軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八章43 『それぞれの本懐』

――アルデバランは『星詠み』が何なのか知っている。

かつて、アルデバランにそれを伝え聞かせた相手は、およそこの世のあらゆることを知り尽くし、それでもなお貪欲に未知を貪る存在だった。

複雑な関係の相手だ。

好きとか嫌いとか、そうした言葉で言い表せる相手でもない。

感謝しているかいないかで言えば、感謝してはいるのだろう。でも、その感謝と同じぐらいの相容れないことへのわだかまりはある。そんな相手だ。

いずれにせよ、誰から教わった知識であれ、『星詠み』の事情は知っている。

そしてそれは、アルデバランの悲願の成否には何ら寄与しない。『星詠み』への関心や彼らの関与の有無よりも、アレを巻き込めたことの方が重要だ。

最初、プリシラがヴォラキアへ向かうと言い出したときは、それを止められないか色々と試行錯誤したが、一度こうと決めた彼女の意見は何が何でも曲がらない。

ならばせめてと同行し、可能な限りの保険となるべく努めたが――この帝国で、アレと出くわせたのはアルデバランにとって、まさしく運命の悪戯だった。

いつも、運命はアルデバランの人生に不愉快極まりない介入をする。

それ故に運命に対していい印象など微塵もなかったが、今回ばかりは感謝した。

アレがいるなら、話は別だ。アレが巻き込めたなら、状況は劇的に変わる。

アレが見捨てられない枠に入れば、アレが見捨てられない枠をもっともっと大きく、手に収まらないほど広げれば、アルデバランの悲願は果たされる。

一度、アルデバランはあらゆる全てを投げ出した。

暗闇の中を、乏しい星明かりだけを頼りに歩き続けて、やるだけ無駄だと諦めた。

だからこそ、太陽は眩しかった。暗闇などないかのように、諦めは焼き尽くされた。

その眩い太陽を守るためなら、運命の靴を舐めてもいい。身を引き裂くような痛みに耐えて、アレを正視することだって躊躇わない。

『魔女』でも『星詠み』でも『大災』でも、何が立ち塞がろうと構わない。

――ただ、お願いですから、オレの邪魔をしないでください。

△▼△▼△▼△

――都合二十二回。

それが、アルが自分の身に何が起こったのかを把握するのに必要とした試行回数だ。一瞬にして、自分の体が蒸発したことにすら気付けないほど突然のホワイトアウト――。

「――んや、原因は雲でも雪でもなくて火なんだからレッドアウトか。クリムゾンアウトって言い換えてもよし、かっけぇから」

深々と息を吐いて、益体のない戯言を口にする。

自分の精神が正常かどうかは明言できないが、少なくとも、自分の精神が正常ではないかと根拠の薄い納得には持ち込むことができた。

ひとまずはそれでいい。問題があるとすれば――、

「このレベルの戦いになると、オレが介入できる余地がねぇ!」

そう吠えたアルの眼前で、帝都で果たさなければならなかった役割の一個――星型の城壁、その五つある頂点の攻略が一ヶ所完了する。

それはもう、絶大な防御力を誇った堅固な城壁が跡形もなく消し飛んだのだから、これを目的達成と言わずしてなんと言えばいい。

もっとも、高い高い城壁と周辺の建物が一掃された第二頂点には、その消えた城壁よりも大いなる障害が次なる関門として立ちはだかっていた。

――曇天を赤く染め、如何なる法則の働きでか空に身を委ねている一人の少女。

短い銀髪に赤い瞳、褐色の肌を多く晒した少女は、しかしその見目の麗しさに見惚れさせないほどに、見るものの本能的な危機感を揺すぶる様相を呈している。

茨の主をグルービーに任せ、人狼の皮衣を使い、アルとセシルスは危なげなく二番頂点へ辿り着いた――否、辿り着こうとした。

厳密には二番頂点は消滅し、その消滅に巻き込まれる形でアルは認識不能な被害を幾度も被って、ようやく先へ進む方法と状況を把握したところだ。

かといって、もう一度同じことをやれと言われても、この結果に至るまでに何度の延長戦が必要になるのか、考えたくもない。

だから――、

「――思考実験再動、領域再定義」

十数秒か、あるいは数秒単位でマトリクスを更新し、アルは逃げる隙を全力で窺う。

先ほど叫んだ通り、アルが介入できる余地がない。にも拘らず、アルが致命的な被害を受けるたびに規定した地点から再開では世界が進展しない。

あの狙撃手のときのように、セシルスがアルを拾い、致命的なゾーンから一緒に逃がしてくれるなら話は別だが――、

「すみませんね、アルさん。ですが僕の直感が訴えかけてきてるんですよ。ここは僕の見せ場でありアルさんに構っていては在り様を損なうと」

そう述べて、セシルスは早々にアルの保護を放棄し、空の少女――アラキアへ挑む。

アルが彼女を見るのはこれで何度目か。振り返れば、剣奴孤島の剣奴時代にまだ幼い彼女と共闘し、次いで城郭都市グァラルでは敵対し、今回の帝都では蒸発させられてと順調に関係性は悪化している。

だが、複数回顔を合わせたオッサンとしての目線以外にも、セシルスの言う通り、アラキアが尋常な状況でないのは一目でわかった。

「――――」

中空で身悶えするアラキア、その様子は明らかに平常ではない。

『精霊喰らい』、その特質はちらとプリシラから聞いている。実際にこの目で火や水に化けるところも見てきたが、それらの前例とはっきり食い違っているのだ。

肉体を水と同化させたり、体の一部を炎として飛んでいたときと違い、今のアラキアの姿は内側から巨大な白い光に食い破られる寸前のように見えた。

褐色の細い体、その内側から次々と突き出すか、直接生えているように見えるのは薄く黄色がかった透明質の結晶だ。

純度の高い魔石は魔晶石と呼ばれるが、それがアラキアの全身を取り巻いている。

それで平然としていれば、その姿もアラキアが『精霊喰らい』としての力を発揮した一環なのだろうと思えるが――、

「――っ」

世界のどこもまともに映せていないアラキアの赤い瞳、その濁った左目から涙が流れ、唇は苦しげに救いを求める喘ぎをこぼしている。

これを平常と、アラキア自身が望んだ状況などと誰も思わないだろう。

子どもが大口を開けて喚き、滂沱と涙を流しながらこちらを何度も叩いてくれば、たとえ目と耳と肌のいずれかを閉じられても、泣いているとわかるのと同じだ。

アラキアが今しているのは、まさしくそれだった。

「まさか、泣いてる子を放っておけねぇとか言わねぇよな!?」

頭を抱えて懸命に滅びから逃げ惑い、アルは逆に滅びへと突き進もうとするセシルスの背中にヤケクソ気味に叫んだ。

それを聞いて、セシルスは振り返りもせず、笑ったとだけわかるように肩を震わせ、

「子どもと女性の涙は物語を動かす切っ掛けになりえます。ですから僕がそれを見過ごせないというのもいたく自然ではありますが今回はそうではありません」

「なら!」

「でも――その涙に用がある」

言い切った直後、溶けた瓦礫の一部を足場に、セシルスの体が雷速で跳ねた。

周囲、二番頂点を守るために築かれたバリケードは溶解し、まるでマグマを流し込んだ地獄の顕現となっている。うっかりマグマに足を突っ込めば、スリップダメージどころか突っ込んだ部分が即座に炭化し、二目と見られぬ傷となる。ソースは自分。

だが、そんなマグマの庭園と化した区画へ飛び込み、セシルスは限られた足場を駆使して空に浮かんだアラキアを目指していく。

その速度と果敢さは筆舌に尽くし難い――否、本気で筆舌に尽くし難い所業は、その直後に鼻歌交じりに実現された。

「嘘だろ!?」

空中、アラキアの全身が白く発光し、刹那、セシルスの走る地点を閃光が焼いた。

放たれた光の槍がマグマへと突き刺さり、一拍ののち、周囲数メートルを丸く空間が圧縮され、すぐさま爆ぜる。爆縮されたマグマとそれをした破壊力が周囲へ広がり、圧縮された空間の十倍近い範囲にそれがまき散らされた。

アルが絶句し、届かぬ距離とわかっていながら思わず腕で頭を庇った視界、その一発だけでも恐るべき威力なのに、それが止まらずに放たれ続ける。

一発、二発、三発四発と連射され、そのたびに帝都の姿が作り変えられていった。

街路が街路でなくなり、大地が大地でなくなる。

それが地上を走るセシルスを追い、次々と放たれ、さしものセシルスも――、

「たたたたたたたたたたたたたた――っ!!」

マグマという灼熱の唾液が飛び散り、閃光という滅びの瞬きの視線を躱し、白い粉塵を突き破ってセシルスが死の降り注ぐ空間を猛然とひた走る。

すでに足場すらなくなり、マグマが大地の代わりに足下を浸している空間を、セシルスは耐火能力などまるでないだろうゾーリで突っ走っていく。

その光景に、アルの脳裏を過ったのはシノビの馬鹿げた水上走行――右足が沈む前に左足を踏み出し、左足が沈む前に右足を踏み出すというあれだ。

それをまさしく、セシルスは水ではなく、マグマの上でやっている。

「できねぇだろ!?」

「そう思ってしまう方々には永遠に!」

アルの絶叫に晴れ晴れしく応じ、物理法則なんて鼻で笑う暴挙を体現しながら、直進するセシルスが被害を免れた家屋へ突っ込み、次の瞬間、その家屋が倒壊し、崩れる建物の中から蹴り出された柱が中空へ矢のように飛んでいく。

サイズ比を間違えた太い矢が、巨獣の胴体すら穿ちそうな速度でアラキアへ迫る。が、それはアラキアへ的中する前に発火し、そのまま空中で燃え尽きる。

発光するアラキアの周囲、どれほどの熱量が発生しているのか、彼女の姿どころか空さえも歪んで見えて、生中な攻撃など近付くこともできない。

それは、セシルスにもわかったはずだ。だのに――、

「てい! ていてい! ていていてい!!」

轟音を立てながら、次々と建物をぶち壊すセシルスが、壊れる建物の柱を、屋根を、家財を目にも留まらぬ速さで蹴り飛ばし、空中のアラキアを攻め立てた。

無論、どれならば届くという話ではなく、どれも届かずに空中で消える。

しかも、その届かぬ攻撃の返礼は、掠めるだけで致命傷確実の光の矢なのだ。

「馬鹿、やめろ、わからねぇのか!? 無闇に気を引いてちゃ……」

「何を仰います、アルさん! 逆逆逆逆全部逆! むしろこちらへ僕の方へ全身全霊を引き付けなくてはいけないんですよ!」

「この目立ちたがり……いや」

自発的に建造物を、誘発的に周辺一帯を、帝都の景観破壊に貢献し続けるセシルス。彼のいつも通りの花形役者発言を笑えない一笑に付そうとし、アルは気付く。

セシルスの位置取りは、いずれも帝都の内側にアラキアを置いて、自分が外側へと回り込んで攻撃を誘引する形――すなわち、帝都の内へ攻撃を向けない戦いだ。

それがわかってようやく、アルもセシルスの言いたいことがなんだかわかる。

「今あの女性には意識も理性もありませんよ。あるのは自分が爆ぜないためと殺されないための本能的な防衛行動だけです。放っておくとふらふらと街の真ん中の方に向かいそうですけど真ん中で暴れさせたらどうなります?」

「向こう百年、誰も住めねぇ穴が開く……」

「大勢死にますしね。それが敵ならいざ知らずそうでもない人間が大勢死ぬのはあまり望ましくありません。世界が寂しくなりますから」

そう静かな声色で告げて、セシルスが自らを掠めんとする死の光を避け、自分の発言を実行するための雷速へと身を委ねる。

思いがけず、真っ当なセシルスの真意に驚きを隠せないが、アルは熱を帯びる鉄兜に指を引っかけ、その角度を直しながら踏みとどまった。

――セシルスの言う通り、現状、アラキアには意識を外に向ける余裕はない。

アルの想像を絶する何かを取り込んだアラキアは、それが溢れ出すのを必死に堪え、その障害となりえる脅威に対して反射的に反撃しているだけだ。

そして、セシルスはそれが帝都を滅ぼさないために必要だと、あえて危機的距離感に身を置いてちょっかいを出し続け、アラキアをここに引き止め続けている。

「――――」

セシルスの狙いと、アラキアの置かれた奇妙な状況。

自分にできることはないと、背を向けて走り去るという選択肢は常に頭の端をちらついているが、セシルスとて片足を飛ばされることはある。

それを、アルの存在がなかったことにできるなら、いる価値はある。

「――やるか」

ゆるゆると首を横に振り、アルは長く息を吐いた。

すでに、初っ端に二十二回もババを引いたあとで、ここから先、いったいどれだけババを引く羽目になるかわからない。その結果、自分の正気がどうなるかも。

しかし、正気であっても正気でなくても、見間違うことなく太陽は眩しい。

「なら、オレは、それでいい」

兜の金具を指で弾いて音を鳴らし、アルは前へ一歩進み出た。

そして――、

「――――」

セシルスを狙って放たれた白い光が十数メートル先で炸裂し、余波で吹き飛んでくるマグマ弾が真正面から躱せないアルを捉え――、

「――次だ」

再定義した領域で、凡人なりの大舞台へと踏み出す覚悟を決めた。

△▼△▼△▼△

――かつて、セシルス・セグムントはアラキアに語ったことがある。

帝都では茶飯事とみなされていた『壱』と『弐』の殺し合い。

焼け野原となった大地で、負けたアラキアと負かしたセシルスが歓談していた最中、セシルスは刀で以て雲を斬り、その技を大道芸と称した。

実際、驚かせる以外の使い道はないとセシルスは考え、直接目にしたアラキアも、使い物になるような技ではないと評した剣技。

それは、ロウアン・セグムントが生涯を費やして編み出した無空の神業であり――超越者たる怪物たちにとっては、見てくれの派手な芸事でしか足りえなかった。

すなわち――、

――長い足が空を切り、遅れる豪風が粉塵を吹き飛ばす。

とっさに身を屈めて回避した豪脚、大振りに隙を見せた相手の細い腰へ刃を抜き放ち、それを二つに断たんとして――衝撃が胸部を打ち据える。

肺の中の空気を絞り出され、目を見張る眼下、胸骨を軋ませたのは蹴りを放った女の臀部から生えた複数の尾だ。

「――っ」

柔らかい獣毛の生えた狐の尾、それが信じられないほどの衝撃を伴い、受けた体を背後へ吹き飛ばし、地面を跳ねさせた。

一度、二度と天地がひっくり返るのを視界に見て、三度目の天に別れを告げたところで刀を地に突き立て、その勢いを制動する。踵で地面を踏み砕いて、奥歯を噛みしめながら刀を即座に鞘に納め、抜刀術の姿勢へと――、

「もう、わかったでありんしょう?」

「――!?」

剣光一閃、鞘走りと共に放つはずだった剣技の初動が、鞘に収まる刀の柄に手を添えた女の手によって止められる。瞬間、絶句したこちらの正面で、女がその切れ長な瞳の眦を哀れむように下げて、

「主さんでは、わっちの相手は務まりんせん」

「おおおお――!!」

その哀れみを両断するように、押さえられた刀を引き抜くのではなく、柄の位置を固定したまま鞘を抜き、半回転しながら魔獣の骨で拵えた鞘を横っ面に叩き込む。

勢い、角度、振り切った手応え、いずれも人間の頭蓋を砕くには十分なものだった。

しかし――、

「――――」

バラバラと、衝撃で砕けたのは鞘の方で、女――アイリスと名乗った狐人は、その表情に何ら痛痒を浮かべていない。

ただ、哀れみを残した唇を震わせ、柄を押さえていた手を持ち上げると、

「死なせはせんでありんすが、死ぬほど痛いでありんす」

掌底が額に打ち込まれ、後ろに縦回転しながら体が吹っ飛んだ。

今度こそ、受け身や耐えるといった姿勢は揺れる脳ごと粉々にされて、水晶宮の前の長い長い大通りを真っ直ぐに、何にも引っかからずに数十メートルも跳ねていく。

跳ねて、跳ねて、跳ねて転がって、転がり転がり、大の字に転がり込んだ。

そして――、

「――ぁ」

ほんのわずかな戦いで半殺しにされ、ロウアン・セグムントは瞠目する。

あまりにも、あまりにも強すぎる。

信じ難いほどの強者。無論、強い相手であることは重々承知していた。それでも、なんだかんだで最後に勝つのは自分だと、そう確信していた。

これまでがそうだったように、今回もそうなるだろうと、そう――。

――ここで一つ、ロウアン・セグムントという男の不幸を語ろう。

彼に同行したハインケル・アストレアは、選ばれなければ得られなかったモノに何一つ選ばれなかった不幸な男だった。

一方、ロウアン・セグムントは、選ばれなければ得られなかったモノに選ばれ続け、その結果として不幸になった男だった。

ロウアンには悲願があった。求め続けたものがあった。渇望し続けた祈りがあった。

『天剣』へ至るため、あらゆる苦難に耐え、ありとあらゆる必要事をこなし、どんな悪魔や怪物と罵られようと、それを成し遂げるのだという餓えがあった。

その願いに一切の嘘も、偽りもない。妥協や諦念とも無縁だった。

自らの究めんとする剣や技に不誠実に、鍛錬を欠かしたことも一度だってない。

ただ、ロウアン・セグムントは出会わなかった。

お互いを高め合う好敵手に、越えなければならないと己を奮い立たせる強敵に、一人では辿り着けない境地に押し上げてくれる愛する人に、出会わなかった。

出会う相手を片端から斬り、何の因果か自分の剣力の通用する相手としかぶつからず、世に存在した数多の超越者と衝突する機会を逸し続け、ついには至れぬと絶望して死を望もうとしたところに天命を授かって『星詠み』となる。

機会があれば、ロウアン・セグムントはその剣力を世界に轟かせたかもしれない。

だが、ロウアンは好敵手も強敵も愛する人もおらず、独りきりであり続けた。

剣の道を究めるには情など不要と、そんな風に割り切っていたわけでも、絆を結んだ相手から手痛い裏切りに遭ったわけでも、ない。

ただただロウアンは、自分の現在地を教えてくれる相手とも、自分を現在地から押し上げてくれる相手とも、出会うことができなかっただけだった。

水晶宮から直下したアイリスの初撃を回避できたのは、他者の死を厭う彼女に攻撃を当てるつもりがなかったからだ。

屍人となったバルロイ・テメグリフが『雲切』から逃走したのは、セシルス・セグムントの思わぬ反撃を恐れ、深追いを避けたからだ。

屍人の軍勢が引き起こす『大災』の中でこれまで無事だったのは、彼の剣力の通じる相手しか目の前に現れてこなかったからだ。

かつて皇帝暗殺を教唆し、それを拒否したセシルス・セグムントがロウアンの命を取らなかったのは、「無理でしょうけど父さんが本当に強くなって戻ってきて僕と一戦交える展開って熱い気がしますね!」と彼が気紛れに思ったからだ。

今日までロウアン・セグムントが命を拾い続けてきたのは、幸か不幸かの天秤が傾く状況で、天秤を必ず幸運の方へ傾けてきたからに他ならない。

そして今、屍都と化した帝都でロウアンが遭遇した相手もまた、唯一、ロウアンの命を奪う気がない敵であった。

――世界はロウアンの願いを叶えないが、彼が生き残る道だけは常に照らし続ける。

「――――」

「――続けるでありんすか」

ゆっくりと、大の字になった体を起こしたロウアンに、アイリスが眉を顰める。

遠く、彼我の距離は数十メートル開いたが、その意識の逸らしようがない存在感がそうさせるのか、アイリスの言葉がロウアンにはちゃんと聞き取れた。

――否、あるいはこれは、初めて強大な敵と遭遇したことで起こった変化か。

自分の外側に常にあった、一枚の決して壊れぬ殻が破られたような、そんな感覚が理由かもしれない。それにより、はっきりと理解する。

正面、こちらを見据えるアイリスの全身を巡る強力なマナ――その膨大さと、先ほど相見えた一戦ではっきりとわかった。

屍都と化したルプガナで、おそらくは敵の首謀者がいるだろう水晶宮の番人として立ちはだかったアイリス――この女こそが、ヴォラキア帝国最強の存在。

『九神将』の『壱』と謳われたセシルスすらも及ばぬ、この災いのための最終存在――。

「かはは、僥倖僥倖、何たる好日でござんしょう……!」

その事実を肌で感じ取り、ロウアンは頭蓋の中で息子が大声で歌っているような耳鳴りを聞きながら歯を剥いて笑った。

『天剣』へ至るために、いずれ『天剣』へ至った息子を斬る以外の手段はないと思った。だがしかし、こうしてセシルスさえも超える存在と遭遇したなら話は早い。

いずれではなく、今だ。

今この瞬間に、ロウアン・セグムントは剣の頂へ至り、『天剣』の座に就く。

そのために――、

「――剣客、ロウアン・セグムント」

今一度、手放さずに済んだ刀を鞘に納め、足を開いて腰溜めに構える。

はるか視界の先に立つアイリス、彼我の距離が開いたのが運の尽き――否、頂へ届かんと血と汗を流した己の日々の賜物だ。

あとは、それに見合った対価を、アイリスの細い首からもらう。

「――『雲切』」

鞘走りと共に剣閃が放たれ、それが立ち尽くすアイリスへと真っ直ぐに向かう。

途上の空気を斬り捨て、間に割り込んだ木の葉を斬り捨て、音や風さえも置き去りにしていく一閃は、ロウアンのこれまでの人生で最高に研ぎ澄まされた一刀だ。

それが、美しいドレスの女、アイリスの首を斬首し――、

「――ここまででありんす」

首を傾けて、それだけでロウアンの人生最高の一閃を躱し、吐息のようにこぼしたアイリスが強く地面を踏み、前進する。

ロウアンに、二太刀目を放つ時間を、『大災』の最終存在は与えてくれなかった。

△▼△▼△▼△

真上から叩き付けられた衝撃に、ロウアンは為す術なく街路に深々埋められた。

「――――」

前のめりに地中にめり込んだ剣客の姿を見下ろし、アイリスはそれをしたドレスの裾を翻して、相見えた男に背を向ける。

もはや、戦う力を残していないだろう相手だ。背を向けても何の脅威もない。

悲しいかな、たとえ力を残し、不意打ちを仕掛けたとしてもアイリスには届かないが。

「命のあるうちに、帝都を離れておくんなんし」

弱者であれば指先一つで、強者とあれば死闘の果てに告げるだろう言葉。

これを言い渡す相手として、ロウアンはひどく厄介な人物だった。――弱者ではない。だが強者でもない。強いて言うなら、常人の頂点だ。

そして、今の帝都でその現実は、居合わせることが罪とさえ言ってもよかった。

「罪、でありんすか。いったい、わっちはどの口で……」

そっと自分の胸を押さえ、アイリスは自らを呪うようにそうこぼす。

それでも、決めた。決めてしまった。そして、それを言い訳できない形で実行した。たとえ誰が何人押し寄せようと、その全員を押し返せさえすれば。

そうすれば、アイリスとユーガルドの物語は――、

「――何ゆえ、立ちなんす」

足を止めて、アイリスは振り返らずに背後の気配に問うた。

それは、今しがたの一撃で昏倒させたはずの剣客、ロウアンが立ち上がる気配だ。意識を刈り取ったと思ったが、まだ甘かったかと己を悔やむ。しかし、あれ以上の力を込めれば頭蓋を砕きかねなかった。命を奪うつもりはないのだから。

力の差は十分に伝わったと、その認識が甘かったのか。たとえ力に差があっても引き下がれないこともあろうが、これもそうなのか。

「相手に見逃すつもりがないと、そう背水を負うこともありんす。でも、わっちは」

「……その、つもりはねえと。それが、問題でござんす」

「――――」

弱々しく掠れた声の応答は、アイリスの理解を越えていた。

それが戦士の誇りや男の意地というものであるなら、アイリスにはわからぬものだ。

アイリスは思ってしまう。それらよりも、己が大事にしたいものを。

だから――、

「まだ、諦める気になれないなら――」

その心が折れるまで、自分の心がひび割れる音を聞いても続けよう。

そう、アイリスがロウアンの志に向かい合おうとした、そのときだった。

「……え」

振り向いて、アイリスは愕然と目を見張った。

それは、ほんの瞬きの間にロウアンが自分との力の差を詰めたなんて異常事態でも、誰かがこの場に参じ、ロウアンの代わりにアイリスへ武器を向けたのでもない。

いるのはロウアンだけで、しかし、アイリスを驚かせたのは確かにロウアンだ。

――その手にした刀で、自らの首を致命的に切り裂いて。

「な」

一拍、次の瞬間に血管を断たれた首から凄まじい勢いで血が噴出した。

見る見るうちに街路が噴き出した血で染まり、ロウアン・セグムントの体から命の源が流れ出して、地面に吸われていく。

「どうして……?」

理解を飛び越した光景に、喘ぐようにアイリスの唇から息が漏れた。

そのアイリスの様子に、首から血を噴くロウアンが狂気的な光を宿した目を見開いて、逆流する血を口の端から流しながら笑った。

笑い、言った。

「たとえ死すとも、某は――」

その言葉の途中で、ロウアンの青い瞳がぐるりと回り、白目を剥いて倒れ込む。

それが意識の喪失ではなく、命の喪失であることを感じ取りながらも、アイリスはとっさに駆け寄り、命だけは救おうとした男の命へ手を伸ばそうとした。

しかし、その手は男の亡骸に届かなかった。

何故なら――、

「「――某は『天剣』へ至る」」

走り出したアイリスへと、死したばかりのロウアン・セグムントの屍人が、四方から複数人で一斉に襲いかかったからだ。

△▼△▼△▼△

――放たれた龍の息吹が帝都の街並みを貫いて迫ったとき、ハインケルにできたことはほとんどなかった。

ただ、生存本能の訴えるままに剣を振るい、地面に気休め程度の穴を掘った。そしてそこに身を滑り込ませるのが間に合っただけだった。

もっとも、気休めは気休めで、龍の息吹は射線上の地面をも深々と抉りながら迫ったから、それは気休めにすらならなかったかもしれない。

かくして親竜王国を長年守り続けた『剣聖』の家系、その現当主であるハインケル・アストレアという男の人生は、皮肉にも『龍』の息吹に跡形もなく掻き消され――、

「――オイオイ、簡単ッにゃァ死ねねェぜ、オッサン」

首根っこを掴まれ、無理やりに開けた穴から引きずり出されたハインケル。その体が猛烈な勢いに引き上げられ、直後、龍の息吹が世界を焼く焦げ臭い香りを嗅いだ。

「うお、おおおぁぁぁ!?」

ぐるぐると視界が回り、割れた額の流血と、口の端から溢れた胃液、とにかく体の中身を遠慮なくばら撒きながら、浮遊感を味わった体が地べたに落ちる。

受け身も満足に取れない状態で投げ出され、地面に腕をついて体を起こし、周りを見た。

「――ぅ」

思わず呻き声が漏れたのは、直前まで自分がいた位置の惨状を目の当たりにしたからだ。

そこは龍の息吹に撫でられて、白い蒸気を噴きながら完全に消滅してしまっている。もしも逃げるのが遅れれば、自分もあの蒸気の一部になっていただろう。

「大将たちが入りッやすいよォに、南で暴れて人目を惹くってのが俺様の役目ッだったんだが……ハッ! 目ェ疑ったぜ」

「あぁ……?」

「てっきり逃げたと思ってたが、根性あったじゃァねェか、オッサン」

そう荒々しさの中に確かな称賛を込めた声、傍らからのそれにハインケルが振り向けば、そこに立っていたのは自分を引っ張り出した人影だ。

ちょうど逆光が当たり、はっきりと顔の見えない相手。直前の龍の尾撃の衝撃もあって耳鳴りもして、それが知っている声なのかも判然としない。

ただ、相手はそんなことは関係ないとばかりに牙を鳴らし、前に進み出た。

地べたに膝をつくハインケルを背後に、こちらを睥睨する巨大な『雲龍』と対峙する。

そして、己の胸の前で力強く両の拳を打ち合わせて、

「――俺様が手ェ貸してやるぜ、オッサン! 『クウェインの石は一人じゃ上がらない』ってなァ!!」

――獣が咆哮するように、『ヴォラキア帝国を滅亡から救い隊』の最先鋒、ガーフィール・ティンゼルが『雲龍』との開戦に雄叫びを上げた。