軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七章75 『I know』

――その絶望的な惨状に、朗らかな笑顔と声はあまりに場違いだ。

見るも無残にキモノも燃えて、その顔も左側が黒く焦げているくせに、覗き込んでくるセシルスの態度はいつもと変わらなくて、異常が過ぎた。

彼だけじゃない。――今、この島で生き残っているのは全員、異常な奴ばかりだ。

まともな人間は、きっともう全員死んでしまったのだ。

目の前のセシルスと、追ってくるトッドと、殺し回るアラキアと、大罪人のスバル。

全員が全員、真っ当じゃないから、恥知らずにもこうして生きていられる。

だから――、

「せ、し……」

「見たところそちらもかなり大変だったみたいですね。そこで蜥蜴人さんも死んでますし、この分だと鹿人のお嬢さんや他の『合』のご友人も全滅でしょうか」

「――っ」

「おや、もしかしてまだ彼が死んだの認めてませんでした?」

震えるスバルの眼球の震えで、セシルスが心情を読み切ってくる。

途端、怒りが湧いた。そうやって、心を読むみたいな真似ができるのに、どうして今のスバルの気持ちに全く寄り添うことができないのか。

ヒアインが死んだと、そう言われたスバルが、どんな気持ちになるか、どうして。

どうして、軽々しく死んだなんて言ってしまうのか。

「死んでますよ、完膚なきまでに。……ただ、悪くない死に顔ですね」

「し、んでる、のに……っ」

「いいも悪いもないってお考えですか? そこは見解の相違でしょうね。いい生き方があるならいい死に方だってある。受け手がどう感じるかに口出しなんて無粋な真似はやめましょう。蜥蜴人さんはいい死に方をした。この顔がその証ですよ」

「――――」

「役割を全うした死に顔、僕もこうありたいものです」

ぺらぺらと並べ立てるセシルスに、スバルは何も言えなかった。

言いくるめられたんじゃなく、無意味だと思った。ヒアインの死に顔なんて見たくないし、セシルスとわかり合えるなんてちっとも思えない。

だから、彼の言い分に付き合う理由なんて、一欠片もないのだと。

「さて、ここで出会ってなんなんですが実は僕の方も立て込んでましてね。島の中で暴れてる半裸の女性と絶賛対決中なんですよ」

曲げた腰をぐっと伸ばし、セシルスが勝手に話し続ける。

話題に上がった相手が誰なのか、アラキアだと考えるまでもなくわかった。

トッドの言いなりに大虐殺を始めたアラキア。突出した戦闘力がないのが唯一のトッドの可愛げだが、彼女と組むことでそれが消えて完全無欠の邪悪になる。

剣奴の頭を水風船にし出してから見かけないと思っていたが、どうやら彼女を足止めしていたのはセシルスだったらしい。

腐っても、『九神将』を止められるのは同じ『九神将』ということか。

「ただ、見ての通りのこんがり苦戦中でして。いやぁ、参った参った。いるもんですねえ、僕とまともにやり合える相手が。てっきり天剣へ至る道は一人でしか上り切れないものとばかり思っていましたが」

「……なんで」

「はい? なんです?」

「なんで、楽しそう、なんだよ……」

文字通り、魂を絞り出すみたいな苦心の果てに、口をついて出た八つ当たり。

そう、ただの八つ当たりだ。この地獄みたいな状況で、ヴァイツもタンザもイドラもヒアインも、みんなみんな死んでしまったこの島で、笑うセシルスが憎たらしくて。

どうして笑える。この状況の、いったい何が面白いのか。

「なんで……!」

「ああ、それは因果が逆ですよ。楽しいから笑っているんじゃなくて、笑うから楽しくなっていくという状況を演出しているんです」

「――ぁ?」

「とかく残酷な世にあっては、誰もが自分の理想を幸福を追求する。そのやり方は千差万別人それぞれの哲学がありましょうが、いずれであれ見合った信義を掲げなくては。そして僕の掲げる信義こそが、この在り方というわけです」

言いながら、セシルスは自分の焼け焦げた左の頬に右手で触れる。ボロボロと炭になった皮膚が剥がれ落ちるが、想像を絶するだろう痛みの中でも笑みは崩れない。

痛みを感じないなんて、そんなズルに頼らず、セシルスは微笑み続ける。

「この世界の花形役者たれば! 脚本にすり寄るのではなく、脚本を僕の側に寄り添わせましょう。何故笑うのかと問われれば、僕はそう答えましょう」

「――――」

「笑うのは誰が為か、己が為ですよ。――天上の観覧者に、いつ如何なるときを見られようと恥じることがないように」

「――――」

「さあ、バッスー、あなたはどんな信義を掲げますか?」

半身を焼かれながら、笑みを絶やさないセシルスの哲学。

それはスバルには全く理解のできないものだったが、感情任せに足蹴にすることが躊躇われるような、そんな奇妙な信仰心みたいなものを感じた。

観覧者と、セシルスは前にも同じことを口にしていた。

誰か、あるいは何か、この世非ざるモノが自分たちを見ていると、言いたげに。

こんな状況下でも、そう嘯けるのは筋金入りで、きっと誰にも曲げられない。

だから――、

「おっと、休憩おしまいみたいですね」

そう言って、下層の通路に降り立つアラキアの姿を見ても、その笑みは消えなかった。

全身に炎を纏ったアラキア、きっと剣奴の誰も太刀打ちできなかった彼女だが、その手の木の枝は折れ、片目を覆った眼帯はなくなっている。

眼帯の下を見られるのを嫌って、空いた手で左目を覆ったアラキアは、無感情なことが多い顔を、とても複雑な感情で歪めていた。

「セシルス……っ」

歯を噛みしめてセシルスを睨む彼女は、怒りと混乱に瞳を揺らめかせている。

その背中を炎でできた翼がはためいていて、火力は彼女の感情と連動しているみたいに揺れ、燃え、通路を猛烈な熱で埋め尽くしていく。

空気が焼ける臭いがして、彼女の周囲にあるものが燃えていく。

通路の壁や床、燭台や扉、そして倒れているヒアインの亡骸も――。

「――っ」

「ここで諸共焼け死んで、あの死に顔に報いれますかね? なんてらしくもないことを言いました。居残るも離れるも好きにしてください」

チリチリと、ヒアインの体が発火するのを見て、顔色を変えたスバルにセシルスの声が落ちてくる。ぐっと、スバルは床に腕をついて、少しずつ熱くなり始める地面から自分の体を引き剥がし、立ち上がった。

頭が痛む。血が足りない。無力感で、胸が潰れそうで。

それでも、なんでまだ、スバルは立つのか。ここで焼け死ぬことも、奥歯の裏に入れてある『薬』も噛まないで、どうして。

「では、またの此岸で」

どうして、走り出すのかもわからないまま、スバルは燃える通路に背を向けた。

走って、足を引きずって、あまりにも遅い速度で走って。

もっと早く、このスピードが出せていたら、イドラやヒアインを、ヴァイツやタンザを、死なせずに済んだんじゃないかなんて、そう悔しがりながら。

スバルは、なおも走って逃げ続けた。

△▼△▼△▼△

「――さて、バッスーもいなくなったわけですが」

「――――」

「やれやれ、ずいぶんと嫌われてるみたいですね」

たどたどしく走る気配が遠のくのを感じながら、セシルスは苦笑して片目をつむった。

こちらを強烈に睨みつける炎を纏った女、彼女の怒りの矛先が自分なのはわかるが、その怒りの源泉がどこから湧くのかがイマイチわからない。

ただ、敵対しているから怒っているわけでも、彼女が剣奴を殺すのを邪魔したから怒っているわけでもないように感じる。

たぶん、もっと他に理由があるのだろう。

ただし――、

「僕は大抵の接した相手を怒らせるという特技があるんですが、そうした状況の例に漏れず……ちっとも心当たりがありませんね!」

「――っ、どこまで、ふざけるの……!」

「ふむ、僕がふざけていると。参考までにどこらへんがふざけてるかお聞きしても?」

「その! その、姿形は何なの……っ」

赤い瞳で睨まれて、姿形のことを指摘される。

何なのと言われても、こんがり半分焼いてくれたのは他ならぬ彼女だというのに。

「でもたぶんそういう意味じゃありませんよね? もしかしなくとも、僕とあなたには何かしら関係があったのでは?」

「ふざけて……」

「ないんですが、そう言っても信じてもらえる証拠なんて出せませんから言い張る以外にありませんね。しかしなるほどそう考えると色々と辻褄が合う気分にも」

言いながら、セシルスは右手の立てた指でくるくると、戦いの最中に彼女から奪った眼帯を回しながら頷く。

どうにも、剣奴孤島で暴れ始めるまでの記憶は判然としない。前にスバルに聞かれた通りでこれは事実。あまり気に留めてないのも事実。とはいえ、何かしらあるのだろうと思っていたところへ、訳知り顔で登場したのが目の前の彼女だ。

消えた記憶の中に彼女がいたなら、それは多少もったいない気分。これだけやれる相手なら、もしかしたらという期待があった。

天剣へ至る、その道筋を行く上で――。

「そうやって……誰も、何も、教えてくれない……!」

「おや?」

しかし、考え込むセシルスの前で、彼女は悔しそうに声を震わせ、怒りと混乱に強い苦みを混ぜ込み始めた。

背中の炎が赤から青へ、その色を変えていく。趣味がいい。

そうして趣味のいい変化をもたらしながら、彼女は苦しそうに息を吐いて、

「姫様も、閣下も、隠してる……わたしは、いつも……」

「置いてけぼりで辛い思いをしてると?」

「――っ」

何となくの一言が図星を突いたのか、彼女の表情が強張った。

その揺れる赤い瞳を見ていると、ぼやけた彼方にある思い入れが疼くような、そうでもないような、結局、彼女との関係はよくわからない。

「まぁ、良好な関係なら殺そうとしてくるってのもおかしな話ですし、きっとかなり殺伐とした仲だったんだと推測しましょう。この状況ともぴったり合いますし!」

「セシルス……っ」

「長話は観客を退屈させる。そろそろ舞台を動かしましょう。生憎と僕からは何ら答えを差し出せませんが、あなたの胸のつかえが少しは取れるかも」

じわじわと痛む半身を隠し、回していた眼帯を握りしめ、彼女と相対する。

会話を終わらせて、言葉では及ばない領域での対話を望むこちらの姿勢に、彼女はしばし黙ったあと、ゆっくりと自分の左手を下ろした。

その向こう、光のない赤い目と向き合わされ、セシルスは苦笑する。

「本気でどうぞ。――あなたはいつも、目玉焼きを半分しか焼かない」

「――ッ」

「あれ? 今なんか出ましたね?」

反射的に口をついて出た一声、それを自分で不思議がりながらセシルスは首を傾げる。

ただ、それはますます彼女の怒りを買う結果になったらしい。

「――――」

猛然と、噴き上がる青い炎が島の下層を焼いていく。

周囲を顧みる余地もなく、セシルスは自らも『青い雷光』と化して炎へ飛び込んでいった。

△▼△▼△▼△

「はぁっ、はぁっ……」

炎で熱された空気を背中に感じながら、スバルは必死で下層から逃げる。

逃げる、そう逃げている。抗うでも足掻くでもなく、逃げていた。

戦略的撤退だとか、次に繋げるための勇気ある逃亡だとか、言い訳できない。

だって、この先には何も繋がるものがないから。

みんな死んでしまって、もう誰も取り返せなくて。

ヴァイツたちが命懸けで逃がしてくれたのに、何もできない。

全部、何でも、うまくやれるつもりでいた。

実際、『スパルカ』を二回乗り切って、『合』の仲間も、ヒアインの仲間も助け出せたときには、あらゆる困難を乗り越えてやれるつもりだったのだ。

とんだ勘違いに、思い上がりだ。

そもそも、スバルは何度も死んでいた。死んでも、やり直すチャンスがあったからうまくいっていただけで、それがうまくいかなくなっただけで、こうだ。

本当にできる人間なら、一度も死なないで全部うまくやれるはずなのだ。

それこそ、あの恐ろしい存在、トッド・ファングのように。

死んでやり直す権能もなく、あらゆる事態を自分の力で乗り越えていく力量。

突出した戦闘力がないのもスバルと同じで、何故、トッドと同じことがスバルにはできないのか。

それができないから、スバルは、大勢を殺すことになって――。

「ちくしょう……っ」

島の下層を飛び出し、外気に触れた途端に悔しさが堪え切れずに膨れ上がる。スバルは寄りかかった外壁を叩いて、その弱々しさに自分を呪った。

小さい拳、弱々しい体、回らない頭と、役に立たない権能。数え始めれば負けた理由はキリがないぐらい思い浮かんだ。

むしろ、何があるのか、この目つきの悪いだけのクソガキに――。

「――っ」

悔やんで足を止め、自分を呪ったスバルの喉が、不意の物音に悲鳴を押し殺した。

この場面での物音、最悪の想像に全身が震え上がる。イドラが、必死で足止めしてくれたトッドに追いつかれたのではないかと。

しかし――、

「シュバルツ、様……」

「――タンザ?」

物音に続いた掠れた声は、スバルに恐怖ではなく驚きをもたらした。

弱々しく、息も絶え絶えにスバルを呼んだのは、トッドの手で通路から投げ落とされ、その後の安否がわからなくなっていたタンザだった。

足を引きずる彼女は全身ずぶ濡れで、キモノを脱ぎ捨てた白い襦袢姿だ。頭に生えた二本の角の片方は折れ、ボロボロの有様でいる。

なのに――、

「シュバルツ様、よく、ご無事で……」

丸い瞳が安堵に揺れて、スバルは心の底から苦しい気持ちを味わった。

濡れた彼女を見れば、上層から湖に投げ落とされていたのだとわかる。水棲の、凶暴な魔獣が棲むとされる湖、只事じゃ済まなかった証拠が折れた角だ。

辛い、苦しい、助けてと、泣き喚いて大人に縋り付いて当たり前の姿。

なのにタンザはスバルを見つけて、「よかった」と目尻を下げた。

こんな、何もできない、ナツキ・スバルを見つけて――。

「――ぁ」

そう、思った瞬間だった。

足の力が抜けて、スバルはその場にへたり込む。張り詰めていた糸が切れて、喚き散らすだけだった頭の中身が、急に静かになった。

生きたタンザと会って安堵した、わけじゃない。

何かしらの打開策を見つけた達成感でも、トッドへの恐怖が振り切れたのでもない。

――ただ、自分に、愛想が尽きてしまった。

「シュバルツ様……!?」

膝をついたスバルを見て、血相を変えたタンザが走ってくる。

その走り方が変で、足を怪我しているのかもしれない。よく見れば、濡れた白い襦袢の脇もじわじわと赤く染まっている。

そんな、すごく痛そうな傷を負ってるのに、スバルを心配している。

その、タンザの期待にも、何にも応えられないと気付いたとき、力が抜けた。

諦めが、胸の内を支配していく。

「――――」

痛みでも、恐怖でもなかった。

ナツキ・スバルを絶望させるのは、そういうわかりやすい辛さじゃなかった。

かけられた期待に、願いに、応えられないこと。

それこそが、ナツキ・スバルを最も絶望させる、猛毒となった。

「シュバルツ様、お気を確かに……他の、イドラ様やヒアイン様は……」

傍らに辿り着いて、スバルの肩に触れるタンザがいない二人を心配する。

ヴァイツの名前は呼ばれなかった。当たり前だ。タンザも、ヴァイツが目の前で殺されるのを見ていた。そして、この場にいない二人にも、嫌な予感はしているはずだ。

その予感は、どうしようもないぐらい正確で。

「二人とも、死んだ……」

「――っ」

「イドラも、ヒアインも、俺を庇って……」

みんな、死んでしまった。ただ助けられないだけじゃなく、助けられた。

ヴァイツも、イドラも、ヒアインも、三人ともスバルを庇って死んでしまった。タンザが死にかけたのも、動けないスバルを守ろうとしたせいだ。

みんなが死んだのは、スバルのせいで。

みんなを殺したのも、スバルのせいで。

この、剣奴孤島の大惨事は全部、ナツキ・スバルのせいだった。

「シュバルツ様……この場を、離れましょう。今すぐに、どこかに隠れないと」

「隠れても、無駄だ。……どうせ、すぐ見つかって」

「だとしてもです! このまま、ここで何もなされずに殺されるのを待つのですか? それでは、『合』の皆様は何のために命を落とされたんです!」

「――――」

首を横に振り、動けないスバルにタンザがもどかしく叫んだ。

涙声になった彼女の訴えに、しかし、スバルの心は熱くなるどころか、冷め切った納得しか湧いてこない。

そう、三人が命懸けで守ったスバルは、何の役にも立たないのだ。

つまり、三人を無駄死にさせてしまった。スバルを庇おうとしたせいで、みんな。

期待に、応えられなかった。嘘までついて、騙したのに。

あんな嘘、つかなければよかった。最後まで騙し切れないなら、嘘をついてまで何も持ち帰れないなら、嘘なんてつかなければ。

そうすれば三人も、スバルの代わりに死のうなんてしなかった。

皇帝の息子じゃない、ナツキ・シュバルツでもない、ナツキ・スバルのためになんて。

そう言えば、もう一人、同じ嘘で、騙した相手が。

「シュバルツ様! ここで倒れては――」

「……全部、嘘なんだ、タンザ」

「――――」

「皇帝の隠し子なんて、嘘っぱちなんだ。俺は、立派で、すげぇ格好いい父さんの子どもだけど……皇帝の、子どもなんかじゃ、ない」

俯いて、スバルは安易に頼ろうとした嘘を、偽った期待を自分から告白した。

もっと早くにこうしていれば――違う、最初から、あんな嘘をつくべきじゃなかった。

「――――」

丸い目をもっと丸くして、タンザがスバルの告白に絶句していた。

当たり前だった。この状況で、なんて嘘をついたのかとスバル自身がスバルを呪いたくなる。騙されたと、彼女が怒りに身を任せても何もおかしくない。

むしろ、タンザの手で殺されたとしても、仕方のないことだった。

みんなも、そうだった。

騙したスバルに、騙されたものの正当な権利を、罰を与えるチャンスをなくした。

だったら、タンザが、それをしたとしても。

「……シュバルツ様」

「――――」

「早く、ここから動きましょう。私が、背負いますから」

「え……」

目をつむって、何を言われても仕方ないと身構えたスバルは、そのタンザの言葉に顔を上げた。

タンザは薄い唇を結んで、スバルの腕を引っ張ろうとする。本気で、スバルを背負ってここから移動しようと、そういう動きに「待て」と声が漏れた。

ちゃんと、全部伝えた。嘘だと言った。

「聞いて、なかったのか……俺は!」

「皇帝閣下の、御落胤ではないとお聞きしました。それについては、あとで……」

「あとでもクソも、ないだろ!? 皇帝と無関係なんだよ! だったら、もう、俺を助ける理由なんて……」

何もない。なかったものを、あるように見せかけたスバルの罪だ。

それが、三人の命を奪うこととなって――。

「――シュバルツ様、本当にそう思うのですか?」

肩に触れる小さな手を、振りほどこうとしたスバルの動きが止まる。

目の前、しゃがんだタンザが正面から、じっとスバルの目を見つめていた。その、瞳から目を離せず、言われた言葉の意味がうまく咀嚼できない。

そう思うも何も、全部、そのまま本当のことを。

「ヴァイツ様も、イドラ様もヒアイン様も、皆様がシュバルツ様を命懸けでお守りしたのが、全部自分のついた嘘が理由だと、本気で?」

「だ、だって……だって俺が、皇帝の子どもだって」

「私も皆様も、信じていました。ですが、あのお三方が……臆病で、卑怯で、嘘つきのあの方たちが、帝国への忠誠心や愛国心で、命を賭すとお思いですか?」

スバルが、皇帝の隠し子であれば、帝国の皇子ということになる。

だから、帝国民である三人が、スバルを守ろうとするのは当たり前で。でも、タンザの言葉を、改めて、ゆっくり噛み砕いて、考える。

臆病で、自分可愛さに逃げ出そうとしたヒアイン。

卑怯にも、周りを出し抜いて生き残ろうと足掻いたヴァイツ。

嘘をついて、自分を大きく見せることでみんなを操ろうとしたイドラ。

誰とも、仲良くなれる気はしなかった。三人も、同じ気持ちだったはずだ。

それなのに、三人は最後には命懸けで、スバルを庇った。守った。逃がした。

どうしてか。それは、スバルが皇帝の隠し子だと三人が思っていたから。

でも、もしも。――もしも、そうじゃなかったら。

「なん、で……?」

「シュバルツ様が、きちんと、あのお三方に寄り添える方だからです」

「――――」

「きちんと話して、しっかり答えて、ちゃんとわかろうとして……そうやって、シュバルツ様が、皆様と寄り添っていたからです」

わからないと、疑問を口にしたスバルに、タンザが目を見たままそう告げる。

スバルが何をしたのか、どうして三人がスバルを助けようとしたのか、その答えを教えてくれようとしている。

なのに、スバルにはタンザの言っている意味がわからない。

だって――、

「そんなの、当たり前だ。何にも、特別なことなんて、してない」

協力し合う相手と話すのも、わかろうとするのも、当たり前のことだ。

できていなかったことも、もちろんある。やろうとしてやり切れないことも。でも、そんなのみんな当たり前にやっていて、寄り添うなんて特別なことじゃない。

「私には、皆様の気持ちがわかります。私も、ヨルナ様に救っていただきました。寄り添っていただきました。きっと、お三方も同じです」

「――――」

「ただ、それだけで命を懸ける意味がある。……そう、思わされることも、あるのです」

ズルい、ズルい言葉だった。

これがスバルだけのことだったら、タンザにそんなはずがないと真っ向から言えた。でも、タンザは自分の経験を、ヨルナからしてもらったことだと話した。

ヨルナ・ミシグレ、たくさんの種族が暮らしている魔都の女主人――スバルが知っている限り、帝国で一番優しい女性。

ヨルナと同じなんて、とんでもない話だ。畏れ多いにも程がある。

タンザは、スバルを買い被りすぎだ。

だけど――、

「――――」

だけど、あの三人は、ヒアインとヴァイツとイドラは、どうなんだろうか。

あの三人のことを、たぶん、スバルはあの三人が思っている以上に知っている。

ヒアインの自分嫌いも、ヴァイツの冤罪も、イドラの転落も、知っている。

辛いことがあって、悲しいことがあって、誰にも頼れなくて、みんなこの島にやってきたのだと、知っている。

あんまりだと思った。チャンスが、あの三人にもあるべきだと思った。

ここで死んで、それでおしまいなんて、そう思ったのに。

「みんな、助けたかった」

「救われていました。シュバルツ様を、命懸けで守ろうとするほどに」

「違う、違うよ。そうじゃなくて……」

もしかしたら、タンザの言う通りなのかもしれない。

ひょっとしたら、スバルが思っている以上に、三人はスバルのことを仲間と思ってくれていたのかもしれない。

スバルは、もしかしたら三人の心を、救えていたのかもしれない。

でも、心だけじゃ、足りない。

心だけ助けて、それでやり切ったなんて、思えない。全部、救いたいのだ。

スバルは、スバルの味方を、よくしてくれる人を、みんなを、心も体も救いたい。

それができなくちゃ、菜月・賢一の息子じゃ――違う。

「――俺が、嫌なんだ」

どうしようもないと泣き喚いて、周りのもの全部死に絶えて、終わっていく世界。

いつしか剣奴孤島は黒い煙に包まれて、湖の上に浮かんだ島なのに燃えて、燃えて、燃え広がって、その中に抱え込んでいた命を全部、終わらせようとするようで。

「こんなの……」

認めない。認めたくない。誰も救えない、そんな決着に膝を折りたくない。

みんなに命を投げ出させて、それでおしまいなんて、納得できない。

納得できない。だから――、

「――俺は、お前に、負けたくない」

「勝ち負けなんて、どうでもいいんだが」

立ち上る黒煙を背後に、手にした斧で肩を叩いた男が、首を傾げてそう答えた。

△▼△▼△▼△

血塗れの斧を担いで、ゆらりと現れた男の姿は一瞬、別人かと見紛うものだった。

その、トレードマークとも言えるバンダナが外れ、橙色の髪を下ろした姿は、見知った彼と大きく印象が違って見えたためだ。

ただし、その双眸――邪悪さを隠し切れない緑の瞳が、素性をまるで偽らせない。

「トッド……」

「お前さんも悪運が強いな。通路が燃えたせいで、追いつくのに時間がかかった。水を使えって、アラキアには言いつけてあったんだが」

「――――」

「どうも、アラキアも手が離せない状況らしい。肝心なときに使えない奴だ」

そう億劫そうに言い放つトッドは、下ろした髪のせいもあってか朗らかさがない。初対面のときに騙された好青年風の空気が消えて、あるのはうそ寒い渇いた攻撃性だけ。

その攻撃性さえも、もしかしたらこっちの勘違いで、偽りなのかもしれなかった。

必要なら、必要なだけ嘘をついて、周りを利用する男、トッドらしい偽り――、

「それ以上、近付かないでください……」

一歩、踏み出そうとしたトッドを睨んで、タンザが手近な石を拾った。

子どもとは思えない腕力のあるタンザなら、ただの投石でも十分凶器だ。ただ、相手がトッドとなると、石ころが石ころ以上の頼もしさに感じられない。

実際、トッドは怖がりもせず、その目を細めて、

「湖に落としたのにしぶとい嬢ちゃんだ。お前さんも、さっきの連中と同じ口か?」

「……それが、『合』の皆様のことでしたら」

「厄介な目つきだ。俺も、死に物狂いの危うさを軽く見るつもりはない。そうなると、お互いに動けなくなって面倒だな」

言いながら、トッドが自分の髪を手でかき上げる。その仕草から、彼がバンダナをなくしたのは、残ったイドラの功績だと伝わってきた。

倒せたわけでも、傷を負わせたわけでもなく、バンダナを奪っただけ。

それでも、イドラが一矢報いたから、トッドはスバルたちを警戒している。

「あなたの……あなたの望みは、なんなのですか?」

「――? うちに帰りたいだけだが?」

足を止めたトッドへの、タンザの問いかけの答えがそれだった。

悪ふざけや悪戯心の断片も見せず、トッドは淡々と自分の望みを口にした。ただ、帰りたいと、それだけが自分の望みなのだと、トッドは。

そしてたぶん、それは嘘でも何でもなくて。

「――っ」

「タンザ、もう話さなくていい。そいつとは、俺が話す」

目尻を厳しくしたタンザを引き止め、スバルはトッドを静かに見据える。

ボロボロの子ども二人を前に、トッドは肩をすくめた。

「俺の方は話なんてないぞ、坊主」

「こっちの隙を窺うついでに付き合えよ。それとも、死にかけの子どもが怖いのか?」

「怖いな。この状況でまだ挑発してくるようなガキ、おっかなくて仕方ない」

挑発には一切乗らず、警戒心を欠片も緩めず、相手が子どもでも手は抜かない。

本当に、どこまでも厄介な相手で、追い詰められたのも当然に思えてくる。でも、こうも思った。そうして慎重で、知恵を巡らせて、自分を過信しない在り方なんて――。

「お前は、何でも一人で全部こなそうとしてるんだな」

「――。何でもは無理だ。自分の能力くらい弁えてる」

「アラキアと、仲間と一緒にきたのに、それも全然信用してない」

トッドの態度からは、アラキアを顧みる気持ちが全く感じられない。

それはアラキアの強さを信頼して、彼女が負けるはずがないと思っているのではなく、強弱に拘らず、アラキアをどうでもいいと思っているからだ。

アラキアだけじゃない。トッドは身の回りの全部を、そう思っている。

だから、その行動も思考も理想も、全部一人で完結しているのだ。

「そんなお前に、負けたくない」

「勝ち負けの話じゃない。別に、死んでくれるならお前さんの勝ちでいいぞ」

「俺の負けは、俺だけの負けじゃない。タンザの、ヒアインの、ヴァイツの、イドラの、『合』のみんなの、負けになる」

それは、絶対に嫌だった。

スバルたちはみんなで戦って、抗って、勝利を目指す『合』だった。

だから、勝つのだ。――全員で、勝ちにいくのだ。

「――――」

死にかけの体で、跪いたスバルが自分の胸に手を当てる。

その言葉にトッドは眉を寄せるが、タンザを警戒する彼は迂闊に動けない。もちろん、トッドだってスバルが目に見える行動を起こせば、その阻止に動いただろう。

でも、スバルはその場に跪いたまま、動かない。動けない。

「トッド」

そして、動く必要もなかった。――ただ一言、口にするだけだ。

「――俺は、『死に戻り』を、してる」

わずかな躊躇いを踏み越えて、スバルがそれを口にする。

それを口にすれば、何が起こるのかを覚悟の上で、自分の胸に手を置いたまま、スバルはそれをはっきりと言葉にした。

そして――、

「……なに?」

一瞬の空白があり、トッドがスバルの言葉に眉間の皺を深くした。

その言葉の意味がわからず、同じようにタンザからも疑念の気配が返る。その二人の反応と、そして痛みのない自分の胸に、スバルは不具合の原因を悟った。

たとえ体が縮んでいても、忘れられない苦痛の記憶。

それを口にすれば、必ずスバルに降りかかってくるはずの災い。時の止まった世界を支配する黒い影と、禁忌を破った罰として与えられる耐え難い痛み。

それが訪れない。何故か。――『魔女』が、スバルを見失っている。

紅瑠璃城の天守閣、剣奴孤島の『スパルカ』、トッドの始めた大虐殺――あらゆる場面で起こった『死』の螺旋、そこに付随する不具合。

本能的に、無自覚に、スバルはそれを理解していた。

鳥が飛び方を忘れないように。魚が泳ぎ方を忘れないように。

ナツキ・スバルは、自分の権能の使い方を忘れない。

ヴォラキア帝国へ飛ばされたことが原因か、進行する『幼児化』が原因か。

もっと早く、もっともっと早く、気付く余地ならあった。

『スパルカ』でも、大虐殺の最中でも、解き放たれた剣闘獣――魔獣がスバルに殺到しなかった時点で、『魔女』の手が離れていることは、確信できたのだ。

だから、叫んだ。

「俺は、『死に戻り』をしてる!」

「――っ、お前さん」

「俺は、『死に戻り』をしてる! 『死に戻り』だ! わかるか、『死に戻り』だ!」

――『死に戻り』は、誰にも打ち明けてはいけない。

それは耐えられない痛みを伴うペナルティがあるからだし、それ以上の、心がひび割れるような絶望とも直通している可能性があるから。

その仕組みを悪用して、聞かせた相手の命を奪えるだなんて、期待もしてない。

タンザに耳も塞がせていない。トッドにも、聞かせたくない情報を与えている。

でも、本命はトッドでも、この島にいる他の誰でもなかった。

「――俺は、『死に戻り』をしてる!」

空を見上げて、黒煙の上がっていく曇り空へとスバルは声を張り上げる。

ボロボロの体で、自分の大声が内臓に響いて痛かった。死にそうだ。でも、スバルが覚悟する、求めている痛みはこんなものじゃなかった。

観覧者に恥じないようにと、セシルスは世迷言を言い残した。

スバルとセシルスが、同じ相手を思い描いているとは思えない。そもそも、セシルスのは単なる妄言の可能性が高い。でも、その妄言が気付かせた。

セシルスが意識する観覧者と同じように、スバルを見ているはずのものがいる。

その、スバルを見ているはずの存在が、今も離れずにスバルを見続けているのなら、こんな絶望的な、『愛』のないループは起こらない。

「――俺は、『死に戻り』をしてる!」

俺は、ここにいる。俺を、見つけてくれ。

虫のいい話なのはわかってる。でも、みんなを助けたいんだ。

俺の、ナツキ・スバルの権能だけじゃ、足りないんだ。

だから――、

「……俺を、見つけてくれ、サテラ」

『――愛してる』

名前を呼びかけた、瞬間だった。

「――――」

世界が、不意に色を失った。ガンガンとうるさく響いた、耳鳴りが彼方に消える。

手足が動かない。舌が渇いて痺れている。目を動かすことも、呼吸もできなくなる。その全部が、不自由を強いてくる強制力が、ゆっくりと、鼓動乱す脅威が。

――漆黒の影で編まれたドレスを纏った愛しい『魔女』が、目の前に現れる。

『愛してる』

そう口にしながら、『魔女』の黒い魔手が伸びてくる。

それがスバルの頬を撫でて、静かに愛おしむように首筋を滑り、鎖骨をなぞって鳩尾を下り、約束の地に辿り着く。

『愛してる。愛してる。愛してる』

耳に馴染んだ愛を囁きながら、その指がスバルの、子どもの胸板をすり抜けて、内側に大切に仕舞われている命の機関を柔らかく包む。

『愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる』

きっと、スバルはどうかしてしまったんだろう。

囁かれる無数の愛の言霊も、それを裏切るように心の臓を包み込む指先も、この先に待ち受けているこの世の終わりのような苦しみも、全部が待ち遠しかった。

だから――、

『愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる』

――おぞましく世界を埋め尽くす言霊さえも、ナツキ・スバルを壊せない。

△▼△▼△▼△

世界が色を取り戻して、消えていた耳鳴りが蘇って、手足の感覚と舌の痺れが抜けて、荒々しい呼吸をしながら、スバル以外の時間が動き出した。

「ぐ」

と、強く胸を掴んで呻くスバルに、トッドもタンザも意味がわからなかっただろう。

でも、続いて起こった変化には、すぐに二人も気付いたはずだ。

「なんだ……!?」

目を鋭く、表情を慄然と強張らせて、トッドが周りに目を向けた。

その原因は目に見えるものではなく、聞こえてくる音――それも、鳴き声だ。この、剣奴孤島で生き残っている魔獣が、示し合わせたみたいに一斉に吠える。

それも、尋常じゃない勢いで興奮して、正気を失ったような剣幕で。

「――っ」

刹那、危機感を覚えたトッドが、すぐにその原因がスバルにあると看破した。

さしものトッドでも、スバルの叫んだ『死に戻り』の意味はわからなかったようだ。だが、彼はそれを理解する必要はないと切り捨て、即座に殺意を実行に移す。

タンザの反撃を警戒しながらも、トッドの体が猛然とこちらへ突っ込んでくる。

そのトッドに向かい、タンザが手にした石を猛スピードで投げた。石は真っ直ぐ、トッドの体の真ん中に飛び込んでいく。

だが――、

「クソ……!」

小さく呻くトッドが、石を受けた左腕の痛みに奥歯を噛む。

外すわけにはいかないと、タンザの狙いは一番的の大きな胴体になった。それを見逃すトッドではなく、左腕を犠牲に、被害を最小限に食い止める。

そのまま、トッドは右手で斧を振りかざし、タンザの小さい体を薙ぎ払おうとした。

しかし、それはスバルがさせなかった。

「シュバルツ様!?」

後ろから肩を突き飛ばされて、横に倒れてしまうタンザがそう叫んだ。

彼女を突き飛ばしたのは、その小さな背中に庇われていたスバルだ。薙ぎ払われる斧の射程からタンザが消えて、でも、代わりにスバルがそこに入り込む。

一瞬、トッドの瞳孔が細くなり、しかし、斧の勢いは止まらず、振り切る。

ゆっくりと迫る刃が、スバルの首を吹き飛ばす――瞬間だった。

「――っ!?」

硬い音と重たい衝撃、それが鈍く響き渡り、トッドの体が宙を舞った。

吹っ飛んで転がったトッドはすぐさま起き上がる。が、盛大に切った口から血の雫をこぼして、大きく膝が笑っていた。

「ごほっ……今、のは……っ」

何が起こったのか、わからないと目を白黒させるトッド。

そのトッドに、スバルは指を突き付けて――、

「――インビジブル・プロヴィデンス」

その、がら空きの顎をぶち抜いた一撃が何なのか、丁寧に解説してやった。

「次は、頭を吹き飛ばしてやる」

「――――」

指を突き付けた手を引いて、スバルは今度は中指を立てて言い放った。

顎が砕けたのか、止まらない血を吐き捨てながら、トッドがすっと目を細める。そのまま彼は、割られた顎の報復を始めるかと思いきや――、

「――――」

じっとスバルを見据えたまま、トッドはゆっくり背後へ後ずさった。立ち上る黒い煙に後ろ足を入れると、彼は何の躊躇いもなくその中に消えた。

形勢不利と見た途端、未練も何もかも投げ捨てて、逃げを選んだのだ。

「まぁ、そうすると、思った、けど……」

「シュバルツ様!」

消えるトッドを見届けると、血相を変えたタンザがスバルに駆け寄ってくる。そのタンザの手を取るより前に、スバルはその場にずるりと崩れ落ちた。

ただでさえ、ここに辿り着くまでに瀕死の状態だったのだ。イドラとヒアインを連れての飛び降りは、たぶん体の中の骨がいくつも折れる重傷だった。

久々すぎる『怠惰』の権能の使用は、相変わらずスバルの脳みそに刺激が強くて、鼻血がボタボタと流れ出て、しかも止まらない。

でも、どのみち、鼻血が止まらなくても大差はなかった。

トッドの、最後の斧の一撃が、スバルの右肩を砕いて、突き刺さっている。

うっかり意識が吹っ飛ばなかったのは、もう、痛みも何も関係ないところまで、スバルの命が遠ざかってしまっている証拠だった。

「シュバルツ様、シュバルツ様……!」

泣きじゃくるタンザに縋り付かれ、スバルは心底申し訳ない気持ちになる。

この小さい体で、スバルに真摯に寄り添い、必死に生かそうとしてくれた彼女を、残していかなくてはいけないことに。

ただ――、

「これ、を……」

「――っ、呪具?」

懐から、黒い球体を取り出して、それをタンザの手に託す。

何か、考えがあってのことじゃなかった。とにかく、タンザに残せるものを何でも残してやらないと、たとえ、もう、スバルが死ぬとしても。

「セッシー、が……あっち、で、アラキアと……」

「わ、わかりました……! わかって、わかっています、から……」

「トッドは、もう……気に、しなくて、いい」

性格的に、一度手痛い目に遭ったトッドが仕掛けてくるとは考えられなかった。それが彼の憎らしいところであり、同時に信用して利用できる信条でもある。

そうして、必死に言葉を並べるスバルに、タンザが嗚咽を堪えながら接してくれる。

最後の最後まで、自分を案じるスバルに何かをしなくてはと、必死に。

でも、違うのだ。

順番が、あべこべだ。

タンザが、先によくしてくれた。何もかも、スバルに思い直させてくれた。

ナツキ・スバルが、最後の最後まで諦めなくていいのだと、思い出させてくれた。

そのおかげで、まだ、また、戦うことが、できる。

だから――、

「――次、だ」

そう、小さく決意を口にするスバルに、タンザが目を見開いた。

だが、彼女にはそれが、死にゆくスバルの最後の意地のように聞こえたのだろう。

目に涙を溜めたまま、じっと感情を堪え、タンザの小さな手が、細い指が、そっと震えるスバルの手を優しく包み込んだ。

そして――、

「はい、そうです、シュバルツ様。次こそはきっと、負けません」

スバルの最後の願いを汚さぬように、涙ながらにタンザが言った。

噛み合って、いない。でも、その互いを救いたいという想いは噛み合っている。

それで十分だった。

その、十分な想いと、この瞬間の気持ちを抱えたまま――、

「――俺が、みんなを」

――救ってみせる。

その決意を最期に、ナツキ・スバルの命は燃え尽きて――。

△▼△▼△▼△

――暗い、暗い、どこまでも暗い世界。

闇しか存在せず、光の差し込まない空間であり、祈りや願いの届かない最果て。

いつだって、その場所は心を蝕み、無力感を押し付け、嘆きと悲しみをもたらしてくる呪われた絶境だった。

でも、このとき、この瞬間は、訪れを待っていたように思う。

「――――」

一人では太刀打ちできない闇が、全部を呑み込んで持ち去ろうとしていく。

無力感に苛まれ、身の回りの全部に見放され、自分自身さえも自分を諦めかけ、もうできることは何もないと敗北感がこの身を焼いたとしても。

『――愛してる』

「――全部じゃない。でも、わかってる」

一人でやり遂げられることなんて、そう多くない。

そこまで大それた人間じゃない。だから、間違いもするし、覚悟も捻じ曲がる。

でも――、

『――愛してる』

「ちゃんと、俺もわかってる。――わかってる」

手放しかけて、ようやくわかることがある。

それと同時に、これまでの感情をどう保てばいいのかわからなくもなる。

でも、わかっていきたいと、ちゃんと思えているから。

一番大事なモノは、ちゃんとわかってる。

「ありがとう。――いってくる」

かの地へ、あらゆる命が潰える絶水の地へ――もう、これ以上負けないために、大事なモノを踏み躙られないために、ナツキ・スバルは再臨する。

――再臨、する。

△▼△▼△▼△

――ガラガラと、疾風馬の引く馬車の揺れを尻に感じる。

あまり、居心地のいい旅ではなかった。

乗り心地の話ではなく、居心地の話だ。乗り心地に関して言えば、おそらくは帝国でも有数の優遇措置なのだろう。それを、ありがたいとはあまり感じない。

豪奢な馬車の居心地が悪いのは、窓の少なさと手綱を握っていないこと。無論、どちらも狙われやすさと引き換えの余地なので、どちらを好むかは人それぞれだろう。

単純に、自分は他人任せで対応が遅れるのを嫌うというだけ。

この馬車自体、土魔法の防護がかかった強固なものだし、周囲の警戒に関しては自分よりよっぽど優れた感覚の持ち主が対応している。

「至れり尽くせり、なんだろうな。望まぬ旅なことを除けば」

とかく強者が尊ばれる国風だけに、『将』の持て囃され方は極端なものだ。

言うなれば、こうして扱われる自分も強者側に置かれていると言えるのだろうが、それ自体がありがた迷惑というのが本音である。

それこそこの世の頂点でもない限り、強いと思われて得することより、損することの方が多いというのが持論だ。弱いと思われている方が、ずっとやりやすい。

だからこそ、こうした扱いは居心地が悪いという結論になるのだ。

「――退屈してる?」

不意に、屋根の上から声がかかり、閉じていた目をゆっくりと開ける。

聞こえてくる声の主は屋根の上にいて、馬車の中は自分以外は空っぽの状態だ。他人がいると息が詰まるから無人は結構だが、文明人らしからぬ同行者は目に余る。

とはいえ、口で言ってどうなる相手でもない。教育も躾も、誰かがやればいい。

さして長く付き合うつもりもないのだ。彼女が親身になってくれているつもりらしい復讐に関しても、適当な相手の首を仇だとでっち上げたらいいだろう。

「聞いてる?」

「聞こえてる。考え事をしてただけだ。そっちこそ、ちゃんと指示は覚えてるか?」

「そのぐらい、わたしも覚えられる」

心外、とでも言いたげな口ぶりだが、信じていいものかは疑問の余地があった。

大体、考えるのが苦手だからと、方針を部下の、それもたかだか上等兵に丸投げしてくる『将』なんて聞いたこともない。丁寧な言葉づかいもやめろと言われ、望み通りに対応してやっているが、何を考えているのか全く不明だ。

たぶん、懐かれているんだろう。ジャマルの女版だと思えば大差なさそうだ。

ジャマルよりも捨て場所に困りそうなのが面倒だが。

「島、見えてる。準備いい?」

「宰相の手紙さえなくしてなければ、あとは噂の総督様に指示通りにしてもらうだけだ。誰とも揉める必要のない、楽な仕事だよ」

屋根の上、跳ね橋を渡る馬車の行く先を見ながらアラキアが聞いてくる。

それに答えながら、懐に入れた書状の感触を確かめてそう答える。そう、ただ命令書の通りにしてもらえばいいだけの、伝令みたいな役目だ。

ただし、本当にただの伝令でいいなら、わざわざアラキアを送る理由はない。

そこが唯一、引っかかっている点ではあった。

「楽な仕事のはず、なんだがな」

「……目的は、島の全滅。できるの?」

「総督が大人しく、呪則の発動に同意してくれれば」

目的の地、剣奴孤島を管理するグスタフ・モレロ総督は、島に集められた剣奴たちを支配するために『呪則』と呼ばれる絶対の規則を敷いている。

呪則は、グスタフに呪印を刻まれた対象が規則に反したときに発動し、その命を問答無用で奪うという実に便利な代物だ。

『九神将』の一人である『呪具師』が作成したとされる呪具、それを起点としている呪則だが、その発動の条件は単純明快――、

「――決められた距離、呪具から離れた奴は死ぬ」

「……島の人、平気?」

「ざっくり島の全域は安全圏なんだろうさ。どのみち、呪印を解かなきゃこっそり抜け出そうとしても死ぬ。脅して跳ね橋を渡られても脱走は阻止できる。中に閉じ込めておくための抑止力としちゃ十分だ」

事実、剣奴の一人でも見せしめに呪則の効果で死なせてやれば、誰も後追いでそれを確かめようなんてしないだろう。そんな命知らずの馬鹿はいない。

わざわざ相手を目で見たり、何か働きかけなくても発動する呪いだ。島の特性上、よく練られた束縛装置だと素直に感心する。

ただし、呪則が自由に使えないと気付かれたら、すぐに反乱の呼び水になる。

「まぁ、そのときは全滅させるつもりで、呪具を湖に投げ込めばいいだけだが」

剣奴孤島を取り囲む湖の水深は深い。大掛かりな跳ね橋でなければ岸まで渡れないような絶水の孤島だが、水底までの距離はさらに深いのだ。

呪具を湖に投げ込めば、湖底につく頃には十分呪則の発動圏内になるだろう。

最悪、総督が非協力的な場合は、回収した呪具を湖に投げ込むことも視野に入る。

「何事も、最悪への備えは重要だ。呪具の隠し場所も含めて、な」

下手に仕事に誇りを持っていて、ごねられても困る。

大人しく穏当に、何事もなく、剣奴の皆殺しに協力してもらえるのが最善だ。そうやって仕事を片付けて、この旅の目的を果たして、早々と我が家へ帰りたい。

「カチュア……」

長く離れ離れだったせいで、少しの再会がより執着心を強くした。

カラカラに渇いた喉に、水を一滴だけ垂らすような残酷な真似だ。腹がはち切れるまで水を飲みたい。それが当然の、人の情というものだろう。

一秒でも早く、仕事を終わらせて帝都へ戻る。そのためなら――、

「――何を犠牲にしてもいい」

そう、自分の中の楔を一個、乱暴な方へずらしたときだった。

「――トッド、なんだか変」

名前を呼ばれ、男――トッドは「なに?」と顔を上げた。

真剣味の欠けた声色だが、彼女は大抵の場合はこんな調子だ。とはいえ、『九神将』まで上り詰めた実力は侮り難く、常人には察せない判断力があるのも事実。

彼女が指摘したのは、徐々に近付きつつある目的の剣奴孤島――すでに跳ね橋の半分に差し掛かり、両岸からかける橋の島側へと馬車が乗り移ろうというところだ。すなわち、相手の懐へ入る直前での呼びかけ、嫌な予感が込み上げる。

そして――、

「――止まれ!」

「え?」

「今すぐだ! 止まれ! 反転しろ!」

窓越しの進路に目を凝らした瞬間、そう叫んだトッドに御者台の兵士が戸惑った。

その反応の遅さに舌打ちして、トッドはすぐさま御者台へ乗り込むと、兵士から手綱を奪って馬車を止め、大急ぎで疾風馬に反転するよう綱を打つ。

それから、目を回す御者を余所に屋根へと振り返り、

「アラキア、島を警戒していろ! 動きがあったら構わず撃て!」

「――。わかった」

「さ、宰相殿からの使者の任が……」

「――――」

「ぁ、う……」

大人しく従うアラキアと、使命感を口にする御者。前者はともかく、物分かりの悪い後者を間近で睨みつけ、トッドは静かに目を細めた。

そのトッドの眼差しに、勢いの萎んだ御者が声を詰まらせる。

それで正解だ。もしもまだ食い下がるようなら、湖に突き落とすところだった。

帰りの御者がいなくならなくて助かったし、跳ね橋を渡り切る前に異変に気付いたのはアラキアのお手柄だ。――どうやら、すでに事態は動いていたらしい。

「トッド」

「ベルステツ宰相の懸念は当たったらしい」

短い呼びかけにそう答えて、トッドは疾風馬を逆走させ、きた道を引き返す。

跳ね橋を引き上げられてはたまらない。向こう岸の跳ね橋、それを制御するものたちが相手側に与していないとは限らないのだ。

なにせ――、

「――準備万端でお待ちかねとは、相手は相当ヤバいのが率いてるぞ」

「勝てない? わたしがいても」

「ああ、そうだな」

静かに、緊張を高めるアラキアの声を聞きながら、トッドは頷いた。

ゾッと、背中を走る怖気を感じたまま――、

「――勝ち目がある相手じゃない。少なくとも、今日は」と。

△▼△▼△▼△

「……引き返すとは思ったけど、損切りの判断が早すぎるだろ」

跳ね橋の真ん中で反転し、躊躇いなく引き返していく馬車を見ながら嘆息が漏れる。

その判断の速さに呆れと感心があるが、それも予想の範囲内だった。もしも本気で騙し討ちするつもりなら、まずは大人しく相手を島に引き入れている。

ただし、その場合はこちらも相手も無傷では済まない。

引き入れた場合の大惨事を知るものとしては、そんな大博打はとても打てなかった。

――もうすでに、これ以上ないほどの大博打に打って出たあとなのだから。

「シュバルツ様、使者の方々は……」

「ああ、退散した。さすがに、これだけずらっとお出迎えしてたらおかしいと思うわな。そう思わせたいからハッタリかましたんだけど」

「そう、ですか。……『弐』を相手せずに済んで、ホッといたしました」

手で庇を作り、跳ね橋を眺めていたスバルの隣にキモノの少女が並ぶ。そっと自分の胸を撫で下ろした少女、タンザは作戦の成功に安堵を噛みしめていた。

その、彼女の頭の角は二本とも健在で、幼子の玉の肌にも目立った傷は皆無。

全く何の問題もなく、すくすくと元気で健気なパーフェクトタンザだ。

「――。あ、あの、シュバルツ様?」

「うん?」

「いえ、その、どうして私の頭を撫でていらっしゃるのかと……」

「あ、ごめんごめん、つい」

恥ずかしげなタンザの問いかけに、スバルは自分が無意識に彼女の頭を撫でていたのだと気付いて謝った。が、謝っても頭を撫でる手は止めない。

そうして撫でくりを続行するスバルに、タンザは唇を結んでされるがままだ。

その渋い顔がまた可愛らしく思えて、スバルは振り払われでもしない限りは意地でも撫でくりを続けてやろうと考えるが――、

「――って、いつまでやってやがんだ! ガキ同士でいちゃついてる場合か!?」

「うおっ」

すぐ背後から威勢のいい声がかかり、スバルの撫でくりの手が止まった。その間、そそくさとタンザに離れられ、スバルは唇を曲げて振り返る。

そのスバルの視線に、「な、なんだよ……」と引きつった顔を浮かべる蜥蜴人――ヒアインが、救いを求めるように脇の二人を交互に見て、

「なんで俺があんな目で見られなきゃならねえ!? 当たり前のことを言っただけだろうが! 違うか!?」

「言い方と間の悪さというものだろうな。私も、間の悪さでは言えた話ではないが」

「お前よりはマシだ……。少しは配慮しろ、トカゲ野郎……」

「ぬがぁ!?」

両脇の二人――イドラとヴァイツに裏切られ、ヒアインが目を白黒させる。

そんなヒアインの反応に、イドラが苦笑し、ヴァイツは鼻を鳴らした。その三人が並んだ姿にも、スバルは感慨深いものを覚える。

そのスバルの眼差しに、イドラは眉を寄せると、

「シュバルツ、その何やら思わせぶりな目つきが気になるのだが……」

「何でもない。ただ、ここまできたなと思ってさ」

「――?」

鼻の下を指で擦ったスバルに、イドラは怪訝そうに首を傾げた。が、そのイドラの反応の傍ら、ヴァイツがたくましい腕を組んで「わかれ……」と呟く。

その体の恐ろしげな刺青を歪めながら、ヴァイツは跳ね橋の彼方を睨み、

「帝都の使いを追っ払ったんだ……。これでオレたちに退路はない。そうだな……?」

「――。ちょっと違うけど、それも正解」

「ちょっと違う……!?」

一番の理解者的な顔つきが崩れ、ヴァイツが目を見張る。その反応にスバルは苦笑いして、スバルの抱いている感慨と、三人の印象が違っていることを誇らしく思う。

三人は――違う、みんなも、何も知らないが、それで大丈夫だ。

ちゃんと、スバルが全部覚えている。

そして――、

「――どうやら、裁定は下ったようだ」

重く、厳めしい声と共に振り返るのは、跳ね橋の袂で使者を待っていた人物だ。

使者を乗せた馬車が引き返し、向こう岸まで渡り終えるのを見届けた彼は、まるで鬼のような恐ろしい形相のまま、スバルを真剣に見つめてくる。

ゆっくりと、こちらへやってくる大男の威圧感、それに背後のヒアインたちが軽く気圧される気配を感じながら、スバルは肩をすくめ、

「これで、俺を信じてくれる?」

「否やはない。皇帝閣下が本職に下した勅命、その成就のときだ。すなわち――」

「すなわち?」

「剣奴孤島ギヌンハイブの剣奴一同、旗下に加わらせていただく。――シュバルツ殿下」

そう言いながら、己の胸の前で四つの腕、その手と拳を合わせたのは剣奴孤島の管理者であり、威風堂々たる姿勢を示したグスタフ・モレロだ。

そのグスタフの発言に顔を見合わせ、従う看守たちも一斉に同じ姿勢を取る。

「気に入らんな……」

そうしたグスタフたちの姿勢に、不満げにヴァイツが呟く。

スバルが振り向くと、ヴァイツは片目をつむって顎をしゃくり、

「剣奴一同が従うと、勝手に決め付けられるのは御免だ……。たとえそれが、島の管理者である総督だとしても……」

「ヴァイツ・ログン、君の意見は胸に留める。だが、個人の意思よりも優先されるものがある。本職が、君に言うことを聞かせる術があることを忘れてもらっては困る」

「やってみるか……?」

ヴァイツが鼻を鳴らすと、グスタフも静かな意思を瞳に宿す。そのままバチバチやり合いそうな二人、その間にスバルが割って入る前に、

「総督、早まらないでもらおう。ヴァイツ、貴様……お前は言葉が足りない。そのせいで誤解を招いているだろう」

「それで揉めようと、オレは一向に構わん……」

「他が構うんだよ! ああ、ったく! 総督、俺たちゃあんたに命令されて、おっかなびっくり従うなんてみっともねえ真似はしねえ!」

ヴァイツをイドラが押しとどめ、代わりに進み出るヒアインが調子よく言い放つ。

形勢が不利ならグスタフの目も見れないヒアインだが、そんな弱気をおくびにも出さないで、彼は堂々とスバルを手で示して、

「妙な脅しなんぞなくても、俺たちゃシュバルツと一緒にいくぜ。なぁ、そうだろ、てめえら! ビビっちゃいねえよなぁ!?」

「――笑わせんな、トカゲ野郎!」

「誰がビビってるだ、誰が!」

「おお、おお、いこうぜ、我らが帝国皇子殿下!」

「いけ好かない親父をぶっちめて、おれたちの帝国を建国だぁ――!!」

大きな大きなヒアインの呼びかけ、それに答える大勢の声。

次々と周囲から――違う、島中から上がったのは、総出で使者のお出迎えにやってきていた剣奴たちの声だ。

血の気の多い男たちの声には、ヒアインの仲間であるオーソンたちや、珍しく治癒室から外に出てきたヌル爺さんの声も混ざっている。

文字通り、一丸となった剣奴孤島ギヌンハイブだ。

「――ありがとう」

沸き立つ周囲の歓声を聞きながら、スバルは自分の胸を押さえて呟く。

それは周りの仲間たちへの、そして自分への、何より機会をくれた相手への、感謝。

そして、スバルは両手で頬を張って、晴れ晴れしい顔を上げると、

「で、俺たちはいくけど、セッシーはどうする?」

「――ははぁ、そうですねえ」

首を傾げたスバルの問いに、くるくると回りながら落ちてくる影。軽やかな音を立てて着地したのは、事の成り行きを高台から見守っていたセシルスだ。

体の半分が焦げていない彼は、焦げていたときと変わらない様子で、スバルとその周りにいる大勢の人たちを眺め、

「……これはさすがの大番狂わせ。いくら何でもここまでやるとは予想もしていませんでしたよ、実に天晴れと言わざるを得ません。ただし一個だけ疑問が」

「へえ? なんだろ」

「懇切丁寧に巡って回ってやり取りして、皆さんをお味方につけた手腕は実に見事と称賛しましょう。でもですねあれですよ。――僕、口説かれてないんですが?」

両袖に手を隠しながら、セシルスが心底不思議そうな顔で聞いてくる。

理解できないと、いつも浮かべている笑顔の消えたセシルス。その顔を見て、スバルは軽く目を見張り、それから満足げに頷いた。

確かに、スバルはセシルスを口説かなかった。

グスタフも、ヒアインもヴァイツもイドラも、オーソンたちもヌル爺さんも、レックスやミルザック、カシューやモイゾ、ディロイやクリグキン、コドローやフェンメル、あの石頭で一匹狼のジョズロも口説いたのに、セシルスはスルーした。

何故なら――、

「――セッシーの、その顔が見たかったんだよ」

これまで散々、要所でスバルを空振りさせてきたのがセシルスだ。

その意趣返しに危ない橋を渡るほど馬鹿じゃないけれど、色々考えた結果、良くも悪くもこれが一番、セシルスには効き目があると考えた。

そして実際、そう言われて目を丸くするセシルスに、スバルは告げる。

「今ならこき使ってやるけど、一緒にくる?」

「は、ははは、ははははは! あーっはっはっはっは!!」

肩をすくめて、そうウインクしたスバル。その上から目線の誘いを聞いた途端、セシルスが大口を開けて、背中を反らしながら大爆笑した。

その場でじたばたと足を動かして、大笑いするセシルス。彼は散々笑い倒し、目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、

「まさか! まさかまさかこの僕を! この『青き雷光』セシルス・セグムントを! この世界の花形役者を! この僕を袖にして言わせますか! ぜひ一緒にいかせてくださいと! それはそれは……とんでもないですよ、バッスー!」

「……で、どうする?」

「もちろんご一緒しましょう! 乗せられるのは癪ですがとか言いたいところなんですがやり込められて全く癪じゃないのがすごい! ああ、すごい! 快なり!」

大きく両手で拍手しながら、セシルスがスバルの思惑に全速力で乗っかる。その思い切りの良さに安堵しつつ、スバルは顎に手をやった。

実は、それこそ一番最初のときから思っていたのだが――、

「そのバッスーって呼び方、全然ピンとこないんだよな」

「むおう、逆風! ついていくと答えた手前それで決裂するのも何とも風通しが悪いですが、しかしてなんとお呼びすればの代案でも?」

「そうだな……」

前のめりになるセシルスに、スバルは少し考えた。

バッスーと、何度か口に馴染ませて、ふと思う。そして、その思いつきが案外悪くない気がして、スバルは悪い顔で笑い、

「――ボス」

「――――」

「俺のことは、これからボスって呼んでくれ」

気取ったつもりはないけれど、セシルスの物語脳に付き合うのも意外と悪くない。

そんな調子のスバルの答えに、セシルスは「ほほう」と嘆息し、

「ボス、ボス、ボスボスボス……これはなかなかよい響き! 意味は全くわからんちんですが、嫌いじゃないです、むしろ好き」

「頭目って意味だよ。ちょうどいいだろ?」

「ええ、ですね、ボス! しからば、始めるとしますか!」

快活に笑い、威勢のいいセシルスの言葉にスバルは「ああ」と頷いた。

それから、スバルはセシルスを筆頭に、『合』の仲間であるヒアインとヴァイツ、イドラや剣奴たちを見渡し、グスタフと彼が引き連れる看守たちとも目を合わせた。

壮絶な、壮絶な経験の果てに、一丸となった仲間たちと――、

「――いくぜ、みんな! 帝都にいる、クソ親父の横っ面をぶん殴る!!」

「「おお――!!」」

スバルの掛け声に、剣奴孤島そのものが大きく答えを返す。

島を浮かべた湖全体が揺らぐような激しい勢いを感じながら、スバルはふと、こちらをじっと見ているタンザの視線に気付いた。

「安心しろ、タンザ」

ただ一人、ちゃんとスバルが皇帝の落とし胤ではないと知る彼女に、スバルは力強く頷きかけて、西の地から一気に帝都を目指す覚悟を決めた。

菜月・賢一の息子であり、仲間たちが信じてくれる自分として、突き進む。

故に、このときから、ナツキ・スバルは――、

「――今度は、俺たちが勝つ」

――異世界召喚されて以来、最強の存在としてヴォラキア帝国を蹂躙する。