軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八章15 『礼賛』

のんびりした口調で頭を掻いて、金色の煙管を噛んだ獣人が笑いかけてくる。

長めの黒い体毛と、人懐こい雰囲気の顔つき。穏やかな語り口には邪気が感じられず、そのゆるっとした立ち姿には警戒心なんて抱きようもない。

これが走り続ける連環竜車の中、王国と帝国の重要人物が会談した一室で、実力者を含めた全員にその存在感を気付かせなかった事実を忘れれば。

「ハリベル、だと……?」

そう、厳めしい声に戦慄を交えて呟いたのは、その存在に最も強い警戒心を発し、守るべき主君とその同盟相手を背後に庇ったゴズだった。

自身も『九神将』の一人であり、戦士だらけの帝国で最強格の一将に名を連ねる武人。そのゴズをして、目の前の獣人の隠形に気付けなかった。

だが、彼の声の硬さはその事実だけが理由ではない。

「――『礼賛者』か。都市国家の要が何用だ?」

ゴズの背後に庇われ、その巨体越しに獣人――ハリベルを見据えたアベルが問う。

問いかけの前に付いたのは、かの犬人の異名だろうか。何となく、聞き覚えがある気がすると、驚きに掻き回される記憶の箱をスバルが手探りする。

すると、その眉を顰めたスバルに、ハリベルが笑みに見える細い目を向けた。

「そない一所懸命考えんと、大した名前でもあらへんよ。僕、褒め上戸やからそう呼ばれとるだけやし、そもそも要なんて買い被りもええとこや」

「買い被り……」

「そそ。ただ、カララギに僕より強い人がおらんってだけやねんから」

平然と、それこそ天気の話をするみたいに答えたハリベル。

彼の言葉にスバルは目を丸くして、『カララギ』という単語と脳が結び付いた瞬間、先ほどの引っかかりが何だったのか、理解が点火される。

カララギ都市国家の『礼賛者』、その異名が意味するのは――、

「カララギ都市国家最強のシノビ! 貴公、何ゆえにこの竜車へ乗り込んだ!!」

次の瞬間、竜車の床を爆発させる勢いで踏み込み、ゴズが佇むハリベルへと自らの武器である鎚矛を突き付けた。

ゴズの武器は独特な形をした鎚矛で、長柄の先端に打撃するための棘付きの球体がくっついているようなものだ。レムの愛用していたモーニングスターと近いが、その大きさと重さは圧倒的にゴズのものの方に傾く。

ともあれ、突如現れた都市国家最強に、帝国の武人が武器を突き付けた形だ。

あるいはそのまま、一触即発に物事が突き進むかと思われた。

しかし――、

「驚かせた僕が言うことやないけど、まあまあそう熱くならんと座って話さへん?」

「ぬ、ぐ……!」

突き付けられた鎚矛越しに、ひょいと首を傾けたハリベルが声をかける。そのハリベルの言葉に顔を強張らせ、ゴズの力のこもった腕が震えた。

ゴズの持つ黄金の鎚矛、その先端にハリベルが同じく金色の自分の煙管を当てている。それだけで、ゴズの武器は微動だに動かせなくなっていた。

「――――」

おそらく、ハリベルは当てた煙管で絶妙に力のバランスをコントロールし、ゴズが鎚矛を上下左右、もちろん突き込むこともできない状態に押さえ込んだのだ。

ゴズが武器をどう動かそうとしても、反対側から煙管に押されて動かせなくなる。それは単純な腕力ではなく、力の流れを完全に制御する技の極致だ。

「貴公……っ!」

顔を赤くしたゴズが歯軋りし、それが室内に大きく響き渡る。が、ハリベルのしている一連の行為は、そのゴズの歯軋りと比べても静かすぎるものだった。

その時点で、ハリベルという存在のこの場の格付けは済んでしまっている。

「やめよ、ゴズ。それにこちらを害する意図があれば、拍手などして己を誇示するより前に全員の首が落ちていよう」

「そうしなかったんだから、あなたは私たちの敵じゃない……のよね?」

そのゴズとハリベルの静かな攻防に、アベルとエミリアの二人が口を挟んだ。

二人の言う通り、実際、ハリベルがその気になれば車内の全員、彼の存在に気付く前に殺されていておかしくなかった。

そこからの指摘にハリベルが、大きな口を笑みの形に緩めて、

「そそ、わかってくれて嬉しいわぁ。皇帝さんはともかく、半魔の子ぉは素直でええ子やね。僕とおんなじ嫌われ者やのに真っ直ぐ育って……立派な親御さんやったんやね」

「ありがとう。私も、パックと母様たちに育ててもらえて幸せ者だと思ってるの」

胸に手を当ててお礼を言ったエミリアに、頷いたハリベルが煙管を引く。途端、得物を解放されたゴズだが、そのまま殴りかかるような無謀には出られなかった。

悔しげながらも、ゴズはハリベルをじっと警戒し、

「先の言葉を違えれば、私の命と引き換えにしても貴公を討つ。覚えておけい」

「やらんやらん。ほら、こうして座ってお行儀よくしとるから」

ひらひらと両手を振って、ハリベルは尻尾で傍の椅子を引くと、そこに片膝を抱くようにしながらちょこんと座った。

ゴズと同じぐらい背の高い人物だが、そうして痩身を丸めていると大型犬っぽい印象が強くなる。行儀よく、というのも皮肉ではないように見えるが。

「とはいえ、ここでカララギが介入してくるとはねーぇ。王国と帝国ほどではないにしても、都市国家も帝国と仲良しこよしとは聞かない。ましてや、君が公表している立場のことを考えれば特に、だ」

「お、みんなして僕のこと知っとるん? なんや、有名人みたいで照れるわぁ」

「ロズワール、あの人が公表してる立場って……」

「見た目相応に無知なバルスに教えてあげるけど、『礼賛者』ハリベルは狼人なのよ」

狼人と、そうラムから説明され、一瞬、スバルの心と体が震えた。

ただしそれは目の前のハリベルに対するものでなく、別のことが理由の震えだ。ラムの教えてくれた事実自体には、あまりスバルが思い当たる節はない。

だが、そんなスバルの理解を余所に、常識は常識として話が進められる。

「帝国の狼人に対する態度は知っていよう。それで国境を越えてこちらへ足を踏み入れるとは、貴様もずいぶんと命知らずと見える」

「そらま、僕ももちろん知っとるし、ええ気分もしてへんけどね。けど、僕が自分が狼人やって隠してへん理由はそっちも知っとる通り、誰も僕を殺せんからやもん。見たとこ、セシルスもおらんみたいやしね」

「――! あんた、セッシーのこと知ってんのか」

「うん? おお、知っとるよ? 前に僕のこと殺しにきよったからねえ。なんや、ちょっとやり合ったら『決着は今じゃなさげです!』とか言うて帰ったけど」

狼人を巡る話題から逸れたが、スバルの疑問にハリベルは忌憚なく答えてくれる。

まさかの回答、まさかの接点だ。セシルスとハリベルは殺し合った仲と、今の話からするとケンカを売ったのはセシルス側のようだが、それも納得度は高い。

その上で――、

「狼人に対する果断な姿勢を示すヴォラキア帝国へ、カララギ都市国家で最も知られた実力者が現れる。それも、畏れ多くもヴィンセント閣下がおられる客車に」

「付け加えれば、我が国と王国との重大な会議の内容も知られたな。これはこれは、『青き雷光』を焚きつけてでも首を刎ねねばならない事態ではないか」

「……セリーナ、君の悪趣味でこの場の全員の身を危うくしないでもらえるかな」

状況を整理したベルステツに便乗し、セリーナが上機嫌に物騒な見解を付け加える。その内容の過激さは、思わずロズワールが素で注意を入れたほどだった。

そうして、ハリベルが現れたことへの最初の驚きと熱が多少なり薄れると、結局は最初の疑問に立ち返ることになる。

「三度目はないぞ。何用で現れた、『礼賛者』」

たとえ、この場の武力で相手が圧倒していようと、おもねるという言葉はアベルの辞書に載っていない。その意図的にへりくだる系の言葉を塗り潰した辞書の持ち主に、ハリベルがどう反応するかとスバルは息を呑んだ。

が、高まる緊張と裏腹に、ハリベルは座ったままテーブルに頬杖をついて、

「そうピリピリせんと、僕の用事なら最初に言ったやん? ちょぉ、挨拶させてもろてもええかなって」

「その挨拶ってのは、挨拶代わりに俺たちの心臓を抜き取るとかそういう……?」

「こわっ! おっかないこと考える子ぉやなぁ。そないなことせえへんて」

「だったら、本当にただの挨拶、顔見せが目的とでも言うのかしら?」

「そやよ?」

恐る恐る、シノビ流の挨拶を掘り下げようとしたスバルに抗議し、続くベアトリスの問いかけにもハリベルはあっけらかんと答えた。

ここまでくると、本当にハリベル側から乱暴な真似をするつもりはないように思える。

「そもそも、回りくどいことをしなくても僕たちを殺せる相手ですからね。ここまで弄んで命を取るなんて悪趣味しないのでは?」

「俺も怖がられたけど、人からそういう意見が出ると引くな……けど、だとしたら」

「だとしたら? 何かあるの、スバル」

ごくりと唾を呑み込み、ハリベルの態度にスバルは恐ろしい想像をする。

エミリアに問われたそれは、ハリベルが答えたままの人物像だとすると――、

「ラインハルトとこの人がまともなら、セッシーのあの体たらくは……」

「やめよ、ナツキ・スバル。協力要請こそしたが、我が国の醜聞を掘り下げる真似を許した覚えはないぞ」

「醜聞とは……と、私奴も言い切れませぬな、セシルス一将の場合は」

セシルスの人間性の問題について、スバルとアベルどころかベルステツまで意見が一致する。この場にいないとはいえボロクソに言われるセシルスだが、おそらく彼がこの場に居合わせていても同じことを言われた確信があった。

実際、強者には見合った振る舞いをしてもらいたいという幻想があるスバル的には、ラインハルトやハリベルの振る舞いの方が理想的ではある。

他方で、剣奴孤島にいたのがセシルスでなければうまく回らなかったという確信もあるので、何事も良し悪しがあるという話だ。

「それで? 結局、何が目的の挨拶なの? この竜車は北上こそしているけど、カララギとの国境はまだ先……あなたの警戒を招くほどではないでしょう?」

「ん~、そのあたりのことは僕より雇い主に聞いてくれた方が早いんやけどね。うっかり拍手してややこしくしてもうたから……あ、でもそろそろみたいや」

「そろそろって……」

やや困り気味に目尻を下げたハリベル、しかし彼が何かに気付いて顔を上げると、それにつられてスバルも彼の視線を辿った。

その、狼顔が向いたのは隣の車両と繋がっている扉だ。その扉がきっかり一拍後、向こう側からノックされる。

「――会議中、失礼いたします。お伝えしたきことが」

と、聞き覚えのある声で報告がなされ、アベルが「入れ」と静かに命じると、開かれた扉からモコモコした頭の小柄な男性が姿を見せる。

その相手を見た途端、スバルは目を丸くした。

「ズィクルさん! よかった、無事だったのか!」

「ええ、ご心配には及びません。あなたの方こそ、ご無事で何よりです、ナツミ嬢」

「この姿でなお俺をそう呼んでくれるとは……」

出会ったときも別れたときも、女装状態だったスバルに微笑みかける男、帝国二将ズィクル・オスマンの健在な姿に、スバルはホッと胸を撫で下ろした。

その上で、微笑んだズィクルは表情を引き締めると、

「閣下、お伝えすべきことが……ただ、そちらの方は」

「あれなるものはいったん捨て置け。おそらく、貴様の報告と無縁ではない」

部屋の片隅にいるハリベル、その存在を気にかけたズィクルに不親切なアベル。だが、ズィクルは皇帝の言葉足らずに慣れている様子で「は」と頷くと、

「ドラクロイ上級伯の飛竜船が戻られました。城塞都市ガークラの要人と、都市国家からの客人を連れて」

「――都市国家の客人」

ちらと、アベルが黒瞳をハリベルに向けて呟く。

この連環竜車の目的地が城塞都市ガークラであるため、そこの関係者が飛竜でやってくるのは自然なことだ。そのタイミングでカララギの人間が同行したなら、それがハリベルと無関係なんてことはありえないだろう。

つまり――、

「ハリベルさんは、その人たちより先にきたの?」

「僕、高いところ苦手やのん」

答えになっているようないないような可愛いことを言って、ズィクルが持ってきた情報と自分が関係している旨を肯定するハリベル。

高いところが苦手で飛竜船に乗らなかった、は納得できても、だから飛竜船より早く到着しました、は納得いかない気がするが、この世界の超人に言っても仕方ない。セシルスだって、空を飛ぶより早く走るからどっこいだ。

ともあれ――、

「わざわざ私の飛竜船に乗り込んできたほどだ。となれば、よほどの大物が重要な話を持ってきたのだと期待しても?」

「少なくとも、可憐な客人ご自身はそう仰っています」

「貴様のその言いようからして、女か」

わかりやすいズィクルの報告、カララギ都市国家からきた女性。

その内容にスバルは首を傾げるばかりだが、どうやら他の身内は違った。繋いだベアトリスの手に力がこもり、彼女はエミリアの方を見ると、

「エミリア、カララギからの客人という話なのよ」

「ええ、そうね。それってもしかして――」

「え? え? なんか、二人は心当たりが……」

あるのか、とスバルが問おうとしたところだ。

「――なんや、人が苦労して帝国くんだりまで飛んできたったのに、ずいぶんと薄情なこと言うやないの、ナツキくん」

「――――」

不意に割り込んだ声色、はんなりとしたそれがズィクルの背後から届く。

どうやら、その客人は隣の車両との連結部で待たされていたらしいが、こちらの会話に参加してくるとはかなりの地獄耳だ。でも、その地獄耳にも納得がいく。

だって商人というものは、常に儲け話のチャンスに耳をそばだてているものだから。

「閣下、どうされますか?」

聞こえた声がこちらの話を聞いていた事実に、ベルステツがアベルの意思を問う。その問いかけにアベルの一瞥がスバルに向けられ、その表情を確かめた。

それからアベルは、声の聞こえた扉の方を見て、

「どうやら、ただの無粋無遠慮の奴輩ではないらしい。顔を見せよ」

「そしたら遠慮なく」

皇帝の許しを得て、その声の主がやんわり答える。と、いつの間にか扉の脇にすっくと立ったハリベルが、その手で車両の扉を開き、相手を招き入れる。

そのハリベルの配慮に、現れた人物は「おおきに」と微笑んだあと――、

「しばらくぶりの顔合わせやけど、元気そうでよかったわぁ」

「お……」

「それにしても、エミリアさんらは厄介事と巡り合わせる天才やねえ。またぞろ、ウチたちの力が必要みたいやん?」

柔らかい口調と微笑みを湛え、そう容赦ない評価を口にしたのは、色素の薄い紫髪をまとめて、キモノに袖を通した狐の襟巻の女性――アナスタシア・ホーシン。

その彼女の傍らには、従者としてワソーの青年が付き従っている。

「アナスタシアさんと、ユリウス!?」

ここで会うとは思わなかった二人、その姿にスバルは仰天した。

そのスバルのひっくり返った声にアナスタシアは口元に手を当てて笑い、名を呼ばれた青年――ユリウスも、その左目の下の精悍な傷を指でなぞってスバルを見た。

そして――、

「――無事で何よりと、そう言いたかったのだが、何故君はいつもそうなんだ?」

「俺がいつも小さくなるレベルのトラブルを起こしてるみたいに、言うな!!」

そんな、再会を喜ぶ代わりの怒声が爆発したのだった。

△▼△▼△▼△

膝から力が抜けて、荒れ果てた野っ原に前のめりに倒れ込む。

体を支える気力さえなかったから、顔面を容赦なく大地に打ち据えられた。鼻が潰れるような痛みがあり、切れた唇から血が流れる。

その血を舌で舐め取り、カラカラの口の中がほんのわずかに潤った。

「――――」

体中の力が、何も残っていない。

気力が先に尽き果てれば、体力が底を尽くのもまた早かった。そしてその両方が尽き果ててしまったから、自分はここで朽ち果てるのだろう。

何もかも、何もかもが無駄だった。

やろうとしてきたこと、やらなければと息巻いていたこと、やり続けてきたのだからと惰性に続けてきたこと、その全部が無駄だった。

所詮、自分は自分でしかなかった。地獄とは、自分の内にあったのだ。

ならば逃げられるはずもない。誰も逃げられない。自分という地獄からは。

「ちく、しょう……」

悔しさが唇からカスカスの声で漏れた。

もう、涙さえ湧き上がってこない。そんな熱量も、資格も自分にはなかった。

全部が、異様だった。手が届かない場所だった。手の届かない場所に手を伸ばす、それで人生最大の過ちを犯したのに、またしても同じことをした。

反省がない。だから後悔しかない。

自分なんて好きになれるはずもなく、嫌いでしかなかったが、ついに憎くなる。

愛するものも愛し続けられない。もっと早く、自分のような出来損ないは――。

「――おお? 死体なら身ぐるみ剥がそうかと思ったが、まだ息があったとは。それはまた善哉善哉」

不意に、倒れ込んだ体の頭上、誰かの声が聞こえてきた。

身じろぎする余力もない体だが、その声の主が手を伸ばしてきてひっくり返される。途端、視界に青い空の眩さが飛び込んで、「う」と呻き声が漏れた。

屈辱や悔悟では湧かなかった涙が、じわりと滲んでくる。

それが無性に悔しかった。

何もかも、この体は徹頭徹尾、自分のためにしか働かないのかと。

「何を悔しがることがおありか、行き倒れ。兄さんの体の全部が全部、生きててこその瞬きでござんす」

「生きてて、なんて……」

「おっと、生きるのが嫌になった手合いかい。それはそれは……その薄暗い考えと戦う術は、某の知る限り、一個しかござんせん」

「――――」

声の主が笑った気配がして、青い空の映る視界に逆さの顔が割り込んでくる。逆光でよく見えない顔だが、相手がニタニタと笑っているのはわかった。

ただしそれは、こちらを嘲るものではなく、それ故に理解できない理由の笑みだ。

しかし――、

「どう、すれば?」

自分の中に答えが見つからないなら、自分では理解できない相手の考えを聞く。

少なくとも、自分よりよほど真っ当な答えが聞こえるのではと、まだ救われたがる自分を呪いながら尋ねた。

その問いかけに、相手は我が意を得たりとばかりに笑みを深め、

「決まってらぁ。――浴びるほど、酒を呑むんだよ」

答えの直後に襟首を掴まれ、そのまま強引に相手に引きずられる。両足を投げ出した姿勢のままで、荒れ野をずんずんと進んでいく男。

抵抗できないのをいいことに、男はこちらを引きずりながら鼻歌など歌い、

「某はロウアンってケチな浪人だ。兄さんは?」

「――――」

「兄さん、名前ぐらいあんだろう。教えても減るもんじゃなし」

気安い調子で馴れ馴れしく、ロウアンと名乗った男の態度に長い息を吐く。

答える義理はなかったが、答えを拒む理由も特段なく、もはやどうにでもなれと思いながら男は――、

「……ハインケルだ」

そう、互いの立場に気付かないまま、ハインケル・アストレアは名乗った。

彼は知らない。――偶然や宿命とは、運命が好んで使う常套手段なのだと。