軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九章42 『心を砕くということ』

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、ぬいぐるみを抱かないと誓います。

△▼△▼△▼△

「――――」

顎を膝にかち上げられた瞬間、ロイ・アルファルドの思考が稲光のように駆け巡る。

おかしい、不可解、奇妙奇天烈、渦巻く疑念、疑心、疑問、どうかしている、大異変、錯誤、奇々怪々、変事、正しくない、不正、混迷、疑々、疑疑疑疑疑疑疑――、

「――死になさい」

その疑問に支配されたロイを、何らかの方法で出鼻を挫いたラムは見逃さない。

伸びてくる彼女の白い指が、上を向いたロイの首に喉輪をぶち込む。こみ上げる嘔吐感と呼吸をせき止められ、痛みと息苦しさがロイの矮躯を襲った。

だが、ラムの恐ろしさは、そこで手を緩めない可愛げのなさにあった。

「フーラ」

喉笛を掴んた手の間で風の刃が生じ、鋭利なそれが逃げ場のないロイの細首を真正面から捉え、容赦なくロイの首が胴から斬り飛ばされ――、

「――ないんだなァ、これが!」

瞬間、風の斬撃が走り、ロイの首が爆ぜるように血が噴く。

だがそれは、凶悪な犯罪者を捕らえんと衛兵たちが繰り出した千本の剣、その一本も通さなかった剛皮を持つ『肉食獣』ベリ・ハイネルガを再現するロイの命に届かない。

「――――」

予想外の結果に目を見張るラム、その刹那、ロイは喉輪を打ち込んだ姿勢の彼女を道連れに、戦場の上空へ一瞬で移動――『跳躍者』ドルケルの転移の力だ。

ある日、唐突に天啓のようにオド・ラグナと通じて異能を得た『跳躍者』は、その力を用いて幾人もの権力者を暗殺した秩序の破壊者。その転移に前兆はなく、意表を突かれて硬直するラムを力ずくでねじ伏せ、その隙に戦場の獲物の品定めを――、

「エル・フーラ!」

「――うひィッ、本気で!?」

逡巡なく、土手っ腹に風の魔法をぶっ放され、ロイは思わず感嘆の声を上げた。

間違いなく、転移はラムの予想外だったはず。が、彼女はロイの首を刎ね損ねたショックも転移の驚きも一瞬で消化、即座に反撃した。なんて度胸! なんて剛毅!

「やるゥ!」

その風刃も『肉食獣』の剛皮を貫けない。が、その即断と行動力を称えたい。ので、称える気持ちを込めて、『拳王』ネイジ・ロックハートの拳打で返礼する。

剣奴孤島であらゆる強者の頭を砕いた『拳王』の一撃、それを浴びればラムの華奢な体はぐしゃぐしゃにひしゃげて――消えた。

「ラムを見失ったの? 役に立たない両目ね」

不意の声、消えたはずのラムの気配が後ろに現れ、ロイは反射的に『拳王』の一撃をノールックで放り込み、空振り。魔法のように、頭上に移動した気配に延髄蹴りを浴びせられ、真っ逆さまに地上に落ちる、落ちる、落ちる――。

「あァ、綺麗だなァ」

背中から地面に落ちる最中、ロイは受け身の姿勢も取らず、一心不乱に頭上――スカートの裾を翻し、桃色の髪を優麗になびかせる少女の姿に見惚れる。そのままロイは無防備に地面に墜落、背中からの衝撃が腹に抜け、全身を痛みが貫くが、気にならない。

――『肉食獣』×『跳躍者』×『拳王』。

『暴食』が喰らった中でも上澄みの理外人たち、それを見事に捌き切ったラムの力と技と心の冴えに、ロイは図らずも感動させられる。

ここはロイもいいところを見せねばならぬと、足を振って立ち上がり、膝をたわめてラムへ飛びつこうと力を溜める。

だって――、

「もてなしには全力全開、全部全て丸っと注ぎ込んで答えなくっちゃァ、それって愛とは言えないよねえ!」

「――その考え方、どこかで聞いた話とそっくりですごおく嫌いだわあ」

だが、ロイが跳躍して空に戻るより早く、横合いから獰猛な猛り声が襲いかかった。咆哮には鋭い獣爪と、爆発のような突進力が伴っている。

ねじくれた角と見上げる巨体、その体躯を支えるには細く見える四肢でしなやかに大地を駆けるそれは、『森の漆黒の王』と呼ばれる凶暴・凶悪の代名詞――、

「――――ッ!!」

「ひゃァ、ギルティラウッ!!」

歓声を上げたロイに向け、爪の一撃が振り下ろされる。それをとっさに、ロイは『雪喰』ティスロの力で対抗。単身で雪崩を食い止めた伝説を持つ規格外の肉体が、落ちてくる魔獣の剛腕を正面から、右前足、左前足と順番に受け止め、がっぷり組み合う。

そのまま気合いを入れ、ギルティラウの両足をねじ切ってやろうと――した瞬間、魔獣の股下に滑り込み、杖を構えた薄紅の瞳と目が合った。

「ホント、最高に――」

「フーラ」

言わせてもくれない風の弾丸を額に浴び、ギルティラウの尾撃に吹っ飛ばされる。大きく弾かれ、爪先で地を滑ったロイが顔を上げた。

杖を構えたラムの背後、ギルティラウの背にしがみつく少女メィリィが、その細い指をロイに――否、ロイの背後に向けて、叫ぶ。

「やっちゃええ、魔黒犬ちゃんたちい!!」

「「――ッ!」」

メィリィの高い声に呼応し、無数の赤い光点が猛然とロイへ躍りかかった。

それは獰猛な牙を剥き出し、獲物に喰らいつく黒い犬の赤々とした双眸――その身に余る呪と魔法の力を宿した魔獣、ウルガルムの群れだ。

魔犬の群れは容赦なく、その牙を『暴食』の体に突き立て、引き裂く。皮肉にも、『悪食』の名をほしいままにしたロイ・アルファルドの最期は、無惨な魔獣の餌に――、

「ぁァあアぁァあアぁ――」

その魔獣たちの動きが、ロイの喉が奏でた不意の歌声に硬直する。

動けなくなった猛犬の群れ、その中の自分の首に噛みつく一頭の頭をロイが優しく撫でて――直後、傷口から噴き出した血が刃となってのたくり、逃げられない魔獣たちを切り裂き、串刺しにし、断末魔の悲鳴を上げさせた。

「よっとォ」

ゆっくりと体を起こし、立ち上がったロイがその全身をお披露目する。

そのロイの体中に刻まれる魔犬の咬傷、そこから流れる血がてらてらと光る刃となり、黒い犬の群れがまるで果樹の枝に生った実のように吊るされ、亡骸と化した。

各地で反国的な歌を吟じて旅した『悲恋歌人』ノタの呪歌と、自分の血しか操れなかった魔法使い『血涙鬼』アドヴァンの夢の共演。さらに、死した魔獣の亡骸に残ったマナを使い、聖王国の転覆を目論んだ『虹幻公』マトクリマ・ジョラドーンの魔技を実現、死体を蛹にした虹色の蝶が羽化し、ひらひらとロイの周りを舞い始める。

死体の数だけ羽化する蝶が、ひらひらひらひら、ひらひらと――、

「ジャジャーン」

――『雪喰』×『悲恋歌人』×『血涙鬼』×『虹幻公』。

虹色の蝶を無数に侍らせたロイは、実に実に甘美なもてなしを振る舞ってくれたラムたちへと、心ばかりの称賛を込めて晴れ舞台を彩った。

しかし、ラムとメィリィの二人は視線と態度を厳しくし、敵愾心を露わにする。

「やァやァ、すごかったねえ。今の息ピッタリの連携! 痺れちゃったよォ。二人っていつからそんな仲良しに? やっぱり、僕たちの知らない砂海の旅の間に距離が縮まったんですかねえ? ラムさんもメィリィさんも人が悪いや」

「その血塗れかつ痛々しい姿で平然と話しかけてくるのをやめなさい。異常者と言葉を交わすのは、ラムの小鳥の心臓が不安で張り裂けそうになるわ」

「小鳥の心臓ッ! あァ、自分でそれ言えちゃうとことか尊敬しちゃうなァ。次はどんな下拵えが火を吹くことになるのか、ワクワクが止まんないよォ」

パチパチと手を叩き、ロイはするすると血の刃を体に引っ込める。ドサドサと魔獣の死体が落ちる中、ロイは咬傷の血を凝固させ、パパッと止血して陶然と息を吐く。

真摯な思いは通じなかったようだが、称賛する気持ちは本物だ。片思いは辛い。が、ラムたちがロイの期待以上に奮闘してくれた、その一点を大切にしたかった。

「それはそれとして、ね」

ラムたちへの愛おしさを脇に置いて、ロイは先の十数秒の攻防の最中にあった不可解な現象の真相――それが消えた『神龍』と密接な関係があると、そう推測する。

実に実に驚かされた。あの大きな図体の『神龍』が、いつの間にか戦場のどこにもいないのだから。

「たぶん、兜のオジサンとシノビのお姉さんが消えたのとか、ラムさんたちが湧いてきたのとおんなじ手口……あれ、クリンドさんだと思うんだけど、権能っぽいんだよなァ」

消えたアルデバランとヤエ、そして『神龍』。さらには増えた敵と、出たり入ったりするラムの存在も、まとめて『記憶』の中のクリンドの特殊技能とイメージが一致。

ただ、『記憶』に頼らないロイ自身の知識だと、それを可能とするのは個人の異能でも、その形質の異なる加護でもなく、権能である可能性だ。

その場合、クリンドが唯一の空席である『傲慢』の相当者ということになるが。

「まァ、いなくなった人のことは今どうでもいっかァ」

『神龍』だけでなく、戦場には他にもクリンドと、ロズワールの姿がない。

クリンドの実力の程は不明だが、権能の所有者なら最低限戦力にはなるだろう。ロズワールとクリンドのタッグで、『神龍』と大規模戦闘――その被害が周囲に及ばないように戦場を変えた。背景事情はそんなところか。

いずれにせよ、戦場から消えてしまったなら、あの出たり消えたりする手品がまた使われるチャンスはこない。

ならば今は消えた薄情者より、目の前のレディたちのもてなしの堪能が優先だ。

「いいねいいね、人間っていいねえ」

『蝕』を防いだ手口も、喰らう名前のない魔獣の用意も、なんならこの戦場を作り上げたあらゆる要素の全てが、ロイたちを嵌め殺すために準備された策謀の結集。

相対するための事前準備、それすなわち下拵えであり、おもてなしの心意気だ。もてなすために全力を尽くす。――それが、心を砕くということなのだから。

「だったら、こっちも相応のドレスコードで応えなきゃァ、その愛情たァっぷりの思いやりに失礼ってもんだよねえ」

「――。何をする気?」

歓待される側のロイの変化を敏感に察し、ラムが形のいい眉を顰める。警戒を露わにする美しいメイドに、しかしロイは「いやいやァ」と首を横に振った。

総力戦――そう、これはそう呼ぶに相応しい戦い、まさに総決算だ。

王選混成軍、ナツキ・スバルがいれば『アルデバスターズ』とでも名付けただろう敵陣はもてなしの準備を万端に整え、全員が自分の真価を発揮すべく、自分の知恵と底力を絞り出し、最後まで死力を尽くす覚悟を決めた目をしている。

それはラムたちだけでなく、惜しみなく投入された戦力の全員がそうで、ロイ・アルファルドとしては全員に百点満点、花丸をくれてやりたい絶頂期だ。

その花丸に足りない唯一の瑕疵は、相手にあるのではない。――こちらにあった。

「――――」

ちらと視界の端、そこにロイと同じ戦場に取り残され、ボタボタと鼻血を垂らしながら無様に蹲る赤毛の男――ハインケルの姿がある。

『暴食』目線からで恐縮だが、ロイのハインケル評価は案外悪くない。

自縄自縛の固結びと、決して打ち明けられないらしい暗澹たる懊悩を抱えた生き方は、それでしか出せない濁り切った渋みがありそうで、珍味としての興味があった。

ただしそれも、メインディッシュを香りや見た目で邪魔しないことが大前提で、現状のハインケルは『暴食』目線で見てもいいとこなし。

「どんなに贅を凝らした晩餐会も、生ごみの乗ってる皿がまざってたら台無しサ」

ただ一人、全員が一丸となって命と命をぶつけ合おうとしている戦場で、それを台無しにしかねない一因が混ざっているのは、たとえ『悪食』でも耐え難い。

だから――、

「オジサンさァ、いつまでもいじけてないできびきびやろうよォッ!」

「な、た、大罪司教……っ」

不意に声を大きくしたロイに、鼻血面のハインケルが顔を上げる。彼と目が合い、その青い瞳が不自然に揺れるのを見て、ロイは可笑しくなった。

まるで縋るような目つきだ。欠片でもロイに仲間意識や頼りにしたい気持ちがあるのなら、大罪司教にそれを求めるのはなりふり構わないにも限度がある。その際限のないみっともなさは、ある意味かけがえのないものだが、今はひたすらに、邪魔だ。

「――いっそ、オジサンを重荷から解放してあげよォかァ?」

救いはしない。見捨てもしない。

ただニタリと嗤い、ロイは第三の選択肢をハインケルに提示する。

「――――」

凝然と目を見開くハインケルにも、その提案は確かに伝わった。

重荷と、そう言い表したモノがハインケルにとってどれほど大事なのか、ロイは詳しいことまでは知らない。ただきっと、自分の生き死によりも大事なものなのだろう。それを取り上げる手段がロイにあることを、ハインケルはその目で見て、知っている。

ロイのそれが決して脅しなどではなく、実行可能な選択肢であるのだと。

故に――、

「そォこなくっちゃァ」

歯を食い縛った男の表情の変化に、ロイは心からの歓びに胸を高鳴らせた。そのロイの感情の昂ぶりに応えるように、虹色の蝶たちが求愛するように舞い始める。

虹色の鱗粉が空を煌めかせ始める中、ロイはだらりと舌を出し、嗤った。――これで本当の意味で、総力戦が始められるのだと。

「満たされたいのに満たされたくない。――人生って、味わい深くて驚くなァ」

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、針と糸を使わないことを誓います。

△▼△▼△▼△

「ごえ……っ」

背中と胸、挟み込むような衝撃を叩き込まれ、ハインケルは為す術なく崩れ落ちる。

キャロルとグリム――アストレア家に長く仕える使用人夫妻、その孫娘であり、『流法』の手ほどきも受けている双子の蹴撃は、幼さを無視した致命の凶器だった。

「おうっ、おふっ、おえっ」

ヴォラキア帝国の終戦以来、ほとんど満足に食事を取れていない。空っぽの胃から胃液を搾り出され、ハインケルは地べたに情けなく膝をつく。

「「――――」」

そんなハインケルを冷たく見下ろすフラムとグラシスに、自嘲で頬が歪んだ。

これでも、ハインケルはアストレア家の現当主だ。そのハインケルに対し、忠誠を誓うはずのレメンディス家の娘たちが、なんと不敬な目をするものかと。

「私たちの忠誠は若様に捧げております」

「ご当主様は、先代様をグサッと刺した」

その双子の返答の切れ味に、ハインケルは恨み節さえ言えずに黙り込む。

どちらもぐうの音も出ないほどの正論で、彼女たちがハインケルを憎み、敵視するには十分すぎる説得力のある理由だ。前者は常にハインケルを苛み、後者は新たにハインケルを苦しめることになった咎、それが重石のように全身に圧し掛かる。

それでも――、

「死ねねえ……」

奥歯にすり潰されるひと声は、二通りの意味で受け取れるものだった。――これだけやられても死ぬわけにいかないとも、これだけやられたのに死なないとも。

そしてハインケル自身、どちらのつもりで口走ったのか、答えがわからない。

「ぐ、うっ!」

その土台グラグラのハインケルに、双子は容赦がない。迷いがない。

『流法』を全身に巡らせた少女たちの手足は、鋼鉄もかくやという強度に仕上がっていて、嵐の如く連打されるそれは鉄の豪雨に晒されるようなものだ。

上下、左右、前後と、フラムとグラシスは完璧な対となる連携で攻め立て、ハインケルは剣で急所を庇いながら、防戦一方で滅多打ちにされるしかなかった。

――『流法』、思えばそれも、ハインケルはまともに修められなかった。

一流の剣士、戦士であれば無意識に行っているものも多い戦技、それを理詰めで丁寧に教授されても、ハインケルは実戦用に十全に仕上げられなかった。

フラムとグラシスはまだ十二歳だったか。彼女たちの年齢の倍以上の歳月を費やしたのに、ハインケルの『流法』は二人にすら遠く及ばない。

それを才能だと諦められたなら、ハインケルの百の苦悩も一つは減っただろうか。

「く、そ……!」

牽制に振るった剣撃を、双子は目配せだけの連携で俊敏に回避。当てる気の希薄な剣技を的確に見抜かれ、肘から脇、首にかけての急所をことごとく穿たれた。

骨が軋み、胃液以外が出なかった口から血の滴がこぼれる。思わず下を向いた途端、待ってましたとばかりに双子が宙返り、鼻面を真上に蹴り上げられた。

「が――っ」

のけ反り、真後ろに倒れたハインケルがしたたかに後頭部を打った。視界が明滅し、キーンと耳鳴りを遠くに聞きながら、一瞬呆けそうになった意識を無理やり引き戻し、慌てて体を起こしたハインケルが剣を構えて正面を睨む。

眼前、宙返りした双子が並んで着地し、丁寧に裾を払って顔を上げた。――交錯する視線、そこにハインケルは二人の微かな戸惑いの色を見た。

「――――」

おそらく、姉妹の戸惑いの正体は、ハインケルがまだ立ち続けることだろう。

時間にしてほんの十数秒、たったそれだけでハインケルはズタボロだ。服は泥だらけになり、ボタボタと滴る鼻血で無精髭の浮いた顔も盛大に汚している。

しかし、ハインケルは倒れない。意識も、途絶えずに目を開け続けている。手応えからして、それがフラムたちには信じられないのだ。

「はぁ、はぁ……っ」

だが悲しいかな、双子を驚愕させる耐久力など、何の自慢にもならない。

二人に向けた剣の剣先は震え、ハインケルの虚勢は誰の目にも明らかだ。すでに勝敗は決したも同然――否、そもそも戦いにすらなっていない。戦いではないのだから、勝敗など決まりもしない。勝敗を競う段階に、ないのだ。

「それ、でも……っ」

倒れるわけにはいかない。しのがなくてはならない。

ここで倒れたら、ここまで何のためにやってきたのか。何のために父を、ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアを刺したのか、それがわからなくなる。

しのぎ続けていれば、首の皮一枚で希望が繋がる。きっと光明が見える。

アルデバランか『神龍』が、それともヤエか。最悪、大罪司教でもいい。誰かが戦況をこじ開け、ハインケルの希望を――そのときだった。

「オジサンさァ、いつまでもいじけてないできびきびやろうよォッ!」

不意に、戦場を切り裂く声が届き、ハインケルがハッと顔を上げる。

意識して初めて気付いた。戦場のどこにも『神龍』の巨体がない。アルデバランとヤエだけでなく、『神龍』も消えた戦場に、こちらで残っているのはハインケルと、

「な、た、大罪司教……っ」

あちらもあちらで敵と対峙する、ロイ・アルファルドしかいなかった。

いったいいつからこうなっていたのかと、周りが見えていなさすぎる自分に失望を重ねながら、ハインケルはこちらを呼んだロイの意図を測ろうとする。

大罪司教と連携しようなんて、正直、自分でもどうかしていると思う。だが、ヴォラキア帝国で、エミリアの騎士であるナツキ・スバルは『暴食』を従えていた、らしい。それと同じだと思えば、強烈な抵抗感は無理やり飲み下せた。

わざわざ監獄塔から逃げ出したのだ。大罪司教だって死にたくはないだろう。唾棄すべき相手だとしても、目的が同じなら手を取れる余地が――、

「――いっそ、オジサンを重荷から解放してあげよォかァ?」

しかし、続いて投げかけられた言葉は、ハインケルの期待を真っ向から裏切った。

「――――」

助力の提案でも、助けを求めるでもない。ひどく場違いで身勝手な放言。

いったい、何を考えているのか。今の状況がわかっているのか。わけのわからない力で道をこじ開けるアルデバランも、最強の生き物である『神龍』も、小技と嫌がらせの達人であるヤエも誰もいないのだ。ここには弱く脆く無力なハインケルと、性根の薄汚い大罪人のロイしかいないのに、自分と溝を作ってどうする。――否、溝を作ったのではない。溝はあった。埋まらない隔たりが、飛び越えられない崖が、隔絶された絶対的な穴があって、そのことが今はっきりとわかっただけだ。わかって、どうなる。奴の言っていることは、どうなる。奴の言っている意味がわかった自分は、どうする。――ハインケルを重荷から解放する? もはやハインケルの魂と癒着した、この重荷を?

――それは許されないし、許さない。

「そォこなくっちゃァ」

その、ロイが心底愉快げに発した声は、ハインケルの耳には届かなかった。

ゆらゆらと幽鬼めいた動きで立ち上がったハインケルに、相対するフラムとグラシスは微かに頬を硬くしたあと、無言で目配せを交わし、頷き合った。

そして――、

「ご当主様、お覚悟を」

「ありったけをぶち込む」

半端な連打は逆効果と見たのか、双子の気が研ぎ澄まされるのを肌で感じる。

宣言通り、渾身の一撃がくるだろう。そう察した直後、フラムとグラシスが地面を蹴り、ハインケルへと真っ直ぐに迫る。――否、真っ直ぐではない。

「「りゃっ!」」

声と動きを合わせ、双子が蹴撃で大地を抉り取り、それを正面に蹴り飛ばす。視界いっぱいを覆い、抉られた大地が迫ってくる。

それを、ハインケルは振り抜いた剣で真っ二つに割った。人でも、命でもない。ただの物であれば、斬るのにハインケルの躊躇いもない。

しかし、断ち切った大地の向こう、開かれた視界にフラムたちの姿はなかった。

代わりに双子はハインケルを左右から挟み、これまでで最大の加速を得た一撃を、容赦なくハインケルの両脇へ突き刺した。

「――ご」

それは誇張なく、双子の拳がハインケルに手首まで埋まるような渾身だった。

ハインケルの肋骨が打ち砕かれ、その内側に収まった内臓にも打撃が直接届く。すさまじい勢いで込み上げた血を盛大に口から噴いて、ハインケルは失神しかけた。

だが、失神しない。踏みとどまった。踏みとどまった、だけでなく――歯を食い縛って身をひねり、自分に突き刺さる姉妹の腕を無理やりに掴み取る。

「――ぁ」

「マズい」

ぎゅっと、手首を絞られる痛みにフラムとグラシスが顔をしかめた。

そのまま二人は、ハインケルに掴まれたのと反対の手で、自由な足で、ハインケルに打撃を連打、鋼鉄に嵐のようにぶん殴られるが、ハインケルは掴んだ腕を放さない。

望んで得たものじゃない。それでも、ハインケルが人より秀でていると断言できるのは、この図抜けた頑丈さだけで、それを一番うまく使う方法が、たぶんこれだ。

滅多打ちにされながらも、相手に掴みかかる。――剣士の風上にも置けない、まさにハインケル・アストレアに相応しい、泥臭く、洗練のない反撃。

「――ああぁぁ!!」

鼻血で汚れ、殴られて腫れ上がった顔面で、ハインケルは両腕を振り上げ、掴んだ双子を勢いよく、地面に向かって叩き落とす。

この瞬間、相手が子どもであることも、自分の家に仕える存在であることも、ハインケルが生まれた頃から知るキャロルとグリムの孫娘であることも、忘れる。――否、忘れるのではなく、目をつむり、乾坤一擲、二人を頭から地面に――、

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、歌を歌わないと誓います。

△▼△▼△▼△

死体を蛹とし、命の残り火を燃料に羽化する虹色の蝶――『虹幻公』の編み出したその魔技は、決して新たな命を創造するものではない。

あくまで蝶はその形を取っただけで、本質は命の創造と対照的な、死の具現化だ。

「兄様の切り札だったっけねえ、虹色の魔法」

喰らった『記憶』の中、疼く感覚が甘美に思い出させるのは剣に纏わせた虹の極光――原理的には、『最優』の騎士が繰り出す絶技と、虹色の蝶は同じ代物だ。

『最優』がその才能と契約した精霊たちとの力で実現したそれを、『虹幻公』は絞りカスとなった命と引き換えに発動するというだけの話。

「でもこれ、威力は据え置きだからサ」

触れた対象を根こそぎ吹き飛ばす死の蝶、それがロイの笑みを合図に、二十羽ほどが一斉にラムとメィリィに向かって殺到する。

その脅威の接近に対し、ラムとメィリィは即座に息を合わせた。

「ラムお姉さん!」

「呼び方が違うわよ」

「わかったわよお、奥様!」

程よく真剣なやり取りを交わし、ギルティラウに跨るメィリィが前に出る。そして、漆黒の魔獣の背を叩いて、その剛腕で傍の木々を強引にへし折らせた。

メキメキと破砕音を立てながら倒れる木々、そこに入れ替わりに駆け込むラムが、しゃがみ込んで杖を真っ直ぐ構え――、

「エル・フーラ」

巻き起こる風が、へし折れた木々を猛然と吹っ飛ばし、蝶の群れに突っ込ませた。死の鱗粉をばら撒く蝶たちが、真正面からそれらを浴び、極光の爆裂が起きる。

「く~~ッ!」

最適解と、身震いを堪えられないロイが地団太を踏む。

あらゆるモノの構成をほどいて破壊する力を秘めた虹色の蝶は、言うなれば触れたら終わりの火の魔石だ。それはその絶大な破壊力と引き換えに、一発限りの使い捨て――障害物を当てて爆破解体するのが、一番の安全策。

それにしたって、初見で対処してくるというのは、ロイビックリ。

「たァだァしィ!!」

それで蝶に絶滅されては、『虹幻公』も草葉の陰で泣き濡れるというもの。

正面から突撃させた蝶は虹色の爆発に消えたが、その煌びやかな爆裂を迂回し、生き残りの蝶が五羽ずつ、大きく旋回してラムたちを狙う。

加えて今回は蝶だけではなく、ロイもまた、『跳躍者』の力であちらへ飛んだ。そこから『雪喰』の剛腕で、まずはギルティラウから撲殺を狙う。

――『虹幻公』×『跳躍者』×『雪喰』。

極光の目眩ましでラムたちの正面を塞ぎ、左右からは生き残った虹色の蝶、真後ろは転移したロイが担当する、逃げ場のない三重殺法が容赦なくラムたちに炸裂する――瞬間、ロイの鼓膜を赤子の泣き声が切り裂いた。

「――――ッッ」

戦場に似つかわしくない金切り声に一瞬思考を奪われるロイ、その眼前で赤ん坊の泣き声を上げるのは、神の失敗作というべき冒涜的な造形の魔獣――それが、骨でできた燃える二本の槍を振り回し、包囲網を作った虹色の蝶をまとめて焼き払った。

再度生まれる極光の爆発、その爆風に髪をなびかせながら、ロイは眼前に現れた異形の存在、砂海の地下にしかいないはずの餓馬王を目にする。

「連れてくるの、苦労したんだからあ」

巨大な角でできた頭部と、巨大な口を備えた人間の上半身めいた胴体、それを支える大きすぎる馬の首から下、人馬一体というにはあまりにも歪で醜悪。――そんな餓馬王と、メィリィが先ほどまで跨っていたギルティラウが入れ替わっている。

「――――」

その事実に、ロイの思考が千々に乱れ、『記憶』の大会議が答えを模索する。

議題に挙がったのは、目の前の出来事の真相、すぐ傍に迫った危機への対処、驚かされた事実に対する適切なリアクションと、緊急性が入り乱れる。

その、最優先する議題を選び出す直前に――、

「――なんだ貴様、豚のような間抜け面だな」

真後ろに現れた声の主、その巨大な拳骨が、ロイの矮躯を真っ直ぐ殴り抜いた。

「――ッ」

背を殴られ、浮かび上がったロイの体が餓馬王とメィリィの頭を飛び越す。爆裂する極光さえも追い抜いて地べたを滑ったロイは、片手を地に突き刺して勢いを止め、体をひねりながら着地、軽業めいた動きで立て直し、敵に追撃を諦めさせる。

そのロイの視界、餓馬王に跨るメィリィと、その傍らに現れた黒いスーツ姿の豚人の巨漢、そして先ほどと明確に違った位置にいるラムを捉える。――新たな敵の出現と、一瞬で不可解な入れ替わり戦術、それは切って捨てたはずの可能性の再浮上。

「いやァ、そうじゃなかった」

なまじ、『記憶』があるせいで、余計な先入観から抜け出せなくなっていた。

この一瞬の入れ替えは権能によるもので、それはクリンドの力だと。だから、クリンドが『神龍』と消えたあとの戦場で、それを警戒する必要はないのだと思った。

だが――、

「――てめえも父親なら、ガキに手出ししてんじゃねえ!!」

そこに聞こえたのは、怒りに燃える太い声と、それに続く強烈な打撃音――視界の端、その両腕で双子の少女を掴んだハインケルが、顔面に拳を浴びていた。

その強烈な一撃を叩き込んだのは、ロイの『記憶』にある知った大男――やはり、戦いが始まった瞬間にはいなかったはずの、ガストンだった。

「――――」

顔面を打ち抜かれたハインケルがひっくり返り、双子がギリギリで難を逃れる。

ロイが発破をかけた甲斐があったのかなかったのか、ハインケルも惜しいところまでいっていたようだが、その逆襲の出鼻はいきなり挫かれたようだ。

もっとも、ロイもハインケルを笑えない。同じ相手に、同じ手で挫かれたのだから。

そして、その相手というのは、クリンドではなかった。

「えェ? ホントにィ? そんなことあるのォ?」

他の可能性が思い当たらず、ロイはその意外過ぎる真相に自分で自分を疑った。

その声にこもった感情は驚き一色で、その事実を否定したり、貶めようとする意図は全くない。全くないが、仮に事実だとしたら、とんでもなく予想外だった。

彼女を知る『記憶』を総動員しても、「まさか」という結論しか出ない。

それはクリンドではなかった。それは、ロイと衝突するラムたちの戦いにも、ハインケルを滅多打ちにする双子の戦いにも、絶妙なタイミングで介入していた。

それはこの総力戦を俯瞰し、権能を使って状況を組み立て直し続けていた。

それは――、

「――ペトラちゃん、いつから大罪司教になったの?」

「それ、すごい人聞き悪い。どうせ、人聞きの悪い呼び方するなら、こう呼んで」

そう言って、魔女因子を宿し、権能によって戦場を支配したゲームメイカー――ペトラ・レイテが自分の胸に手を当て、「べ」と舌を出した。

そして、告げる――、

「――『憂鬱の魔女』、ペトラ・レイテって」