軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七章74 『イドラ・ミサンガ』

足音が、ひたひたと近付いてくる足音が、スバルの心を竦ませる。

帝都から訪れたトッドとアラキア、二人の起こす大虐殺を止めなくちゃいけない。

そう必死で、懸命に、降りかかる悪意と不条理を撥ね除けるために、全力で足掻いた。足掻いて足掻いて、足掻き続けて、しかし、最悪の事態は起こった。

後ろ倒しになり続ける、『死』を起点としたリスタート地点。

このとき、スバルが最も恐れていたのは『死』そのものではなかった。スバルが『死』を迎えることで、そして通り過ぎてしまうことで、確定する現実。

――助けられない命がこぼれ落ちるのが、最も恐れていたことだった。

その、逃れられない誰かの『死』が、ひたひたと近付いてくることが、最も。

「ああああああ――っ!!」

目の前の光景、血塗れで倒れるヴァイツの姿にスバルの喉が絶叫する。

叫んで、飛び出そうとした袖が伸びてくる指に掴まれ、動きが封じられた。掴んだのはタンザで、丸い瞳を涙目にした彼女が、スバルに必死に首を横に振っている。

これも、見た。もう見た。見て、見てしまって、見知ったモノで。

同じ光景を、ほんの一分前に目にした光景を、また見ている。

「――――ッッ」

直後、耳を引き裂く不細工な鳴き声が、倒れているヴァイツの体ごと通路を押し潰し、そのまま床を抜いて島の中腹へ落ちていく。

灰色の蛙の巨体と落ちる破片、それがヴァイツを呑み込み、視界から消える。

「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だぁぁぁ――!!」

「シュバルツ様!?」

がむしゃらに腕を振って、スバルはタンザの手を振りほどいた。驚く少女の声を後ろに置き去りに、スバルは落ちるヴァイツに向かって走る。

今すぐ駆け付ければ、落ちる彼を拾い上げて、目と左腕と、負った傷を塞いで、治癒室で包帯とか巻いて、全部手当てすればきっと、きっと、きっと――。

「まだ――」

「思ったより脆いな」

ヴァイツを助けられると形振り構わないで走った。

そのスバルを、横薙ぎに振られる何かが正面から出迎える。それが、赤黒く汚れた斧の刃だと気付いたのは、重く硬い音と共に視界が大回転してから。

大回転して、高々と上がったスバルの視界に、不格好に走る子どもの体が見える。見えて、前のめりに倒れるそれが、頭のない自分の体だとわかる。

なら、頭はどこに。それよりも、ヴァイツを、を、をををを。

× × ×

ぐるぐると回る視界が、唐突に一点に固定され、スバルの脳が振り回される。

猛回転させられたカメラを急停止したみたいな勢いで、実際には動いていない三半規管がめちゃめちゃにされたような感覚だ。

押し寄せる吐き気と、混乱と、それからヴァイツを助けなくてはいけないという、足を止めている場合じゃないという、その焦りが――、

「初めてだった……」

そうして舞い戻ったスバルの視界に、血塗れで呟くヴァイツの姿があった。

左腕と、右目からものすごい量の血を流して、一秒後には崩れ落ちるヴァイツの姿が。

「オレを、信じると、そう言った奴は……」

「ああああああ――ッ!!」

取り返しのつかない現実が、ナツキ・スバルの魂をぐしゃぐしゃに踏み躙った。

△▼△▼△▼△

破滅の足音は、ひたひたと確実に忍び寄っていた。

大虐殺が始まり、それを阻止しなくてはと走り出したスバル。

だが、リスタート地点の十数秒の後ろ倒しに端を発し、削り取るような猶予の短縮は奇跡を遠ざけ、スバルの心から希望を拭い去っていった。

グスタフの執務室に忍び込み、ヒアインと協力して大虐殺の真相を知ろうとした。

何度も、トッドたちとグスタフとの話し合いが核心にいく前に見つかり、失敗を重ね、次こそはとトライ&エラーを繰り返して――引き返せなくなった。

リスタート地点が、ヒアインと執務室に隠れている最中まで後ろ倒されたからだ。

「――――」

あの瞬間から、スバルの心には破滅が盛大に嗤っている声が聞こえていた。

スバルに覆い被さって、怯えるヒアインの心臓の音を聞きながら、たぶん、それ以上に心臓を激しく鳴らしていたのはスバルの方だ。

大虐殺を止められず、リスタート地点がその後ろになったらどうするのか。

取り返しのつかない場面を再スタートの起点にされてしまったら、いったい、ナツキ・スバルに何ができるのかと、絶望感でいっぱいで。

そして――、

「びしゅ――」

気の抜ける声と共にグスタフの頭が吹き飛んだとき、スバルは知った。

もう絶対に死んではいけない。死んで、戻った先が、グスタフが殺されてしまったあとだったとしたら、もう彼の命は救えないことが確定する。

誰かの『死』が確定したら、それはもう、スバルが殺したのと同じだ。

救えない世界の確定は、それが誰の手でもたらされた『死』だったとしても、ナツキ・スバルがしでかした殺人だった。

だから、死なないように必死だった。

グスタフが死んでも、ヌル爺さんが死んでも、剣奴たちが死んでも、看守たちが死んでも、誰が死んでも死なないように必死で抗った。

スバルが死んだら、殺された彼らが本当に死んでしまう。

理屈に合わない考えだとわかっていても、スバルはそう足掻くしかなかった。

スバルが死ななければ、死んでしまった彼らを死なせないで済む可能性を残せる。そうすれば、彼らは本当に死なないで済むから、だから――。

このまま永遠に死ななければ、誰も死なせずに済むなんて、幻想が。

幻想が、幻想に過ぎなかったと、無様に死んだスバルの命が証明してしまった。

△▼△▼△▼△

もう、何度目の『死』を迎えただろう。

「目の前で消えてどうすんだ」

「シュバ――」

ぐったりと、膝をついているスバルの前で、その名前を呼ぼうとした声が途切れる。

容赦なく振られた斧が、ヒアインの体を命ごと叩き斬って、白目を剥いた彼が床に大きな音を立てて倒れた。

だくだくと、流れる血が床に広がっていって、それが先に倒れているイドラの死体の血と混ざっていく。

頭を割られたイドラは、ヒアインよりも先に殺されている。

スバルが、最初のトッドの攻撃から彼を助け損ねたからだ。先にイドラが殺されて、次にヒアインが殺されて、最後にまたスバルが残される。

すでにタンザはトッドの手で放り投げられ、壁の穴の外に落ちていったあと。

もう、落ちるタンザの悲鳴が聞こえるところまで、世界は後ろ倒しになっていた。

腕と顔をやられて、蛙の魔獣ごと崩れる通路に呑まれたヴァイツも、スバルを庇おうとして外に投げ出されるタンザも、手出しできない現実に『固定』された。

あとは――、

「実際のところ、どうなんだ?」

その場にへたり込んで、流れる二人の血で膝を汚しているスバルに、斧を肩に担いだトッドがそう尋ねてくる。

痺れた脳が疼いて、その先に続く言葉をスバルに教える。

もう、何回も聞いてしまった、トッドからの問いかけ、それは――。

「お前さん、本当に皇帝閣下の子どもなのか?」

「……人の言葉を先読みするなよ」

俯いたままのスバルの言葉に、トッドが不愉快そうな声色で呟いた。

内心、言い当てられてどう思っているのかわからないが、すぐに激高して殺しにかかってくるほどの危機感は覚えなかったらしい。

別に、危機感を与えようとしたわけじゃなく、発作的に口にしてしまっただけ。

でも、わずかでもトッドのペースが乱れたなら――、

「死にたくなかったら、動くな」

そう言って、スバルは自分の懐から取り出した黒い球体――グスタフの体に入れられていた呪具、それをトッドに見せつけるように突き出していた。

血を拭いた黒い球、ガラス玉みたいな質感と触り心地のそれは、ゴルフボールぐらいの大きさと比べてずっしりと重たい。

いったい、何でできているのかもわからないし、材質なんてどうでもいい。

重要なのは、これがとても大きな、残酷な力を秘めているということ。

これが『呪則』の発動に必要な鍵で、トッドも欲しがっているものなら、使える。

聞く耳を持たせる、第二の可能性に、なり得るはずだと。

「これ、だろ、呪則に必要なのは。死にたくないなら……」

「――。お前さん、そいつは」

「――俺が! 今! 話してるだろうが!! 死にたくなかったらって、聞こえてねぇのかよ!?」

呪具を持った手を振り回して、唾を飛ばしながらスバルが吠える。

後悔と絶望を詰め込んだ頭には余裕がなくて、トッドの言葉をいちいち吟味してやるスペースなんて残ってない。ただ言いなりになれと、激しい怒りが沸き立つ。

「やれやれ、わかったわかった」

そのスバルの怒りを見て、トッドは小さく吐息をつくと、斧を下ろして両手を上げた。

あっさりと指示に従うトッドを見て、スバルは愕然とする。そのスバルの反応に、トッドは片眉を上げながら、

「おかしな奴だな。お前さんがこうしろって言ったんじゃないか」

「そ、れは……こんな、簡単な、ことで……」

トッドに言い返せず、スバルは目を白黒させ、自分の馬鹿さを激しく悔やんだ。

皇帝の隠し子がどうなんて話じゃなく、最初から呪具を盾にすればよかったのだ。怯えて焦って、安易な選択肢に飛びついたせいで、全部台無しにした。

グスタフやヌル爺さんも、ヴァイツもタンザも、スバルのせいで。

スバルが全部、ちゃんと頭を使って考えなかったせいで――。

「時にお前さん、それの使い方知ってるのか?」

「え……?」

自分の馬鹿さを責めて悔やんで、そんなスバルの思考に声が割り込んだ。

両手を上げたトッドの質問に、スバルは掠れた声を漏らして、手の中の呪具を見る。使い方と言われれば、それはわかっていない。わかりやすいスイッチや、持つだけで使い方が伝わってくるような仕組みになっていなくて。

「――だろうな」

そして、その視線の揺らぎだけで、すぐにトッドに脅しを看破された。

「知ってりゃやらんだろ、これで脅しなんて」

「あ」

直後、トッドが両手を上げたまま、振り上げた足でスバルの手を蹴飛ばした。

呪具を突き出した手を蹴られ、黒い球が真上に跳ね上がる。それを思わず目で追って、スバルはまたしても馬鹿な真似をした。

上を向くということは、相手に首を差し出すのと同じことなのだから。

「――――」

跳ね上がった呪具を追いかける視線、それが唐突に途切れる。

途切れる直前、硬い音が左側から右側に抜けた気がしたが、それが何なのか確かめる方法も、理由も、ない。

そして、認めるしか、ない。

――トッド・ファングを止める方法なんて、思いつかないのだと。

△▼△▼△▼△

――善人ぶっていると馬鹿にされ、全てを奪われた愚か者。

それが家業を失い、路頭に迷った挙句に奴隷になった男、イドラ・ミサンガへの周囲の人間の評価だ。

帝国の北西部にある小さな農村、それがイドラの故郷であり、ミサンガ家が代々家業の粉挽屋を続けていた土地だった。

粉挽屋を始めたのはイドラの祖父の、そのまた祖父の代だと聞いているが、その人物はどうやらかなりのやり手であったらしい。

村の川沿いに作られた水車、それを使った粉挽きの管理を領主から任されて、村で取れた穀物の製粉の一切を取り仕切っていたのだ。

見返りは大きく、労力は少なく、作った農作物を製粉するのにミサンガ家の力を借りなければならない人々から見れば、イドラは特権階級の出身だった。

しかし、イドラ自身もその家族も、家業を鼻にかけて暮らしてはいなかった。

周囲と比べれば裕福な生活が送れていたのは間違いない。だが一方で、不作の折には領主へ支払う税を村人に代わって負担したり、直接交渉に赴いたり、本来であれば村の長がするべき役割を代行し、村の一員として活動してきた。

――正直に商売し、広く信頼と信用を集めるように努力すること。

それがミサンガ家の家訓であり、粉挽屋としての哲学だった。

水車を用いて製粉する過程で、集まった穀物を懐に入れるものも多い。少なくとも、世間の粉挽屋を見る目は厳しく、だからこそ謙虚な姿勢が大事なのだと、イドラも、イドラの父も、家業を仕切る自分の親から強く言われてきた。

不審を買いやすい役目だからこそ、常に胸襟を開いて人と接する。

決して豊かさを独占しないで、周囲と苦楽を分かち合う。それは強者を尊ぶヴォラキア帝国の在り方としては正しくなくとも、帝都の鉄血の掟が届かない辺境の寒村では正しい在り方として尊重されてきた。

イドラも、幼い頃からその恩恵に与り、成長してきた一人だ。

だから、大病を患った父から早くに家業を譲られてからも、その伝統を守ろうとした。

「真っ当で、いい暮らしじゃないか。羨ましいよ」

そうイドラの暮らしを羨んだのは、村の酒場に立ち寄った男だった。

歴戦の兵という雰囲気を全身から漂わせた彼は、手にした大剣を振るって各地の戦場を旅する傭兵業だと身分を明かした。

余所からの人間は珍しいと、イドラは彼と酒を飲み交わし、色んな話を聞いた。

碌に外の世界を知らなかったイドラにとって、男の語った世界は驚きに満ちていた。

安穏と、緩やかな時間が流れる農村と違い、男の生きる世界は危険で残酷で、しかし同時に忘れられない熱が満ちているものであると。

それまでにも、イドラには漠然とした憧れがあった。

ヴォラキア帝国に生まれた一人の人間として、家業を継ぐ以外の選択肢が自分にはあったのではないかと、そんな真剣に悩まなかった望みがあったのだと。

自らの力と信義を重んじて、決して卑しい在り方を選ばない戦士の生き方を。

「イドラ、お前の従姉妹がいるだろ。実は、彼女が気になっててな……」

数ヶ月ごとに村を訪れ、そのたびに酒を酌み交わした男とイドラは親しくなった。

そうして、共に過ごした何度目かの夜に、男が真剣な顔でイドラに打ち明けた。年頃の従姉妹はまだ未婚で、イドラは彼を気に入ってもいた。

だから、何の躊躇いもなくイドラは彼に従姉妹を紹介し、二人がしっかりと結ばれるまでのお膳立てをして、婚姻の夜には新たな家族の誕生を酒で祝った。

男が従姉妹と共謀し、粉挽屋としての家業を奪ったのはそれからひと月後だ。

男は従姉妹にもミサンガ家の家業を担う資格があることを主張し、さらにはイドラやその父が、これまで粉挽きを細工し、村人たちに製粉の成果を偽ってきたと嘘をついた。

もちろん、そんな事実はないとイドラは訴えたが、粉挽屋という職業そのものについた疑われやすさは拭えず、村の意見は真っ二つに割れた。

その決着がつく前に、大病を患った父は病死し、心労が祟った母もそのあとを追うように亡くなってしまった。

「もう、我慢の限界だ。私は、何としても自分の家を守る……!」

父母を弔い、イドラは自分の迂闊さを呪いながらも、抗うことを決意した。

男と従姉妹が悪辣なことを目論むならば、イドラは正しく権利を取り戻す。そのためにイドラは男に裁判を申し込もうと、村の人間に立ち合いを頼んだ。

これまでのミサンガ家の、正直な商売が培った信頼が、正義を行うと信じた。

しかし――、

「――どうして、なんだ」

約束の場には誰も現れず、逆にイドラの家からは武装蜂起の準備が見つかった。

引っ立てられ、領主の前に望まぬ裁判を起こされたイドラは、身の潔白を必死に訴えたが、村人は誰もイドラを庇わなかった。

男と従姉妹が、全てを画策した。

村人たちは正直なイドラよりも、嘘つきだが利益を寄越す男を選んだ。

勝ち目は、一欠片もなかった。

家業を奪われ、奴隷に身を落としたイドラは人買いの手で島に送られた。

行き場を失い、唯一残った命さえ弄ばれる最悪の島、ギヌンハイブ。

命懸けの戦いを見せ物にされるその場所で、イドラは自分の心が黒く染まり、魂が腐り切っていくのを感じ、その絶望に従おうと考えた。

もう、いいじゃないか。

散々頑張って、報われなくて、それでどうして、まだ頑張ろうと思える。

信じたものは、嘘だった。頼ったことは、間違いだった。

誰もがみんな、誰かを利用することを考えていて、自分だけ助かろうとするのだ。

だったら、自分だって、そうしたって、悪いことなんて何もない。

そう、何もないのが、イドラだった。

誰からも選ばれなくて、当然だった。

鍛えてきた力がもなければ、特別に役立つような能力もない。誰が、イドラを選ぶ。

イドラだって、イドラを選ばない。

それなのに、いったい誰が、イドラを、馬鹿正直なだけのイドラを――。

「――戦士になりたかったんだろ、イドラ! だったら今だ! 今がそのときなんだよ!」

――正直に生きたって、報われる日なんて、こないはずだろう。

△▼△▼△▼△

「――――」

ガンガンと、痛む頭の感覚にイドラは身動きが取れなくなっていた。

舌が痺れ、喉が塞がったみたいに息もできない。手足の感覚が遠く、自分の体がバラバラになってしまったような、そんな恐怖に襲われた。

恐怖、それを覚えるのはもはや避けられない。

直前までの出来事を考えれば、故郷で誰も味方してくれなかったときの、全身の血が冷たく凍っていくような感覚さえも、その恐怖とは程遠かった。

目の前でヴァイツを殺され、勇敢なタンザが通路の外に投げ落とされる。

それを目にしながら、イドラはただ硬直して何もできなかった。その臆病が理由で、ヴァイツやタンザよりも自分が長生きできたというなら、皮肉すぎる。

この、数秒や十数秒の時間と、胸を焼き尽くすような屈辱が釣り合うだろうか。

何もできなくて、何かできた二人を見殺しにした。

その事実がイドラにもたらす絶望と後悔は、迂闊な真似をして家業を食い物にされた過去と比べても、こちらの方がなお重い。

「――は」

そこまで考えて、イドラは自分の人生経験の浅さに笑ってしまう。

嬉しいことはともかく、苦しいことの経験は何もかも、家業を奪われた人生の転落以外に思いつかない。――恵まれ、豊かだったのだと、実感する。

そんなイドラの在り方が、イドラの人生を奪った男を怒らせたのかもしれない。

もしそうだとしても、男のやったことが許されていいわけがないが。

「――――」

か細いどころではない呼吸と、霞む視界を巡らせ、イドラは周りを確かめる。

いったい、何があったのか。体中が痛むのと、この意味のわからなさは関連性があるのかどうか。そもそも、全部本当のことなのか。

剣奴孤島の全員が殺されかねないとか、シュバルツが皇帝閣下の落とし胤だとか、ヴァイツもタンザも殺されただとか、全部夢なんじゃないのか。

全部夢で、イドラは今も、恵まれた生活を退屈に思う贅沢な時を過ごして――。

「思い切った真似したな、お前さん」

ゾッと、冷たい声が聞こえて、イドラは体の痛みも忘れて硬直した。

全身の血が、冷たくなるのを通り越して凍り付く感覚があって、イドラはゆっくりと、その声の主の足音が近付いてくるのを理解する。

そして――、

「棒立ちよりマシでも、無策で飛び降りたらそりゃこうなるだろ」

呆れたような男の声、それが向けられていたのはイドラではなかった。

自分から少し離れたところに投げられる声に、イドラは安堵を噛みしめた。そして、よせばいいのに薄目を凝らして、声が向かう先を見る。

そこに――、

「――ぁ、う」

ボロボロで血塗れの、黒髪の少年が這いずっている姿が見えた。

「――――」

這いずる少年の姿と、そこがさっきまでの上層の通路でないのを見取ると、イドラの脳裏に何が起こったのか、意識が白くなる前の出来事が思い出された。

ヴァイツが殺され、タンザが放り出され、ただ凶行に走った男の考えがわからなくてわけのわからないことを叫んだイドラが殺される寸前、シュバルツが動いた。

喚き散らしたシュバルツが、棒立ちのイドラとヒアインの腰に組み付いて、タンザが投げ落とされたのとは反対の壁の穴に飛び込んだのだ。

突っ込んできた大鳥が開けた壁の穴、タンザが落ちたのは島の裏側で、シュバルツがイドラたちと飛び込んだのが反対側――それでも、助かる見込みは薄かった。

壁に削られ、突起に嫌われ、高所から地面に叩き付けられてそのまま死ぬ。

十回やって九回死ぬような、無謀で、だけどそれしかないとっさの逃避行だった。

その、助かる一回を掴み取ったのは奇跡と言える。でも、奇跡はそこで打ち止めだ。

這いずるシュバルツも、倒れているイドラも、追ってきた男から逃げられない。

ヒアインの姿が見えないのは、彼はうまくこの中腹の足場に落ちられなかったのか、あるいは擬態を使って、隠れ潜んでいるのか。

もし隠れていたとしても、ヒアインの勇気に期待はできない。

決して悪人ではないが、勇敢ではない。卑屈で臆病で、調子に乗りやすく、シュバルツに懐いているが、それ以上の期待はできない人物だ。

それでも、もしも死なずに済む可能性があるなら、息を潜めて隠れていればいい。

シュバルツが必死で掴み取った奇跡が、ヒアインを生かすなら、それもいい。

そのぐらいの報酬、シュバルツには支払われるべきだ。

「――――」

ふと、思ってしまった。

高所から落ちて、ボロボロの状態で、あの男がシュバルツに注目している今なら、もしかしたらイドラも、死んだと思って見逃されるのではないかと。

恐ろしい男だが、まさか死体全部の頭を潰して回るような真似まではしまい。

イドラの状態次第だが、迫真の演技で死んだと思わせられれば、死なずに済むかもしれない。このまま、自分だけでも、助かることが。

「――――」

選択の、時だった。

イドラ・ミサンガが、生き残るために、何を犠牲に、何を得るのか。

この残酷な世界で、強く悪賢いものが何でも手に入れる理がまかり通る場所で、イドラ・ミサンガはいったい、何者になることを選ぶ。

正直であれば信頼され、信用されると馬鹿正直に信じて、全部失った男は――。

「――せーのっ」

両手で掴んだ斧を振り上げて、這いずる少年の頭にそれを振り下ろそうとする背中。

息を潜めて、目をつむって、何もかもから顔を伏せれば。

――それで、いったい何が、救われるのだ。

「い、やああああ――っ!!」

全身を無理やり動かして、地面に張り付いて思える体を引き剥がして、たくさんの血を吐きながら無様に走った。

走って、男の背中に飛びかかった。左手は動かなかったから、右手だけで、その体に組み付いて、死に物狂いで噛みついてやろうと。

「生きてるのは知ってた」

瞬間、イドラの決意を嘲笑うように、男が背中越しに振り上げた斧を落とした。そのまま空になる手でナイフを抜いて、振り返る男が一閃、イドラの右手が肘で吹っ飛ぶ。

粉挽きは水車が働くから、重労働なんて知らないなまっちろい細腕が、飛んだ。

だけど――、

「――連れていけえええ!!」

斬られた腕から灼熱が這い上がって、イドラの視界が真っ赤に染まる。だが、その瞬間だけは痛みを忘れて、イドラは全力で叫んだ。

その、血を吐くような声の大きさに、目の前の男が軽く眉を上げる。

イドラの叫びと行動、その目的が理解できなかったのだろう。

だが――、

「ちっ」

舌打ちして振り向く男が、イドラの腕を斬り飛ばしたナイフを投げる。

それは男の背後、地面を這いずるシュバルツ――否、もうそこにはいない、シュバルツを担いで逃げる、蠢く風景を狙って投じられたものだ。

ヒアインだ。

息を潜めて隠れていたヒアインが、シュバルツを担いで、逃げ出した。それを目にしたイドラは歯を食い縛り、男の背中に飛びつく。

右腕はなくなり、左腕は動かないから、服に噛みついて縋り付いて。

「ぶ」

背中越しの肘で胸を打たれ、下がる体を蹴り倒される。しかし、倒れた衝撃で打った左腕が激痛の代わりに動くようになった。外れた肩が入ったのだ。

そしてその左腕の傍に、男が落とした斧が転がっていた奇跡が連続する。

「逃げたと思わなかったのか?」

ナイフを手放し、斧を奪われた男がイドラを見ながら首を傾げた。

武器をなくしても、ちっとも不利になったと思っていない顔。それも当然だろう。イドラの流した血も、流れている血も、とめどない。

生きているのが奇跡で、もう奇跡が起こりすぎていた。

だから、イドラは男の問いかけに、首を横に振った。

「いいや、逃げたと思っていた。だが、こうも信じていた」

「――――」

「奴が、逃げないでいてくれたらいいと」

卑屈で臆病で、調子に乗りやすい、悪人でないだけの男。

そんなヒアインが逃げないでいてくれたらいいと、イドラは馬鹿正直に信じただけ。

やっぱり、人間簡単には変われなかった。

周りの連中を騙して利用しようと、自分が戦士だなどと言い張った嘘もすぐバレた。

正直に、広く信用と信頼を。

たとえ、善人ぶっていると指を差されて笑われたとしても。

イドラ・ミサンガは、戦士にも、詐欺師にも、なれない。

左手一本で斧を振りかぶって、血を流しながらイドラは叫んだ。

「私はイドラ・ミサンガ! 粉挽屋の倅だ!!」

「知らんよ」

今の、持てる力の限りを振り絞って、イドラは白けた顔の男に突っ込んだ。

――あの日、シュバルツのおかげで、嘘つきにならずに済んで、よかったと思った。

△▼△▼△▼△

必死で走る体に担がれ、死地から連れ出される。

激しく、こちらの傷も安否も構わず揺すぶられているが、それも当然だ。

スバルだってボロボロだが、相手の体はそれどころじゃないのだから。

「ひ、あ、ひあ、いん……っ」

痛いぐらいに腰を掴まれて、スバルは相手の体に爪を立てた。どこを引っ掻いたのかもよくわからない。爪を引っ掻けた相手は、もう見た目がめちゃめちゃだった。

傷だらけとかではなく、色や模様、とにかく全部がめちゃめちゃなのだ。

周囲の風景を片っ端から擬態して、何が正解なのかもわからなくなった状態。そんな状態で走り続ける体が、不意に力を失って前のめりに倒れる。

「がっ!」

当たり前だが、相手が転べばスバルも巻き添えだ。

倒れた相手の前に放り出されて、スバルは石でできた冷たい床に転がされる。受け身も取れなかったから、前歯が折れたような衝撃があった。

そのまま、じくじくと痛む顔を上げて、寝そべったまま後ろを見る。

そこに――、

「ひぅ、ひぅ……」

文字通り、虫の息で呻いているヒアインが倒れていた。

ぐったりとうつ伏せになったヒアイン、その背中の真ん中に、大振りのナイフが深々と突き刺さっている。いつ、刺されたのかわからない。

走って逃げるときか、もっと前なのか、もっと前だったとしても、何もできない。

スバルが死ねば、舞い戻るのはイドラの頭が割られる直前だ。

もしかしたら、もう割られたあとかもしれない。――違う、割られないように外に飛び出したから、落ちる前か、あとか、空中かも。

三人が、全員死なないように落ちるのは、どうやっても難しくて、初めてうまくいった気がするのに、トッドはきた。

イドラの声が、ヒアインの呼吸が、遠い。

もう、何もかもが、手の届かない、場所で。

「おか、しいよ、なぁ……」

倒れたまま、這いずろうとするスバルの耳に、ヒアインの弱々しい声が届く。

水から顔を上げながら喋るみたいな声なのは、きっと喉が血で溢れているせいだ。たぶん、血を抜いたりとか、そういう、処置みたいなのがいる。

それを、しなくては。医者じゃなくても、しないと。

「い、のちってのは……花みてえに、綺麗なやつから、摘むって、昔、聞いて……」

「しゃ、喋るなよ……今、いくから、今すぐ……っ」

「だったら、俺みてえな、根性の汚ぇ奴が、先に死ぬって、おかし……ぁ」

這いずる。這いずっていく。

地面の上で、自分の血で溺れるヒアインを、引き上げてやるために。

なのに、ちっとも、体が前に進まなくて。

「でも……」

ちっとも、進まなくて、届かなくて。

「……俺が先で、マシ、かぁ」

亀が這うよりも、遅い。遅すぎる速さで、ありんこよりも小さい動きで、這う。

這って、這っていって、ようやく、届いたときには、遅かった。

ヒアインの色が、元の灰色に戻っていた。

背中にナイフが刺さって、腕も一本折れていて、体中から血が流れているヒアインは、ここまで走ってくる途中で死んでいてもおかしくなかった。

もしかしたら、死にながら走っていたのかもしれない。そうに違いない。

もう、スバルが助けられないみんなは、死んでしまった。

スバルが殺したも、同然なのだから。

全部を救えなかったから、全部を殺したのと同じで。

「ぐひ」

顔を、汚していくのは血か、涙か、鼻水か。

もう、どれがどれだか、何がなんだか、誰が誰だか、答えがどうだか、もう。

もう、もう、もう、もう、もう、全部が、わからなくて。

「――おや、そこで唸ってるのってもしかしてバッスーですか?」

「――――」

「ああ、やっぱり、バッスー! いやはや、こんな場面で出くわすとは奇遇ですねえ。なかなか賑々しい事態になりましたが、盛り上がってます?」

呆然と、何もかもを手放してしまった気分のスバルへと、軽々しい声がかかった。

声がした後ろを振り向けない。何とか体を起こして、この、馬鹿げた言葉をかけてきた相手を、目で見て、それで何か言わなくてはと、全身の力を使って――。

「わざわざ命懸けで振り向かずとも結構ですよ」

「――ぁ」

「だって、無理のしどころってここじゃないでしょう?」

そう、自分から前に回り込んできて――セシルスがスバルの顔を覗き込んで言った。

体の左半身を黒焦げにされながら、屈託なく笑う『青き雷光』が。