軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九章3  『それぞれに貴女を悼む』

「そんなわけで、我が妹は皇帝閣下くんの奥さんになるわけだ。必然、僕たち兄妹が叶えようと思っていた目標にも、ぐぐぐっと近付いてしまったわけだね!」

「目標……それハ、以前あなたが語っていタ、復讐……ですカ?」

「そう! 世界への復讐さ!」

手を叩いて、そう目を輝かせた金髪の優男――フロップ・オコーネルの答えに、向かい合っているシュドラクの女、タリッタがわずかに目を見開いた。

答えというより、答えるフロップの勢いに驚いたと思しき彼女だが、すぐにその唇を綻ばせる。復讐と、なかなか物騒な響きを聞いてああして笑えるのは、さすがヴォラキア帝国の誇る『シュドラクの民』の女傑といったところだろうか。

その女傑の空気を自分色に染めるフロップも、なかなかどうしてやるものだ。

眼下の二人、そのやり取りを要塞の渡り廊下から眺めながら、手すりに頬杖をつくラムはフロップとタリッタをそれぞれそう評価していた。

偶然通りがかっただけの場面だが、面白い巡り合わせに出くわしたものだと。

――帝都決戦での合流以来、ラムはシュドラクに対して好感を抱いている。

概ね、ヴォラキア帝国でラムが別れを惜しいと思えるのは彼女たちと、ロズワールを挟んで難しい立ち位置にいるセリーナぐらいのものだ。

あとは、レムの友人であるカチュアにも感謝しているが――、

「――ラム、こんなところで何をしていル?」

「あら、ミゼルダ。ちょうど、あなたの妹の恋路を高みの見物していたところよ」

「ほウ、いい趣味ダ。どレ」

そう言って、手すりにもたれるラムの隣に並んだのは目力の強い美女、ミゼルダだ。

タリッタの実の姉でもある彼女は、眼下、フロップと語らう妹の様子に目を細める。その横顔にわずかな憂慮が垣間見え、ラムもまた薄紅の瞳を細めた。

「あなたらしくもなく、妹が心配?」

「らしくないとは言ってくれル。そもそモ、私とお前はどれほどの付き合いダ? ほんの数日だゾ」

「時間が必要? ラムやあなたに?」

「ハハハ、違いなイ」

口の端を緩めたラムの問いに、ミゼルダも口を開けて豪快に笑った。笑い、それからミゼルダはゆるゆると首を横に振ると、

「心配という言葉は弱く感じル。だかラ、案じていると言おウ」

「そう。でも当然ね。あなたはタリッタの姉だもの。ラムも、レムのことがいつだって心配だわ。あなた風に言うなら、いつだってレムを案じているわ」

「だガ、スバルは論ずるまでもなくいい男ダ。目つきは残念だガ」

「――。そこについては、ラムとあなたの見解を合わせるのに時間がいりそうね」

わずかに声の調子を落としたラムに、それを聞いたミゼルダがまた笑う。その笑みを横目に、ラムは「それなら」と眼下に再び視線を落とし、

「あなたは、あの優男の人間性を疑っていると?」

「いいヤ、フロップもいい男ダ。少々、目鼻立ちが柔らかすぎるが眼福には違いなイ。タリッタにモ、それはわかっているはずダ」

人間性と容姿の良し悪しが混在した答えで、微妙に本質を見失いかねない言い回しだった。ともあれ、ラムにはミゼルダの悩みがわかるような気がする。

そしてそれは、部外者であるラムが口出しできることでも、ましてや血を分けた姉であっても当事者に指図することができるものでもないのだ。

なかなかどうして、姉の心妹知らずと言わんばかりの状況で。

「ますます、あなたのことが気に入ったわ、ミゼルダ」

「そうカ。私もお前が男であれバ、私の夫にしていただろウ」

お互い、妹の恋路にあれこれと言いたいことがある姉同士。

そうして物理的にも精神的にも隣り合いながら、ラムとミゼルダの見下ろす中、フロップとタリッタのやり取りは続いている。

「いいかい、タリッタ嬢! 前も言ったかもしれないけれど、だとしたらあえてまた言わせてもらうよ!」

フロップは伸ばした手を空に向けると、彼方にある白い雲を、あるいは陽光を降り注がせる太陽を掴もうとするみたいに掌を開閉し、

「自分の掲げる目標や夢、それを掴み取ろうと大口を叩くなら、巡ってきた機会には思い切って飛びつかなきゃいけない。今回、思いがけず芽生えた皇帝閣下くんとの縁は、まさに人生を懸けるに値する好機というものだったのさ!」

「それデ、皇帝閣下とミディアムの婚姻ですカ……ちゃんト、ミディアムは納得ヲ?」

「もちろん! ……と言いたいところだけど、さすがに結婚となるとなかなか紛糾したとも! 僕と妹史上、最大の言い合いだったと言えるだろう! だけど」

「だけド?」

「世界への復讐を優先して、身近な家族の幸せを蔑ろにしたら本末転倒だ。そういう意味で、僕はミディアムが本気で拒否する提案はしていないつもりだよ」

「――――」

柔らかく目尻を下げるフロップに、タリッタが切れ長な瞳を伏せる。

話題に挙がったヴィンセント・ヴォラキアとミディアム・オコーネルの婚姻、それをフロップが提案し、皇帝が承諾したという話は関係者の間では周知の事実だ。

それどころか、噂は市井の人々の耳にもかなりの範囲で知れ渡っている。

思うに、ヴィンセントが皇妃を迎えたという話を広めたのは、ベルステツやセリーナあたりの戦略だろう。『大災』を退けた戦勝の余韻はあるものの、現状、帝国全土から上がってくる報告は凶事が多い。だが、人の心には希望が必要だ。

そのための祝い事――それも、帝国民にあまねく関係する祝い事が理想的だった。

「食えない男で、食えない国」

それを提案した際、フロップがどこまで考えていたかラムにはわからない。

が、押し込むべき場面で押し込む決断をした以上、そうした打算はあったはずだ。そしてそれは承諾したヴィンセントにも、事後承諾した重鎮たちにもあった。

せめてもの救いはフロップの言う通り、政略の駒にされたミディアムが、ちゃんとヴィンセントを憎からず思っていることだろう。

それも含めて、この縁談を提案したフロップは抜け目のないものだ。――偽悪を薬のように塗り込んで、自分を騙し騙しやっているどこかの内政官に見習わせたい。

と、そのやり取りを傍観しながら、ラムはふと隣の横顔をちらりと見て、

「そう言えば、あなたはヴィンセント皇帝に思うところはないの?」

「愚問だゾ、ラム。アベルの顔の良さは言うまでもなイ。だガ、『シュドラクの民』の掟として婿は森へ連れ帰るのが習わしダ。アベルを連れ帰ることができない以上、あの男は私にとって眼福である以上の存在ではなイ」

「そう……」

「いヤ、違ったナ。――アベルは私にとっテ、眼福な戦友ダ」

「そう」

腕を組み、そう断言するミゼルダにラムは静かに頷いた。

それで疑問は晴れたと、野次馬二人の意識は下の二人の会話に改めて集中する。

もどかしさのある両者、ミディアムに無理強いはしていないと告げたフロップに、タリッタは目を伏せたまま、「フロップはすごいでス」とこぼし、

「自分の目標モ、周りの人間のことモ、ちゃんと考えて行動に移せル。決断が必要な場面デ、それを躊躇うこともなイ。……本当に、立派でス」

「――? それはなんというか、とてもおかしな話だね、タリッタ嬢」

「エ……私、おかしなことを言いましたカ?」

「うん、言ったね。だって、僕がこんな風に勇気を振り絞って決断できたのも、元はと言えばタリッタ嬢、君を見習ったからなんだから!」

「――――」

ビシッと、自分に指を突き付けてくるフロップにタリッタが瞠目する。それがどれほどの驚きだったのか、タリッタの思考は停止してしまったらしい。

その証拠に、彼女は顔の前に突き付けられたフロップの指を取ると、反射的にひねり上げて、彼を壁に押し付けてしまった。

「いたたたたたたたた!!」

「ア、あァ、ごめんなさイ! あまりに驚いてしまっテ……つい反射的ニ!」

「い、いやいやいや、僕の方こそ不用意なことをしてすまなかった。さすが、シュドラクの族長は鍛え方が違うね。僕も、君の心構え以外のところも見習わないとだ」

「心構エ……」

「そう、心構えだよ。僕が君に一番感心させられたのは、まさにそこさ」

ひねられた腕をぶんぶん振りながら、フロップがタリッタに笑いかける。しかし、微笑まれるタリッタは心当たりのない顔で、ひたすら困惑していた。

そんなタリッタの反応を、フロップは愛おしむような苦笑で見つめ、

「ミゼルダ嬢の足に不幸があったとき、君は思いがけず、族長を引き継がなければいけなくなった。悩んだだろう。苦しんだと思う! でも、君は決断し、力強く請け負った。そんな君の姿に、僕は重要な決断から逃げない尊さを教わったんだ」

「フロップ……」

「だから、君に感謝を伝えたかった。それがこうして君を呼び出した二つの理由の一個だったのさ! ――そして、もう一個、理由がある」

左手の指を一本立て、そのあとで右手の指を一本立てたフロップ。彼の言葉にタリッタが目を見張り、「もう一ツ……」とたどたどしく呟く。

そのタリッタの呟きを受け、フロップは指を立てた両手を芝居がかった動きで下ろし、

「今日という日は二度とこない。明日という日は、必ずしも訪れるものではない。この戦争で、僕はわかっていたつもりだったそれを改めて認識した。この瞳に焔を宿してくれた優しい誰かに、この瞬間を作ってくれた優しい誰かに感謝する。そして――」

「――――」

「タリッタ嬢、僕は君の在り方や考え方にとても好感を持っている。もっと噛み砕いて言えば、ぜひ君と一緒にいたい! なので、タリッタ・オコーネルになってみないかい?」

「――ァ」

「自分の欲しいものを手に入れるためなら、機会を手放してはいけない。もれなく、僕が君から教わり、学んだことの実践だとも」

微笑み、片目をつむったフロップの、それは紛う事なき求婚だった。

タリッタからすれば、まさしく空が落ちてくるような衝撃だっただろう。が、一方で地上に花が咲き乱れるほどの喜びでもあったはずだ。

同じ女として、彼女の見舞われた祝福に拍手を贈りたい気持ちがラムにもある。

しかし――、

「――ですガ、私ハ」

そうこぼし、懊悩するタリッタの姿に、ラムは薄紅の瞳を細めた。

タリッタの反応、その根っこにあるものが何なのか、それは奇しくも直前のミゼルダとのやり取りの中で明らかになっている。

シュドラクの習わしとして、婿は森の集落へ連れ帰らなければならない。

だが、皇妃となるミディアムの兄であるフロップには、帝都で果たさなければならない役目や仕事がこれから大いに増えることだろう。それらを全部手放し、ミディアムを帝都に置いていく――というのは、それこそ無責任な話だ。

タリッタも、それがわかるから躊躇が喜びを押し潰してしまった。

それこそ、フロップに勇気を与えたというシュドラクの族長の継承、二人の心を結び付ける切っ掛けになったそれが、二人が結ばれない障害になってしまう。

その不条理を、タリッタが強い強い責任感で受け入れようと――そのときだ。

「悩むナ、タリッタ!」

「――。ア、姉上?」

不意打ちのように発された声に、凝然とタリッタが目を見張る。

今の今まで、自分たちの頭上の渡り廊下にラムとミゼルダがいることに気付いていなかった彼女は、手すりを強く握りしめるミゼルダと視線を交わす。

その妹の様子に、ミゼルダは小さく息を吐くと、その右足――膝から下が木製の義足になった足を振り上げ、手すりの上にドンと乗せた。

そして――、

「族長の務めと男を天秤にかケ、悩むようなものに族長が務まるものカ! これまでの戦いで私も片足の戦い方を覚えタ! お前がその体たらくなラ、族長などやめてしまエ!」

「ナ……! マ、待ってくださイ、姉上! それハ……」

「いいヤ、待たン! お前のような情けない顔の妹なド、シュドラクには不要ダ!」

そう強く言い放つと、ミゼルダは手すりに乗せた足を下ろし、背を向ける。そのままのしのしと、左右で異なる足音を立てながらミゼルダは渡り廊下を去る。

そうするミゼルダの背中に、ラムは嘆息した。

「それが、あなたの姉としての背中の押し方?」

「言わなければわからぬ女ではないだろウ。ラム、お前モ、今に他人事ではなくなるゾ」

「おぞましい」

聞きたくもない話をされ、ラムは頬を歪めてそう答える。

そうして、居残るのも無粋と、ラムもミゼルダの背中を追おうとしたところへ、

「ミゼルダ嬢! 深く感謝するよ! 何か僕にできることは?」

棒立ちのタリッタに代わり、フロップが大きな決断をしたミゼルダの背中に問う。その問いかけに、ミゼルダは振り向かず、足も止めずに手を振ると、

「決まっていル。強くたくましク、顔のいい男をシュドラクの集落への使者に立てロ。それデ、帝都と我らの盟約が保たれるだろウ」

「――。はは! 承知したよ! ミゼルダ嬢! いいや、義姉上くん!」

ミゼルダとフロップの間で、当事者の頭を飛び越えて一個の決着がついた。

そして、頭を飛び越えられた側の決着も、すぐにつくのがラムにはわかった。

「――ッ」

――地面を蹴り、フロップへ駆け寄っていくタリッタの足音が、ミゼルダの背中を追うラムの耳にもしっかりと届いていたから。

「族長に復帰するなんて、一存で決めてもいいの?」

「フ、納得いかないものがいるなラ、私から奪えばいいだけの話ダ。だガ……」

そう言葉を切ったミゼルダ、彼女がその目力の強い眼差しを正面に向ける。その視線を辿って、ラムも彼女が言葉を区切った理由を察した。

渡り廊下の突き当たり、ひらひらと手を振るのはシュドラクの女たち――クーナとホーリィの二人だ。彼女たちはミゼルダを迎え、顎で渡り廊下の下をしゃくると、

「どーダ? タリッタの奴は素直になったのかヨ」

「うム。我が妹ながら手がかかル」

「でもでモー、それは仕方ないノー。だっテ、族長の妹なノー」

「イチオー、全員で話すまデ、族長はタリッタ……アー、別に構わねーカ。アタイモ、ミゼルダが族長に戻って異論ねーヨ。他の連中モ、たぶんナ」

それぞれ、わかっていた笑みを返したクーナとホーリィに、ラムはタリッタがどれほど同族を愛し、愛されていたのかの一端を知る。

その理解に、ラムは己の肘を抱くと、

「たまたまとはいえ、ラムも野次馬に励んだ甲斐があったわ」

「それだけ聞くととっても最悪なノー」

「族長がいなキャ、絵面も最悪だっただろーヨ。とんでもねー話ダ」

ラムの一言に、ホーリィとクーナから波状攻撃。それに肩をすくめるラムの傍ら、ミゼルダが微かに、その目力を弱め、優しい目で空を仰ぐ。

憎らしいぐらい、晴天である空を眺めながら、

「魂の姉妹……マリウリを失ってかラ、タリッタは塞いでいタ。それがどれほどのことかハ、お前たちの方がわかるだろウ」

「……なノー」

「だろーナ」

「それが変わる時がきタ。――私はそれヲ、タリッタが勝ち取った祝福と思おウ」

ラムの知らない単語が出され、シュドラクの三人だけがわかり合う。

おそらくは、血の繋がりとは無縁の関係性で、クーナとホーリィの二人の関係がそれに該当すると、そう察せられたぐらいか。この二人の強い結び付きを思えば、タリッタが失ったとされる絆がどれほど大きなものかは想像に難くない。

そして、なくしたものが決して埋まることがないのは、ラムも強く知るところだ。

「――――」

帝国は勝利した。だが、それと引き換えに失われたものはあまりに多い。ラムの身近なところでも、レムとエミリア、それとスバルの受けた傷は大きなものだ。

ただ傍らに寄り添い、声をかけ続けることがそうした傷の特効薬にもなりえない。それはひどく残酷で、抗い難い理不尽な原則――。

「――父祖の誓イ、祖霊の誇りに感謝ヲ」

「「――感謝ヲ」」

一足先に、それに抗う唯一の方法を見出したタリッタを、ミゼルダが、クーナがホーリィが『シュドラクの民』のやり方で祝福する。

彼女たちのやり方に倣い、ラムも瞼を閉じて、その祈りの一端に参加した。

そして、思う。

――失われたものを悼む、全てのものの心が救われる術がないことの不条理を。

「感謝を」

シュドラクたちとは違う、自分の中の誓いと誇りにそう告げながら。

△▼△▼△▼△

カラカラと、音を立てて車椅子の車輪が回る。

すっかり聞き慣れた車輪の音だが、所々つっかえる音が混じるのは、あの騒乱の名残りである崩れた瓦礫の破片や、通路のひび割れなどが直し切れていないから。

そうした場所をカチュア一人でいかせるのは不安だと、レムは彼女の車椅子を後ろから押す役目を買って出ている。

「それで、皇帝閣下をお守りしたのがよっぽど評価されたみたい。兄さんは独立した『将』として、皇帝閣下をお傍でお守りする役目を与えられるんですって」

「そうなんですか。あのお兄さんが……」

「あんた、何か言いたげね。……ううん、言わなくていい。あんたが思ってること、大体私もおんなじこと思ってるし」

振り向かず、自分の肩口にあるお下げ髪を掴み、カチュアがそう声を震わせる。

多くは語らなかったレムだが、おそらくカチュアの想像は当たっていると思う。なので彼女のお願いに従い、ジャマルへの所感は胸に留め置くことにした。

なんであれ、あれだけ不安がりながらも送り出した血の繋がった兄なのだ。彼が無事に戻ったことは、素直でないカチュアも安堵したことだろう。

そう、無事に戻ってくれることが、何よりだ。

「プリシラさん……」

ふと、気を抜くと胸を締め付ける感傷に襲われ、レムはそう口にしてしまう。

薄青の瞳を伏せるレムの脳裏、そこに浮かび上がるのは鮮烈な赤を纏った焔のような美しい女性――ほんの短い時間だけ、レムを傍らに置いた『太陽姫』だ。

その揺るがない在り方で、纏った熱を伝搬させ、何もかもを焼き尽くしていくようなプリシラは、余人を寄せ付けない彼女らしい潔さで自らに幕を引いてしまった。

最期と思わなかった最後の会話で、彼女と交わした言葉は一つも忘れられない。

ただ――、

「金剛石の芯と、あなたはそう言ってくれましたけど、わかりません」

数日ぶりに顔を合わせ、そしてそれが最後となったやり取りの最中、プリシラは今のレムの在り方を称賛してくれた。レムも、あのときはそれを堂々と受け取れたのだ。

でも、わからなくなってしまった。プリシラがいなくなってしまったから。

「ねえ、レム、あんた、私のところにいていいの?」

「え?」

不意に、押していた車椅子の動きを阻害され、レムが驚く。見れば、カチュアが車輪をぎゅっと押さえて、無理やりその動きを止めていた。

そんなことをすれば、カチュアの細い手ではさぞかし痛いはずなのに。

「カチュ――」

「いいの。今、私の手のことなんかどうでも。それよりも、あんたのことよ」

「私の……」

「こうやって私のとこにいなくても、あんたにはお姉さんとか、前のあんたのことを知ってる人たちとか、あの騒がしい男だって……」

「――いけませんよ」

じっとレムを見つめ、少しずつ早口になっていたカチュアが「むぐ」と黙る。彼女の言葉を遮ったレムは、その思いやりをありがたく思いながら首を横に振った。

ラムも、フレデリカやペトラの存在も、確かにレムの寄る辺にはなるだろう。でも、彼女たちでも、プリシラのいなくなった穴は埋められない。レムがプリシラと過ごした日々や時間を、彼女たちは知らないのだから。

そして、最後にカチュアが挙げようとした人物、スバルは――、

「今のあの人に、私は寄りかかりたくありません」

「……当てになんないってこと?」

「違いますよ。……当てにしたくない。嫌なんです。あの人の、たくさんいるそういう対象の一人に収まるのが」

「――――」

カチュアの問いに被せるように言って、レムは自分でも少し驚いた。カチュアも、レムの答えを聞いて目を丸くしているが、それはそうだろう。

レム自身、そう口にしてみるまで、自分の心模様がよくわからないでいたのに。

口に出してみたら、そういうことかと納得できてしまって。

「なんだか、カチュアさんには私のダメなところばかり見られていますね」

「そればっかりとは思わないし、そもそも恥って意味なら私も相当だと思うけど……っていうか、そういうこと考えさせないで思い出させないで! ただ生きてるだけで人にかけてる迷惑のこと考えると、死にたく……苦しくなるから!」

レムの心情を慮って、「死にたくなる」とは言わないでくれたのだろう。

微妙に行き届いていないカチュアの思いやりに、レムはわずかに口の端を緩める。過剰に気遣うでも寄り添うでもなく、こう言ってくれるカチュアの存在に助けられる。

それこそ、彼女は自分のところにいていいのかなんて言ったが。

「カチュアさんの傍は落ち着きます。カチュアさんはすぐに、声をきゃあきゃあうるさくして、私の注意を引いてくれますから」

「それ褒めてるの? 褒めてるつもりなの? だとしたら、褒める才能ないわよ?」

素直な感謝を表したつもりが、カチュアにじと目で睨まれ、レムは心外だった。と、そんな調子でレムとカチュアが要塞の中を歩いていたところだ。

「おーや」という誰かの声が聞こえ、レムは顔を上げる。すると、レムたちに手を振りながら、へらへらと笑っている灰色の髪の青年の姿があった。

その姿にレムは心当たりがなかったが、カチュアは「あ」と声を上げ、

「知ってる方ですか?」

「知ってるってほどじゃないけど、サボり魔よ」

「サボり魔?」

「ちょーっとちょっと、そんな覚えられ方はぼかぁ心外ですよ。まぁ、あの時点では当たらずとも遠からずってところでしたけどね?」

慌てて、というほどでもなく、のんびりとカチュアの認識を訂正にかかる青年。やってくる彼をやや警戒しつつ、レムは車椅子の取っ手を握る手に力を込める。

そのレムの様子に、青年は両手を上げて足を止めた。

「ご心配なさらずに。ぼかぁ、誰かに危害を加えられるような人間じゃーないです。唯一の取り得も失って、すごすごと退散する哀れな人間でーすよ」

「すごすごと退散って……どっかいくの? またサボり? みんな大変で、あれこれ支え合ってるこんなときに?」

「だーから、違いますって。状況が状況なのは、同意見ですけーどね」

苦笑し、青年は背後――まだまだ復興が始まったばかりの城塞都市を眺めて、その細い腕を大きく左右に広げると、

「今まで、ぼかぁ目線が高すぎました。これからは地べたを足で踏みしめて、しーっかりと目の前のものを見て生きるつもりですよ」

「……わかんない。何の意思表明?」

「敬意を表してるんです、お嬢さん。会える確証はありませんでしたけーど、もしかしたら星の最後の粋な計らいかも」

要領を得ない青年の言い回しに、カチュアは怪訝な表情を崩さない。一方、レムの警戒は解けていないが、この青年がカチュアに悪意や敵意がないのは確かなようだ。

それどころか、彼自身が口にした通り、カチュアへの敬意のようなものも感じられる。

サボり魔と、カチュアが彼を呼んだことと関わっているのか不明だが。

「お嬢さん、あなたはヴォラキア帝国を救われた。あの昇る陽光の眩しさも、ここから見える人の営みも、あなたが『天命』からもぎ取ったものだ」

「……バカにしてんの?」

「いやいやいーや、本当にちっとも全く違います。ぼかぁ、『天命』に従ってあれこれ動いていましたが、皇帝閣下やチシャ一将に驚かされたことはちっとも堪えません。だーからあなただけだ」

「本当に意味がわかんない。なんか、サボってるのを注意したのを根に持たれてるようにしか感じないんだけど。でも」

と、カチュアの答えに苦笑する青年に対し、彼女はそこで一度言葉を区切った。それから彼女は少し口をもごもごさせ、それから後ろのレムを指差すと、

「私があそこにいたのは、このレムに付き合わされたから。あと、そもそもこの子と会ったのも宰相様のお屋敷で、それはトッドが……あ~、とにかく!」

ビシッと、レムを指差していた指を、今度は青年に突き付けるカチュア。

そして――、

「理屈も理由もわかんない褒められ方しても、私はつけ上がらない。大体、足の悪い女にすごいとか特別とか胡散臭いのよ! 私が一人で何かできるか! 全部、人のおかげよ!」

「か、カチュアさん、それは言いすぎでは……」

「はあ? 今だってあんたに車椅子押してもらってるけど? 一回、車輪が床の穴に埋まってみなさい。私、そこで骨になるわよ!」

堂々と、声を大にするカチュアにレムは圧倒されてしまう。

そうした、周囲に対する卑屈さと信頼の絶妙さがカチュアの考え方のいいところだとは認識しつつも――、

「ふ、はは、はーはははは!」

そうレムが考えたところで、青年が腹を抱えて大笑いをし始めた。その反応にカチュアは肩を跳ねさせ、「な、なに?」と慌てふためいたが、レムには青年が笑ってしまった理由が何となくわかるような気がした。

そのレムの何となくの理解と、カチュアの無理解に挟まれながら、青年は眦に浮かんだ涙を指ですくうと、

「はーぁ、話せてよかった。そういうものが『天命』を退けたなんて言われたら、ぼかぁもう何も言えやしませんよ」

「勝手に満足されても腑に落ちないんだけど……」

「すみませんが、そーれはあなたの周りの誰かに何とかしてもらってください。――ぼかぁ、これでサヨナラです」

「どちらへ?」

そう言って、足元の小さな荷物を担いだ青年にレムは思わず尋ねる。

名前も知らない相手、引き止める理由もない青年、それでもカチュアを評価してくれた彼に不幸になってほしいとは思わないから。

そのレムの質問に、青年は要塞が背負っているギルドレイ山の方を指差し、

「とりあえず、帝国の外に。それでーは、お元気で」

それだけ答え、背中を向けて歩いていく青年を呼び止める言葉を、レムも、そしてカチュアも持たない。ただ、晴れ晴れしい様子の彼の道行きに、幸あれと思うばかりだ。

彼がああして背筋を正して歩いていけるのは、レムやカチュアが、それ以外の大勢の人たちが、何よりも、彼女がその眩い生き方で未来を切り開いたおかげなのだから。

「全部、人のおかげ……」

「な、何よ、あんた、何か文句でもあるの? そりゃ、ちょっとこう、極論を言いすぎてるとは自分でも思ったけど……!」

「いいえ。カチュアさんらしくて、とてもいいと思いました。私も、自分だけで立てているだなんて、勘違いしないでいたいです」

ちらちらとこちらを見てくるカチュアに応じ、レムは自分の足を撫でる。その仕草を眺めながら、カチュアは伏し目がちな目で、

「いつの間にか、あんたも普通に歩けるようになってるわよね」

「体の中を流れているはずのマナが、うまく流れていなかったのが原因だそうで……カチュアさんの足にも、効果があるかもしれませんね」

「……いいわよ、私は。兄さんとか、誰かに車椅子押してもらうから。それに」

「それに?」

「――まだしばらくは、あんたが押してくれるんでしょ?」

恐る恐る、そう言ってくるカチュアに、レムはわずかに目を見開くと、それからすぐに柔らかい目つきになり、「はい」と頷いた。

まだしばらく、というのがそれほど長くないことを、レムも、もちろんカチュアもちゃんとわかっていて、それを下敷きにしたやり取りだった。

きっと、そう遠くないうちにやってくるカチュアとの別れ――レムが、迎えにきてくれたラムたちや、スバルと元いた場所に戻るとき、痛切なものを味わうだろう。

でも、カチュアやこの地の人々との別れは、再会の希望を残した別れだ。そうでない別れの辛さと苦しさを教えてくれたのは、彼女の最期の――、

「思いやり? それとも、意地悪ですか? プリシラさん」

『レム、己の心に従え。貴様の心は波打っているが、その波紋は決して見苦しくはない』

呟いたレムの頭の中に、プリシラに最後に投げかけられた言葉が過る。

波打つ心、それはきっとレムの中にいつまでも、そしてこれからも泡のように浮かび上がり、平静を揺らそうとする弱さのことを意味しているのだろう。

でも、それを殊更に拒み、遠ざけたいと縋るように願う自分でいたくない。

あのプリシラが、短い間だけ、レムを照らしてくれた焔のような女性が、確かなものを見違えることのない彼女が、レムの『波紋』を見苦しくないと言ってくれたから。

――だから、あなたが消えてしまった現実に、この心が波打つことも、きっと許してください。その波紋もいずれ収まって、涙なしにあなたを想えるようになる日まで。