハーフエルフとは違うのだと少なくとも彼は示した。――よい、従者をお持ちですな』

それは、スバルの身勝手な暴走で、大勢の前で醜態を晒した場面、誰一人として味方がいなくなり、玉座の間を追われることになったとき、言われた言葉。

今、このとき、この瞬間まで思い出すことはなかった。――だが、あの日、あの場でのスバルの行いを、他者とは違った目で見てくれていた人がいた。

気付いていなかった。でも、それがどうした。どうだろうと、スバルは感謝した。

この、救われた気持ちに勝る黄金を、スバルはマイクロトフに返すのだ。

「――スバル、ベアトリス嬢」

強い覚悟と決意を決めて、逃げない理由の原動力としていたスバル。そのスバルと、隣り合うベアトリスを呼んだのは、大扉の前に達したティーガだ。

屋敷の隅々まで見たとは言えないが、大きな部屋の確認は終えた。屋敷の構造上、非常時に逃げ込む部屋の役目を果たすのは、まさに今目の前にしたこの部屋だ。

故に、屋敷の主のいる可能性は、この部屋が一番高く――、

「――っ!」

掛け声ではなく、頷きの直後、開かれた扉にティーガを先頭に飛び込んだ。

入ってすぐ、最初に目に飛び込んできたのは、簡素な部屋の中、白い壁を覆うように張られた、大きな大きなルグニカ王国の国旗――一振りの剣を中心に、向かい合った二頭の龍が描かれたそれが、これも斜めに切り裂かれ、片側が床に落ちている。

――そして、その床に垂れ下がった国旗を体に巻くようにして、同じ斬撃を浴びたのだろう一人の人物が壁に背に、血溜まりに崩れ落ちているのがわかった。

「――ぁ」

思わず、喉の奥から呻き声が漏れた。

壁にもたれかかる人物、その俯いた顔ははっきりとは見えない。でも、それが誰なのかははっきりとわかった。他に見間違いようのないくらい、特徴的な長い白髭までもが、流れ出たおびただしい量の血に浸り、真っ赤に染め上げられていたのだから。

「――――」

それはもはや、二度と動くことのない、マイクロトフ・マクマホン――ルグニカ王国を長く支えてきた、大賢人のあまりに呆気ない、無慈悲な最期だった。

だが、しかし、その死すら、その最期すら、スバルの呻き声の理由ではなかった。

スバルが呻いた理由は、被害者となったマイクロトフではない。――加害者だ。

部屋の中央、斜めに切り裂かれた国旗と、それを体に巻くようにして息絶えたマイクロトフの亡骸を正面に、こちらに背を向けて立つ加害者の姿がある。

すらりとした細身の背中に、美しく艶めいた長い緑髪が揺れる。女性的に富んだ体の起伏は、その濃紺の装いに隠し切れず、背徳的な耽美さを惨状に描いていた。

そして、彼女の手に握られた長く鋭い直剣には、血糊の一滴もついていない。――当然だ。何故なら彼女の剣撃は、鋼ではなく、風で相手を断つのだから。

「――――」

愕然と、その場に立ち尽くすスバルたちに、ゆっくりと彼女が振り返る。その片目を眼帯で覆い、残された琥珀色の瞳に、こちらを映した男装の麗人――、

「――ああ、ナツキ・スバルか。――卿は、はたして私の知る『本物』か?」

――血と死の蔓延する惨状で、クルシュ・カルステンのその問いに、ナツキ・スバルの喉からは、情けない呻き声しか漏れ出なかった。