軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九章12 『那由多の先の星明かり』

「――領域展開、マトリクス再定義」

決まり切った常套句は、世界に対する宣戦布告だと『魔女』は語った。

魔法とは、詠唱で以て自然界の法則に逆らい、自分の意思を現実に反映させる手段。無理やりに脚本を書き換え、結末を変えるに等しい高度で繊細な蛮行なのだと。

すなわち、魔法の呪文の詠唱とは、『これから世界を壊します』と丁寧にお伺いを立てる挨拶に他ならない。

無論、挨拶なのだから無視されたり拒絶されることもある。

術式の構築が甘かったり、マナの不足で発動にしくじったり、暴発して望んだのと違った結果を呼び寄せたり、まあ色々だ。

そもそも、このたとえ話自体が余談に過ぎない。

自分がやろうとしていることは魔法ではない。

ただ、口にする常套句が世界への宣戦布告であると、その本質が同じなだけ。

だからこれは――、

「――領域展開、マトリクス再定義」

壊されたくない世界に対し、それでも壊したい自分からの殺害予告だ。

殺す。壊す。破る。踏みにじる。蹂躙する。冒涜する。引き裂く。切り刻む。焼き尽くす。押し潰す。打ち砕く。融解させる。飽和させる。

言葉は何でもいい。魔法と同じだ。――大事なのは、本質が同じであること。

結びの一言が変わらないなら、過程は選ばない。

何があろうと、どうあろうと、何としてでも――ナツキ・スバルを取り除く。

その結びだけは、絶対に、変えさせない。

そのために――、

「――領域展開、マトリクス再定義」

それが那由多の先の星明かりでも、必ず辿り着いてみせる。

△▼△▼△▼△

――四千六十一。

盤面から取り除くのに一番苦労したのは、意外にもふざけた態度の辺境伯だった。

洞察力が高く、修羅場慣れした辺境伯には情による泣き落としが一切通用せず、さらには陣営――否、自分の利益にならないものへの態度のシビアさときたら。

状況的に、こちらから提示できるメリットがない以上、利益をちらつかせて納得を得るのは無理筋と決め打ちするしかなかった。ただ、損益に敏感ということは、不利益に対しても人並み以上に嗅覚が働くということだ。

だから、こちらに付き合わなければ損をすると思わせるのがベスト。――その方向性に気付けてからは、拗れた糸をほぐしていくのが楽になった。

最終的にシュルトの置かれた状況を利用したのに罪悪感がないではないが、今後のバーリエル領を混乱させないためにも、どのみち誰かの手を借りる必要はあったのだ。

どうぞ好きなように切り取れば、いい。もう彼女はどこにもいないのだから。

――九百七十二。

次いで手こずったのは鬼の姉妹で、特に姉の方が強敵だった。

元々、警戒が必要だろうと事前にわかっていた相手だ。

その異常なまでの勘の鋭さを回避するのは並大抵のことではない。だが、彼女の場合は明確な落とし所――『記憶』を奪われ、ようやく再会を果たせた妹という、本人にほとんど隙の見当たらない彼女の最大にして絶好のウィークポイントがあった。

大切な妹を一刻も早く拠点に連れ帰りたい。――その意識は常にあるのだから、そこをつつくやり方をすればよかった。ただ、露骨とさりげなさのバランス調整がこれまた鬼畜の難易度だったので、辿り着けないゴールを延々と目指し続ける苦労はあった。

そして、姉と比べれば警戒度は低くとも、失った『記憶』の上に帝国での紆余曲折を積み上げていた妹も、表には出さない絆を紡いでいたので難敵には変わりなかった。

姉妹愛を利用するのは心が痛むが、いい。もう彼女はどこにもいないのだから。

――六百三十三。

感情的な納得を一番引き出しにくかったのは、外野に厳しい内政官だ。

やわな見た目に反してタフな性格の持ち主で、押しに弱いなんて誤解すれば火傷をさせられる。角を立てた闘牛と戦うような緊張感を強いられる相手だった。

彼の崩し方も方向性は辺境伯と同じだが、こちらの方が辺境伯よりもはるかに人間的だったから、現実的な妥協点をこちらから提示し、条件をすり合わせてイエスと言わせた。

武器はなし、期間は三日、信頼できる武官の同行――どれも、あって当然の縛りだったから痛手はない。それ以上を彼の前で欲張るのは危険だと、百度はわからされた。一度話が打ち切られると、再開の見込みがまるでない相手だったから。

その彼も、決まり手は同じ。――不安定な自分がいなくなることで、そのことに責任を感じる相手を慮らせること。

優しさにつけ込むのは辛いが、いい。もう彼女はどこにもいないのだから。

――九十四。

試行回数こそ少ないが、砂海の同行者枠から稀血を省くのは絶対の条件だった。

そつなく上品な稀血の持ち主は、放っておけば早々に同行者に内定する立場。彼女自身の人間性や能力に何の疑いも忌避感もないが、流れる血が目的の障害だった。

ただ、思いやり深い相手を望んだ方向へ動かすには、その思いやりを利用するのが一番手っ取り早く確実だ。集団への帰属意識が高く、輪を乱すことを著しく嫌う性質がわかっていれば、歩きやすい道を引いてやることは難しくなかった。

この時点で、陣営の人間関係は一度も顔を合わせていなかった相手まで含めてほとんど把握できていたと言える。彼女が同行することで食い合わせの悪いペアが生まれ、それが心細い思いをする幼子の負担になると考えが及べば、率先してその解決に勤しむ。

重要なのは不可能を可能にすることではない。ゼロではない可能性の顕在化だ。

かける慰めの言葉もないが、いい。もう彼女はどこにもいないのだから。

――五。

『彼女』の心の傾け方は熟知していて、正直、簡単だった。

優しくて慈悲深く、そして思いやりに溢れた騙されやすい『彼女』は、こちらの言葉を疑うということを知らず、何事も素直に真に受ける性質だ。本来なら一度もしくじらないような寛容さ――故に失敗は『彼女』の問題ではなく、自分の方の問題。

『彼女』を騙し、その考えをいいように曲げるのに躊躇いがあったという話。

その心の軋みさえ無視してしまえば、『彼女』の紫紺の瞳を憂いで満たすのは容易い。元々、こちらの傷に寄り添おうとしている相手だ。彼女のために『彼女』ができる最善が何なのか、それを訴えれば自然とその心構えは決まった。

いよいよ救えない自分がいるが、いい。もう彼女はどこにもいないのだから。

――ゼロ。

そして、ナツキ・スバルには一度もしくじらなかった。

ナツキ・スバルのことは知り尽くしていたし、躊躇いは一切なかったから。

ただ、タイミングだけは計る必要があった。

なにせ――、

「――オル・シャマク」

条件的に、この切り札にベアトリスを巻き込むことが最優先事項だったからだ。

「――――」

聞き覚えのない詠唱と、見たことのない術式の構築にベアトリスの反応が刹那遅れ、それがナツキ・スバルを守る上で致命的な隙となる。

とっさに腕を抱き寄せ、対応しようとした動きは契約精霊の鑑と言えるが――それがアルデバランの、真の狙いだった。

「三日。三日あると、三日目に何かあるかもって警戒するよな」

――対『魔女』用の切り札であるオル・シャマクは、対象のゲートを強制的に封鎖し、その身動きさえも封じる拘束と封呪を目的とした禁術だ。

それは、存在を明らかにすることを禁じられた術という意味で、作り出した『魔女』自身も書に残すことを避け、口伝――それも、アルデバランだけに伝えるに留めた。

あるいは考案者である『魔女』自身さえも殺せる禁術、それをアルデバランだけが伝えられたのは弟子への愛情や信頼が理由ではなく、アルデバランはこの禁術の使い道を間違えず、他の使い方をしないと冷徹な確信があったからに他ならない。

「結果、初日の夜、いい話をしたあとが一番緩むんだ」

事実、アルデバランはこの禁術を『魔女』や、他の『魔女』に向けようと考えたことはなかったし、実際に向けなかった。――正確には、向けるべき相手にも向けられなかったという方が適切だが。

つまり、編み出され、伝授された禁術はようやく日の目を見たのだ。

「わかってるぜ、兄弟……いや、ナツキ・スバル。――オレは、お前を殺さない」

『大災』との戦いの最中、『魔女』を名乗ったスピンクス相手にも切り札として用いたが、あれはスピンクス側の問題――魔女因子の欠如で本領を発揮しなかった。

故に、禁術『オル・シャマク』が正しく発動したのは、この瞬間が初めてだった。

「――――」

床に落ちた、黒いガラス玉のように見えるそれを摘まみ上げる。

中を透かして見せることのない球体の中、ここにナツキ・スバルとベアトリスを一緒に封入した。――陰属性の大精霊であるベアトリス、彼女に禁術を解析されては困る。

彼女を魔法の射程に一緒に収め、なおかつ彼女が禁術の対象となるかは賭けだった。

だが、賭けには勝った。ナツキ・スバルと契約し、彼とゲートを共有するベアトリスは術の対象となり、球体の中で存在を封ぜられている。

ここまで、状況を組み立てるのは苦労した。でも、苦労しただけだ。

もう彼女はどこにもいない。だから――、

「始めるよ、先生。――オレがオレであるために」

そう、決意と共にアルデバランが言い切った直後だ。

「おおォォォォ――ッ!!」

凄まじい雄叫びを上げながら、書庫の床を割れんばかりに蹴りつけ、矢のような速度で黄金の猛獣が飛びかかってくる。

振りかざされたしなやかな剛腕は、アルデバランなど一撃で粉砕し、秒に満たない刹那でこちらの行動力を完全に奪うだろう力が込められていた。

おそらく、頭どころか肩口を掠めるだけでも、意識を半分以上持っていかれる剛力――しかし、それはあくまで拳撃が放たれればの話。

「――っ」

「てめェッ!!」

超速で飛び込んできた猛獣、ガーフィールはその翠の瞳を赫怒に燃やしながら、アルデバランを殴り飛ばすのではなく、その腕を掴んで書庫の床に組み伏せた。

受け身も取れずに剛力でねじ伏せられ、床で顎を打ったアルデバランが苦鳴をこぼす。その呻き声に構わず、背中に膝を乗せてガーフィールが牙を剥き、

「大将とベアトリスに何ッしやがった!? 二人ァどこだ!? さっきの魔法ァ――」

「違ぇよ、ガーフちゃん」

「あァ!?」

悠長に追及してこようとするガーフィールに、アルデバランは低い声で応じる。それにガーフィールが喉をがらつかせたが、そんな威嚇に意味はない。

そもそも、この問答自体に意味なんてないのだ。

「取り押さえるんじゃなく、初手でオレを気絶させるんだよ」

その、無意味な問答に律儀に応じながら、アルデバランは口の中で舌を滑らせる。そして、そのアルデバランの一言に困惑するガーフィールの反応を無視して――奥歯に仕込んでいた薬包を解き、それを飲み下した。

凄まじい熱量が、アルデバランの全身の血を沸騰させ――、

× × ×

「おおォォォォ――ッ!!」

爆ぜるような勢いで床が蹴られ、矢のような速度で猛獣が突っ込んでくる。

だが、その猛獣の狙いはアルデバランを殴り飛ばすことではなく、その腕を掴んでねじ伏せること。――瞬間、伸びてくる腕を躱し、肘を振り上げる。

「ごァッ!?」

「これで――」

相手の勢いを削いだ、と思った直後、アルデバランの胴体を衝撃が襲った。

飛び込んでくる自分の勢いで鼻面に肘を受けたガーフィールが、鼻血をこぼしながら放った前蹴り、それが一発でアルデバランの腰骨を粉砕、背後へ吹き飛ばす。

行動不能になるのはマズい。

「てめェ……ッ!」

「次だ」

書架を巻き込んで倒れ込みながら、埋もれた本の山の中で薬包を解いた。

衝撃が、全身を貫いていく――、

× × ×

「おおォォォォ――ッ!!」

雄叫びと共に突っ込んでくる猛獣、その伸びてくる腕を躱し、肘を跳ね上げる。

これで相手の鼻面を打つだけなら先ほどと同じ結果になる。わかっていても、あの速度で放たれる前蹴りを躱す手段がアルデバランにはない。

だったら、前蹴りを打てないようにするだけだ。

「ごぶァがッ!?」

飛び込んでくる顔面に合わせた肘、それを岩のプロテクターで覆い、漬物石をぶち当てるような勢いでぶん回し、鼻面へと叩き込む。

自分の勢いが乗ったカウンターを顔面に浴びて、ガーフィールは空中でのけぞり、鼻血をばら撒きながらアルデバランの横をすっ飛んでいった。

「これで――」

ガーフィールが床を転がり、激突した書架からこぼれる本の生き埋めになる。

それを目の端に留めながら、初撃の回避に成功したと、アルデバランは大きく後ろへ飛ぼうとした。

そこに――、

「――エル・シーハ」

短い詠唱が紡がれた直後、床を踏んだアルデバランの全身が重くなる――否、重くなったのではない。不自由に全身を包み込まれたのだ。

アルデバランを包み込んだ不自由の正体、それは書庫にあるまじき大量の水――、

「書に湿気が大敵なのは承知の上で、行儀の悪い行い失礼する」

「――っ」

「だが、火の気は以ての外。風で書庫を荒らすことも、土で書を汚すことも避けたい。瞬間的な苦渋の決断と理解してもらいたいところだ。さて、私が水を選択した理屈は説明した通りだが――」

そう言いながら、こちらに手をかざした小柄な人物――エッゾ・カドナーが、その黒いマントを翻しながらゆっくりとやってくる。

それはもったいぶっているというより、こちらの動きを警戒した魔術師の戦術故だ。

そうして警戒されるのは光栄なことだが、その期待には応えられそうにない。

なにせ、アルデバランを包み込んでいるのは、その体をすっぽりと覆う最低限の水量の水――まるで、水でできたボディスーツを着せられているようなフィット具合に、体の自由も呼吸の自由も奪われている。

その尋常ならざる魔法の技量に、アルデバランは太刀打ちする術がない。

しかし、エッゾはそのアルデバランと一定の距離を保ちながら、

「アル殿、あなたの方から納得のいく説明は聞かれるのだろうか? 先ほどの、私も知らない未知の魔法は? それにより、ナツキ殿とベアトリス嬢をどうした? 二人はあなたが自暴自棄になり、自分を蔑ろにすることを危ぶんでいた。その二人に――」

――百六。

とくとくと、エッゾが口にするのは正しく正論というべき大人の意見だ。

その幼く見える外見に反し、エッゾ・カドナーは驚くほど真っ当で誠実な人間だ。誠意には誠意を返し、尊敬には尊敬で応じる真摯さが根っこから染みついている。

それ故に、エッゾとの相対に絶対的に必須となるのは誠実さと尊重。――それが守られている限り、彼は必ず受動的になる。他者に期待しすぎる性質だ。その点、同じ魔法使いでもロズワールとは根底から在り方が異なっている。

ロズワールなら、『死者の書』への影響など構わず、アルデバランの手足を速攻で焼き、肺を風で犯して意識を奪い、土で固めて自由を封じただろう。

彼はそうしない。だからだ。

「――っ、馬鹿な真似を!」

言葉を区切り、強張った表情で叫んだエッゾの視界、水の膜に覆われたアルデバランの顔の周りを、真っ赤な色が覆った。

焼き、溶かされる内臓が逆流し、喉を通って口から溢れた証拠だ。

すぐさま、エッゾは魔法の拘束を解き、治癒魔法に切り替えようとするが、遅い。

頭で考えて気付いてからでは、アルデバランには追いつけな――、

× × ×

「――エル・シーハ」

「エル・ドーナぁ!」

流麗で洗練された詠唱と比べて、不格好でエレガントさの欠片もない詠唱。

だが、息せき切って発動された不細工な土の鎧が素早くアルデバランの全身を覆い、繊細な水の膜の拘束を塗り潰すようにし、その水分を吸い切った。

「なんだと!?」

土の鎧が一瞬で泥の鎧に早変わりした直後、アルデバランは妨害されるはずだった床の踏み込みを再開し、鎧を壊しながら後ろに飛んだ。

踵で書庫の床を滑りつつ、立ち位置を後ろに下げて、確保された視野に自分に敵意を向ける両者をしっかり捉える。

こちらを警戒するエッゾと、倒れた書架の本に埋もれるガーフィール――、

「ッざっけんなァ!!」

埋もれた本の山から腕を伸ばし、倒れた書架を押し戻しながらガーフィールが復帰。彼は床に落ちた本を踏まないように大股で踏み出し、アルデバランを睨む。

その鼻血のこぼれる口元が手の甲で拭われると、ほんの数秒でもう血は止まっていた。存在の根本からして、アルデバランとは戦闘力が違ってしまっている体だ。

その頑丈で強固な体を引きずり、ガーフィールがこちらへ踏み出そうと――、

「待ちたまえ、ガーフィールくん! 迂闊に近付くのは危険だ!」

「あァ!? 言ってるッ場合かよ、センセイさんよォ! 大将とベアトリスがあのわけッわかんねェ玉にされッちまってんだぞ! 今ッすぐに……」

「だからこそだ! あのような魔法、私ですら知らない! 何より今、彼は君と私の攻撃を完璧にしのいで見せた! 異常だ!」

「――ッ」

「私は彼に手の内を一度も見せていなかった。にも拘らず、水の拘束を土に吸わせて完璧に対処したんだ。ただの戦闘巧者という理屈では説明がつかない。冷静な行動を。ここで彼を押さえられるのは、私と君しかいないんだ」

血気に逸るガーフィールを引き止め、エッゾが冷静に声の調子を整えていく。

そのエッゾの言葉に説得力があったのは、ガーフィールの表情の怒りと興奮が徐々に鎮まっていくことからも明らかだ。

何より、ほんの一回の攻防でアルデバランの反則技の一端、それを違和感として認識して言及してくるエッゾの洞察力が異常だった。

実際、エッゾの言葉は正しい。

どれだけ工夫を凝らそうと、すでに塔に先着しているエッゾたちと、エミリアたちの陣営の妥協点として同行するガーフィールを省く手段はなかった。

だが、それは同時に、相手の戦力を超強力な戦士と魔法使いのコンビだけに押さえ込むことに成功したと、そうも言える。

「それでも十分どころか百分厄介だっつの」

呪うように愚痴をこぼし、アルデバランはじっくりと二人を観察する。

つぶさにこちらの挙動に目を光らせているエッゾと、彼の言葉に冷静さを取り戻しつつあるガーフィール――非常に、厄介な態勢を整えられてしまった。

だから――、

「て、てめェッ!?」

「――っ、馬鹿な真似を!」

驚嘆するガーフィールとエッゾの声を聞きながら、アルデバランが膝から崩れる。前のめりに床に倒れ、書庫の段差を転げ落ちる体からはぐったりと力が抜け、その兜の首元から溢れた血が大量に流れ出して――、

× × ×

「待ちたまえ、ガーフィールくん! 迂闊に――」

近付くな、とエッゾがガーフィールに制止を呼びかける瞬間、アルデバランは傍らの書架を掴むと、それを一気に引き倒し、ドミノ倒しのように段差下のエッゾを襲わせる。

本来、『タイゲタ』の書架は中に大量に詰め込まれた『死者の書』の重さもあってビクともしないものだが、こっそりと書架の下に『石』を噛ませておけば話は別だ。

――三百九十七。

最初から、障害物が多く、仕込みを用意しやすいここを戦場にするつもりだった。

すでに仕込みは完了している。怪しまれるたびに、次の機会へ送ればいい。

「――くそぅ!」

自分目掛けて倒れてくる書架に、エッゾはとっさに風を起こし、ドミノ倒しを無理やりに止め、『死者の書』が床に落ちて痛むのを食い止めようとした。

その書への配慮は立派なものだが――、

「ドーナ」

次いで、エッゾの左右と背後の書架をもひっくり返し、四方から囲わせる。

その倒れてくる書架と雪崩れてくる本の波に、エッゾは苦渋の末に本の保護を諦め、その場から風に乗って飛びのき、被害を免れた。

「センセイさんッ!」

そして、エッゾに制止されなかったガーフィールが目を剥き、怒りの形相をアルデバランの方に向ける。

極度の憤慨と興奮状態の翠の瞳に、アルデバランはさらにダメ押しをする。

手の中、中指と薬指と小指、三本の指で摘まんでいた黒い球体、それを残る二本の指で持ち上げた兜の隙間にねじ込むと――、

「んぐ」

――かなり大きく、喉越し最悪のそれを無理やり胃に落としたのだ。

「てッ、めェェェェ――ッ!!」

それを目にしたガーフィールが、怒りの噴火に身を任せて突っ込んでくる。

その、目で追うことすら困難な豪風が迫ってくる感覚に、アルデバランは相手の連携を断ち、冷静さを損なわせた確信を持ちながら殴り飛ばされる。

手加減のない拳に内臓を抉られ、腹の中に入れた球体をそのまま吐き出させられそうになりながら、夕餉を兜の内側に逆流し、奥歯を噛みしめる。

そして――、

「――領域展開、マトリクス再定義」

――世界への、宣戦布告を再び口にした。

△▼△▼△▼△

――怒りが、ガーフィールの視界を真っ赤に染めていた。

その怒りは、スバルやベアトリスを黒い球体に変えたアルへのものもあったが、それ以上に大きなものは不甲斐ない自分自身へ向けられたものだ。

ガーフィールには、オットーやエミリアたちから託された重大な役目があった。

全員、ヴォラキア帝国からようやく戻れたスバルと一緒に行動したかったはずだ。

だが、全員が全員、果たさなければならない役割があったから、色々な感情を呑み込んでガーフィールに全部を任せてくれたのだ。無論、一緒にやってきたベアトリスとペトラ、メィリィにも期待された役割はあっただろう。

それでも、スバルの身の安全を守るのはガーフィールの役目だったのだ。

それを――、

「俺様の、クソ馬鹿野郎がァッ!!」

噛みしめた奥歯がひび割れ、それが『地霊の加護』で修復され、また噛みしめてひび割れる。そのぐらい、ガーフィールの怒りは強烈なものだった。

アルの行動に注意してはいたのだ。

塔のてっぺんでのエッゾの意見もあり、スバルたちと一緒にアルが無茶なことをやらかさないかしっかり見張ろうという意識はあった。

だが、同時に、ガーフィールにはアル以外にも注目する相手がいた。

他ならぬ、スバルのことだ。

『いいですか、ガーフィール。ナツキさんをよく見ていてください。プリシラ様のことでヤケになりはしないでしょうが……うっかり、アルさんのために自分のできることなら何でもやりかねない』

「――ッ」

兄貴分に言い含められていた警戒は、後乗せされた警戒との噛み合わせでわずかに鈍らされた。結果、アルの行動に対するガーフィールの反応は半歩遅れたのだ。

その半歩を、アルはまるでわかっていたみたいに詰めた。――否、アルが見切ったのはその半歩だけではない。その先の歩幅も全部だ。

「るああァッ!!」

吠えるガーフィールの放った裏拳、それがすんでのところで屈んで躱される。小指の下腹が掠る程度に威力を殺され、ガーフィールは奥歯を噛んだ。

当たらない。これだけ連打しているのに、まだ一発もクリーンヒットがない。

それどころか――、

「ドーナ」

短い詠唱、世界に干渉する魔法の感覚に産毛が逆立ち、ガーフィールが体を傾ける。

次の瞬間、傾けたガーフィールの顔面を迎えるように、空中に生じた石塊が猛烈な勢いで横っ面を弾いた。

「ぷあッ」と苦鳴がこぼれ、口の中が切れる。威力としては弱い。少なくとも、帝国で超級の戦士との連戦を続け、『龍』とすら激突したガーフィールにとっては、戦闘不能どころかまともなダメージとすら言えないぐらいの威力だ。

そしてそれが、相手が手を抜いた結果とも思わない。

「ふっ、ふっ……」

息を弾ませ、ガーフィールの顔を弾く魔法を放ったアルが油断なく身構える。

その素振りはガーフィールの油断を誘うためのものではなく、本当に息が切れている。当然だろう。ガーフィールの見立てでは、アルはこちらの攻撃をまともに一発喰らうだけで行動不能に追いやられるほど実力差があるのだ。

それも、渾身の一発が必要とすら言えない。

ガーフィールが繰り出す連打のうち、一発でも当たればそれで終わりだ。そんな終わりの一撃を、ガーフィールは一息の間に何十発と放つことができる。

それと相対するのが、気力体力共にどれほど消耗するか考えるまでもない。

考えるまでも、ないのに――、

「当たら、ねェ……ッ!」

自分の身に起きている出来事の意味がわからず、ガーフィールは混乱する。

アルの身のこなしも、反撃の攻勢も、いずれもガーフィールと大きな実力差がある。自惚れではない事実として、戦士としてガーフィールはアルより何枚も上手だ。

なのに、当たるはずの攻撃も、躱せるはずの回避も、何一つ上手くいかない。

ガーフィールの攻撃は空振りし続け、アルの攻撃は当たり続ける。

それはガーフィールを打ち倒すほどの威力はないが、足を止めさせ、追撃を阻む成果を得るには十分ないやらしい攻防で――、

「ガーフィールくん、離れたまえ! 援護する!」

今もまた、ガーフィールの足下を沈める形で前進を阻まれた。

そうして攻め切れないガーフィールを叱咤するように、後方から魔法で援護を入れるエッゾが叫び、距離を取るよう提言してくる。

一瞬、そのエッゾの言葉に従い、アルの不可解な戦術を見極めるべきかと――、

「おう、下がれ下がれ。下がって姉ちゃんと婆ちゃんに泣きついてこい、ガーフちゃん」

「――ぶっちめるッ!」

引き際を見定めた瞬間、放り込まれた嘲笑に思考が千々に引き裂かれた。

赫怒に視界が塗り潰され、ガーフィールが両腕を振りかざしてアルへ迫る。今度は、最初からどんな妨害があろうと、手も足も止めない覚悟。

腕が足が躱されるなら、体ごとぶつかって組み付いてやるだけだと。

「実際、それされるのが一番きついぜ」

そのガーフィールの思惑を察し、アルが重たい息を吐きながら呟く。

それ見たことかと、ガーフィールはまた一歩強く床を踏み、その足下が操作されることを恐れ、素早い蹴り足で体を正面に飛ばした。

そのまま、ガーフィールの体が猛烈な勢いでアルに迫り――瞬間、視界がけぶった。

「――が」

覚えのある感覚を眼球に浴びて、ガーフィールの喉から呻きが漏れる。

それは、塔へくる途中の砂海で砂風をまともに浴びたときと同じ感覚だ。細かい砂の粒子がガーフィールの両目に飛び込み、視界が容赦なく奪われる。

またしてもアルの小細工。驚きに足が止まるところだ。――何があろうと、足も腕も止めないと覚悟していなければ。

アルは、この破れかぶれの吶喊を最も警戒していた。

ならばたとえ目潰しを喰らっていようと、ガーフィールの体のどこかに彼を引っ掛け、戦闘力を奪うのが最善だ。

「――ガーフィールくん!!」

吶喊を続行する決断の直後、決死のエッゾの声が自分を呼んだ。

その、危険を訴えかけるエッゾの声に、ガーフィールは正面から何かが迫る感覚を鼻に感じ――それを、真っ向から大口を開けて牙で噛み止める。

目潰しからの、誘い込んだガーフィールの顔面を打ち抜く渾身の拳撃。だが、それは何があろうとというガーフィールの覚悟を挫けるものではない。

「あほぇやんと直ッしへやらァ!」

拳に牙を突き立てて止めた感覚に、ガーフィールは戦闘力を奪ったあとでの治療を約束し、顎に力を込める。

非情な判断だが、アルは隻腕だ。右腕一本で戦う彼は、右腕の機能を奪われれば戦うことはできない。このまま、手の甲から肘までを牙で引き裂いて――、

「――ァ?」

そう噛む力を強めて、気付いた。

ガーフィールの噛み止めた拳が、アルにないはずの左手の形をしていることに。

「――ぼァがッッ!?」

次の瞬間、口内に入ったアルの拳が一気に膨張し、顎の骨が圧迫感に耐え兼ねてへし折られ、上と下の犬歯が砕け散って宙を舞った。

さらに、口の中で伸びた指がガーフィールの喉の奥を突き、耐え難い嘔吐感――喉に指を突っ込んだときに起こる咽頭反射が起き、動きが止まった。――そこへ、狙いすまして振り切られる硬く重たい一撃がガーフィールの顎を斜めに撃ち抜く。

「か……ッ」

視力を奪われ、真っ暗な視界の中で天地がひっくり返る感覚。顎を叩かれて脳を揺らされて平衡感覚が消滅し、立っていられずに膝が落ちる。

あまりにも、一方的にいいようにされながら、ガーフィールは遅れて気付いた。

あのエッゾの決死の声は、ガーフィールがアルの攻撃を受け止めた場合、こうなることを予期した上での懸命な呼びかけだったのだと。

つまり、ここまで、アルの誘い水通りの――。

「破れかぶれが一番きついってのは嘘だよ。考えない奴はオレの敵じゃねぇ」

その挑発的な言葉への悔しさと屈辱が、ガーフィールの思考をなおも赤く赤く、真っ赤に染め上げ続けるのだった。

△▼△▼△▼△

止まらぬ連続攻撃は嵐か竜巻の如く、翻弄される人間など木の葉か枝切れのような勢いで吹き飛ばされる以外にない。

それほど一方的な攻防にも拘らず、結果は逆に一方的に結実する。

「ガーフィールくん!!」

その異常現象を目の当たりにしながら、エッゾはガーフィールの背中にそう叫んだ。

両腕を大きく振りかぶり、正面にいるアルを逃がすまいと突っ込むガーフィール。その視界が、進路に薄く広がった砂の膜に奪われたのがわかる。

魔法の反応はなかった。あれは単純な砂の目潰し――塔の外、砂海から上がってくる段階で手にしていたものをばら撒いた結果だ。

そして、その目潰しに続く攻撃を見て、エッゾは叫んでいた。

アルが魔法により、失った左腕を土で構成し、それで殴りかかったのだ。

その土の腕をガーフィールは口を大きく開けて噛み止めたが、それがよくない。そのエッゾの嫌な予感は的中し、土の腕はガーフィールの口の中で激しく爆ぜた。

「――ぼァがッッ!?」

膨張した腕に口の中を破壊され、ガーフィールが牙と血をまき散らす。

そこに加え、アルは右腕を今度は石の手甲で覆うと、それでのけぞったガーフィールの顎を斜めに、したたかに打ち抜いた。

ガーフィールが膝から崩れる。――あまりにも、無駄のない連続した行動。

「あんなもの、約束組手でも決まるものではないぞ……!」

決められた手順の演武ですら成立させられないだろう連撃、それで鮮やかにガーフィールの進撃を止めたアルに、エッゾの警戒は最高潮に高まり続ける。

しかし、ガーフィールの足が止まったならば、いっそ僥倖――、

「もはや、君を格下などと侮る余地はない! 左腕だけでなく、足の一本ぐらいは覚悟することだ! ――ウル・シーハ!!」

アルの間近で接近戦を演じるガーフィールを気遣い、これまで放てなかった強力な魔法で以て相手の戦闘力を奪う。

そのエッゾの詠唱に従い、放出されるマナが術式に介入されて世界を書き換える。そして放たれるのは、猛烈な『風』の奔流だ。

水を操るシーハ系の詠唱に偽装し、実際に発動する魔法を変更する偽装詠唱だ。

さらに、その偽装詠唱に無詠唱のゴーアを合わせ、前後から挟み撃ちする罠を張る。

同時に異なる魔法を発動するのは、思考する脳が二つ必要になると言われるほど高度な技術であり、これを実現できるものは世界広しと言えど五人といまい。

そのうちの一人であるロズワールと比べれば、同時発動に一瞬のズレがあることは否めないが、そこは偽装詠唱と無詠唱の合わせ技で補える範疇。

「これで――!」

決せずとも、致命的な一撃は入る。

そうしたエッゾの認識が、続くアルの動きにはっきりと塗り替えられる。

アルは正面から迫る不可視の風の暴威に躊躇なく背を向けると、背中に風を浴びながら背後の炎塊へ突っ込んだのだ。

無論、焼き尽くすつもりはない火力だが、まともに浴びれば大火傷は避けられない。そこにアルは無防備に――否、右腕の石の手甲を薄く引き伸ばした盾にして、炎塊を真っ向から突き破って突破した。

「うおおおおあああ!!」

それで炎の壁を突破できても、風に巻かれて吹き飛ばされることに変わりはない。

そのままアルは風に振り回され、壁に床に全身を打ち付けて動けなくなるはずだった。

しかし――、

「――馬鹿な」

唖然とした声で呟いて、エッゾはあまりに非現実的な光景に自分の目を疑った。

風に振り回され、アルは確かに為す術なく全身を塔内のあちこちに激突させた。――だが、アルはそのぶつかる箇所のことごとくに先んじて泥の緩衝材を作り、衝突の威力をほとんど殺して、風の手を逃れたのだ。

「――――」

事ここに至り、エッゾは荒唐無稽な推測を現実的に考慮せざるを得ない。

戦士としての技量で明らかにガーフィールに劣り、エッゾという王国最高の魔法使いの必中技さえも回避した裏には、何らかの反則技が隠れている。

おそらく、それは推測するに――、

「まさか、極々短期的な未来の観測か?」

その馬鹿げた可能性を真面目に検証しなければならない事実に、エッゾは心胆に寒気を覚えずにはおれなかった。

優れた戦士、武芸者の類には相手の発する気構えのようなものを読み取り、次に相手が何を仕掛けてくるのかを直感的に見抜くものがいるという話がある。

魔法使いの世界にも、魔法を発動する前の意図を込めて練り込んだマナの形質で、次の相手の一手を読み取ることは理論上は可能だ。

だがしかし、アルを取り巻く現象はそうした理屈だけでは説明がつかない。

直感や経験則なんて生易しいものではない。――全て、最適解なのだ。

僭越ながら、エッゾは教育者として他者に知識を教授する機会に恵まれている。そうした立場からの視点で、不自然な回答には不自然な過程が伴うものと熟知していた。

答えを導き出すための間を飛ばした回答、その正体は往々にして答えの盗み見だ。

すなわち、アルが起こしている現象にも同様の可能性が考えられる。

問題は――、

「ナツキ殿とベアトリス嬢を封じ込めた以外にも、未知の魔法を……」

ありとあらゆる文献を読み解き、現存する魔法の大半を知識として習得しているエッゾですら知らない魔法。記録に残りづらい禁術の類であれば、基本の六属性に収まらない術法が編み出されている可能性は十分にあった。

「――――」

あらゆる手を読まれると、そう考えたとき、エッゾはアルの脅威を最大限に見積もる。

もはや、未知の魔法を操る目的のわからない難敵――なんて程度の表現で構えてはいけない。その危険度は十二分に、大罪司教か『魔女』と同等と判断すべきだ。

それ故に――、

「――マナの余力があるうちに、勝負を決める!」

△▼△▼△▼△

その轟音が聞こえ始めたとき、ペトラは何かの間違いだと信じたかった。

だけど――、

「――っ」

きゅっと頬の内側を噛んで、痛みで自分を気付けする。

信じたい、という気持ちは危ない。人は簡単に、楽や安心する方に流れたがる。でも、それをして悪いことが起こらなければいいが、起こった場合はどうする。

一時の自分可愛さで、大事なものや人を危険に晒すというのか。

「――メィリィちゃん、こっちっ」

そう言って、ペトラは夕食の片付けを手伝ってくれていたメィリィを引き寄せる。

相変わらず、口出しするばかりで何も役立っていなかったメィリィだが、こうして傍にいてくれてよかった。おかげで手を差し伸べられる。

そうして、ペトラに腕を引かれたメィリィは、音の聞こえる天井の方を見やり、

「……ペトラちゃん、誰かと誰かが揉めてるわあ」

「――。誰と誰だか、わかる?」

「さあ? でもお、お兄さんと牙のお兄さんにケンカする理由なんてないんだしい、だったらセンセイさんか兜のおじさんのどっちかしかいないんじゃなあい?」

「アルさんと、エッゾさん……」

「もしセンセイさんだったらあ、フラムちゃんにも気を付けないとねえ」

緊張を高めるペトラと対照的に、メィリィの口調と表情は普段と変わらない。

修羅場慣れしているメィリィと、そうではないペトラとの差が如実に出ている。それでも、帝国の経験がある分、ペトラも取り乱さずに済んだのはラッキーだった。

帝国の出来事も、少しはペトラの人生に役立ってもらわないと困るのだ。

「どおする? わたしたちも上がる?」

「……ううん、やめよう。最初からその場にいたんならともかく、わたしたちがあとから混ざろうとしても足を引っ張っちゃうだけ」

「そおねえ、合格。小紅蠍ちゃんだけでも、見張りに出すって手もあるけどお……」

意地の悪い問題を出したメィリィの頭上、這い出す小紅蠍が鋏を鳴らしている。

好戦的で意欲が高いのはいいことだが、こんな小さな蠍が向かったところで何かの役に立つとは思えない。ペトラたちがいくのと大きく変わらないだろう。

ペトラは首を横に振り、小紅蠍のやる気には水を差しておく。

その上で――、

「――何があってもいいように、ちゃんと心の準備だけでもしておかなくちゃ」

メィリィの言を信じるなら、誰かが上の階――『死者の書』の書庫で争い合っている可能性が高い。その場には、食後の作業に向かったものたちがいたはずで、メィリィが挙げた二人も当然ながら含まれている。

そして――ナツキ・スバルも。

「スバル……っ」

祈るような心地で、ペトラはその場にいるだろう彼の安否を願った。

彼の傍にはベアトリスが、ガーフィールがいる。あの二人がついていれば、自分がついているよりずっと安全なはずと、そう願って。

そこへ――、

「――ペトラァ! メィリィッ!」

「――っ、ガーフさんっ!?」

不意に、怒号のようなガーフィールの声が聞こえて、ペトラは顔を跳ね上げさせた。

そのペトラの返事を聞きつけ、ガーフィールが猛然とした勢いで、ペトラたちのいる部屋へと飛び込んでくる。

知った顔の登場に喜びかけたペトラだが、そうも言っていられなかった。

「ひどいケガ……っ! どうしたのっ!? すぐに手当て……っ」

「今ァいひッ! ほれよりッ、おぇさまに陽魔法ッかけッとけッ! すぐくぅッ!」

「――っ!」

顔を血塗れにしたガーフィール、歯が何本も足りない彼の訴えに、ペトラは一瞬身を硬くしたあと、すぐさまガーフィールの体に陽魔法の強化をかける。

まだ未熟な陽魔法は、自分以外の体にかけるのが不安定な代物だが、ガーフィールの剣幕は有無を言わせぬものだった。ならば、ペトラはここで未熟を克服するしかない。

「ッらァ!」

「きゃあ!?」

そのペトラの陽魔法の効果を受けながら、次いでガーフィールは部屋の床に両手を強引に突き刺すと、石造りのそれを無理やり引き剥がした。

その意味のわからない行動に悲鳴を上げたメィリィが、そのまま剥がした床を持ち上げるガーフィールに、「ど、どうするのお?」と尋ねる。

それを受け、ガーフィールは部屋の入口に振り返ると、

「こォ、すんらろォ!」

そう不明瞭に吠えたかと思うと、ガーフィールが剥がした床で部屋の入口を塞ぐ。

それが、誰も入ってこられないようにするためのものかと、ペトラは何があったのか彼の背中に問い質したいと思ったが、すぐにそれどころではなくなった。

ガーフィールが入口を塞いだ理由が、扉を塞いだ床の隙間から見えたからだ。

「――水う!?」

再び、メィリィが悲鳴を上げ、頭の上の小紅蠍も鋏と尾を天に伸ばして驚愕する。

ペトラも丸い目を見開く視界、ガーフィールが塞いだ入口の向こう、塔の四層の通路をものすごい勢いで溢れ返る水の濁流の存在が音と圧迫感から伝わってきた。

それがどうして、何のために、誰が作り出したものなのか。

「先を読むってんらら……読んれもどォにもあらへェ攻撃ェどォら……ッ!」

両足を床に突っ張り、猛烈な水の勢いに耐え続けるガーフィールが頬を歪めている。

その怒りを交えた凶悪で好戦的な笑みに、ペトラはゾッとするものを覚えた。いったいガーフィールは、この顔で誰と戦っているというのか。

そして、どうして一人でペトラとメィリィのところへ駆け付けたのか。

「――頑張ってっ!」

その、胸に芽生えた多くの疑問を噛みしめて、ガーフィールの背中を支える。

「――ッ」

ペトラの手に背中を支えられ、ガーフィールの全身に力が入った。

無論、ペトラの細腕でガーフィールの力の足しになるわけもない。陽魔法に集中した方がずっと力になっただろう。

だけどこのとき、ペトラは全部の心配と信頼をガーフィールの背中に預けた。

そしてそれに、ガーフィールも全力で応えようとしてくれたと思う。

やがて、通路を丸洗いするような膨大な水の濁流の音が緩やかになり、ゆっくりとそれが雨上がりの雨どいから水が滴るようなささやかなものに変わる。

踏ん張っていたガーフィールも足から力を抜いて、入口を塞いでいた床だった石塊を横にどけて、大きく息を吐いた。

それから、彼は背中に触れているペトラに振り返ろうとして――、

「ガーフィールくん! きてくれ! 上だ! 『タイゲタ』ではない方の!」

これも魔法の応用だろうか、距離感がわからなくなるぐらい大きなエッゾの声がして、呼びつけられたガーフィールが弾かれたように顔を上げる。

いつもの鋭い牙が折れてしまっている彼は、一瞬、ペトラたちに状況の説明をすべきだと悩みつつも、

「メィリィといォ……ッ、あろェ、説明ッふる……ッ!」

「――。アルさんなの?」

「……そォら」

言葉少なに、誰が始めたのかだけ共有し、ガーフィールがエッゾと合流するために急ぎ足で濡れた通路へ飛び出していく。

その背中が消えるのを見届け、ペトラは震える息を吐いて、両手で顔を覆った。

「泣くな、泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな……っ」

じわじわと込み上げてくる嫌なものを追い払いたくて、ペトラは必死にそう紡ぐ。

それでも、なおも、持ち上がってくるものは止められなくて。

「ペトラちゃん」

そっと、顔を覆ったペトラの頭に、ポンと無遠慮にメィリィの手が置かれた。

それからぐりぐりと髪の毛を乱され、ペトラは嫌がらせに思えるそれが、メィリィが人の頭を撫でるのが下手くそなだけだとあとで気付いた。

そうして、ペトラを下手くそに慰めながら、メィリィは小さく吐息して、

「わたしのせいかもねえ。……みんながみんな、お兄さんやお姉さんの優しさで助けられてあげられたりしないのよお」

「そんな、こと……」

ない、と言い切ってあげたかったのに、ペトラは自分の口から嗚咽よりも先に、その言葉を言い切れる自信がどうしても持てなかった。

△▼△▼△▼△

通路一杯に満たされた濁流に襲われたとき、挑発や負け惜しみとは関係なく、本気で相手に最適解を踏まれたと、アルデバランは無力感に襲われた。

これだけの反則技、これだけのアドバンテージを持たされながら、それでも熟達されたものたちはこれに追い縋ってくる。

その強さたるや、言い訳抜きに感服せざるを得ない。

「――おぼぁっ」

逃げ場のない水の奔流は、踏ん張ることもしがみつくことも許さず、アルデバランの体を一気に押し流し、容赦なく体力と体温を奪い尽くしていく。

もがき、水に抗おうとすればするほどに体力は持っていかれ、激しく消耗する。体中の穴という穴から流れ込んでくる水に全身を丸洗いされ、為す術もない。

ある程度の指向性のある風と違い、水の流れは土の壁や石積みでは対応不可能だ。

故に、アルデバランにできたことは水に流され、水に揉まれ、水に殺されかけるだけ。実際、いったい、どれだけの量の水を飲んだかわかったものではなかった。

ただ――、

「う、ぶ、あば……っ」

ごぼごぼと、飲んでしまった水を吐きながら、アルデバランは荒い息をつく。

ぐったりと体に力は入らず、片腕を支えに体を起こし、水風船みたいにパンパンに水を詰められた全身から、その水を抜くのに精一杯だった。

鼻から口から、目から耳からも水が流れ出しているような感覚。下半身の感覚がもはやわからず、失禁していないか怖くて確かめられない。

そうして、目一杯、水を吐いて吐いて、吐き出した先に――、

「――さて、抵抗する力はもう残されていないはずだが、弁明を聞こう」

ゆっくりと階段を踏みしめ、上がってきた魔法使いと戦士がアルデバランを見下ろす。

アルデバランが為す術なく、全身を打ち付けながら押し流されて上がった階段、それを堂々と踏みしめてやってきた二人は、疲労しながらも戦意は十分。

一方、アルデバランの方は濡れ鼠のボロ雑巾で、満身創痍もいいところだった。

「えふっ」

ぐったりと、アルデバランは体を支える腕から力を抜いて、仰向けに倒れる。

太陽が沈み、夜の帳が落ち始めている空には、ぽつぽつと星の明かりが見えた。その、星の瞬きに見下されている気がして、アルは心底空が憎々しい。

星が、嫌いだ。

高みから地上を見下ろして、ただただ勝手に輝いている星が、嫌いだ。

「大将と、ベアトリスをもろせ……ッ」

仰向けに倒れているアルデバランに、牙の足りないガーフィールが言い放つ。

口の中をメチャクチャにされた恨み節よりも、ナツキ・スバルとベアトリスを優先する姿勢は健気で応援したくなるが、生憎とアルデバランとは意見が真反対だ。

本当に悲しい。別に、アルデバランはガーフィールのことが嫌いではないのだ。

誰も、嫌いではない。

今争ったガーフィールも、エッゾも、この塔にいるペトラとメィリィ、フラムも、これから先、争うことになるだろうものたちのことも、嫌いではない。

嫌いなのは、自分とナツキ・スバルだけだ。

「オイ、てめへ、聞いへんろァッ!」

「落ち着きたまえ、ガーフィールくん。アル殿も、ここでの沈黙は挑発とみなされても仕方がないぞ。それも、無用な挑発だ。すでにわかっているだろう」

「――――」

「あなたには、どうやら未知の魔法……禁術の類を扱う能があるようだが、それも万能というわけではない。私か、私でない誰かかもしれないが、対策はされる。あなたがどれほど戦巧者でも、全ての戦いに勝つことはできない」

感情的なガーフィールを押しとどめ、あくまで理性的にエッゾが話す。

そのエッゾの言葉には、こうまでやりたい放題されたアルデバランとしては説得力十分と言える。エッゾはその確かな実力と観察力で、アルデバランの権能を攻略した。

今この瞬間、指一本動かせないのだから、言い訳も立たない。

ただ――、

「――エッゾ殿、あんたの言う通りですよ。オレは、全部の戦いには勝てない」

寝転がった態勢のまま、アルデバランはエッゾの言葉を肯定する。

その言葉に、ガーフィールとエッゾがそれぞれ異なる反応を示した。ガーフィールは苛立ちを、エッゾはますますの警戒を、だ。

こう言っても気を抜いてはくれないのだから、嫌になる。

嫌になるが、いい。もう彼女はどこにもいないのだから。

――七百四十八。

それだけの試行回数を、特に何もできることなく無力感を味わいながら漂った。

試すことができたのは、どこで濁流に呑まれるかだけ。水に押し流されたあとは、ちっぽけなアルデバランにできることなんて何もなかった。

その代わりに、引き当てるまで延々、延々と、流され続けた。

そして、ようやく、引き当てた。

「全部の戦いには勝てない。――だから、最後の一回だけ、勝てばいい」

「何を……」

「オレは、ここにきたかったんだ。ここが、唯一、オレの勝利条件だった」

疑問符を浮かべたエッゾとガーフィールに構わず、アルデバランはそう続ける。

受け答えをする余裕はない。今だって、意識を飛ばさないように思いつくことをバシバシと並べ立てているだけだ。

勝ち誇っているわけでも、勝利宣言で嫌がらせしたいわけでもない。

ただ、わかってもらいたい。――アルデバランが、どれだけ星屑を積み上げたのか、その一端を。

「――――」

困惑の気配を放っている二人に、アルデバランは床に倒れたまま、何とか腕を持ち上げると、それである方向を指差した。

そうしてアルデバランが指差した先、そこに落ちているものに気付いて、エッゾとガーフィールが喉を詰まらせたのがわかる。

二人も、ここにそれがあることの意味はわからなくても、違和感はわかったはずだ。

それは――、

「『死者の書』、らと……ッ」

「誰のものだ!?」

水浸しになり、それでも本の体裁を守っている一冊の『死者の書』。

ふやけたページを見せつけながら、開かれた状態で床に落ちているそれを目にし、二人は驚愕に目を見張り、声を震わせる。

まだ理解は追いついていない。正直、答えを聞いても意味がわからないだろう。

だが、最初から、アルデバランはその本を探し、利用するために塔へきた。

それしか、ナツキ・スバルを取り除くための準備は整わないとわかっていたから。

その『死者の書』のタイトル、そこに書かれているのは――、

「――オレの名前だよ」

「――――」

答え合わせをされて、瞬間的な空白がエッゾとガーフィールを支配した。

それは明確な隙だったが、生憎とその隙を突くような体力がアルデバランにはない。千載一遇の好機は、アルデバランに掴めるものではなかった。

だから、その千載一遇を利用するのは、『アルデバラン』に任せる。

床に落ちている『死者の書』、そのずぶ濡れのページを見下ろしていた眼が、ゆっくりと持ち上がって正面を向く。

そして、青白い鱗を纏った世界で最も強靭とされる生物が両翼を広げ、言った。

『――星が悪かったんだよ』

次の瞬間、立ち尽くす魔法使いと戦士目掛けて、『神龍』ボルカニカ――否、『神龍』アルデバランの息吹が、容赦なく放たれていた。