軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八章57 『セシルス・セグムント』

――セシルス・セグムントは『星詠み』である。

この書き出しはすでにしたので没とする。

――セシルス・セグムントはこの世界の花形役者である。

この事実は語るより魅せるで証明し続けているので野暮とする。

――セシルス・セグムントはこの世に唯一無二である。

この主張はセシルスに限った話ではないので頭痛が痛い的な話である。

――セシルス・セグムントはセシルス・セグムントである。

この定義が一番しっくりくるので、今回の始め方はこれを採用とする。

然らば――、

△▼△▼△▼△

――セシルス・セグムントはセシルス・セグムントである。

テンチシンメーに誓い、この事実は決して揺るがざるセシルスの大前提だ。

たとえ我が身に何が起こっていようと、周りのものたちが言っていたように、今より手足のすらりと長い見目の整った華のある美青年たる大人の自分がいたんだとしても、それはもはやビフォア・セシルスであり、今この瞬間、セシルス・セグムントとは自分という個のみしか存在しないのである。

故に、それを証明する。

「天上の観覧者も照覧あれ。――世界がいずれを選ぶかを」

ギュッと服の切れ端で髪をまとめ終え、空いた両手で自分の頬を強く張る。

こうした気合いの入れ方をセシルスは滅多にしないが、誰の目にもわかりやすい気持ちの変化は作劇上とても重要だ。このような描写を挟むことで、見ている側に舞台が役者の気持ちの変化を伴い、次のシーンへ移行したと知らしめられる。

それをしてから、「そう言えば」とセシルスは首をひねり、

「意外と聞き分けがいいんですね皆さん。もういつも通りにご歓談を再開していただいて一向に構いませんよ」

『●●■▼●■●!』『▼■■――』『■■■■■!!』『▲■■▲●●●■▲●●▲▼■●▲■■●●●』『●■●●■■■!』『――▲▼▲』『●●▲▼▲●●』『■●▲●■■●●▲■●! ●■●! ▲▼■!』『●●■■■▼●■――』

途端、沈黙を強いられていた観客たちの声が爆発し、セシルスはうんうんとそれらの平常運転に内心で頷きながら自分の調子を取り戻す。

常日頃、自分に釘付けな彼らの存在に承認欲求を満たされ続けるセシルスだが、ああして彼らを黙らせたのは先ほどが初めてのことだった。自分でも思いがけない行動だったが、あんな風に押し黙るなんて彼らもよほど驚いたに違いない。

その事実も実に快なり、幸先がいいとはこのことだ。

なにせ――、

「――見くびってくれた相手を見返しにいくところですので」

そう述べた直後、セシルスの顔面を光の一閃が貫いた。

「セシ――」

ニヤリと笑った顔の中心、それを穿たれたセシルスの姿にアルが声を上げる。

駆け寄ってきていた彼は、そのセシルスの姿に何故か自分の首に宛がっている青龍刀に力を込めようとした。が、寸前で思いとどまる。

顔を貫かれたセシルスの像がブレ、死んだのが残像だと理解したからだ。

そして――、

「少し離れていた方がいいですよ」

そうアルの鼓膜に届けた直後、セシルスの残像が弾け、衝撃波が広がる。

光の一閃に遅れて届いた音が空間を破裂させ、広がる破壊を追いかけるように音が拡大し、もはや原型を留めていない街路が十数メートルにわたって丸く吹き飛んだ。

「うおああああ!?」

攻撃が生んだ余波、それに巻き込まれるアルの悲鳴が尾を引くが、前を向くセシルスはそれを視界の端にも収めない。ただ、その存在を完全に無視もしない。

アルのこれまでの挙動と身体能力、直前の立ち位置と聞こえた悲鳴の遠ざかり方、そうした周辺情報を拾い、相手の攻撃の形質から導き出される自然な演出効果として、セシルスは見えていないアルの姿を脳内劇場に思い描く。

おそらくはその通りになった。何故なら、この状態が一番見栄えがいいから。

――役者は舞台の端々まで見られないが、役者は舞台の端々までわからなくては。

それは感覚の拡大――否、脳内空想視野の拡大だ。

セシルスは自分の立ち位置を舞台の中心と定め、その上で配役された役者たちの立ち回りや舞台効果を自分好みに演出、すなわち世界的に最も映える展開の実現へひた走る。

「――――」

死線を走るセシルス、その頭上を浮遊するヒロインの異形化が進む。

セシルスの渾身の手刀を浴びてもビクともしなかったヒロインは、その細い肩や腕に細かな魔晶石を幾本も生やし、輝く翼を纏ったような幻想的な姿と化していた。

その美しいとすら言える姿の中、特に目を引くのはヒロインの周囲に浮かび上がり、柔らかく空を撫でている光の帯――それは、薄く平たく構築された魔晶石だ。

如何なる原理か、燃える街並みの赤に照らし返される魔性の帯は、風になびく薄絹のような軌道で空を泳ぎ、刹那、世界を縦断してセシルスへ放たれる。

先の、アルが吹き飛んだ一撃と同じ代物、それが目を輝かせたセシルスの顔面へと再び迫り、迫り、迫り――、

「――ぺろり。なるほどこれはおかしな味わい。なんというか宝石味?」

刹那、セシルスはつんと伸ばした舌先で、顔の中心を穿たれる寸前で躱した帯の味を確かめた。舌先の感触は柔らかいのに硬く、その味は言葉通りで宝石に近い。

見た目が飴菓子に似ていると、宝石を口の中で転がしてガッカリしたときの味とそっくり――すなわち、ヒロインが纏っているのは宝石の帯だ。

「そう言えば序盤は光やら火やらを飛ばしてきていたのが途中から石の柱に土の手足と変わってましたね。宝石もその延長線ということですか……実に雅で僕好み! いいですねいいですねクライマックス度が高まります!」

帯をねぶった舌を引っ込めて、セシルスは気分の高揚に呵々大笑。

この土壇場、大勝負の場面で相手するのが宝石の羽衣を纏った天女とは恐れ入る。加えて先ほどの攻防の結果にも勝手に合点がいった。

雷速で放たれたセシルスの手刀は、石の壁どころか鉄の城さえ両断する威力があった。だが、それこそ宝石の中にはそれらより硬い代物もあるとかないとか聞く。

すなわち、セシルスが相手するヒロインは――、

「――金剛石の天女!!」

浮かんだ言葉をそのまま出力した直後、天女の羽衣から金剛石の帯が射出される。

閃き、世界を両断しながら押し寄せる光の帯――都合十二本、躱して舐めた一本を省いて十一本が、セシルスを包み殺すように四方八方十一方から襲いくる。

まさしく『死』の埋め尽くす領域、嵐の中の雨粒を躱せという屍山血河――、

「それが必要とあらば! 雨粒だろうと砂粒だろうとよけましょう!」

荒れ狂った十一の死線、一本復帰して十二の死線、それを掻い潜り掻い潜り掻い潜るるるるるるるるるる――。

浴びれば致命、致命すれば破滅、破滅すれば終幕。

踏み込んだ爪先を削られ、胸の傷からの血飛沫が蒸発し、格子状に塞がれた帯の隙間に矮躯をねじ込んで幕引きを拒絶。どうだどうだ、見たことか。これが大人の体であったなら隙間を潜れなかったはずなので色々差っ引いて今のセシルスの勝ち。

勝った上で、勝ち続けると決めて、勝ち取るために歯を光らせて笑い――、

「ここで想像力を羽ばたかせる!」

降り注ぐ猛攻は留まる余地がなく、浅からぬ傷から血を噴きながら全部無視。

戦闘の最中の思考の加速は目覚ましく、ここまでの大立ち回りを絶賛喝采大歓声。しかしこのままではジリ貧退屈総スカンと、セシルスはベストな演出プランを導き出すために全身の機能を舞台映え優先にギアチェンジ。

――まず最初に、色を識別する機能をカット。世界が白と黒に染まった。

彩色された世界の彩り豊かさは失われるが、モノクロの世界にはモノクロの世界でしか表現できない物の本質の良さがある。

――次いで、音を聞き分ける機能をカット。観客の声も自分の心音も、届くのが遅い光の帯が風を切り、舞台が解体される音も軒並み置き去る。

無音の世界は味気ないが、不自由を堪能する風流にしか出せない味がある。この環境でこそ気付ける味、演者の身振りや顔の芝居の巧みさに胸を打たれる喜びが。

――加えて痛みとか味とか匂いとか、そのあたりの機能もまとめてカット。体の方は戦いに全振りし、頭の方を閃く思考に全集中、脳内空想視野劇場の幕開けだ。

「――さて」

と、そう一息を挟み、白黒の世界――金剛石の帯の猛攻を躱し続ける空間で、セシルスは見栄えよく奮闘する自分を文字通り俯瞰している。

思考の加速を空想的に表現し、刹那を引き延ばしているような感覚。とはいえこれも万能ではない。花形役者は場を持たせる技にも長けていようが、状況が動かなければ観客を魅せ続けるにも限度がある。物語は動いてこそ、心を揺すぶるのだ。

あの金剛石のヒロインに泣きながら懇願され、それはそれは腹を立ててしまったセシルスではあるが、あの訴えの真意を自分に都合よくこじつけて、このスローモーだがゆっくり着実に進行している状況を動かす推進力を得なくては。

「――――」

普通に考えれば、彼女はセシルスの関係者なのだ。もしかすると、有名すぎるセシルスを一方的に知っているコアなファンの可能性もあるが、仮にそうでもここから先の思考には問題がないので、そこの正否は問わないでおく。

ここで重要なのは、彼女が意識するセシルス・セグムントというのが、今の自分ではなくて、色々と話題に上るお騒がせなビフォア・セシルスということだ。

余人が聞けば呆れるだろうし、実際にシュバルツやタンザは呆れていたが、そのビフォア・セシルスの話はセシルスの興味を全く惹かなかった。

何を言われても他人事、何を為そうと他人の空似、何を残そうと誰かの褌。

それがセシルスの感覚であり、故にはっきりとセシルスの中ではビフォアとアフターの住み分けは完了している。どうやらそれは拾い食いが原因であっぷあっぷ状態の疑惑があるヒロインも同じ感覚であるらしい。

ヒロインは、ビフォア・セシルスとアフター・セシルスを同一視していない。

「それ自体は歓迎すべきことですし仮にでっかくなあれと言われてなれるものではないので現状ままで話を進めるしかありませんけれども!」

「どうしたことでしょうね。別物と分けて考えてもらえてるのはありがたいにも拘らず必要とされているのがこの僕でないことにははっきり不満を感じます」

うんうんと考え込むセシルスの横に、ぴょこんと別のセシルスが顔を出す。

今、ビフォアとアフターのセシルスは別と言い切ったところなのに、ここでアナザー・セシルスが出てくるのはややこしいが、話し相手がいると捗るのも事実。

「まぁ、ここは集中力の高まりが思考の加速をよりわかりやすく可視化した結果と認識しておきましょう。それよりも今はヒロインの話ですよ」

「ヒロインの話というよりは彼女に対する僕のスタンスの話だと思いますね。もちろんボスやタンザさんを見ていれば物語における重要人物とそのヒロインとの関係性がそれまでになかったケミストリーを生み出すことは想像に難くありませんが」

「ということは僕と彼女との間にもそういうケミストリーが?」

「どうなんでしょう。そもそもどういう意図で彼女をヒロインに決めたんでしたっけ」

「ノリで」

「ノリか~」

「でもでもボスが言うところのライブ感というものは馬鹿にしたものではありませんよ。即断即決脊髄反射はつまるところ直感頼みのインスピレーションってことですが多くの場面で僕は直感に従ってやってきたじゃありませんか」

「それは確かに。ということは現状も直感に従った結果なわけですからこの先も直感に従うのがベストなのでは?」

「そんな気がしてきました。しかしそうなるとあれですね。――僕の直感は今この瞬間の僕というセシルス・セグムント以外を頼られるのがなんかなーって思ってますね」

「なるほど。ですが彼女が求めているのは今の僕ではないという話でしたね。乞われているのはビフォア・セシルスですがその理由はアフター・セシルスにはビフォア・セシルスならできるだろうってことができないと思われているからでは?」

「あ、じゃあ、今の僕が前の僕を超えたら解決ですね」

「異議なーし!」

二人のセシルスで頷き合い、お互いが納得のいく合意に達し、そのままどちらが俯瞰されているリアル・セシルスへ戻るかで一悶着が起こる。

ここにどちらが真のセシルスの魂なのかを決める不毛な戦いが始まり、終わり――直後にリアル・セシルスの時が通常速度で動き始め、天女の羽衣が放つ十二の金剛石が生み出す死線、それへの対処が再開する。

「――ゆっくりに見えてたから体感速度が速い速い速い!」

踊る十二の光帯は、それぞれが意思があるように独立し、普通の武器とは違って生き物のように不規則な軌道を成立させる。手刀で打ち落とそうと試みたら触れた部位がごっそり抉れて視覚的に痛い。切れ味はロウアンが後生大事にしている『オニバミ』よりもはるかに上と見て取れて、これはなかなかハードな敵だ。

ただ、致死性の高い美しき宝石群に囲まれながらセシルスは思う。

「殺してというあの言い方、彼女の頭の中のセシルスならできるという考え」

それはつまり、彼女の頭の中のセシルスならば、この金剛石の包囲網も容易く突破して自分に辿り着いた挙句、見事に心の臓を止めてみせるという信頼の表れだ。

当然だが、前のセシルスを超えるつもりのセシルスはその上をゆくのが必須条件――、

「当たれない触れないビフォア僕がやってないやつならこうしては?」

用意した自分越えのハードルのため、セシルスの思考がスパークする。

ビフォア・セシルスであれば押し寄せる攻撃を丸ごと回避したかもしれないが、アフター・セシルスとアナザー・セシルスが融合を果たしたパーフェクト・セシルスであれば躱すだけではない見せ場を作る。

首から上を狙った光帯、胴体へ迫る煌めき、足払いというより足削ぎ狙いの薙ぎ払い、それらを頭を傾け、身をひねり、左足右足と順番に跨いで避けて、その後ものけ反り、しゃがみ、膝を伸ばして跳び上がって全弾回避、結果――、

「これぞ光のアヤトリ!」

独立した十二本の光帯をスレスレで躱し続け、それぞれが空中で絡まり合うよう誘導、見事な網目状に結び目を作ったそれが『トーキョータワー』となる。

剣奴孤島からの旅の道中、シュバルツが手慰みに披露した糸遊びで、珍しくタンザが手放しに感動してシュバルツがマジ照れしていたものを再現した。

無論、そんなことをしても意味はない。

膨大なマナで作られただろう金剛石の帯、その長さに限界はなく、作られた結び目も一度構成をほどいて分解し、再構成すれば何事もなかったかのように元通り。

これで相手の攻撃を封じ込めただなんて、勝ち誇る勘違いを晒せはしない。

ただ、得られただけだ。確信を。

「僕は僕を超えられる」

実物は見ていない。実際に比べ合ったわけでもない。

しかし、セシルスが頭の中で思い描いたビフォア・セシルスには、この『トーキョータワー』は作れなかった。彼の中には『トーキョータワー』がないのだから。

なのでビフォア・セシルスも躱し切ったかもしれないが、躱し切る以上の見せ場作りに成功したのでその分、今のセシルスが一歩リード。

「――――」

確信の直後、セシルスの真下で光の『トーキョータワー』の構成がほどける。

一度、マナへ還元され、再構成される流れは想定通り――想定のちょっと外側へいかれたのは、構成をほどく瞬間に生じた無色の爆発だ。

ただ消しただけなら遊ばれてやられっ放し、それは嫌だという反骨心の表明――、

「あなたも相当な負けず嫌いですね!」

相変わらず色はなく、自分の声さえも鼓膜に無視させた世界で、セシルスはそれを仕掛けたヒロインを遠目に見ながら感心した。

感心した上で、真下からせり上がってくる無色の光芒――直撃されれば帯を躱した分が帳消しになる威力、宙にある我が身は自由度が地上より圧倒的に低い。

マズいマズいマズいマズいマズいので燃えてきた。

――再び空想視野を拡大し、全身の機能のギアチェンジを敢行。

色覚、現状維持。聴覚、現状維持。痛覚と触覚を再起動し、途端に湧き上がってくる痛苦を歯を剥く笑みの裏に隠して、一秒を百分割する感覚の中に『鍵』を探す。

それがあれば、脚本を次のページへめくれる『鍵』を。

「――あった」

体中の神経を剥き出し、風に当てるような超次元の蛮行を行いながら、上昇中のセシルスの伸ばした足が何かに当たった。

都合のいい壁や建物ではない。当たったのは、セシルスとヒロインの戦いに巻き込まれて壊れていく街並み、そこから舞い上がった瓦礫の破片、一粒の小石だ。

それを、足場にする。

「し」

足裏に当たった微かすぎる感触を足場に、セシルスの体が空中で跳ねる。

上がってくる無色の破壊に追いつかれないよう、セシルスはさらに、巻き上げられた木片や割れた窓ガラス、ついには大きめの灰を踏んで高く逃れた。

何故できるのか。できるからできると、見たものを信じさせる。

様々な道理や概念を無視し、空へ逃れるセシルスのそれは常識への暴挙だ。それを目にしたものは奇跡と呼ぶかもしれないが、セシルスに言わせればこの程度は序の口、日常様々な瞬間に訪れ、世界を彩っていく奇跡の一握に過ぎない。

そして、奇跡を起こし続けていれば――、

「焦れて現実が牙を剥く」

理不尽な上昇で光芒から逃れるセシルス、その逃亡の正否が結果として出る前に、無色の光芒を内側から食い破り、再構築された光帯が空のセシルスへ追い縋った。

十二の帯は螺旋状に絡まり合いながら、セシルスへ向けて先端を放射状に広げ、まるで食虫花が美しい花弁で羽虫を捉えるように喰らいつく。蕾のように閉じられる花弁、金剛石の花に呑まれかけるセシルスに逃れる術はない。

それもたぶん、きっと、今のセシルスでないセシルスだったなら。

「ドン」

と、口にした音を百倍するような空気の爆発音が戦場を揺るがす。

生憎、音をシャットアウトしているセシルス自身には聞こえなかったが、この場に居合わせているヒロインやアルの鼓膜には悪いことをした。もっとも、一番文句を言いたくなったのは、セシルスに蹴られ、爆発させられた空の方だろう。

音を置き去りにし、雷速で走ることのできるセシルスは空気に壁があることを知っている。その壁を蹴るのは簡単ではないが、見せ場でしくじるような大根役者と侮ってもらっては困る。ぶっつけ本番だろうと、完璧に魅せてこそ花形役者。

結果、爆発音と共に、セシルスの体は今度は真下に射出される。一気に急降下し、金剛石の花の蕾が閉じ切るより早く、花弁を逃れて地上へ落ちる。

真っ直ぐ地面に突き刺さったセシルスは、まさしく落雷の如き衝撃を生んだ。

代償に右足の膝から下が見るも無残な有様だが、無傷で勝利を掴む颯爽とした姿も、傷を負いながらも相手を下す凄烈な姿も絵になる意味では甲乙つけ難し。ああすればこうすればと事のあとでうだうだと騒ぐのは観客に失礼、万雷の拍手を浴びた心地で血塗れの胸をずいと張り、前へ、前へ、往く――。

「――十歩」

目測、空中にあるヒロインへの距離を測り、あえて血塗れの方の足で踏み込む。

その走り出したセシルスを狙い、一度は閉じた蕾が再び広がり、金剛石の花弁が胞子を散らせるように降り注いでくるのを、大きな一歩で置いていく。

「――九歩」

セシルスの左右の空間が歪み、ねじくれたそこから石柱が飛び出す。

金剛石の光帯以外の攻撃手段がここで再動、憎い計らいに歯を噛み、地面に置いてある右足に無茶と無理と無謀を押し付け、加速、左右から突き出してくる石柱の隙間を後れ毛だけを犠牲にすり抜け、空気だけをすり潰させる。

「――八歩」

地面を突き破り、家ほどもある複数の四角形――キューブ状の岩塊が浮かび上がり、それが投槍のように雨あられとばかりに攻撃を撃ち込んでくる。

上がった左足の膝を伸ばし、迫る石槍の先端を踏むと、直撃したあとはそのまま墓標に使えそうな致命的なそれを足場に雨の中へ飛び込む。

「――七歩六歩、以下省略!」

不測の事態に臨機応変、歩数のカウントをリセットし、アフター・セシルスを拒むように構築された石柱の嵐を掻い潜り、無限に思える距離をゼロに近付ける。

自分の認めた、自分に届き得るセシルス以外は近付けないと猛威を振るうヒロイン。

その強情で頑ななヒロインに、今の自分でも届いてみせると証すのに息巻くセシルス。

それはまさしく、世界有数、帝国史上に残るレベルの危険で破滅的な意地の張り合いだ。

その意地の張り合いを制し、セシルスは成し遂げる。

成し遂げてどうなるとかではない。成し遂げたいから、成し遂げるのだ。

「――二歩!!」

振るった両手の手刀で道を塞ぐ石柱を吹き飛ばし、遮蔽物に隠されていたヒロインまでの距離を山勘で計測、飛び出した先、十メートルほど上空に彼女の姿を発見、さすが自分の直感と脳内スタンディングオベーションしながら射程に捉える。

「――――」

そこへ、分解と再構成の過程を経て、再び十二の金剛石の光帯が立ちはだかる。

石柱の嵐を抜けて、自分を見上げるセシルスへとヒロインは光帯を再度向けた。瞬間、射程を大きく取りながら広がった光帯の先端がわずかに閃き、極薄のそれをさらに分かち、十二から二十四、二十四から四十八、四十八から九十六、九十六から百九十二、百九十二から三百八十四、三百八十四から――、

「~~っ」

数えるのも馬鹿らしくなるほど枝分かれした光帯が、空を美しく煌めかせながら滝のように落ちてくる。

左右と後ろ、退路となる方角は石柱に埋められ、舞台は不可避の結界と化した。道は正面にしかなく、落ちてくる光の雫は当たるどころか掠めるだけで致死必死。

――致死、不可避、致死、不可避、致死、不可避、致死、不可避、致死、不可避、致死、不可避、致死、不可避、致死、不可避、致死、不可避、致死、不可避、致死、不可避、致死、不可避。

「――――」

色も音もない世界を『死』の可能性で埋め尽くされる。

避け難い『死』という命運を前に、積み立て続けた奇跡のことを想起する。

右足は膝下が繋がっているのが奇跡、深すぎて心の臓が見えそうな胸の傷で動けているのが奇跡、破れたキモノがはだけて無様を晒していないのも奇跡、なおも泣き続けるヒロインの姿にむしろやる気がみなぎる自分の存在が奇跡。

そして――、

「――――」

――天へ伸ばしたセシルスの手に、最高のタイミングで小道具が届いた奇跡。

△▼△▼△▼△

――一万二千二百八十八回。

アルが、自分の舞台上の役割を把握するのに費やした回数だ。

「――――」

己の髪をまとめたセシルスが、アルにはわからない理屈で気持ちを切り替えた直後、戦いはアルの介入を鼻で笑う領域へさらに加速してしまった。

元々、自分にできることはほとんどないとわかり切っていた戦場だ。

定義した領域の中で、二百回近い試行錯誤をしても介入できた機会はたったの二回。その二回に意味は確かにあったが、さらにギアの上がった戦いにあっては、アルが介入するチャンスなど、ただの一度も巡ってこなかった。

そもそも、アラキアがセシルスを狙った攻撃の余波にすら耐えられない。

魔晶石による異形化が進む以前の、湧き上がるマナを無造作に撃ち出していただけの攻撃と異なり、今のアラキアの攻撃は明らかに洗練されたものとなっている。その振るわれる破壊の力――光の帯とでも呼ぶべきものが辺り一帯をめちゃくちゃにする過程で、巻き添えになったアルが消し飛ぶこと二千回以上だ。

ただ居合わせるだけで命取りとなる戦いに、何をどうしろという話である。

しかし、一切の介入を投げ出し、戦場から離れる選択肢も取れなかった。このままでは、セシルスはアラキアに届く前に光の帯に殺されるからだ。

変わらない結果を変えるため、アルは介入できる余地を探し――巻き添えを重ねた。何度も何度も、何百回も何千回も繰り返し、気付いた。

位置取りの問題や、迂闊に気を引いたアルが虫を払うぐらいの感覚で帯の一本に消し炭にされることもあるが、セシルスがアラキアの目の前に辿り着くところまで何とか見届けられたなら、不可避の攻撃に晒されるセシルスの不可解な動きが見えた。

――アラキアの纏った光の帯が絶望的な数に枝分かれして降り注ぐ直前、セシルスが天に向かって手を伸ばすのだ。

「――――」

最初、アルはそこからセシルスが渾身の手刀でも放つのかと思った。しかし、セシルスの右手は光の雨が降り注ぐ瞬間も動く素振りを見せなかった。

それが手刀ではなく、五指を広げているのだと気付いたのは数百回もあとだ。

手刀でも拳でもなく、開いた掌を天に向けていた。意味がわからなかった。ここへきて急に魔法を使い始めるサプライズも検討したが、どのみち、その魔法の不発のままセシルスが煌めきに呑まれ、アルも巻き添えで消し飛ぶのは同じだった。

「――――」

それを確かめたあとも、介入する余地なく、試行回数は無為に重ねられ続けた。

超高速の戦闘は結果が出るまでも瞬きのように早く、状況の確認と可能性の検討、思いつきを形にするまでの間にも取り返しのつく敗北が加速度的に積み重なる。

そのこと自体に焦りはなくとも、その先へ至れない事実には焦燥が湧く。

自分は、引くべき場所で引くことを躊躇い、間違った袋小路へ潜り込んだのではないかと、そんな途方もない後悔に蝕まれ、その気持ちごと消し炭にされる。

これだけアルが必死になっているのに、件のセシルスは振り向きもしない。アラキアもアルを一顧だにしていない。無性に腹が立ってくる。

これは自分たちの、二人だけの争いだとそう延々と、何千回にもわたって暴力的で衝動的な手段で言われ続けているだけなのではないかと、そうも思わされる。

――もし、そうじゃなかったら?

「――――」

それは不意に頭を掠めた可能性で、アルはそれをすぐに首を振って否定する。

芽生えかけたふとした考え、その考えが発展する兆しには何度か立ち会ったが、いずれもそれ以上の成果はなく、破滅の光に呑まれて毎回消えていった。

しかし、このときは珍しく、終わりを跨いで次の再開の出だしに持ち越された。

もしも、そうじゃなかったら。――もしも、介入する余地があるなら。

「――――」

徹底的に、アルは芽生えた可能性に縋ってみることにした。

セシルスがあらゆる攻撃を躱し、アラキアの前へと辿り着く。アラキアが纏った煌めく光の帯が無数に枝分かれし、それが降り注いできて光が世界を呑み込む終幕。

この終幕までの間を、何度も何度も繰り返し繰り返し、何が起きているのかを完全に把握するために、挑み続けた。

途中、セシルスが光の帯を舐めていることに気付いてドン引き。

途中、セシルスが何もない空間を蹴って飛んだことに気付いてドン引き。

途中、実は何もない空間ではなく、小石や灰を蹴っていたと気付いてよりドン引き。

そうして理解を進めて進めて進めて、進めていって、首をもたげた。

セシルスは、あるいは、もしかすると、ややもすると――、

――セシルスが天に手を伸ばしているのは、見せ場を作ったのかもしれない。

「――――」

何を期待されているのかと、アルは消し飛びながら愕然となる。

要求のハードル、それが高すぎてまさかともしかしてが頭の中で踊り始める。だが、気付いてしまった。思いついてしまった。引きずり出されてしまった。

降りるかどうか、迷っている舞台の上どころか、真ん中へと――。

「――――」

そこからの苦闘が長かった。誰にも、理解されない。される必要もない。

その瞬間まで生き延びて、その瞬間までに辿り着いて、その瞬間に間に合わせて、その瞬間に介入しなくてはならない。

そのために、苦闘に苦闘を重ねた。でも、いい。――星の数ほどじゃない。

だから――、

「――いけよ、千両役者」

天へ掲げられたセシルスの手に、一万二千二百八十八回目の正直――投げ込まれた青龍刀の柄が、強く強く握り込まれた。

△▼△▼△▼△

――かつて、『盗品蔵』という建物があった。

王都ルグニカの貧民街、王国の長年抱える負債の象徴であるその場所で、盗品の商いが堂々と行われていた闇深い地と言っていい。

王国の命運を分ける重要な品物を巡る戦い、その舞台ともなった盗品蔵は、最終的に当代の『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアの介入により、『腸狩り』エルザ・グランヒルテを退ける流れで倒壊する憂き目となった。

そのとき、ラインハルトが振るったのは何の銘もない、量産品の剣だった。

特別秀でた切れ味があるわけでもなく、たまたま盗品蔵にあったものをラインハルトが拝借し、戦いに用いただけの行きずりの刀剣。

だがしかし、その一振りは『剣聖』ラインハルトの手で振るわれることで、数ある名剣や宝剣の類ですら経験することのできない剣撃を放つ機会を得た。

無論、並の剣がその一閃に耐え切れるはずもなく、その剣はラインハルトの手の中でたちまち崩れ去り、形あるものとしての生涯をそこで閉じた。

しかし、壊れた剣は不幸だっただろうか。

道具の気持ちを推し量ることなど誰にもできまいが、刀剣は盗品蔵の片隅で埃を被り、何十年も錆付いて廃棄されるのと、どちらがよりその作られた道具としての本懐を果たせたと言えるのか。

その刀剣は、並の使い手の手で千回、万回振られることで果たせる領分を、そのたったの一振りで全て果たしてしまったと、そう言えるのではないか。

話が本題よりズレかけているため、軌道を修正する。

端的に言えば、盗品蔵という建物を倒壊させたのは、凡百のナマクラが剣としての本懐を果たせる使い手に巡り合い、振るわれたことが理由だった。

ならば、だ。

『剣聖』がそれを果たしたならば、同格の使い手にそれが果たせぬ道理もない。

「――いい仕事しましたよ、アルさん」

伸ばした手の中の感触を強く確かめ、セシルスは奇跡を起こした男を称賛する。

認めよう、断言しよう。この瞬間、セシルスへ青龍刀を投げ渡すのが、アルの立場でどれほどの困難が伴うものなのか、セシルスには想像もつかない。

人の想像力は無限大だが、無限には至れるという軽はずみな発想さえおこがましい。

あることはわかっていても、辿り着くことができない山の頂のようなモノ――それこそ、セシルスの目指し続ける『天剣』と相違ない夢幻だ。

だがしかし、アルは間に合わせた。

如何なる方法でか、セシルスですら想像できない手段で山を乗り越えて、アルはセシルスが欲した奇跡を、この手の中に届け果たした。

見事、見事、見事見事見事という他になく、花丸万歳大喝采だ。

「――――」

光の雨が、セシルスに回避不能の『死』となって降り注いでくる。

セシルスほどの役者となれば、つまらぬ死に様よりも、美しく星をちりばめたような終わり方を観客が望む気持ちもわかるし、事によってはそれもありかと思わなくもないが、今は時機が悪い。思い描いている幕引きとも異なる。

故に――、

「そのエンディングは書き直しです」

セシルスの体にはやや大きめの青龍刀を、セシルスはこの瞬間、これまでに何千何万何億回と振ってきたような、熟練の剣技へ昇華させて振り抜く。

初めて振るう武器であろうと、セシルスの拡大する空想視野、脳内劇場の中ではこの青龍刀を血反吐を吐いて、汗水垂らしながら朝も昼も夜も振り続けた実績がある。ただ、その場面を描くのはセシルス的にNGなので、努力の結果だけをもぎ取った。

――刹那、青龍刀の限界を超えた雷光の一閃が、降り注ぐ光の雨を斬り消し飛ばした。

一閃に掻き消されたのは無数に分裂した光帯だけではない。セシルスの左右と背面を覆い、逃げ場を封じようとした石柱の密林までも木端微塵に吹き飛ぶ。

この瞬間、セシルス・セグムントの剣撃は、『精霊喰らい』アラキアを――否、ヴォラキア帝国の大地そのものと言える『石塊』ムスペルを凌駕した。

「――――」

そして、光の雨上がりの向こう、セシルスとアラキアの視線が交わり――、

「――ッ」

放たれた十三本目の光帯を、セシルスは首をひねって躱した。右頬を掠められ、右耳の下半分が消し飛び、こそがれた首と肩で血が蒸発するが、回避に成功。

あの光の雨の裏に、まだ手を隠していた事実を一筋縄ではいかないと称賛し、

「一歩――」

残りの距離の歩数カウントを再開、左足で地を蹴り、宙へ上がる。

そこから、セシルスの雷速の疾駆が空のアラキアへ迫らんと――、

「――――」

瞬間、躱した光帯が無色の爆発を起こし、セシルスの頭が爆風に殴られていた。

△▼△▼△▼△

『――おや?』

不意に、夕暮れの差し込む見知らぬ部屋の中に立ち尽くし、セシルスは首を傾げた。

きょろきょろと辺りを見回してみるが、見覚えのない場所である。これでセシルスは忘れっぽいことに定評があるが、意外と目にした場所や物は忘れない。

どんなシチュエーションや小道具にも、役立つ機会はあるかもしれない。舞台効果というものは、思いがけない発想から生まれたりもするものだ。

『その僕の認識で知らない場所ではありますね。というかそもそもこういう場所にいること自体がちょっと違和感が仕事しすぎていますが』

ここに見覚えはなくとも、直前に何をしていたか忘れるほど粗忽ではない。

セシルスは屍人だらけの帝都で、泣きじゃくるヒロインに殺してとせがまれ、それにムカッ腹が立ったので過去の自分越えを決意し、アルの青龍刀を粉々にしたはずだ。

『そこで終わると僕がアルさんの青龍刀を壊したのを気に病んで現実逃避しているみたいに思えてきますね。さすがにそれは……ととと』

人の物を壊せば、セシルスだって胸が痛む。が、物にも寿命や天運がある。機会が巡ったなら、それが壊れることもやむなしというもの。アルの青龍刀はその類だろう。全部が丸っと片付いたあと、シュバルツにでも頼んで弁済させてもらえばいい。

などと、そう結論付けたところで、部屋に変化が生じた。――夕日が差し込んでくる窓の向かい側、見知らぬ部屋の入口が開いたのだ。

そして――、

「いやあ、いいもんですね、呼び出される覚えがない呼び出しというものは。いつも呼び出されるときは大抵はお叱り事ですが今日はその心配がありませんし!」

『――ははぁ、なるほど』

ケラケラと笑いながら、軽快な足取りで部屋に入ってきたのは青い髪に細身の青年――桃色のキモノを纏い、ゾーリを履いた人物に見覚えはないが、心当たりはある。

すらりと伸びた手足に、柔の印象を残して整った見目、鏡で日々確認している自分の顔との共通点、もはや疑う余地は微塵もない。

『大人の僕ですね。とするとこれはビフォア僕の記憶?』

その過去の自分――『セシルス』の実在を確かめて、セシルスは状況を推測する。

あれだけ方々で『青き雷光』の話題が広がっていたのだから、いないと疑うのは無理があったが、こうして本当に大きな自分を見るとなかなか感動する。

自分越えを志していた関係上、立場的にはこの『セシルス』はライバルのような相手のはずなのだが――、

『ふむふむ、いいじゃないですか! なかなか理想的な育ち方をしましたね! 華はそのままに色気を増して男っぷりが上がりました!』

目の当たりにした『セシルス』の姿に、大したものだと惚れ惚れする。

心構えとしては今のセシルスと同じく、自分がこの世界の花形役者の気概を持ち続けていたのだろうから、心身を最高たる状態に保つのは当然のこと。

その考えがちゃんと実践されているようだと、それ自体は歓迎の一言だ。

『はて。しかしこうして成長を遂げた僕を前にしたはいいですが先の展開が読めませんね。僕が僕を超えるという発想を実現するためにここでかつての僕と斬り合いに突入とか? そのわりにはこちらの僕には僕が見えていないようですが……』

ひとしきりの感動を済ませると、改めてセシルスは現状を訝しむ。

目の前で手を振ってみても、『セシルス』はこの場のセシルスの存在に気付かない。この光景に干渉できないなら、これの意味するところはなんなのか。

その答えは、ちゃんと状況の進展と共に提示された。

「――叱責かどうか、そちらに自覚がない場合もあるかと当方は考える次第ですが、心当たりがないからと安心するのは早計ではありませんかなぁ」

次いで、聞こえてきた声は『セシルス』に遅れて部屋に入ってくる人物だ。

その人物は開いたままの扉を後ろ手に閉めると、先に入った『セシルス』を見やり、その切れ長な瞳を細くする。

それは何とも、珍妙な見た目の人物だった。

長い白髪に白い顔、纏った衣装や手にした軍配をも白くまとめた姿かたち、『セシルス』以上に細くて背の高い姿は、絵物語に登場する怪しい化生のそれに見える。

その見た目からして、実にセシルス好みのインパクトだ。

「む。そう言い出すってことは僕が思い当たらないだけでやっぱりお小言ですか? だったら僕を先に部屋に入れたのは失敗でしたね。あの窓からバーンと外に飛び出して城壁を駆け下りて逃げるだけですよ、チシャ」

「城の兵がざわつくのでそうした奇行は控えていただきたく。それと一応、今日は本当に小言の類ではありません。そう警戒しなくとも構いません次第」

「なんだ、驚かせないでくださいよ。まったく、チシャときたら人が悪い。何年経っても変わりませんねえそういうところは」

「――。ええ、珍しく同意見ですなぁ」

その白い人物を、『セシルス』が気安い調子でチシャと呼んだ。

ならば名前はチシャなのだろう男と、『セシルス』はなかなか親しげだ。現状、セシルスにチシャとの面識はないが、年単位の付き合いであることはやり取りからわかる。その年単位も、短くない年数と『セシルス』の台詞でわかった。

『ふむ』

ざっと、『セシルス』の年代は二十歳と一、二年の誤差といったところか。そうなると現状のセシルスとの開きは十年ほど、チシャとはその間の関係性と窺える。

十年というと、セシルスの『青き雷光』の名の広まり具合からすると、なかなか妥当な線にも感じられた。――つまり、セシルスが見ている過去の光景は、現実でも一、二年の間に交わされたものの可能性が高い。

それを見て取り、セシルスはさらに思考を進め、合わせて首をひねる。

引っかかるのは当たり前だが、この過去が見えている理由と、何故この過去を見ているのかというところ――後者はともかく、前者は何となく理解できる。

『縮んでるのが事実だとしてたぶん小さくなる前の記憶は封じられてるだけで消えてなくなったわけではないと思うんですよね』

縮んだときの記憶がないので、縮むメカニズムはよくわかっていないが、セシルスの過ごした十年をごっそりなかったことにはできないはずだ。それでも十年の記憶が思い出せないのは、肉体と精神が相互に影響し合うものだからに他ならない。

セシルスができると思ったことを体で実現するように、体の方が縮んだと証明したら精神の方も合わせて退行しなくてはならない。――たぶん、そんなところだ。

なので、この記憶自体は眠っていただけで、セシルスの中にずっとあったものなのだろうと思う。思うので、見えていること自体は問題ない。

問題はやはり、見えた理由の方なのだ。

『……これ、僕が縮んだときの記憶っぽいんですよねえ』

そう、セシルスが渋い顔でぼやくのは、嫌な可能性に思い至ったからだ。

セシルスは経験したことがないが、人間は死に瀕したとき、目の前に迫る死から逃れるための方法を求め、自分の人生の記憶を遡るということがあるらしい。それまでの人生の積み重ねの中に、『死』を否定する材料を探すという機能だそうだ。

そして、セシルスの渋い顔の答えが、まさしく目の前の光景がセシルスの命が助かるための人生のスパークなのではないかという疑惑だった。

つまるところ、これがセシルスの考えた通り、自分が縮んだときの記憶だとしたら、その逆もまた然りという場面なのではないだろうか。

『ここで僕が縮むところを見て、そこから元に戻る方法のヒントを得て状況を打開しろとかってことじゃないです? それってめちゃめちゃダサくありません?』

自分を超えると宣言し、涙をこぼしたヒロインへ辿り着くための決死行を踏み、脇役のアルが役柄以上の最高のアシストをしたのに、自分は初志貫徹に失敗する。

そんな自分の失態の答えが目の前にあるようで、セシルスは心底嫌な気持ちになる。

『やだいやだいやだい!』

実際、部屋の床に寝転がって、手足をバタつかせて駄々をこねてもみた。だが、そうするセシルスの抵抗は、『セシルス』とチシャのやり取りを止められない。

寝そべるセシルスを置き去りに、二人の話題は進んでしまう。

「何やら複雑な顔をしてますね、チシャ」

「――。やれやれ、普段は大して人の顔色など気にしてもいないでしょうに、こういうときばかり鋭いところが、当方があなたを厄介と思う理由ですなぁ」

「ははは、面白いことを言いますね。普段からちゃんと周りの人の顔色も見てますよ。見ていて大抵の場合は触れずに放置してるだけです!」

「では、何ゆえに今日はそれに触れたのです?」

「友達がしんどそうにしてたら心配しません? わりと普通に」

「あなたの口から普通などとは片腹痛い」

笑みなど欠片も浮かばぬ顔で、そう答えるチシャに『セシルス』が唇を尖らせる。

その様子を、記憶に構ってもらえないセシルスが駄々っ子を諦めて胡坐で見上げる。友人とは、自分で言うのもなんだが自分にいるのが意外の極み。

シュバルツやタンザ、グスタフやプレアデス戦団のものたちは、セシルスにとって味方であっても友人や家族ではない。その自分に友人とは。

しかし、そのセシルスの感慨も余所に、ふと遠い目をしたチシャが「セシルス」と『セシルス』のことを呼び、

「もし、当方と閣下が意見を違えて対立すればどうされますかなぁ」

「閣下とチシャが? 話し合えることなら話し合えばいいし話し合ってどうにもならないことなら雌雄を決するしかないのでは?」

「雌雄を決するとき、あなたは?」

「もちろん閣下の味方です。言うまでもないことでしょう?」

忌憚なく、気負いなく、『セシルス』は声の調子を変えずに淡々と答える。そのまま、彼は奥の机にひょいと尻を乗せると、足を浮かせてチシャを見た。

膝の上に頬杖をつき、『セシルス』はその青い双眸を片方つむると、

「遠回しな上に不可解な仮定の話……もしやと思いますが、チシャは何かしでかすつもりでいるんです?」

「そうですなぁ。……大きな、大きな戦いに備えなくてはならない次第」

『「――大きな戦い」』

チシャの一言に反応する、過去と今のセシルスの発言が重なった。

『セシルス』には心当たりのなさそうな話で、セシルスもこれだと言えるほどチシャを知らない。その言葉に、チシャは後ろ手に手を組んで窓辺まで歩いていき、

「何を引き換えにしても勝たなくてはならない戦いです。しかし、その大いなる戦いに際して、当方と閣下では意見を違えております。勝利条件の設定からして、閣下とは意見が合わない。擦り合わせる余地も、見当たらぬ次第」

「チシャと閣下が没交渉とは珍しい。珍しいというより初めてじゃありません?」

「そうとは思えませんなぁ。たびたび、閣下に意思を通されることが……」

「ええ。ですからチシャの側が閣下を言い負かすのを諦めるのが初めてでしょ?」

「――――」

窓の外の景色を眺めながら、押し黙るチシャの背中に『セシルス』が首だけ振り向く。チシャが答えないのは、『セシルス』の言い分が事実だからだろう。

長い付き合いだが、あれでヴィンセントはチシャに無茶振りばかりする。帝国始まって以来の賢帝という評判は、チシャの血と汗と涙の上に成り立っているのだ。

『……むう』

そう考えたところで、セシルスはチシャをよく知っている気がしてくる。話題に挙がる閣下についても、ぼんやりと顔が思い浮かんできた。なんだか、眉間に皺が寄っている顔だ。顔はぼやけているが、眉間の皺は特徴的で、皺が本体に思える。

その感覚をあまり歓迎できない心境で、しかし、セシルスは『セシルス』とチシャの会話には興味が湧いて、成り行きを見守った。

チシャと閣下――ヴィンセントとが没交渉。それから。

「当方は、この件に関して閣下と意見をぶつけ合う気はありません。閣下に疑惑の破片すら抱かせないのが絶対条件。そのために……」

「――僕が邪魔ですね?」

静かに、わずかに楽しげに、『セシルス』がチシャの背に問いかける。それを受け、チシャは無言で振り向き、白い体を浴びた夕日で橙色に染めながら目を細める。

またしても否定はない。無言は、沈黙は、肯定の証だ。

「閣下とチシャの意見が割れて対立するなら僕は必ず閣下につきます。それは僕の大前提であり譲られることのない剣の誓いですよ」

「ええ、そう答えることは承知している次第。加えて、あなたが閣下の側に立つなら当方の勝算はなきに等しい。たとえアラキアやオルバルト一将……いいえ、あなた以外の『九神将』を全てこちらへ与させても、あなた一人に敵わないでしょう」

「ほうほうほうほう、それはそれは魅力的なお話ですね。実は僕も前々から思っていたんですよ。帝国最強軍団『九神将』ですが九人というのは多いのではないかと」

『それは僕も思いますね』

四、五人減らして五大頂や四天王というのも悪くはない。

そんな認識のセシルスと、徐々に戦意を高めつつある『セシルス』。二人のセシルスの視線を真っ向から浴びて、チシャの表情は崩れない。

この顔をしているときのチシャは要注意、何かとんでもない策がある。

「生憎と、実際に『九神将』を口説き落とせたわけではありません」

「なんだそうですか。いやでもそうですよね。ゴズさんやモグロが閣下を裏切るわけとかないですし。でもだったらどうするんです?」

「――――」

「それで諦めるチシャじゃない。そういう顔ですよ?」

沸々と蘇る懐かしい感慨、それを後押しする『セシルス』の反応。『セシルス』は机に尻を預けたまま、チシャの挙動の端々に目を配っている。

チシャがどう動こうと制圧できる。が、それはチシャもわかっている話。

さあ、どうするつもりなのか。どうやって、この『セシルス・セグムント』の隙を突き、彼は自分を小さな子どもの姿へ縮めてくれるのか。

「セシルス、あなたを盤面から排除します。当方と閣下の読み合いに、あなたの出る幕は用意しません。あなたには別の役目を用意する次第」

「そう言われてもはいそうですねと威勢のいい返事はできませんよ。かといって力ずくで僕をどけることもできないなら言葉の力で排除しますか? この僕が帝国で一番聞く耳を持たない『将』だとチシャも知っての通りです」

そう言って、机の上から尻を下ろして床に着地、くるっと踊るように回り、『セシルス』がチシャと真っ向から向き合った。夕日の中に佇むチシャの姿を眩しく思いながら、『セシルス』は体を前に傾け、上目遣いに彼を見る。

長く付き合いがあり、互いにいいところも悪いところもよく知り尽くした間柄、そんな友人の顔を覗き込み、『セシルス』は笑った。

笑い、チシャの用意したとっておきの策とやらを出せと挑発する。

「さあ、どんな聞かせる言葉や意見や理屈で僕を説得してくれます? これは閣下に次ぐ知恵者であるチシャ・ゴールドでも難題でしょう」

その安い『セシルス』の挑発に、チシャは目を閉じて一拍おいた。

そして、その瞳を開いて、双眸に『セシルス』を映しながら、

「セシルス。――どうか、閣下を頼みます」

――。

――――。

――――――――。

――油断でも、説得でもなく、願いとは恐れ入った。

「――。これはズルい」

『――パーフェクト!!』

△▼△▼△▼△

飛び散る血の赤が、記憶の中の夕日の赤と強く強く印象が重なった。

背に夕焼けを背負いながら、執務室でチシャ・ゴールドはセシルスを打ち倒した。隙を突かれたのでも、懇々と利を説かれたのでもなく、託された。

それが『セシルス・セグムント』が、セシルス・セグムントになった理由だ。

「――ッ」

カッと熱い灼熱の感覚が頭を打ち、セシルスの意識が現実へ回帰する。

頭と半身の痛みは、避けたはずの光帯が爆発するのを浴びた結果、意識があの日の夕闇に飛んでいた時間は一秒にもその半分の半分の半分にも満たない。

だが、その停滞で、立ちふさがるヒロイン――アラキアには十分だ。

「――――」

手の中で砕けて消える青龍刀、その渾身の一撃で掻き消したはずの光帯が、アラキアの力によって再構築され、五本、六本まで復活する。

さしもの彼女も、あの一撃で砕かれた力をすぐに取り戻すことはできない。背負っていた魔晶石の翼もひび割れ、キラキラと破片の散る中にアラキアはいる。

その細い体の奥底に、喰らい込んだのは『石塊』ムスペルか。

ヴォラキア帝国の大地そのものに牙を立てるとは、その見境のなさには驚かされる。なんて、さすがのセシルスもあの涙を見てはそうは思わない。

あの一言を聞かされては、いつもの調子ではからかえない。

「でも、あんな顔の頼み事なんてお断りですよ」

どうしてもセシルスに頼みを聞かせたいなら、せめて精一杯笑うことだ。その選択に悔いはないと嘘のない笑顔で言われれば、セシルスも真剣に受け止めもする。

笑ってセシルスに縮めと命じた、あのどうしようもない友人のように。

「ああ、そういうことでしたか」

今も、セシルスの手足は短く、蘇った記憶も眠っていたものが断片的にだ。

縮んだ体を元に戻す方法はわからない。チシャの具体的な手法を思い出す前に記憶は終わったし、それであの回想の目的は果たされた。

死を目前にした人間が、その打開策を自分の記憶の中に求めるという現象。あれは紛れもなく、その一例だった。ただ、打開策の答えが予想と違っただけ。

あの回想の最後に、セシルスは自分の体が大人に戻る方法を知るのかと思った。だが、そうではなかった。そうでなくて、よかった。

死を目前にした人間が、その打開策を自分の記憶の中に求めた。

あの、チシャの顔と、頼みを聞いた。――セシルス・セグムントが、死を拒絶できる根拠には十分すぎる理由だ。

「そもそも僕が負けるわけありませんしね」

自負と自信はたっぷりに、しかしそれは実力だけが根拠の発言ではない。

セシルスには自分の哲学で、ここでアラキア相手に負けないという答えがあった。

何故ならここには――、

「――ボスがいません。僕がここで死ぬことがあるのなら約束なんて平気で反故にして駆け付けてくるでしょうに」

そうこぼし、セシルスは血濡れの美顔で苦笑する。

ナツキ・シュバルツはそういう少年だ。剣奴孤島から旅立ち、プレアデス戦団を名乗って東征する最中、月下でセシルスとシュバルツは約束を交わした。

シュバルツの奇跡のような『物見』の力で、セシルスを救わないでくれと。

互いを尊重すると約束をしたが、セシルスにはわかる。シュバルツはいざとなれば平気で約束を破る。セシルス自身がそうだ。シュバルツも同じ手合いだ。

だから、わかるのだ。

セシルスが死ぬと『物見』で見たら、シュバルツは必ずここへ駆け付けた。

それがない。それをシュバルツからの信頼と、そう言い換えてもいい。

そして、同じものはセシルスからシュバルツへ向けるものとしてもある。

「――――」

横紙破りな確信を得たセシルスへ、六本の光帯が猛然と閃いて迫る。

すでに宙にあり、次なる動きを生むのが難しいセシルスには躱せない。だが、躱せなくともできることがある。それは、一瞬の白昼夢から持ち帰った切り札だ。

――青龍刀をなくしたセシルスの手に、別の刀の柄が握られている。

「――マサユメ」

銘を呼ばれ、刀身の刃紋を波打つように揺らすのは一振りの魔剣。それはセシルス・セグムントが有する強大な力を持った『夢剣』マサユメ。

在処のわからぬとロウアンが嘆き、もう一振りの『邪剣』ムラサメと同じく、この世の理を超えたモノを斬ることが許された超常の剣。

セシルスの記憶と共に見失われ、皆が在処に頭を悩ませたのも当然だ。

『陽剣』ヴォラキアは空を鞘とする。そして、『夢剣』マサユメは夢を鞘とする。――故にセシルスは、白昼夢の中の『セシルス』の腰よりマサユメを拝借した。

手の中で脈打つマサユメは、矮躯のセシルスが所有者であると認めている。これがムラサメならこう容易くはいかない。巡り合わせにこの場は感謝だ。

感謝し、一閃――迫っていた六本の光帯を切り伏せ、超克する。

「狙うは――」

アラキア――の、胸の中心、そこに大きく居座っている力の塊。

それを調伏する。やったことはない。だが、できると信じ、実現する。その力がセシルスにはある。マサユメも頼もしい。目撃者のアルもいる。しくじれない燃えてくる。

あとは――、

「夢は起きて見るもの、魅せるものですよ、アーニャ」

そう口にして、セシルスは引き延ばされる超速の中にアラキアの双眸を見る。光のない左目から血涙を流し、いつも以上に感情の読み取りにくい顔をした美しい少女。

その、見慣れていると感慨深い彼女の右目に、青い炎が浮かぶのが見えて――。

「――あなたが大事に想う人も、あなたを大事に想っていますよ」

そう、優しく紡がれる雷鳴が、悪夢を終える一閃を放つ。

夢は、舞台の上で、花形役者が魅せるものだと証するように。

――それがセシルス・セグムントの、ヒロインの懇願への答えだった。