軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七章96 『深愛で描く』

――『九神将』の一人である、『鋼人』モグロ・ハガネ。

彼が、本当は鋼人でないことを知るものは、ヴォラキア帝国でも一部に限られる。

本来の鋼人は、その肉体を鉱物や金属といった無機物で構成した、人と物の狭間のような存在として生まれる。肉体の一部に金属部位を持つ刃金人は、その鋼人から派生した種族と考えられていて、その異質な生態には不明な部分が多い。

種としての希少性はさすがに竜人には劣るものの、外見のみならず精神性まで人族と一線を画する鋼人は、意思疎通の困難さという意味では竜人すら圧倒する。

ある種、素養さえあれば会話できる精霊よりも接触の困難な存在、それが鋼人だ。

それ故に、帝国一将の座に上り詰め、あまつさえ問題の多い他の『九神将』と比べて接しやすいとすら言われるモグロは、鋼人の中の異端者と認知されている。

しかし、実態はそうではなく、モグロは自らの外見と、他者と関わり合わない鋼人の種族的な特性に便乗し、鋼人を自称しているだけの存在だ。

そして、そのモグロ・ハガネの正体故に、アベルは確実視していた。

――モグロこそが、帝都攻略を目的としたこの決戦における、最大の障害であると。

△▼△▼△▼△

「――――」

全身を捉える衝撃に打ち上げられ、あまりに強大な存在と目が合った。

そのまま、立て続けの一撃を喰らい、命を四散させる未来は避けられないと、ついに自分の運命の終着点の訪れを確信した。――はずだった。

「かふ――っ」

極限まで萎んだ肺が膨らみ、その痛みがハインケルの意識を覚醒させる。

途切れた意識が戻り、最初に感じたのは背中を支える硬く大きな感触――地面だ。空に打ち上げられ、空で飛び散るはずだった体が地べたの上にある。

その事実を認識し、困惑が頭の中を占めた。何故、どうして、何があってと。

だが、自分が生きていると脳が理解したと同時に――、

「剣が……」

痛みを訴える体、その空いた手に剣の柄の感触がない。とっさに反対の手を腰に伸ばすも、そこに下げた鞘にも重みがなかった。

首を巡らせ、うるさすぎる耳鳴りが脳みそをガンガンと揺らしてくる視界、ハインケルは自分から離れた場所で、斜めに地面に突き刺さった剣を見つけ、息が漏れる。

消えたかと、なくしたかと、とんでもない焦燥感に全身が心臓になったみたいにうるさく跳ね回る感覚を味わって――、

「――クソ」

それらを全部やり過ごしてから、剣をなくした心配をした自分が嫌になった。

その一瞬の心の動きが、そのまま中途半端な自分を象徴しているみたいに思えて。

「何が……」

自分で自分を嫌いになる要因を増やしながら、ハインケルは苦々しい感傷を振り切る。

死んでいない。生きている。だが、それ自体がおかしなことだった。

あの瞬間、ハインケルは自らを『九神将』と名乗る存在と目が合い、確かな殺意を向けられたのだ。――殺すと、そうはっきりと宣言された。

事実、宙に打ち上げられたハインケルは、そこに一撃を加えられるだけで為す術なく四散し、命を散らしたはずだ。

何故そうならなかったのか。その答えを求め、視線を巡らし――、

「――あ?」

思わず、呆気に取られた声が漏れる。

だが、それも当然だろう。そのぐらい、ハインケルの見たものは馬鹿げていた。あまりにも、あまりにも、あまりにもあまりにもあまりにも、現実離れしていて。

――世界が、ハインケルを中心に二つに割れ、違った地獄を描き出している。

右の空は、赤々とした炎で作られた分厚い雲が灼熱の世界を包み込む。

左の空は、白雲を纏った巨大な威容が翼を広げ、凍てつく大地を睥睨する。

「燃える空と、白い龍……」

あってはならない光景に瞠目し、ハインケルは呆然とそう呟いた。

あるいは、死んでいないとそう感じたことは間違いだったのかもしれない。すでにハインケルは死んでいて、だからこんなこの世のものとは思えない光景を。

「――っ」

受け入れの限度を超えた世界に、現実逃避を望んだ思考がかき乱される。

ハインケルにそうさせたのは、上体を起こして地べたに横たわるその全身を、不意に黒い影に覆われたからだ。

まさか、二体目の龍が真上を横切ったなんて考えたくもなかったが――、

「うおおおお――っ!?」

空を見上げ、影の正体を目にしたハインケルの喉が悲鳴を上げる。

凄まじい勢いで頭上を通過し、空を回転しながら飛んでいくのは、まるで家と見紛うような巨大な大岩――それも、一つや二つではない。

次から次へと、規模感を間違えた投石が頭上を通り抜け、ハインケルの頭側から爪先方向へ向けて、恐ろしい豪風を纏いながら飛んでいくのだ。

そして、それが向かった先にあったのは――、

「――――」

ドン、と激突の衝撃が世界を轟かせ、ハインケルは地面が咳込んだのかと思うような揺れに尻を浮かされた。

それが立て続けに連発して響き渡り、慌ててその場に起き上がる。

次々と投げ込まれた巨大な投石、それが連続して命中したのは、これもまた規模感を間違えた凄まじく大きな人影――立ち上がった、城壁そのものだった。

「……モグロ・ハガネ」

それが、この帝国で最も恐れられる九人の一人であることを、ハインケルは視覚情報を通じて、全身全霊で以て味わう羽目になった。

意識が飛ぶ寸前に目の当たりにしたモノ、それが目の錯覚か、恐怖に竦んだ性根が見せた幻覚だったと思いたがったが、どちらでもなかった。

――数十メートル、あるいはそれ以上の巨体となったモグロが、本来ならハインケルたちが攻略すべきだった第三頂点として文字通り、立ちはだかっている。

文字通り、そう文字通りだ。

これほど文字通りという言葉が適切な事態が、この世に存在するだろうか。

その場に膝立ちするように起き上がった人型の城壁は、引き剥がされた農地を、舗装された街路を自らの腕や胴体として用い、信じ難い防衛行動を行っている。

巨体の足下には、ハインケルが躍起になって斬り倒した石人形が群れを成しており、それらの頭を飛び越えて打ち下ろされる巨体の拳は、まるで町が落ちてくるようだ。

「――――」

その巨体に目掛けて、先ほどから何度となく激突する大岩。

それは決戦の地である帝都へと駆け付ける道中の石切り場や、切り立った山間の崖を崩して用意された攻城用の岩石群。

そして、それを巨大なモグロに向かって投げ続けているのは、本陣で出撃の機会を窺っていたはずの――、

「――ヨルナ・ミシグレの部下」

正しくは、ヨルナの支配していた魔都カオスフレームの住民たち。

有角人種や蜥蜴人、獣人に多脚族と統一感のない混成部隊、隊列を組んでいる彼らには唯一、はっきりとした共通点で結ばれている。

――その全員が片目に赤い炎を灯し、高い士気を保っているという共通点が。

こちらも文字通り、戦意に瞳を燃やした集団が、複数人がかりとはいえ信じられないほど大きな岩を担ぎ上げ、とんでもない距離の投擲を投げ込んでいく。

だが、その大岩の直撃を受けるモグロが被害を被っているかと言えば、それも怪しいというのがハインケルの見立てだ。

無論、大岩の直撃により、モグロを構成する城壁や農地は崩れ、壊れる。しかし、その壊れた部分を補修するように、激突した大岩自体がモグロの次なる巨体を形成するための材料とされ、攻撃は正しく相殺されていくのだ。

遠目にも、その攻撃の無意味さはひしひしと伝わる。

それでもなお、彼らがその投擲をやめない理由は単純明快。――彼らの攻撃がモグロの巨体を押しとどめる間、他の叛徒たちが猛然と攻め込んでいくからだ。

「……馬鹿げてる」

ハインケルも耳にした。この第三頂点が、他の頂点と比べて最も防備が脆いと。

だが、それもああしてモグロ・ハガネが起き上がり、その巨体の全部を使って道を阻み始める前のことのはずだ。にも拘わらず、作戦が更新されていないのか、他の戦場で撤退を選んだ叛徒たちも合流し、なおも戦力は膨らみ続ける。

その中には、ハインケルと共に戦っていた『シュドラクの民』の姿もあるようだ。

「馬鹿げてる」

さっきよりも、よりはっきりとした音でハインケルの感慨が漏れた。

馬鹿げてる。馬鹿げてるとしか言いようがない。他に何が言える。この、右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても、前を見ても後ろを見ても地獄しかない場所で。

いったい、ハインケルに他に何が言えるというのだ。

「どうか、どうかしてやがる……お前ら! 全員! どうかしてんだよぉ!!」

気付けば、ハインケルは縋るように、地に突き立つ自分の剣に飛びついていた。

地面に突き刺さる剣の柄に体重を預け、震える膝を叱咤して歯を食い縛る。全員、どうかしている。その精神性が、理解できない。

やっぱり、無理だった。無理で無理で無理で、無理しかなかった。

「どうか、してんだよぉ……」

力なく、剣にもたれかかりながらハインケルの喉が弱々しく震える。

ぐったりと頭が下がるハインケルの周囲で、炎が、龍が、巨兵が、世界を震撼させる。これに立ち向かえないことが、そんなに罪だと言われるのか。

だとしたら――、

「俺は……」

そう、ハインケルが漏らした直後だった。

軽快な蹄の音が響いて、地を蹴る栗毛の疾風馬がハインケルの横を抜ける。その疾風馬が起こした風に赤い髪をなびかされ、ハインケルは顔を上げた。

そして――、

「――――」

一瞬、疾風馬に跨った丸い髪型をした男と、ハインケルの視線が交錯する。

ズィクル・オスマンだ。本陣で、叛徒を指揮するアベルの右腕として働き、自身もヴォラキア帝国の『将』でありながら、国に反旗を翻した叛逆の存在。

自ら剣を持って、戦う能に劣ると発言し、実際、ハインケルの目から見ても個人戦力としては数え難い力量のはずの人物が、ハインケルを追い越していった。

――通り過ぎる瞬間、ここで膝を屈するハインケルを軽蔑する眼差しを残して。

「俺には……」

膝を屈するハインケルを通り越して、疾風馬が戦場を駆け抜けていく。

そのズィクルの雄姿を追うように、各戦地から集まってくる叛徒たちが前へ向かう。モグロ・ハガネの城壁へと、突っ込んでいく。

それらを見ながら、ハインケルはなおも剣にもたれかかったまま、動けない。

動けないまま――、

「……やっぱり、俺には無理だよ、ルアンナ」

△▼△▼△▼△

戦場に膝を屈し、戦意を挫かれるように項垂れた赤毛の剣士を追い越したとき、ズィクル・オスマンの胸中を過ったのは、当然の命の理に従ったのだという同情だった。

プリシラ・バーリエルと名乗り、この反乱に堂々と与する紅の女傑。彼女の従者の一人として参戦する剣士は、おそらくヴォラキアの人間ですらない。

そんな彼に、帝国民は精強たれとする帝国の在り方を強いるのはあまりに酷だ。

「私自身、その在り方に従えているとは言い切れない」

剣を手にし、愛馬であるレイディの背に揺られながら、ズィクルは自嘲する。

こうして勇ましさを装っているが、ズィクルが『将』の座に収まっているのは、オスマン家の先代たちが積み上げてきた威光に相乗りした経緯が大きい。

もしも、ズィクルが軍人の家系でなく、他の兵たちと同じように兵卒からの叩き上げだったとしたら、剣才のない自分に身を立てることはできなかっただろう。

それを嘆くわけではない。無論、ズィクルとて帝国の男だ。

事によっては自ら前線で剣を振るい、そのひと振りで戦況を変えてしまう『九神将』ばりの在り方に憧れる心はある。

しかし、誰もズィクルの立場に取って代わることができないように、ズィクルもまたその憧れを我が事として現実に装わせることはできないのだ。

だから――、

「――私は帝国二将、『臆病者』のズィクル・オスマンだ!!」

そう、高らかに声を張り上げて、凄まじい変容を遂げる戦場を愛馬と駆ける。

ほとんどの場合、遠征や散策のための穏やかな疾走に付き合わせるばかりのレイディ、しかしこのときはズィクルの意を汲んで、生涯最高の走りを見せた。

怯えや不安と一切無縁の勇ましい走りをする愛馬に、ズィクルはただただ惚れ直す。

そのレイディのあまりに見事な走りは、ズィクルの慣れない戦口上など無視して、多くの叛徒たちの心に火を付け、この疾走に続かせていた。

「右翼は光人! 左翼は刃金人! 各自、指示通りに動け! あとのものは、この私に続け! 『鋼人』モグロ・ハガネを、我らが討つ!」

「おお――っ!!」

ズィクルの指令を聞いて、集まる戦力が咆哮と共にモグロへと突撃する。その頭上を飛び越していく巨大な投石は、ヨルナを慕った志願兵たちの援護投擲だ。

それがモグロの気を引いて、石塊の人形たちの統率に少しでも乱れが生じれば、何よりもズィクルたちのこの突撃が足下へ届けば、狙いは完遂される。

「射レ――!!」

勇ましい掛け声が遠くから聞こえ、放たれる矢の雨が正面に立ちはだかる石人形たちを貫き、大地に縫い付けていく。

仕掛けたのは遠方、ズィクルの指示で距離を開き、その弓術による圧倒的な攻撃力を発揮する『シュドラクの民』と、弓を得意とする叛徒たち。

麗しく、気高い彼女らの援護を受けて突き進む。彼女らの無理なく下がった陣形も含めて、出来過ぎだと思われるほどで、ズィクルは奥歯を噛んだ。

「なに、出来過ぎという話をするならば、あの祝福こそ」

握りしめた剣、その白刃に目をやり、ズィクルはわずかに口の端を緩めた。

出陣する直前、訪れた陣幕でズィクルを祝福したのは、可憐でありながら、どこか畏敬の念を抱かせる風格を瞳に宿した少女――まるで、ズィクルの想像もつかない年月を過ごしたような眼差しに、畏れ多くも懇願してしまった。

臆病風に吹かれたとは言わない。

ただ、自らが果たさなければならない役割を思い、ズィクルは祝福を欲した。わずかばかりでも可能性が上がるならばと、迷信にすら頼りたい気持ちになって。

「ズィクル二将! お下がりください! ここは我らが十分に!!」

「馬鹿を言うな! 退路はない! 下がる余地もない! 私も往くぞ!!」

「――ッ」

疾風馬に跨り、並走した兵の訴えに首を振り、ズィクルは役目を手放さない。

一瞬、部下は何事か言いかけたが、それ以上、ズィクルの決意を邪魔しなかった。その心遣いに感謝しながら、手綱を強く、強く握る。

「はっ! 『女好き』のズィクル・オスマン二将が、前線へ出張っていらすとは!」

と、並走する部下と反対側を、疾走する疾風馬と同等の速度で走る人影が追いつく。見ればそれは、片目を眼帯で覆った双剣の兵――ジャマル・オーレリーだ。

城郭都市陥落の際に捕虜になり、その後、ヴィンセント・ヴォラキア皇帝閣下への強い忠誠心から、ズィクルが旗下に引き入れた叩き上げの剣士。

「ジャマル上等兵、手応えは?」

「上々! 右見ても左見ても、正面見ても敵だらけ! 楽しくなってきやがりました!」

「ああ、実に素晴らしいな。帝国兵の誉れだ。私はこれから、モグロ一将を『捌』の座からどいてもらうつもりだが、ついてくるかね!」

「命令とあらば! 何なら、道を作っておこうじゃねえですか!」

野性味のある笑みを浮かべ、そう言ったジャマルが加速し、レイディの速度を軽々と追い越して、正面の石人形の一団へと突っ込んでいく。

その背を追いかけながら、ズィクルは勇ましさを頼もしく思う反面、付き合わせることを申し訳なくも思う。――だが、その躊躇は即座に切り捨てられた。

必要な場面で、必要な役割を果たす。

それが求められ、それに応えることを他ならぬズィクル自身が望んだのだから。

あとは――、

「――閣下、どうぞご随意に」

そう、ズィクルが祈りを捧げたのと、ほとんど同時だった。

――帝都ルプガナの水晶宮、その頂上にある魔水晶が瞬いたのは。

△▼△▼△▼△

――この帝都決戦において、アベルの描いた絵を塗り替えたものがいくつかある。

一つは、ヨルナ・ミシグレが向かった第一頂点、そこに参戦したプリシラの存在。

一つは、自らの加護を用い、戦況の詳細な情報を拾い集める能を示したオットー。

一つは、カフマ・イルルクスとの膠着ではなく、撃破を成し遂げたガーフィール。

一つは、想定よりマデリン・エッシャルトを怒らせ、『雲龍』を呼ばせたエミリア。

だがしかし、それらはアベルの描いた絵の彩りに多少の変化を加えても、完成形自体を大きく変えるような出来事ではなかった。

帝都を守護する星型の城壁、五つある頂点の一ヶ所を抜けば、他の頂点が膠着状態であろうとも勝利を奪う算段はある。

そう絵を描く一方で、どうあろうとも揺るがせなかった要因がモグロ・ハガネ――否、ヴォラキア帝国の中枢たる水晶宮、それを司る『ミーティア』だった。

世界屈指の美しさを誇る水晶宮、その宮殿を構築する水晶部分は、魔石の中でも特に純度の高い魔水晶でできており、宮殿自体が外敵を討つための兵器となっている。

宮殿に貯蔵されたマナ、それは建物の各所にある魔水晶を通じて増幅され、水晶宮の最上層に設置された『魔晶砲』より放出される。

その威力は、大都市を丸々消し飛ばすほどの破壊をもたらすとされ、過去、使用されたのは数百年前――『大災』相手であったと言い伝えられている。

以来、水晶宮の魔晶砲は言い伝えだけが残る代物とされてきたが、実物があると知れてからは運用が可能なように整備され、その脅威を取り戻した。

皮肉にも、その魔晶砲はアベル自身へ向けられる牙となったわけだが、この魔晶砲がある限り、帝都決戦の戦況は容易く覆させる可能性が高い。

故に、この魔晶砲をどうしても撃たせる必要があった。

それも戦況を変えさせるための決定打ではなく、織り込み済みの被害の一環として。

そのために――、

「――離脱はせなんだか、ズィクル・オスマン」

疾風馬に跨り、戦場である第三頂点へ向かったズィクルに、アベルはそうこぼす。

ズィクルには選択肢があった。他の頂点の戦いから退いて、第三頂点に合流することを選んだ叛徒たちを束ね、士気を燃やし、立ちはだかるモグロの巨体へ向かわせ、自分はその戦線から離脱するという選択肢が。

しかし、それを選ばないだろうという予感も、アベルにはあった。

それがズィクルの、わずかでも目的の叶わぬ可能性を恐れた『臆病者』の慎重さが理由なのか、あるいは勇敢であることを是とする帝国兵の一人であるからなのか。

いずれであるのか、ズィクルではないアベルには測りかねる。

ただ、それがどんな理由による決心であろうと、アベルは挫こうとはしない。

ズィクルの生死もまた、アベルの描いた絵に最終的な影響を与えない立場だ。

大がかりなことを言えば、その絵には究極、アベルの生死すらも――。

「――物見より伝令! 水晶宮の魔晶砲に、兆しあり!」

「――――」

「照準、第三頂点!!」

本陣に怒号のように響く声が、アベルの狙いが成ったことを証明する。

魔晶砲が放たれる。それが第三頂点――すなわち、城壁そのものと化したモグロの戦場を薙ぎ払い、一挙に叛徒たちを消し飛ばすだろう。

たとえそれをしても、モグロの本体である水晶宮が健在である限り、『鋼人』モグロ・ハガネを撃破することも、第三頂点の突破も叶わない。

だが、如何なる戦況をも覆し得る魔晶砲、その火力を帝都は喪失する。

全てはそのために、描かれた絵図であるのだから。

だから――、

「――魔晶砲、射線上に異変あり!!」

「……なに?」

――策が成った瞬間の報告は、完全にアベルの想定の外の出来事だった。

△▼△▼△▼△

――この帝都決戦において、アベルの描いた絵を塗り替えたものがいくつかある。

一つは、ヨルナ・ミシグレが向かった第一頂点、そこに参戦したプリシラの存在。

一つは、自らの加護を用い、戦況の詳細な情報を拾い集める能を示したオットー。

一つは、カフマ・イルルクスとの膠着ではなく、撃破を成し遂げたガーフィール。

一つは、想定よりマデリン・エッシャルトを怒らせ、『雲龍』を呼ばせたエミリア。

そして――、

「――馬鹿な」

遠く、蠢く城壁と化したモグロ・ハガネの巨体の向こう、懐かしの帝都の最奥にあり、ヴォラキア帝国の権威の象徴である水晶宮。

その美しき宮殿の頂上、それが兵器である事実さえ一部のものしか知らず、事実、アベルの口から聞かされるまで『将』ですら存在を知らなかった魔晶砲。

放たれれば地平を薙ぎ払い、戦況を完全に打ち壊すとさえされた決戦兵器、その貴重な一発を空振りさせることに、ズィクル・オスマンは命を懸けた。

自ら最前線を愛馬でひた走り、勝機は我らにありと声高に訴え、叛徒たちを狂奔させながら存在を訴え、その魔晶砲の照準を自分たちに合わさせた。

全ては、この戦況を決定的に変えるのに最善の機だと、そう誤認させるために。

故に、水晶宮の頂点が輝いた瞬間、ズィクルは成し遂げたと確信した。

脳裏を過ったのは母であり、姉であり、妹でありと、自分自身を形成する上で欠かせぬ女性たちであり、どこまでも自分らしいと笑みさえ生まれたほどだった。

抱えて死ぬには美しすぎる祈り、穏やかに迎えるはずだった終焉、それがしかし、見開かれたズィクルの眼前で驚愕へと塗り替わる。

何故なら――、

「――ベアトリス嬢?」

△▼△▼△▼△

「こんなことだろうと思ったのよ」

自由落下に身を任せ、ドレスと長い巻き髪をなびかせながらベアトリスは呟く。

戦士としての祝福を求め、ベアトリスたちの陣幕にやってきたズィクルと対峙したとき、ベアトリスは彼が死ぬつもりであることを直感した。

四百年前、あの戦乱の絶えなかった時代では、同じ目をしたものが大勢いた。

あの頃、ベアトリスは彼らに手を差し伸べられたわけではなかった。差し伸べられることを望まなかったものもいたし、差し伸べ方がわからなかったのもある。

たぶん、もう一度、あの時代を繰り返したとしても、ベアトリスは彼らに対してもっといいアプローチができたとは考えられない。

きっと、また同じような無力感を味わい、彼らが死へ向かうのを見過ごしてしまう。

でもそれは――、

「――今日ここで、同じことをする理由にはならないかしら」

「あー、う!」

特徴的な紋様の浮かんだ目を正面に向けるベアトリス。そのベアトリスの細い両肩を、後ろからぎゅっと被さるように抱いている少女の腕がある。

その、金色の髪に青い瞳をした少女を、ベアトリスは許したわけではない。

彼女が自覚なくしでかした行いが、多くのものを不幸にしたのは事実なのだ。

だが、それでも、この瞬間だけは、思った。

この瞬間だけは、ナツキ・スバルの、『甘さ』以外の気持ちを信じることを。

「――――」

ベアトリスと少女――ルイがいるのは、城壁よりもさらに高い高い空の上。

如何なる方法でか短距離の『転移』を繰り返して、ルイは自らの立ち位置を証明するかの如く、ベアトリスをこの場所へと連れてきた。

先に、ルイは自らの立場を証明した。

ならば、次はベアトリスが、その行いに対して応えるべきだった。

「みんなの怒る顔が目に浮かぶのよ」

怒るというか、心配するというか、やっぱり怒るというか。

そんな仲間たちの愛おしい顔が目に浮かんで、ベアトリスは唇をふっと緩めた。

でも、やらない選択肢はない。だってベアトリスは――、

「ベティーは、スバルのパートナーかしら」

そう呟いた瞬間、遠目に見える美しい宮殿の全体が眩く光り輝き、世界の形を変えることを許されたほどの光が、一直線に地上を突き進む叛徒たちへ向かう。

その先頭をひた走るズィクルたちを呑み込んで、余りある破壊を成し遂げる一撃――その射線上にルイと割り込み、ベアトリスは胸の前で手を合わせた。

そして――、

「――アル・シャマク」

――その、世界を変える光さえ呑み込む別世界への穴が、開かれ、閉じた。

△▼△▼△▼△

その刹那の出来事を正しく把握できたものが、どれほどいたものか。

実際に、それがアベルの描いた絵の通りの実現していたとすれば、予測範囲に収まったとて被害は甚大な上、他の頂点で戦うものたちへの影響も計り知れなかった。

しかし、魔晶砲によってもたらされるはずの被害はもたらされず、死を覚悟したズィクル・オスマンは勢いのままに石人形の群れとの戦いを開始する。

『雲龍』メゾレイアの降臨と、それを引き連れたマデリンとのエミリアの戦いは続き、『悪辣翁』オルバルトの老練さがガーフィールを追い詰める。

『極彩色』ヨルナとプリシラの母子は、自らの目的のために全てを振り切ることを決めた『精霊喰らい』アラキアとの激戦を余儀なくされ、戦場の支配を目論み、事実として半ばまで実現するオットーとペトラは、ミディアムと共に凶気と対峙する。

それらの戦況に、大きな影響はない。

ただ、それらの戦況が大きく劣勢に傾く可能性は、失われた。

その多大な功績と引き換えに――、

「うあ! あーう! あうう!!」

ぎゅっと、中空を舞い落ちるルイの腕の中、抱きすくめられる少女の存在が薄れる。

それは文字通り、少女の姿かたちが徐々に希薄になっていく光景だ。それを拒むようにルイは少女を、ベアトリスを掻き抱くが、それは意味を為さない。

まるでこぼれ落ちるように、ベアトリスの体は光へ変じようとしていた。

「あー! あー、あーあー!」

悲鳴のように叫びながら、ルイは懸命に目の前の状況を否定しようとする。

だが、どんなに嘆いて喚いても、ベアトリスの存在の崩壊は止まらない。

放たれた破壊の光を、大勢の命を救うため、彼女は彼方へと消し飛ばした。

その大きすぎる力の代償に、散り散りになっていくベアトリスの存在。剥離するように欠ける光に指を伸ばしても、すり抜けるそれは留まらない。

「あー……っ!!」

ボロボロと、見開いた青い瞳に涙が浮かんで、ルイは叫んだ。

叫んで、叫んで、叫んでもどうにもならないのに、必死に叫んだ。

それ以外にできることが、それ以上にできることが見つからなくて、叫んで。

そうして、必死に叫んで、喚き散らして――。

「――ぁ?」

ポロと、大粒の涙が宙に散ったとき、ルイはその顔を彼方に向けた。

腕の中のベアトリスを抱き寄せ、消えゆこうとするその少女ではなく、白く染まった空でも、赤く染まった空でも、大勢が怒号を張り上げる地上でもなく、この瞬間だけは、その戦場を形作る全部を忘れ、彼方に、目を向けた。

そして、その彼方に向けて、跳んだ。

「う――っ」

中空、一度に跳べる距離は十メートル前後、何度も連続で使っていると、内臓が絞られるみたいな負担がかかるが、構わなかった。

ベアトリスにかかるだろう負担の全部も引き受けて、ルイは跳んだ。

跳んで、跳んで、跳んで跳んで跳んで、跳んで跳んでそして――、

「――――」

辿り着いた地べたの上、つんのめるように前に倒れ込む。全身のけだるさも無視し、ルイは腕に抱いた、信じられないぐらい軽い少女を正面に掲げる。

その、存在の希薄となるベアトリスを、正面へ。

そして――、

「うあう……」

「――わかってる。お前たち、どっちも無茶しすぎなんだよ」

そんな、苦笑いみたいな吐息が聞こえて、伸ばした腕から少女が奪われる。――否、奪われたんじゃない。優しく、抱き上げられたのだ。

そして、膝をついたルイの目の前で、ベアトリスの体が抱きしめられる。

辿り着いた先にいた、黒髪の少年の腕で、優しく、大切に、ぎゅっと。

その、見るからに愛おしさの溢れる抱擁を受け、大役を成し遂げた少女の、長い睫毛に縁取られた瞼が震え、ゆっくりと瞳が開く。

そうして、その特徴的な紋様の浮かんだ瞳が瞬いて――、

「――心配、かけすぎなのよ」

「ああ、俺も愛してる」

囁くような親愛に、誇らしげな深愛で応じて、繋がれるべき手が繋がれる。

それを一番の最前列で見届けて、小さく吐息をこぼすルイの前で、少年が笑う。

笑って、言い放った。

「じゃあ、始めるとするか。――運命様、上等だ」