軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九章44 『水面下の密約』

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、思い出話をしないと誓います。

△▼△▼△▼△

「――てめえも父親なら、ガキに手出ししてんじゃねえ!!」

顔面を真っ直ぐ打ち抜く拳よりも、その言葉の方が相手に痛烈に響いた。――その光景を目の当たりにしたロム爺は、ハインケルの受けた痛みをそう想像する。

自分の打たれ強さに任せた後の先戦法、ハインケルはそれでフラムとグラシスに反撃を試みたが、それは寸前でガストンに――正確には、ガストンをその場に『圧縮』で割り込ませた少女の差配によって、見事に阻止された形だ。

「まったく、大したもんじゃ……」

相手の腕を逃れた双子の姉妹の無事を確かめながら、ロム爺がちらと気にするのは、自分の肩に乗せた少女――ペトラの横顔だ。

「――――」

その大きな丸い瞳を細めたペトラは、可憐な顔立ちの頬を引き締め、真剣な視線を二つの戦場に油断なく向けている。

『暴食』のロイ・アルファルドと、王国を裏切った剣士――『背剣者』ハインケルとの戦闘だ。元はそこに主犯格のアルデバランと従者のシノビ、さらにはその軍門に下った『神龍』の存在もあった。

それら危険な一団を切り崩し、各個撃破の戦況を作ると話し合ったものの、その策の成否の鍵はペトラが握っていたと言って過言ではない。

計画は『憂鬱』の権能を熟知したクリンドの意見を中心に組み立てられ、全員が一丸となって策を成功させる努力をしたが、一番の貢献者はペトラだ。

彼女なしでは、この戦いは始められすらしなかった。――そしてそれは、今も。

「――っ」

きゅっと唇を噛んだペトラが、座り込んだロム爺の肩に強く爪を立てる。少女の爪など痛みとも思わないが、無意識にそれをする心中は想像を絶する。

人間を『魔女』や大罪司教たらしめる魔女因子、それを手元に置くことの負担は、それをした当人以外には窺い知れない。しかもペトラの負ったその役目は、候補としてロム爺の名前も挙がっていたものだったのだ。

直接戦闘力に乏しいが、機転や判断力の面で戦場に立つのが望ましい立場。

ロム爺とペトラがまさにそれであり、最終的に陣営の違いが決定打になったが、ペトラの役目はロム爺が負っていたかもしれないものであった。

だから、ロム爺はこの戦い、フェルトを取り戻すのが一番だが、二番はペトラのために力を尽くすことだと心に決めている。ペトラの負担が少しでも軽くなるよう、戦況判断と指示に見落としと失敗が生まれないよう、全霊を尽くすのだと。

「花の三、女王。雷の二、貴族。花の五、狩人」

じりと、戦場を俯瞰しながら、ロム爺は肩の上のペトラに聞こえるよう指示を出す。それを受け、ペトラが権能を行使するたび、肩の爪痕が深く、数が増えた。

基本、『圧縮』に出番があるのは『暴食』との戦場だ。ロイは戦闘の組み立てにロム爺たちが加担しているのはわかっているようだが、ラムの立ち回りが抜群に上手い。器用に相手の注意を引き続け、指揮するこちらに手を出せないようにしている。

『圧縮』込みでも紙一重、一進一退の攻防が続くのは、『暴食』の手数と手札の多さ故だが、もう一方の戦場は圧倒的手数と手札の少なさが対照的だった。

「――く」

苦鳴さえ打撃音に紛れ、滅多打ちにされ続けるハインケル。

フラムとグラシスの姉妹にガストンが加わり、速度で掻き回す双子に剛腕が足されたことで、もはや私刑か制裁というべき一方的な暴力が繰り広げられている。だが、相手が膝を折らない以上、フラムたちも手を緩めることができない。

どちらの戦場も、動かすには一石を投じる必要がある。――そう思った直後だ。

「――ロムお爺さん」と、そう呼びかけてきたペトラと、ロム爺の目が合った。

「――――」

視線の交錯、それだけでロム爺はペトラと自分が同じ発想に至ったと理解する。そのまま顎を引く時間すら惜しんで、ロム爺は最善の刹那に目を光らせた。

そして――、

「陽の五、女王――!」

飛ばした指示、ロム爺の肩に置いた手に、その丸い眼に力の入ったペトラが『圧縮』を発動し――見事に、ロイへとラムたち三人の連携が強烈に突き刺さった。

「――よし!」

ロイの矮躯が風に巻かれ、『豚王』と二体の魔獣の攻撃を浴び、吹き飛んだ。血飛沫をばら撒きながら空に弾かれたロイは、間違いなく深手を負ったはず。

決定打が入る寸前、ロイはラムへと『暴食』の権能を仕掛けようとしたが、それが不発に終わり、致命的な隙が生まれたのも大きかった。――その罠を張り、実際に成功させたラムの胆力と、提案したペトラの発想にも改めて舌を巻く。

――ラム改め、ラム・レイテ。

制度を逆手に取った不自然な養子縁組、それが『暴食』に狙われる可能性のあった前線組の全員に施された、大罪司教の思惑を裏切る奇策であった。

「じゃがこれで……」

状況は動いた。まさに、膠着状態を動かすための欲しかった一手の実現に、ロム爺は大きな拳を握りしめた。

そしてその勢いを駆り、もう一方の状況も動かそうと目をやり――、

「……誰も、動くんじゃねえ。こいつの……この方の命が惜しいなら」

――そちらでも起きていた状況の変化、羽交い絞めにしたフェルトに剣を押し当てるハインケルという、最悪の窮地と直面したのだった。

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、好きな物語を語らないと誓います。

△▼△▼△▼△

「これまで悪かった。あらゆる意味で、親父さんに負担をかけすぎちまった」

そうアルデバランが謝罪してきたのは、フェルトと話していたハインケルが早まりかけたのを、彼が容赦なく力ずくで殴り倒したあとのことだった。

正直、取り返しのつかないことをしかけた自覚はあり、殴られたことに文句を言う資格はないと自省していたハインケルだ。謝罪を受け入れない選択肢はなかった。

ただし、フェルトが勘付いてしまった事実――あのことだけは、絶対にそのまま放っておくわけにはいかない。

眠り続けるハインケルの妻、ルアンナ・アストレア。

ハインケルの最愛の女性の眠りが、息子であるラインハルトに原因があることを。

「まぁ、待てよ。親父さんとフェルト嬢ちゃんの間に何があったのか詳しくは聞かねぇ。けど言ったろ? 親父さんにばっか負担かけて悪かった、ってな」

「……話が見えねえぞ。謝って、それでどうなる」

「もちろん、謝ったから今後も耐えてくれ、とは言わねぇよ。ひとまず、フェルト嬢ちゃんのことはこっちで対処する」

「対処って言っても……」

「物騒な真似はしねぇよ。乱暴な真似じゃあるかもしれねぇが」

そう言って肩をすくめたアルデバランに、ハインケルは頬を硬くする。

何を考えているのか、得体の知れないところのある男ではあった。それでも、彼がプリシラを失った悲しみを原動力に、世界を敵に回し始めたことは理解する。

アルデバランの根底には、あの強烈な『太陽姫』への情愛が確かにあったのだと。

しかし、そのために何でも犠牲にする、とまでは言わないギリギリの良識がアルデバランには残されていた。――それが吹っ切れ、枷を外してしまった気がして。

「何を……何をする気なんだ」

「親父さんに悪いようにはしねぇよ。ただ、一個だけ確かめときたいことがある」

知らず、ごくりと鳴った喉に、ハインケルは強い渇きを覚えた。その言葉の先を聞きたいようで聞きたくない、臆病者にだけ備わったある種の予感だ。

そのハインケルの内心を知らぬ顔で、アルデバランがその質問とやらを口にする。

それは――、

「十五年前、城から誘拐されたって王族の名前なんだが――」

その名前を口にすることは、ハインケルにとって――否、ルグニカ王国の中でいつしか禁句のような認識になっていた。

十五年前、ルグニカ王城から誘拐され、以来、その行方がようと知れない王弟の娘。

王国の長い歴史で、不遇の生涯を送った王族がいなかったわけではない。だが、祝福されて生まれながら、その成長も、終え方も語られない存在は彼女だけ。

「――フィルオーレ・ルグニカ」

ルグニカ王国第四十一代国王、ランドハル・ルグニカの弟、フォルド・ルグニカの息女であり、十五年前にハインケルが誘拐した容疑をかけられた王族。

もっとも、その誘拐容疑は濡れ衣だったのだが――巡り巡って結局、ハインケルは忠誠を誓ったはずの王家に、大恩あるフォルドに、取り返しのつかない不敬を働いた。

それは王国への裏切り以上に明確な、王家と友誼への背信行為だ。

「――イタダキマス」

目の前で行われた、罪深く醜悪な儀式。

アルデバランの質問から、ハインケルはそれを予感していたし、たぶん期待してもいた。その儀式が多くの悲劇の引き金になってきたことを知りながら、それでも。

だってそれが成立すれば、ハインケルは彼女を殺さなくて済むのだから。

「ゴチソウサマでしたッ」

手と手を合わせ、儀式の終了を告げるロイの小さな背中にハインケルは我に返る。目を背けたいあまり、思惟に耽ることで眼前の行為を文字通り見逃した。

騎士にあるまじき行いを重ねるたび、それでも軋む部分のある自分の心を滑稽に思いながら、ハインケルは愉しげに嗤うロイと入れ替わりに前に出る。

そして――、

「――フィルオーレ様」

片膝をついて、ハインケルは彼女にそう呼びかける。

いったい、どんな返事を期待していたのか。それは自分のことだと返事されたなら、儀式の失敗を意味する。それが何なのかわからないと返事をされたら、それはそれでやはりハインケルは懊悩したことだろう。

はたして、自分でもその答えを持たないハインケルへの答えは――、

「それは、どなたのことでしょうか? いえ、そもそも……」

「――――」

「――私は、誰なんでしょう?」

儀式の成功を意味するその返事は、結局はハインケルを傷付け、懊悩させた。

「フィルオーレ、それが私の名前……しっくりきませんね」

『記憶』を喰らわれたフィルオーレの態度は、まさしく別人のようだった。

仕草や挙動、喋り方から何まで粗雑さと育ちの悪さを感じさせたのが嘘のように、彼女は王族に相応しい品と柔らかさを携え、ハインケルを大いに驚かせた。

十五年前の悲劇がなければ、彼女は誰からも愛される王族の一人だっただろう。

「その代わり、王家の他の連中とおんなじ病気で死んでたかもしれねぇけどな」

そうした感慨を覚えるハインケルに、アルデバランが心無いことを言ってくる。

だが、事実そうだ。あの、王族を狙い撃ちにしたような原因不明の流行り病は、フィルオーレが城にいれば彼女も被害を免れなかっただろう。――それが何を意味するのか、ハインケルは何かに気付きかけたが、目をつぶって直視しなかった。

もうすでに、ハインケルは身も心もいっぱいいっぱいだ。悲願の成就を目の前にしながら、あとからあとから追加される衝撃の事実に、心が耐え切れない。

「もし、心配事でもおありですか?」

思わず顔を手で覆ったハインケルに、そう尋ねたのはフィルオーレだった。

『記憶』がなく、自分の方がよほど不安な状況に置かれているだろうに、それでも他者を案じる姿に、ハインケルはルグニカ王家の血を確かに見た。

同時に、残酷な真実――『暴食』の権能が発動した時点で裏付けられた、彼女が紛れもなくフィルオーレ・ルグニカなのだという事実も、確信する。

然るに――、

「……これで、王選も終わりか」

「そりゃまたなんでだ、親父さん」

「なんでも何もあるか。王選をやってる理由は、王位に相応しい『次』を見つけるためだろう。言っちまえば、王家が途絶えたのが理由の次善策……それが途絶えてなかったとわかれば、みんなで掌を返すに決まってる」

皮肉にも、プリシラが死に、暴走したアルデバランが『暴食』を脱獄させ、『記憶』をなくす前の彼女がハインケルの急所を抉ったから発覚した真実だ。

まるで、フィルオーレを王位に就けるために、世界が差配したようですらある。

無論、プリシラの死すらそのためにあったと言うような無神経なことをハインケルは口にはしなかったし、究極、フィルオーレが王位に就くならそれは望むところだ。

ルアンナを目覚めさせる。それさえ成就したなら、全ての物事は収まるところに無事に収まるのがハインケルの望みでもあるのだ。

だから、『嫉妬の魔女』が撤退し、フィルオーレが王位に就く。望むところだ。

「オルタ、これが一番丸く収まる方法だ。文句あるかよ?」

『……ギリギリ、オレが妥協できるところで嬢ちゃんを傷付けなかった。天晴れな解決策だと思うぜ、オリジン。ただ――』

「ただ?」

『これ、オリジンが一人で思いついた策か? らしくねぇとも思ったぜ』

「――――」

そうハインケルが自分を納得させる傍ら、フィルオーレの扱いのことでアルデバランと『神龍』がそんな風に揉めていた。とはいえ、少なくともハインケルが抱えていた問題は棚上げになった。もっとも、これで『記憶』のないフィルオーレを連れ歩くという、新たな問題が発生したことも間違いないわけで――、

「それでしたら、問題になんてなりませんよ~。ね、アル様?」

ひょこりと、自分のすぐ横から顔を覗かせたヤエに、ハインケルは息を呑んだ。

彼女はハインケルの内心の不安を見透かしたように、こちらを嘲るような流し目を送り、それからアルデバランに甘えるようにそう促す。

そのヤエの小馬鹿にしたような態度に、違和感はない。違和感があったのは、彼女に対するアルデバランの態度の方だった。

「……そうだな。親父さんとも約束したもんな」

「あ? 約束?」

「フェルト……いや、フィルオーレ嬢ちゃんのことは、こっちで対処するってよ」

そう言ってアルデバランは飄々と、しかし明らかな非情さすらある態度で、戸惑うハインケルを余所にその『対処』を実行した。

その割り切った――否、良くも悪くも振り切れた態度に、ハインケルは狼狽する。

アルデバランとヤエの関係の変化、『神龍』のフィルオーレへの感情、『暴食』に許された行動範囲の拡張、発覚したフィルオーレの真実。――決して、結束した関係とは言えない自分たちだが、ハインケルは徐々に大きくなるひずみとズレを感じていた。

そんな中にあって、せめて自分だけは正気を保とうと、ハインケルは決意する。

たとえどれだけ息苦しい苦境に立たされようと、目的が果たされる前にこの集団に崩壊されて困るのはハインケルなのだ。

だから――、

「――俺だけでも、まともに」

そう、『対処』された結果のフィルオーレ――お手玉くらいの大きさの、黒い球に封じられた彼女を受け取りながら、ハインケルはそう誓った。

誓ったのだ。

「フィルオーレ様を傷付けられたくなきゃ、下がれ……!」

――誓ったのに。

窮地に陥ったハインケルはその決意も一転、成長したフィルオーレを羽交い絞めにし、その細い首に剣を押し当てていた。

「フェルト……っ」

そのハインケルの凶行に、体格のいい男が悔しげにフィルオーレを違う名前で呼ぶ。

とめどなく殴りかかってきていたフラムとグラシスも動きを止め、その視線に怒りと軽蔑、そして多分の憂慮と困惑を入り混じらせ、ハインケルと対峙していた。

彼女らにしてみれば、驚きは二重に連なっていただろう。

出たり消えたりを繰り返している彼女たちと同じように、突然ハインケルの手元にフィルオーレが現れたかと思えば、さらにハインケルが彼女を違う名前で呼んだのだ。

瞳に不安と困惑が強く出るのも致し方ない場面である。

「申し訳ございませんが、手荒な真似はしたくない。付き合っていただく」

羽交い絞めにしたフィルオーレに、そう告げるハインケルは自分の欺瞞を嫌悪する。

努力はした。突然始まってしまったこの戦いに、フィルオーレを巻き込むまいとハインケルは最大限努力をした。だが、諦めた。いつも通り、努力は実らなかった。

だから、アルデバランから預けられていた黒い球を砕いて、封じられていたフィルオーレを外に出すと、彼女の身柄を人質に、現れた敵を脅迫した。

「動くな、この方を傷付けられたくはねえだろう」

そうして最低の行為に手を染めながら、それでも欺瞞的にフィルオーレに礼を尽くしたのは、ハインケルの中に一欠片の良識が残ってしまっている証拠だ。

フィルオーレと確信の持てない間は、その美しい金髪や赤い瞳といった王族の証をただの空似だと無視できた。だが、フィルオーレであることが確信できてしまった今、それまでと同じ接し方をすることはハインケルにはできなかった。

相手次第で態度を変えるのかと言われれば、その通りだ。――ルグニカ王家の人間に忠義を尽くすよう、ハインケルは両親に躾けられていた。

「――っ」

出し遅れた切り札であるフィルオーレ、顔を上げさせられた彼女の喉が細く鳴る。

あの黒球から解放されたばかりのフィルオーレは、まだ意識がおぼつかないのか、あるいは状況の激変に戸惑っているのか、ハインケルのされるがままだ。

それがもどかしくもあるが、脅迫は通用しており、相手の動きも鈍い。それに乗じて、ハインケルは消えたアルデバランたちを案じつつ、まずは同じ戦場で罠にかけられているロイ共々安全を確保しようと考え――、

「――フェルト!!」

先の、体格のいい男が絞り出すようなそれと違い、その声には力があった。

大切にしていた相手と再び巡り合えた喜びと、親愛の裏返しでもあるだろう微かな怒り、その身を案じる憂慮と必ずや連れ帰ると意気込んだ奮起、それらがないまぜになった呼び声が、高らかに戦場に響き渡った。

「――――」

その声に、ハインケルの腕の中でフィルオーレが身じろぎする。

たとえ『記憶』のない状態で、敵味方もわからない立場でも、自分に向けられた強い感情というものは伝わるのかもしれない。ゆっくりと、彼女は王族の証でもある赤い瞳をぱちくりと瞬かせ、遠方から自分に叫んだ老いた巨人と目を合わせた。

その唇が開かれ、彼女が言葉を紡ぐ。それは――、

「――ロム爺! ガストンたちを下がらせろ! アレがきやがる!!」

それは、直前までの王族らしい淑やかさをかなぐり捨てた、荒々しくも力のある――大事な相手の呼び声に、失われたはずの『記憶』を力ずくで取り戻されたような、雄々しく凛々しい『金獅子』の叫び声だった。

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、人を愛称で呼ばないと誓います。

△▼△▼△▼△

――無論、フェルトが仲間に窮状を訴えることができたのは、ハインケルが思ったような想いの奇跡、なんて絵物語的な都合のいい理由ではない。

『暴食』の権能の非情さはフェルトのみならず、その被害に遭った当事者と周りのものたちの悲劇がこれまでに大いに物語っている。そんな数々の悲劇の温床が、フェルトを取り巻く気持ちの問題で片付くなどと、そんな馬鹿な話はないだろう。

だから、ここでフェルトが『フィルオーレ』から『フェルト』に戻れた理由は単純明快――そもそもフェルトは、ロイに『記憶』を喰われてなどいなかったのだ。

「このあとなんだけど、俺たちはフェルトちゃんの『記憶』を食べなくちゃァいけないみたいでさァ。――フェルトちゃん、僕たちと協力しない?」

そうロイが言い出したのは、余計なことに勘付き、集団行動に亀裂を入れかねない厄介者となったフェルトに、アルデバランが『対処』を決めた直後のことだ。

フェルトが勘付いた余計な事実ごと、その『記憶』をロイに喰らわせることで、ついでに生意気でいちいち突っかかってくるフェルトの人格も処理しようという腹らしい。

命さえ奪わなければ、なんてフェルトに言わせれば、『記憶』がなくなって今の自分でなくなった時点で殺されたも同然だろうに、アルデバランのやり方は気に入らない。

「けど、だからってテメーを気に入るって話にゃなんねーだろ。第一、テメーみてーなのと協力して、アタシに何させてーんだ?」

「ははァ、その態度痺れちゃうなァ。でも心配ご無用だよ、フェルトちゃん。そもそも綿密な作戦立案とか完璧な計画とか俺たちの主義じゃないしサ。フェルトちゃんにお願いしたいのはズバリ、『記憶』を喰われたフリだよ」

「……続けろ」

片目をつむり、ロイの話に聞いてみる価値を見出したフェルト。その反応にロイは「そォこなくっちゃァ!」と心底愉しそうに嗤い、

「このまま兜のオジサンたちに付き合うのも悪くないんだけどサ、何も手を打たないでいたら一番いいところで使い捨てられるのが関の山……ほら、呪印も刻まれちゃってるし、結構僕たちのマズい状況ってわけ。だから、サ」

「だから?」

「フェルトちゃんは『記憶』をなくしたフリをしながら、これまで通りに一矢報いる方法を虎視眈々と狙いなよ。俺たちは、フェルトちゃんが作ってくれるかもしれない機会に乗じて、囚われの大罪司教って立場から抜け出せるか試してみるから」

「――。アタシがそれを兜ヤローたちに伝えちまえば、テメーらの仲間割れを引き起こせて楽にテメーを排除できる、って考えもあるぜ?」

「そうそう、そういうヤツ! それをガンガン仕掛けちゃってよォ」

パチパチと手を叩いて大喜びするロイ、その真意を深く探ろうとして、フェルトはすぐにそれを投げ出した。もし、本心を隠しているなら見抜けるとも思えなかったし、フェルトの目にはロイが本気で言っているように思われてならなかったからだ。

そして実際、フェルトの立場からすれば願ってもない申し出でもある。――このままでは為す術なく、『記憶』を奪われるのがフェルトの立場なのだ。

「ただし、アタシを喰うにはアタシの名前がいるって話だぜ。それがわかんなかったせいで、テメーの兄弟はゲエゲエやる羽目になってたかんな」

「まァ、そうなんだよね。けど、フェルトちゃんも心のどこかでわかってるんじゃない? 自分の本当の名前が、王国の悲劇で知られたお姫様とおんなじじゃァないかって」

「――――」

「あァ、それとも確かめたいのかな? その名前で『蝕』が成功したんなら、僕たちに『記憶』は取られちゃうわけだけど、証明はできるもんねえ。どう?」

「ハッ、やっすい挑発だな。――乗ってやるよ」

だらりと長い舌を出し、こちらの顔を覗き込んでくるロイにフェルトは鼻を鳴らした。

自分がいったい何者なのか。――そんなくだらない問答は、フェルトにとってどうでもいいことに過ぎない。それをどうでもよくないと思うものが少なからずいることはわかっているが、さっきの、『記憶』が奪われれば殺されたのと同じ、と同じ理論だ。

もう、フェルトは『フェルト』という人間としての人生を積み重ねてきた。悪いが、出だしがどうだろうと、『フェルト』でなかった人生は始まる前に終わったのだ。

そんなものはいらない。だから、いけ好かない『暴食』の企てにも乗じる。

「勝つのはアタシだけだ」

「くくッ、あっははァ! そう言ってくれるって思ってた! 信じてた! でも、フェルトちゃんが一人勝ちできないように俺たちも最大限、保険はかけるよ?」

「保険だぁ? ダセーこと言うんじゃねーよ。一発勝負に賭けろ」

「その勇ましさはカッコいいけどさァ、僕たちにとって大事なのは矜持とかじゃァない。――喰うか喰われるか、それだけ」

そう言って、ロイは密約の成立を祝すように歯を噛み鳴らした。

そしてその後、ロイは約束通り、『記憶』を喰らうフリをしてフェルトをそのままにした。フェルトもまた、半信半疑だったロイとの密約を守り、『記憶』のないフリ――知りもしない王族、フィルオーレ・ルグニカを演じた。

「わりーけど、モノマネ相手で思いつくのがクルシュ姉ちゃんしかいなかった」

『暴食』に『記憶』を喰われた被害者という意味で、フェルトが一番に思いついたのがクルシュだった。その態度と喋り方の激変した彼女を参考にしたフィルオーレは、どうやらアルデバランたち、とりわけハインケルのお気には召したらしい。

幸い、フィルオーレを演じる機会は多くも長くもならず、フェルトは早々にアルデバランの魔法で、奇妙な黒い球体に封じられることになった。あの球体の中にいた感覚は非常に息苦しく、いいものではなかったが――助かったこともある。

フィルオーレを演じる時間が減ったことで、ボロを出さずに済んだからだ。フェルトが思いがけずボロを出せば、ロイの『保険』が発動する。そう脅されていた。

たとえフェルトが提案に乗ってこなくても、乗るしかないように仕組むための、乗ったあとも裏切りを防止するために用意された、文字通りの『保険』。

それは――、

「――アタシの影から出てきやがるぞ!!」

ハインケルに羽交い絞めにされ、首に剣を押し当てられながら叫んだ。

『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドが、アルデバランたちを欺き、その手から逃れるために用意した伏せ札、『白鯨』『大兎』に並ぶ最後の三大魔獣――、

「――黒蛇だ!!」

――誕生以来、この世界で最も生き物を殺した病巣の魔獣『黒蛇』が、定められた密約の違反に反応し、両陣営総力戦の戦場へ招来されたのだった。