軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十章9  『泣き虫』

――フェリックス・アーガイル。

それが、目の前に立っている人物の本名であることは知っている。

人づてに聞いたこともあるし、何より、当人が自ら今そう名乗ったばかりだ。その可憐な見た目に反して、男らしさを感じる響きだとも、思ったことがあった。

だが、実際にその名前を名乗ってみせた彼を前にしても、スバルの中で、その事実と事象がうまく擦り合わせられない。

そのぐらい、彼の生き方は『フェリス』という愛称のイメージで出来上がっていて。

「騎士を、罷免……? それって」

「やめちゃったってことです。まぁ、でもしょうがないですよネ。『神龍教会』ならクルシュ様をお救いできる……その手を取るって決めたときから、こうなる覚悟はしてましたもん。――あ、エミリア様が責任感じるとかしないでくださいネ」

「フェリス……」

「あのとき、きてくださったの、ホントに心強かったです。私とヴィル爺とか、クルシュ様のお味方以外にも、その無事を喜んでくれる人がいて、自分がやったことが間違ったことじゃなかったんだーって、そう思えましたし」

頭の上の猫耳を畳んで、フェリスが目尻を下げながらそう答える。

その答えに、彼に駆け寄る途中で足を止めたエミリアは、どう答えたらいいのかを考えあぐねるみたいに、手を上げたり下げたりしていた。

戸惑いと困惑、エミリアのその反応は正当だ。――しかし、燕尾服に袖を通し、騎士を辞めたと嘯くフェリスの姿に、スバルの答えは違う。

「待った! スバルくん、どこいく気?」

「――っ、決まってんだろ、クルシュさんのところだよ。こんなの、やりすぎだ」

歯噛みし、踵を返そうとした背中を呼び止められ、スバルは低い声を荒らげる。

事情は、想像がつく。クルシュの体を浸蝕した『龍の血』、あの苦しみを取り除くのに『神龍教会』の手を借り、結果、クルシュ陣営の王選の立場は危うくなった。

そしてそれは、意識の混迷したクルシュに代わり、フェリスが決断したことだ。

そのフェリスの判断でクルシュは救われ、しかし、王選の勝利は苦しくなった。それは王になるという、強い動機のあったクルシュの望まぬ決断だったろうとも。

「だけど、それは全部、お前がクルシュさんのためにしたことじゃねぇか。なのに、そのお前をクビにするなんて……そんなのは間違ってる!」

「スバル!」

堪えられない憤慨に、スバルと繋いでいた手を振りほどかれたベアトリスが叫ぶ。

だがスバルは止まらない。このまま走ってカルステン邸に戻って、そのままクルシュに詰め寄ってでも、フェリスへの仕打ちを撤回させるつもりだった。

しかし、そうしようとするスバルの一歩目を、両手を広げて立ちはだかる相手――レムによって、止められてしまう。

「レム、止めるな。俺がメチャメチャ感情的に喚いてくるところを、お前たちに見られたくねぇ」

「度を越して感情的になる自覚があるなら、そこで止まってください。それに、そんな風に暴れる前に、ちゃんと相手の顔を見ていってはどうですか」

「相手の、顔?」

発作的に勢い込んだスバル、その出鼻を止めたレムが頷き、顎をしゃくる。それに従って振り向いたスバルは、こちらを心配げに見るエミリアとベアトリスを視界に入れ、そしてその向こう、霊廟の入口でスバルを見下ろすフェリスを見た。

その、スバルの怒りの原動力になったフェリスは、そんなスバルの激発に呆れ顔で、まず先にレムの方に目を向けると、

「ありがと、レムちゃん……こうやって、立って歩けてるところを見るのは初めてだけど、思ってたよりずっといい子なんだネ。男の子を見る目だけないのかな?」

「……眠っていた間、フェリスさんにもお世話になったと聞いています。そんな恩人なので、控えめに答えておきますけど……今のはひどい誤解です」

「そ。レムちゃんがその認識なら別にいいよ。でも、起きれてよかったネ」

間に挟まったスバル越しに、レムとフェリスがそんなやり取りを交換する。それをされ、レムが複雑そうに唇をすぼめると、「それで」とフェリスが切り替えた。

彼は、その目を細めてスバルを見下ろしながら、

「スバルくんってさ、ホントに傲慢だよネ」

「ごうま……っ」

「自分本位とは違うかなーって思うから、これでも言葉は選んでるんだよ? 全部、自分のためにやってるわけじゃなくて、誰かのためにやってるんだけど、それがものすごい勢いで空回りっていうか、余計なお世話っていうか」

「お前、そんな言い方……」

「――で、スバルくんが傲慢なら、私も傲慢かなって、思ったよネ」

瞬間、その微笑を目にして、スバルは冷や水を浴びせられた気分になった。

「――――」

息を呑み、散々スバルを悪罵したのと同じだけ、自分をも悪く言ったフェリスのことを見つめ返す。フェリスの雰囲気は、霊廟でこちらを意識してから変わらず、ずっと掴みどころがないというか、泰然としすぎてスバルには感じられる。

言うなれば、静謐とした凪の海だ。――だが、そんなはずがない。フェリスの身に起こったことを考えれば、凪の海どころか、大荒れの嵐の真っ只中のはずで。

フェリスのその表情の中に、嵐の兆しを探そうとスバルは目を凝らす。が、当のフェリスは取り合わない様子で片目をつむり、それから「あ」と声を漏らすと、

「そうだ。よかったら、エミリア様たちもお参り、していきません?」

「お参りって……もしかして、その後ろの霊廟? 入れるの?」

「はい、ちゃんと管理者から鍵を預かってますし、それに私、代参者の資格を持ってるので、結構よくくるんですよ」

「代参者……?」

「わお、スバルくんってばホント物知らずなんだから。そんなんで一の騎士なんてやってると、エミリア様に恥掻かせちゃうよ?」

小さく笑い、舌を出したフェリスにスバルは口を噤んだ。

無知を指摘されたことより、フェリスの口から一の騎士という単語が飛び出すことが、今の状況的にものすごくデリケートな話題に思えたからだ。

無論、悪戯っぽい目つきのフェリスは、あえてそれを口にしたのだろうが。

そんな調子でスバルたちを翻弄しながら、フェリスは今しがた自分が出てきた、閉まりかけの霊廟の扉にそっと手を添えて、

「色々、積もる話は中でしましょ。――私一人だけのお参りじゃ、殿下も寂しいかなーって思ってたところだったので」

△▼△▼△▼△

王立霊園の中にあって、その霊廟の存在感は明確に他と一線を画したものだ。

王国全土から選りすぐられた白の大理石を組み上げ、親竜王国の象徴である竜の意匠が随所に施された建物には、ただ目にするだけで相手を圧倒する格がある。日の光を反射して輝くその外壁は、邪なるものの侵入を拒むような神々しさを放ち、閉じた扉を一枚絵として完成する竜の彫像は、死した王族の尊厳を守護し続けているようだ。

中に足を踏み入れれば、続く白亜の回廊の各所に眠れる王族たちの墓標がある。秩序正しく並べられた石棺は、それぞれの王族にちなんだ彫刻や飾り付けが為され、それらを見ているだけで、死者の生前の姿が浮かび上がるようだ。

とりわけ、目的の第四王子の墓碑の在り方は、特にそれを感じさせた。

「ここが殿下の……フーリエ・ルグニカ様のお墓」

磨き抜かれた床の上、靴音を立ててスバルたちを先導したフェリスが足を止め、ひと際目立つ墓標――フーリエ・ルグニカの石棺を手で示した。

厳格で、静々とした秩序に守られた霊廟の中、その理がここではわずかに揺らぐ。

なにせ、第四王子の墓標は、死者の眠る場所にしては色鮮やか過ぎた。

「これって、お供え物? 手紙とか編み物、それに木彫りの動物……」

「どれも、王族の方へのお供え物って感じ、しませんよネ。実際、そこにあるものを供えてほしいって言ってきたのは、そういう上流階級の作法みたいなのと縁遠い子たちだったりしたので、仕方ないんですけど」

「縁遠い人たちのって、まさか、一般市民の贈り物? そういうのって、持ち込まれる段階で検閲されたりとか、取り上げられたりとかしないのか?」

「もちろん、それが悪ふざけだったりしたら通してなんてもらえないよ。でも、そうじゃないことは、代参者の私が受け取ったときに確かめてるから」

石棺の前にしゃがみ込み、そう答えるフェリスが置かれた様々な物品に目を細める。

そこに供えられた品々は、ここに眠る第四王子を慕っていたものたちが、その身分に関わらず、それぞれの想いを込めて用意したものなのだろう。

代参者とは、この場所を直接訪れることのできないものたちに代わり、特例として、霊園の管理者の許可を得て、こうした供え物を持ち込む権利を持つものだ。

フェリスは、この第四王子の代参者として、人々の想いを託されてきたと。

「元々、ルグニカ王族の方々って、みんな人が好いっていうか、優しくて甘え上手な人が多かったんだけど、フーリエ殿下はとびきり明るくて、楽しいお人柄だったの。で、しょっちゅう城を抜け出して、王都の人たちにまざって遊んでたんだよネ」

「……すげぇな。漫画とかだとよく聞くエピソードだ。でも、実際にそれやられると、大問題になったりするだろ」

「ま、なるよネ。いなくなった殿下を探して、捜索に近衛騎士団が動員されたりさ。結局、殿下は貧民街の炊き出しにまざってて、それが『神龍教会』の炊き出しだったりしたもんだから、城と教会の摩擦が起きそうになったり、大騒ぎ」

「それは、今は冗談って笑い飛ばしづらいのよ」

丸めたフェリスの背中越しに、多くの人に愛されたフーリエの墓標を眺める。

笑みを交えたフェリスの思い出語りには、その話題の主人公であるフーリエへの、隠す余地もない親愛が満たされていて、誰からも愛される人柄だったことが、そのエピソードの片鱗からも感じ取れた。

「……殿下の話、前にちらっとスバルくんにはしたことあったっけ?」

「……ああ、そういう人がいて、お前やクルシュさんと仲良くしてたってことは。その人と俺が、ちょっと似てるとかも言ってたか?」

「はあ? なんで殿下とスバルくんが? 殺すよ?」

「そのときも、確かおんなじ風に言われたよ!!」

わりと冗談抜きに声がシリアス味を帯びたので、慌ててそう弁明しておく。

実際、スバルがフーリエについて聞かされたのは、そのぐらいの内容に他ならない。もちろん、その人物の死が、クルシュが王選に参加しようと志した理由と無関係でないことぐらい、察しの悪いスバルでもわかることだが。

「じゃあ、クルシュさんは、そのフーリエ王子のために王選に参加したの?」

「……さすが、エミリア様。聞きづらいこと、真っ直ぐ突っ込みますネ」

「あ、ごめんなさい。でも、その話をしてくれようとしたから、フェリスは私たちをお墓参りに誘ってくれたんでしょう? それを聞いてから、私も私が次に何をするかを決めようと思っていて」

「次に何をするか、ですか? それって?」

「ええ、さっきはスバルにお株を奪われちゃったけど、私もクルシュさんに考え直してって言いにいこうと思うの。スバルと二人で一生懸命話すわ。どう?」

「いい考えだと思う。……いたたたっ!」

「勢いで物を言わないでください。ここがどこだと思っているんですか」

エミリアの意見に賛成した途端、レムに脇腹をつねられたスバルが悶える。そのスバルたちの様子に、フェリスは苦笑しながら立ち上がると、

「さっきも言いましたけど、クルシュ様のところにあれこれ言いにいくのはやめてほしいです。私、最初からこうなる覚悟でやったことなので」

「でも……っ」

「私は納得済みのことです。罷免されちゃったって言いましたけど、もうお傍にいる資格はありませんって私から言い出したことですし。それに……」

自分の唇に指を立てながら、言葉を区切ったフェリスが合間に一拍、彼はその立てた指でエミリアを、それからスバルを順繰りに指差して、

「もし、エミリア様が私とか『賢人会』とか、まぁ何でもいいんですけど、余所から、スバルくんとの主従関係を考え直せって言われたら、どうします?」

「え? スバルとのことは、私がうんと考えて決めたことよ。だから、誰かにそんなこと言われたらすごーくもやもやするし、何なのって思うけど……あっ」

「そういうことです。今、エミリア様がしようとされてることって」

部外者による、余計で大きなお節介。そうわかりやすくフェリスに説明され、エミリアが目に見えてしょんぼりと肩を落とした。さすがにその反応を前に、スバルとの関係を誰にも口出しされたくないと、そうエミリアが答えたことへの喜びは乏しい。

何より今の説得は、エミリアだけでなく、スバルにも効果的なものだ。

当然、それがわかっているだろうフェリスは、しょんぼりしたエミリア越しに、スバルにも肩をすくめつつ、

「さっきの質問の答えですけど、クルシュ様はそこまで視野の狭い方じゃありません。なので、フーリエ殿下のことは、王選に参加した理由の一端ですよ」

「……だけど、無視できるような大きさの一端じゃない、だろ」

「ありゃ、揚げ足取りの上手いこと。すっかり可愛げなくなっちゃったね、スバルくん」

とはいえ、それで痛いところを突かれた風でもなく、フェリスは続ける。

「否定はしないよ。殿下が亡くなられたことは、クルシュ様にとって……私にとっても、本当に大きな出来事だった。深く傷付いたし、一生分泣いたってくらい泣いちゃった。まぁ、私は泣き虫だから、そのあともたくさん泣くことあったけどね」

「――――」

「クルシュ様も、表には出さなかったけど、傷付いて傷付いて、苦しんだ。――でも、クルシュ様が一番傷付いたのは、殿下が亡くなられたあとだった」

「え……」

「殿下も、他の王族の方々も次々とお隠れになって、みんな大混乱。カルステン公爵であるクルシュ様も、上級貴族の一人として城の会議に参加して……そこで気付いたんだ。会議に参加したみんなが、殿下たちが亡くなったことより、『神龍』との盟約が断絶するかもしれないことに頭を抱えてたことに」

静かな、できるだけ感情を乗せないよう、気遣った話し方だった。だが、その努力がかえって、フェリスの語った事実のグロテスクさを浮き彫りにする。

ルグニカ王族の人柄や愛され方、それがどれほど温もりに満ちたものだったのかは、この霊廟を見ていればわかることで、フーリエ・ルグニカ以外のいずれの墓碑にも、必ず誰かしらの死者の安寧を祈る供え物がされてる。

それだけ愛される人たちの死さえ、『龍』との盟約の前には、軽視されてしまう。

「だから、だったのね」

吐息のようにこぼれたそれは、スバルと同じ理解に至ったエミリアの呟きだった。彼女は自分の胸に手をやりながら、その紫紺の瞳を痛まし気に細め、

「だからクルシュさんは、自分が王様になったときには、『龍』との盟約に頼り切りの国じゃなく、もっと強い国にしなくちゃって、そう決めたのね」

「――それだけじゃないですけど、でも、そうですネ」

「それだけじゃない、ってのは……」

「すごく、嫌だったんですよ、クルシュ様。……もしもフーリエ殿下と親しくしていなかったら、きっと自分もみんなとおんなじ風に考えただろうってことが」

そんなのは、実際になってみなければわからなかったことで、実際にそうなりようのないことなのだから、クルシュが自分を責める理由にはならない。

どう足掻こうと、クルシュはフーリエと出会い、その考えに至ったのだ。出会わなかった自分なんて、そんな存在しない自分を憎んでも苦しいだけだ。

ただ、そう思う一方で、スバルはクルシュが置かれた状況というものが、単に王選における主張と矛盾した選択をしたというだけのものでないことを悟った。

『龍』との盟約を終わらせると宣言したクルシュが、他ならぬ『龍』を信仰している『神龍教会』の秘蹟の力を借り、救われてしまった。――それだけではない。

「クルシュさんは、ルグニカ王族が……フーリエ王子が心から悼まれる環境を取り戻そうと誓って、それを果たそうとしてたのに、果たせなくなった」

「……しかも、『神龍教会』は殿下を救わなかった。クルシュ様は、お救いしたのに」

「――っ」

掠れたフェリスのその言葉が、スバルたちの心を本当の意味で打ちのめした。

先ほどまで、フェリスを騎士から罷免したというクルシュに、その心身の状態の悪さを加味してもやりすぎだと、そう訴えにいくつもり満々でいたのに。

クルシュが背負っていた覚悟や決意、掲げていた理想と誓い、それをこれ以上ないぐらい最悪の形で砕かれたと知った今、スバルが彼女に何を言えるだろう。

いっそ、スバルが腕でも足でも差し出して、クルシュの呪いを引き受けていれば――、

「だから、スバルくんは傲慢なんだってば」

「な……」

「その顔見てたら誰でもわかるよ。ベアトリスちゃんが手を離せなくなるわけだ。それにちょっとはマシかもしれないけど、何の解決にもならないの、わかるでしょ?」

首を傾け、まるで子どもに言い聞かせるみたいなフェリスの物言いは、スバルの考えの浅はかさを感情的にならない形で窘めている。

わかっている。スバルの今の考えは机上の空論だし、彼の言う通り意味がない。

救われる相手が『神龍教会』からエミリアの騎士のナツキ・スバルになったところで、クルシュが自分の抱える問題解決を対立陣営に頼ったという失点は免れない。そしてそれは中盤戦を過ぎた王選において、あまりに大きなデメリットなのだ。

「自分のところの問題解決を、余所に丸投げなんて王様以前の話、か……」

「――。辛辣だネ。でも、そゆことだよ」

「……受け売りだよ」

それも他ならぬ、クルシュの口から聞かされた受け売りだった。

かつて魔女教がエミリアを狙ったとき、スバルがクルシュに交渉材料なしで助けを求めたとき、クルシュはスバルの醜い嘆願を凛々しいまでに切って捨てた。

あれは、スバルが得るべき学びだった。だから、そのことでクルシュを恨んでなどいない。恨んでなどいないのに、それがそのままひっくり返るのは、皮肉が過ぎた。

「ねえ、フェリス、これは聞いていいかわからないんだけど」

俯き、言葉の出なくなったスバルに代わり、エミリアがフェリスに声をかける。

彼女はフェリスの隣に進み出て、フーリエ・ルグニカの墓石の前に立つと、そこに置かれたいくつもの供え物を見つめ、それから胸の魔晶石を握り、目をつむった。

見れば、そのエミリアの後ろに並んで、ベアトリスとレムの二人も、思い思いに死者への弔いの祈りを捧げている。

それを終えて、エミリアはひと際華やかな花束――しゃがんだフェリスが位置を直した、他ならぬ彼が持ってきただろうそれを見つめ、尋ねる。

「クルシュさんとフーリエ王子は、好き同士だったの?」

「――――」

その問いに、フェリスは微かに目を見張ったあと、小さく笑った。

そして――、

「そんなの、私の口から言えませんよ。――無粋すぎますもん」

△▼△▼△▼△

霊廟の扉が音を立てて閉ざされ、両開きの扉に一枚絵として刻まれた竜と目が合う。

それがコインにも彫刻された『神龍』ボルカニカを模したものなのだろうとはわかるが、クルシュとフーリエ王子を取り巻く悲恋の話を聞いた今、その『神龍』に対する感じ方は以前にも増して複雑なものになっていた。

「塔の上で実物とも出くわしたが、あの頭空っぽの状態で、王国との盟約だの『神龍教会』の信仰対象だのって言われても、説得力がな……」

「必要なときにはシャキッとするスタイルなのかもしれないかしら。そうでないときは省エネで動いてるみたいな、仕事がないときのオットーみたいなものなのよ」

「いくら仕事がないときのオットーでも、頭空っぽ扱いはやりすぎだろ。……いや、比較対象が『神龍』なんだから、王国民的には光栄だったりするのか?」

ベアトリスの想定に、スバルも脳内オットーを『神龍』扱いしてシミュレートしてみるが、仕事がないときのオットーは仕事を終わらせた解放感で馬鹿になっているので、あまり参考になる意見が聞けなかった。深酒は程々に、だ。

ともあれ――、

「フェリス、あなたはこのあとどうするの?」

「このあと、ですか?」

「ええ。だって、今はクルシュさんのところには帰れない……帰りづらいでしょ? ずっと一緒のお屋敷だったんだろうし、いく当てはあるの?」

霊園の管理者に霊廟の鍵を返しにいく途中、そうエミリアに問われ、困り眉のフェリスが返答に迷いながら頬を指で掻く。

その反応からして、エミリアの指摘はフェリスにクリティカルだったのだろう。

おそらく、ヴィルヘルムがスバルたちにフェリスの居所を教えたのも、彼の今後を案じた上での苦渋の決断だったに違いない。

どんな事情があれど、クルシュとフェリスは主従関係を解消した。そんな状況で、クルシュの従者であるヴィルヘルムが、主の意向に逆らった行動はできない。

フェリスのその後を信頼できるものに確認してもらうことが、あの場のヴィルヘルムにできる、最大限の配慮だったのだ。

そして、そのヴィルヘルムの配慮に最大限応えるのであれば――、

「エミリアたんはこう言ってんだよ。とりあえず一時的に、うちにこないかって」

「ええ、そう! どうかしら? もちろん、ずっとってお話じゃないわ。このままお別れなんて悲しいし、時間が必要なことだってあると思うの。私も、故郷のみんなを氷漬けにしちゃったのを受け入れるのに、百年くらいかかったのよ」

「さすがにそれは気が長すぎると思いますけど」

「ちなみにベティーも、スバルの愛を受け入れるのに四百年かかったかしら」

「さすがにそれはこの人であっても気の毒過ぎると思いますけど」

エミリアとベアトリス、長寿組の語弊のある発言が飛び出したせいで、レムがちょっと哀れむような目でスバルを見始めた。その誤解はあとでちゃんと解いておくとして、少なくとも、今のフェリスへの提案は本気のものだ。

しかし、それを言われたフェリスは「たはー」と自分の額に手をやり、

「何となく、言われそうな気がしたんだけど、ホントに言われちゃった。私って、有能で凄腕の治癒術師だから、取り合いになるのもわかるんだけどさ」

「む、私、冗談で言ってるわけじゃ……」

「ええ、はい、もちろん、エミリア様がいつだって本気なのはわかってますってば。そうやって誘ってくれるのも嬉しいです。ホントですよ?」

「……でも、その答え方だと」

「――ですネ。せっかくのお誘いですけど、うんとは頷けないです」

ゆるゆると首を横に振り、苦笑したフェリスがエミリアの提案を断る。その態度に食い下がりたい気持ちは大きくあるが、頷けない気持ちもわかった。

だって――、

「たとえ離れ離れになっても、私はクルシュ様を大事に想ってるんですもん。私の判断が理由で王選が絶望的になっても、それでクルシュ様以外の誰かを応援しようだなんて、そんな風に割り切れません」

「わ、私のことが嫌いでもいいのよ。ただ、フェリスがふらふらとどこかにいっちゃわないで、ちゃんと大丈夫なんだってわかるようにしててくれたら」

「嫌いになんてなりませんよ。――あ、ウソです。やっぱり嫌いです。エミリア様のことなんて、最初からずっとずっとずーっと、嫌いでした」

「えっ! そうなの!?」

似合わない交換条件まで出して食い下がったエミリアがショックを受ける。そのエミリアに「はい」と頷いて、フェリスは霊廟の鍵でスバルたちを示し、

「エミリア様だけじゃありません。クルシュ様以外の王選候補の方々、みんな嫌いでしたし、その騎士だってそうです。ベアトリスちゃんのことも嫌いですし、レムちゃんともほぼ初対面なのに嫌い。スバルくんはホントに嫌い」

「その言い方だと俺だけガチで嫌われてるみたいだろ……」

「ガチで嫌われてないってなんで思うの?」

そう言い返されると、スバルからは何も言えずに封殺される。

「……本当に、気持ちは変わらない?」

さすがのエミリアも、今のフェリスの『嫌い』が本心でないことはわかる。エミリアからの提案を拒否するために、フェリスは好き嫌いを理由にしたのだと。そして、どれだけ言われたところで、どんな仕打ちを受けたところで、自分がクルシュを支持する気持ちに変わりはないのだと。

「そんな心配しすぎないでください。近衛騎士団は……続けるかわからないので、団長に相談しますけど、治療院でも何でも、引く手数多なんですから」

「……お前、自棄になったりしないよな」

「自棄? それって、世を儚んで命を絶つ……みたいな? この世で一番、人死にってものが嫌いな私が?」

「――。悪かったよ」

そこだけ冗談めかした雰囲気ゼロで、はっきりと断言したフェリスにスバルは謝る。

たとえクルシュの傍を離れても、『青』であり、癒し手である自分の在り方を曲げるようなことをフェリスはしない。それを、信じると。

「あー、けど! しんどい! クルシュさんには何も言いにいけないし、フェリスを一時的に預かるのも拒否られたら、できることがねぇ……!」

「それを傲慢だと、フェリスさんに叱られていたのでは」

「お、そうそう、レムちゃんの言う通り」

「でも、レム……」

「――。どうあっても、当事者にしか解決できない問題はありますよ」

すれ違いの悲劇を観測しているのに、それを正す資格が自分たちにはない。

そんなもどかしさを訴えるスバルに、レムは目を伏せ、小さく吐息した。

「あなたとエミリアさんとの主従関係や、あなたとベアトリスちゃんとの契約関係に外部の人が口出しできないように。あなたと私の……」

「レム?」

「……あなたと私に、何の関係があるんでしょうか。あなたは私のなんなんですか」

「ふと我に返るなよ! 俺、お前、大事!」

「私たちもそうよ! 私たち、レム、すごーく、大事!」

「――。エミリアさんはありがとうございます」

「俺は!?」

存在そのものを受け流され、声の裏返るスバルをレムは淑やかにスルーする。

そんなスバルたちのやり取りを背後に、「ちょっと」とベアトリスがフェリスを呼ぶ。ベアトリスはちょんとスバルの服の裾を摘まんだまま、

「ベティーはスバルたちほど、お前の今後を心配してはいないのよ。でも、ベティーはお前にどでかい借りがあるかしら」

「ベアトリスちゃん様が、私に? 大精霊様に貸しなんてありましたっけ?」

「お前は、無茶のし過ぎでゲートが壊れかけだったスバルを救ってくれたのよ。生憎、スバルはお前の忠告を無視してゲートを壊したけど、時間稼ぎにはなったかしら。お前の力がなかったら、ベティーとスバルの契約はなかったのよ」

「ええと、思ったより嬉しいかもです」

「存分に堪能するかしら。そして、ベティーは借りは必ず返す性質なのよ。だから、お前に何かあったら、ベティーはいつでも力になるかしら」

「スバルくんが今にも崖から落ちそうでも?」

「スバルを拾ってから、大急ぎで駆け付けるのよ」

腰に手を当てて、ふんすと鼻を鳴らしたベアトリスの答えに、フェリスはわずかに目を見張ると、その口に手を当てて「あは」と笑った。

その笑いの衝動は強くなり、やがて、フェリスの眦に涙の雫が浮かぶ。

「あー、やだなぁ。泣かさないでよ、ベアトリスちゃん様」

「自己申告通り、泣き虫な奴かしら」

そう言ったベアトリスに、ますますフェリスの笑みが小さく弾けた。

△▼△▼△▼△

「気持ちが変わったら、いつでも訪ねてきてね? ちゃんと誰かが必ず応対してくれるようにみんなに話しておくから! 約束よ? フェリスは約束守れる?」

「流れ弾が俺に飛んできた!」

「妥当です」

と、別れ際のギリギリまで、エミリアたちは一生懸命自分に誘いをかけてくれた。

そこに悪意や企みがないことはわかり切っているし、何度も断ることで、それだけエミリアの顔を曇らせるのには罪悪感も募ったが、仕方ない。

「エミリア様たちに、思うところがあるわけじゃないんだけど、ネ」

自分からその資格を手放したとしても、フェリスはクルシュの騎士だった。

その自分が、たとえ一時的であろうと、クルシュ以外の王選候補者の傘の下で雨露をしのぐことなどあってはならない。誰かに知られれば、クルシュにいい噂は立たないだろうし、何より、クルシュにどう思われるかが怖かった。

「……その点、殿下はすごかったですよ。怖いとか、なかったんですか?」

霊廟で、墓石と石棺を前に、時間の許される限りの懺悔をしたつもりだった。それでも、ほんのひと時が過ぎるだけで、すぐにまた聞いてほしい未練が湧いてくる。

うじうじうじうじと、その装いを男装に切り替えても、根っこのところの女々しさがまるで剥げない。本当に、自分で自分が嫌になる。

そんな自分が、一個だけ、正しい判断ができたと思えるのは――、

「自分から、言い出せてよかった」

エミリアたちに告げた通り、騎士の罷免はフェリスから言い出したことだ。

『神龍教会』から手を差し伸べられ、フィルオーレの秘蹟の力を借りると決めた時点で、自分がクルシュの傍にいる資格をなくすことは覚悟していた。ただ、それをクルシュの口から切り出されるのを、フェリスの魂は座して待てなかった。

だから先に切り出して、クルシュに自分からフェリスを切らせるのを避けた。――なんだ、正しい判断を称えようとしたのに、また嫌いな女々しさの表れだった。

「私って、ウソついてばっかりだな……」

正しい判断ができたと思った。ウソだ。

フーリエが怖がってないと尋ねた。ウソだ。

エミリアたちに思うところがないと言った。ウソだ。

騎士の罷免は、脆い自分の心を守るためだったし、あのフーリエだって、クルシュをどこかに誘うときには勇気を振り絞っていたと知っている。

そして、当初の圧倒的不利な立場からいくつもの功績を打ち立て、ハーフエルフである出自を理由に上級貴族たちを大いに困らせているエミリアたちの快進撃――とりわけ、同じ騎士の立場であったスバルの活躍に、何も思わないわけがない。

実際、フェリスはスバルに、手袋を外した右手の事情を聞かなかった。

スバルの方から言い出さなかったということは、おそらく、クルシュの治療に役立てるのが難しい手法であることは想像がつく。だが、想像は想像だ。確証にしなかった。その理由は明白で、『神龍教会』に頼る以外の答えがあった可能性から逃げたのだ。

何もかも、自分が痛みから逃げることを優先しているようにすら、思える。

「私って、ホントに、誰かを大事に想ってるんですかネ……?」

本気でその人のことを想うなら、その人の譲れない想いをこそ大事にしたのではないのか。クルシュがフーリエの墓前に誓った祈りを知っている立場なら、たとえ癒えぬ苦しみに苛まれ続けても、願いの途絶えない道を探るべきだったのではないか。

受け入れ難い現実を直視したその怒りこそが、クルシュにフーリエを思い出させ、フェリスの行いの非情さを、他ならぬ彼女に思い知らせたのではないのか。

あの、フーリエ・ルグニカを思い出したクルシュの『記憶』の錯綜は、誓いを踏み躙ったフェリスの行いへの怒りが呼び起こしたものだとしたら。

フェリスはクルシュだけでなく、フーリエにも憎まれているのかもしれない。

「――っ、やめやめ、こんなの意味ない」

また、自責の念のフリをして、自分を慰める言葉を探していると気付く。

そんなつまらないことに時間を費やしている暇があったら、今はエミリアたちに、それとクルシュとの板挟みにしてしまっているヴィルヘルムに心配をかけなくて済むよう、今後の自分の立ち位置を定めなくては。

実際、騎士を続ける理由はなくしてしまった。『青』の称号は健在だから、治療院や魔法研究所にでも出向けば、それはそれは歓迎されるだろう。働き口を確保するのは容易いことだが、ただ漫然と過ごすだけでは意味がない。

この癒しの手で、誰かを救い続けることは必然として、他にも、望みはある。

たとえ、それを望む資格を、フェリス――否、フェリックス・アーガイルが、自ら放り捨ててしまったのだとしても。

「――ああ、よかった。行き違いになってしまわないか、心配していたのですが」

ふと、霊園からの帰り道、貴族街の石畳を睨んでいたフェリスの耳が、自分に向けて話しかけられた声に反応し、震えた。

足を止め、前を向く。正面、道の真ん中に一人の人物が立っていた。――見覚えのある人物だ。

くすんだ金色の髪に、深い青の瞳をした男だ。すらりとした長身を仕立てのいいスーツに包み、髪と顎髭を丁寧に整えた瀟洒な雰囲気を纏っている。相手の職業からすれば、それは不思議なことでも何でもない。

なにせ、相手は――、

「――ラッセル・フェロー、だっけ。商業組合の人だよネ」

「ええ、そうです。覚えていただいていて、大変光栄です。私どもの方は、フェリス様でよろしいですか? それとも、フェリックス様?」

「……どっちでも、好きな方でいいよ」

「では、お言葉に甘えまして、フェリックス様で。職業柄、お相手のことは愛称より、正式なお名前でお呼びする方が何かと不都合がありませんので」

「ふうん」

丁寧な所作で頭を下げる男――ラッセル・フェローにフェリスは片目をつむる。

相手は王都の商業組合の代表を務める辣腕で、百戦錬磨の王都の商人たちの中でも飛びぬけて優秀と有名な人物だ。実際、白鯨討伐戦の際には物資の補給や搬入で力を借りたことがあり、クルシュ陣営としても無関係な相手ではない。

「って言っても、今の私じゃ儲け話は乗れないよ? 残念だけど……」

「カルステン公爵とは主従契約を破棄された。ええ、存じております」

「……耳が早すぎて怖い」

言っておいてなんだが、自分でも馬鹿な話の振り方をしたとフェリスは反省。

だってラッセルは、明らかにフェリスを待ち伏せしていたのだ。そんなこと、これまで一度だってなかったのに、今日に限ってそんなことをしてくるとしたら、それはそういう行動に移そうとする理由が湧いたからに他ならない。

そして、さらに気付くのが遅れた馬鹿なことが、さらに追加で一つ。

「……この道、まだ夕方なのにこんなに誰も通らないっけ」

「――――」

道の真ん中に立ち、フェリスと十メートルほどの位置にいるラッセル。そのラッセルの周囲にもフェリスの周囲にも、貴族街の通りに誰の気配も近寄らない。

これが深夜や早朝ならまだしも、日の沈み切らない時間にはありえないことだ。そしてありえないことが起きるには、必ずその理由がある。

今回の場合、その理由を引き起こしているのは――、

「フェリックス様、ぜひともお話ししたいことがありまして、よろしければ当家の食事にご招待させていただけませんか。まだ、行く先を決めておられないのなら」

「さっそく、首輪の外れた私を勧誘するつもり? 悪いけど、その話は――」

「――いえ、勧誘ではありません。実は、話は強制なのです」

ゆるゆると、ラッセルが嘆くように首を横に振る。――瞬間、フェリスは自分のすぐ背後に出現した何者かに、その細首へと冷たい刃を宛がわれていた。

「――っ」

息を呑み、身動きを封じられるフェリス。とっさのことで、何もできない。わかるのは、宛がわれた刃が反りの大きな細い曲刀であることと、後ろに立っているのがフェリスよりかなり背の高い相手であることぐらい。――否、それと、

「……ただの商人じゃ、なさそうだよネ?」

「どうでしょうか。そうであれればとは思っていますよ」

一歩ずつ距離を縮めてくるラッセル、首に刃を当てられたまま、何もできないフェリスはせめて目だけは逸らすまいとして、また自分が嫌になった。

どうして、こんな冷たい目ができる人間を、一般人なんて思い込んでいたのか。

きゅっと唇を噛みしめ、弱音や呻きが漏れないように堪える。それが、今の自分にできる最大限だと、そう自分に戒めるフェリス。

そのフェリスを間近に見ながら、ラッセルは冷たい目のまま、告げる。

「公爵の騎士でなくなった今なら、尋問にも躊躇はない。話してもらいますよ。――アーガイル家に伝わる、『不死王の秘蹟』について」と。