軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七章70 『一個』

――ヌル爺さんに『薬』を頼む上で、一番重要だったのは確実性だった。

元々、ヌル爺さんは医学を熱心に学んだ人でもない。

ただ剣奴仲間の手当てをしているうちに治癒室の出入りを許されて、そのまま何となく居着いてしまっただけの素人なのだ。

島の管理サイドの人たちだって、剣奴の一人であるヌル爺さんに毒にも薬にもなるだろう効果の強い薬品なんて与えない。

だから、ヌル爺さんに薬の――即効性のある『劇薬』の調合なんて無理だったのだ。

ヌル爺さんに作れたのは、手に入る範囲の薬を調合して、全身の血流を狂わせることで相手を死なせる劇物だけだった。

飲めば、ものすごい苦しんだ挙句に絶対に死んでしまう劇物――その存在は、しかし考えようによっては、スバルにとって都合のいいものだった。

「結局、俺の根っこは怠けたがりの大馬鹿野郎なんだ」

スバルの性根の甘ったれさを考えれば、苦しまないで死ぬ毒なんて以ての外だ。

きっと些細なことですぐにやり直しを考えて、毒の効力を当てにした行動を始める。そうすることで、ナツキ・スバルは怪物になっていくのだ。

人の痛みも苦しみもわからない、人間離れした怪物に。

「そんなの、絶対にノゥ」

すでに、手足が伸び切っていた頃の記憶と実感はぽつぽつと薄れつつある。それでも、スバルの経験と思想が、大きく捻じ曲がることはあってはいけない。

その性質の変化は、このスバルを受け入れてくれたみんなへの裏切りだ。

自分は裏切れても、みんなは、家族は裏切れない。

ナツキ・スバルは後回しにできても、ナツキ・スバルの絆はそうできない。

だから――、

「……『スパルカ』の敵に使うって、嘘ついたヌル爺さんには悪いけど」

ナツキ・スバルは地獄の苦しみを味わってでも、伸ばした手だけは引っ込めない。

それが、この絶水の剣奴孤島であっても曲がらない一本の芯だから。

△▼△▼△▼△

などと強がってはみても――、

「が、ぐ、ぎぃ……っ」

割れそうなぐらい歯を噛みしめて、スバルは心をズタズタにする苦しみに耐える。――違う、耐えてはいない。耐える痛みは、もう置いてきている。

死んで、戻って、だから死ぬ原因になった苦しみはどこにもないのだ。

でも、魂が引きずっている。そのせいで、涙も鼻水も、ボタボタ流れて止まらない。

「おい、シュバルツ……! どうした、突然……!」

「ら、らいじょうぶ……」

「大丈夫なわけがあるか……そんな不細工な有様で……!」

その場に蹲って、顔面を色んな汁で汚したスバルにヴァイツが声を震わせる。

駆け寄った彼がスバルを起こして、素手で躊躇なくその鼻水を拭ってきた。そうしたヴァイツの姿勢には、毎回スバルは感心させられる。

汚いものを汚いと思わないで行動できるのは、すごい立派なことだった。

「あー、ぅ……」

乱暴に鼻水と涙を拭き取られて、スバルはボーっとなる頭に手をやる。

ちょっとずつ、死んだ衝撃の過去が抜けて、生きている緩慢な今を受け入れる。この悠長な意識の切り替えは、スバルが『薬』で死んだときは大体毎回起こることだ。

確実に死ぬための切り札として奥歯の裏に仕込んでいる『毒』だが、意外とこれの出番は剣奴孤島でのスバルの死因の中では多くない。

『スパルカ』の最中での死は、剣闘獣による爪や牙によるものが圧倒的だ。

ただ、それでも死に切れなかったときや、犠牲者を出した状態でどうにかできてしまったときは、この『薬』に役目を果たしてもらうしかない。

それは、ナツキ・スバルが負わなくてはならない責め苦だった。

だって――、

「……俺がしくじったせいなんだから」

一番どうにかできるはずの人間が失敗すれば、他の人たちはどうすればいい。

スバルには責任がある。どうにかできる可能性が、一番高いという責任が。

欲しくて手に入れた力じゃなくても、使いこなせるだろう、ナツキ・スバルなら。

菜月・賢一の、あの人の息子なのだから。

「――ッ、なんだ……!?」

「跳ね橋……っ」

拳を汚れた床に押し付け、体を起こそうとしたところで島全体が軋むように揺れる。

目の前のヴァイツと薄暗くて冷たい空気から、スバルは自分が死んで戻った場所が、剣奴孤島の下層――ちょうど、跳ね橋が上がる直前だったと思い至る。

外界と孤島とを繋ぐ、唯一の橋が架かる。

つまり――、

「――くる」

あの、地獄絵図そのものみたいな光景と、それを作った最悪の敵が。

もう二度と、会いたくないと祈りさえ捧げた相手――トッドとの再戦だ。

「――――」

ゾッと、怖気に包まれるスバルが自分の肩を抱きしめる。

目をつむった途端、瞼の裏に蘇ってくるのは死体だらけの惨状だ。見知った顔が、目から鼻から血を流して、びくびくと震えて転がっていた最悪の記憶。

それは目の前の、スバルの鼻水を拭ったヴァイツも例外じゃなかった。

「あんなの、もう二度と……」

起こさせちゃいけない、と使命感が胸を熱くする。

しかし、そう意気込んではみても、ならばどうするかというところで思考が止まる。いったい、あの絶望的な状況はどうやって作り出されたのか。

帝都からの使者という体で、剣奴孤島へと上がり込むトッドと、アラキア。

敵対したことのある『九神将』が立ちはだかるだけでも十分頭が痛いのに、そこに悪魔人間であるトッドが加わるなんて最悪の悪夢だ。

そもそも、どうしてトッドとアラキアが一緒にいるのか。

「……馬鹿、思い出せよ、俺。捕まえたアラキアを逃がしたのが、あいつなんだ」

よっぽどショッキングだったのか、トッド関連の記憶は意外なほどクリアだ。

スバルとトッドとの因縁、その最後は壁の高い街――グァラルで、都市庁舎を占拠する作戦の真っ最中。女装したスバルと、彼との接触があったときが最後。

その後は、暴れたアラキアを赤いプリシラがやっつけて、それで捕まえたはずのアラキアが誰かに逃がされて、それがトッドじゃないかとスバルは疑った。

今、一緒にいるならその想像は間違いじゃなかった、ということだろう。

「クソ、婚約者のところに帰りたいとか言ってたくせに、なんでここにいるんだよ。大人しく地元に引っ込んでれば……あの大嘘つき野郎……!」

約束が違うと唸っても、それでトッドが消えていなくなるわけじゃない。それがわかっていても、込み上げる怒りを一度は吐き出さなくてはならなかった。

それをしてから、大きく息を吸って、吐いて、吸って、吐く。

そして――、

「次の、『スパルカ』の生贄か……」

「とは限らない。ヴァイツ、ちょっと手伝ってもらっていい?」

「――。オレが今、何を言ったか忘れたのか……?」

揺れを足裏に感じながら、そう聞いたスバルにヴァイツの顔の刺青が歪んだ。

このタイミングで、ヴァイツの言ってくれた言葉。『薬』の余韻で頭はパニックだったけれど、それはインパクトが大きかったから覚えている。

「ただ力を貸す、だろ。だから力、貸してくれ」

「わかっているならいい……。それで、オレに何をさせたい……?」

当然、跳ね橋を渡ってやってくる次の剣奴候補を見にいく。

そう提案されると考えていただろうに、腕を組んだヴァイツの切り替えは早い。その義理堅さと、一度決めた自分ルールを頑固に守るところは本当に助かる。

そのヴァイツの性格に大感謝しながら――、

「ほんの少しでいい。今、島にやってきた連中を足止めしてほしいんだ」

△▼△▼△▼△

――ナツキ・スバルの唯一の武器、『死に戻り』の権能。

それはヴォラキア帝国へきて、様々な障害を乗り越えていく中で、明らかに機能不全を起こしつつあった。

原因として思い当たる最大の理由は、現在進行形でスバルを襲っている『幼児化』だ。

こうして体が縮んで以来、『死に戻り』は完全に異常をきたしている。

その最たる経験が、カオスフレームの紅瑠璃城での最悪の十秒間。

スバルを救うためではなく、スバルを絶望させるために与えられたような無限の十秒間であり、それが過ぎてすぐに飛ばされた剣奴孤島でも状況は悪いまま。

天守閣の十秒間ほどではないが、与えられる猶予は尋常じゃなく短い。

今回も、戻ってこられたのはおおよそ三十分――島のみんなが死に始めたタイミングがリミットと考えたら、もっと時間は短くなる。

つまりスバルは、この三十分に満たない時間で状況を書き換えなくてはいけない。

そのために――、

「まず、考える時間がいる。――思い出せ思い出せ思い出せ、何があった」

頼みを引き受けると、そう力強く言ってくれたヴァイツに甘えて、彼には訪れた使者が島に通されるのを遅らせるように頼んだ。

ただし、ヴァイツ自身が暴れるみたいな作戦はなしとも話してあった。

理由は単純で、ヴァイツが暴れてもアラキアがいるなら一瞬で止められてしまう。さらにトッドがいるなら、容赦なくヴァイツは殺される。

そのどちらも、スバルは避けたい出来事だった。

「みんな、顔から血を流して死んで……毒ガス? そういう魔法?」

剣奴孤島から脱出するつもりだと、そう打ち明け話をしている真っ最中だった。

ヒアインとヴァイツ、イドラと次々と倒され、それはタンザも例外じゃなかった。全員死に方は一緒で、たぶん、そこに違いもなかったと思う。

死因が同じという意味なら、倒れていた他の剣奴たちも――違う。

「死んでたのは、看守の人たちもだったんだ」

起こった出来事をちゃんと思い出せば、あの地獄に本当に例外はなかったのだ。

あのときは頭が回らず、檻の中の剣闘獣たちが生きていたかは確かめなかったけど、少なくとも人間は全員、例外なしに死んでいて――それも違う。例外はいた。

「俺と、トッドだ」

そう、スバルとトッドだけが、死なずに島の中で顔を合わせた。

ただし、死なないまでも、死にそうな苦しみと、みんなと同じ顔から血が流れる現象はスバルにも起こっていた。トッドは、そうではなさそうだった。

あれがやせ我慢とは考えにくいから、トッドはあの死に方の対象外だったのだ。

「毒ガスなら、トッドは解毒剤を呑んでからきたとか? そういう魔法なら……使ったのはアラキア? そう言えば、アラキアは、どこにもいなかった」

そんなつもりじゃなかったが、一通りの顔見知りの死体は確かめてしまった。

目の前で倒れたタンザたちはもちろん、二回目の『スパルカ』で助けたオーソンたち、治癒室で過ごしていたヌル爺さん、塩対応が手厳しい見知った看守の人。

みんなみんな、顔から血を流して動かなくなっていた。

「でも、三人ばかし見てない顔がある」

――それがアラキアとグスタフ、そして偽セシルスの三人だ。

「――――」

もちろん、スバルも島の剣奴を全員覚えているわけではないから、本気で全員が死んでいたと言い切ることはできない。でも、その三人は確実にいなかった。

アラキアはトッド側の人間だ。あの大虐殺の首謀者だろうトッドの味方なのだから、あの中で死んでいないのは当然と言える。

ただ、あとの二人はどうなのか。

島の管理者であり、総督の立場にあったグスタフと、謎の不審児童の偽セシルス。

あの二人は、この剣奴孤島でも特別な立場にあって――。

「――ぁ」

そう、特別な二人のことを思い出したところで、不意にスバルの脳内を稲妻が走った。

島内で起こった大虐殺、それをもたらした方法に毒ガスや魔法を疑っていたが、もう一個、弱々しい可能性ながら思い浮かぶものがあったのだ。

それは、この剣奴孤島でだけ大きな影響力を持っているモノ――『呪則』だ。

剣奴孤島ギヌンハイブの剣奴たちを、見えない不自由で雁字搦めにした縛め。

逆らえば、命さえも危うくするとされる呪則、それが候補に上がってくる。

「だけど、呪則なんてただの脅しで、実在しないはずだ」

そのことに関しては、スバル自身がグスタフと命懸けでやり取りして確信を得た。

剣奴孤島から脱出するとはっきり伝えて、グスタフの面目を丸潰れにした上に、彼が忠誠を誓うヴォラキア皇帝の意思に背くと言い切ったのだ。

もし本当に呪則があるなら、グスタフはあそこで呪則を使っていたはずだ。そうやってスバルを見せしめにしなければ、剣奴孤島の秩序はバラバラになる。

呪則がないことを言い触らされ、剣奴たちが暴れ出しでもしたら一大事なのだから。

「いくらグスタフさんが俺たちを死なせたくなくても、そこを曲げたら筋が通らねぇ。なんだから、呪則はないはず……いや、考えすぎだ」

剣奴をできるだけ死なせないグスタフの方針、それがあってもなくても、もっとわかりやすい呪則の否定材料があった。たくさん、転がっていたのだ。

死んでいたのは剣奴だけでなく、看守たちもだったではないか。

「グスタフさんが看守の人たちを全滅させる理由がねぇよ。……それ言い出したら、いきなり剣奴を皆殺しにする理由だってないし」

考えれば考えるほど、大虐殺とグスタフの意思は無関係に思われてくる。

となれば、推理は一番最初に逆戻りして、首謀者のトッドが毒ガスを撒いたか、アラキアと協力してとんでもない魔法を使ったかの二択に絞ってよさそうだ。

ただし、この二つには全くおんなじ問題がある。

「なんで、俺だけ効果が弱かったんだ?」

前もって対策のあっただろうトッドを除けば、ただ一人だけ症状が軽かったスバル。

スバルだけが、他の死んだみんなと違うことは何があるだろうか。

子どもだったこと? ――違う、タンザは死んでいた。

直前の行動の違い? ――違う、ヴァイツは死んでいた。

種族で差が生じた? ――違う、ヒアインとイドラは一緒に死んでいた。

異世界人であること? 王国で過ごしていたこと? 超可愛い精霊と契約関係にあること? 『魔女』のストーカー被害に遭い続けてること? 『幼児化』で元の体より小さくなっていること? 他に、他に他に他に他に、何がある?

――スバルだけが、他のみんなと違っている、何が。

「何が――」

「――おや、バッスー、悩み事ですか?」

「うわっ!?」

必死に頭を働かせて、可能性を探っていたスバルに背後からの声がした。

いきなりだったことと、声をかけられる可能性を頭から消していた相手だったせいで、悲鳴を上げてしまったスバルは振り向いて目を見開く。

スバルの背後、自分のキモノの袖に手を入れて歩くのは偽セシルスだ。

いつもと同じ、軽々しい態度の彼の態度にスバルは何度か目をぱちくりさせた。

「せ、セッシー……?」

「ええそうですが、どうしましたその反応。まるで僕がここにいるのが驚天動地のとんでも展開みたいな顔つきですよ。確かに僕はこの世界の花形役者なので気後れするのもわかりますが、バッスーとは話せて触れる距離で過ごしてきたつもりですよ?」

この通り、と目の前にやってくる偽セシルスが、息のかかりそうなぐらいの距離でスバルの顔を下から覗き込んでくる。

その変わらなすぎる態度と仕草に、スバルは思わず後ずさった。

すると、偽セシルスは後ずさったスバルの脇から、そっと眼下の景色――高台へ上がっていたスバルの隣から、すでに沈んだ跳ね橋を眺める。

「どうやら今回の竜車は次の『スパルカ』の参加者じゃなく、もっと別のお客人を乗せてきていたみたいですね。島の中はその話題で持ち切りですよ」

「……ああ、帝都の使者らしい。何しにきたのかわからないけど」

「帝都の使者となると外の情勢を伝えにきたか、もしくは次回の興行についての打ち合わせなんてのが頭に浮かびますね。外に出たいバッスーとしては耳寄り情報では?」

「――。否定は、しない」

手で庇を作って湖面を眺める偽セシルスに、スバルは言葉少なにそう答える。

正直、この予定外の偽セシルスとの遭遇で、スバルは彼への態度を決めかねていた。

偽セシルスが、トッドたちと一緒に大虐殺をしたとは思わない。

でも、どうやら剣奴孤島で最も恐れられる剣奴であるはずの彼は、あの大虐殺の最中に姿をくらましていたのは事実なのだ。

「俺も、耳がちゃんと働いてたか怪しいとはいえ……」

ものすごい状況で、精神的に安定したとはとても言えない。

それでも、もしも島の中で誰かが争ったり戦ったりしていたら、それを聞き逃すようなことはありえなかったと断言できる。

だから、あのとき、偽セシルスがどうなっていたか考えるなら――、

「俺が見てない場所で死んでたか、島にいなかった?」

でも、島にいなかったとしたら、どこにどうやって。

こうして偽セシルスと話しているこの瞬間も、タイムリミットへの時間が迫る。あのとんでもない状況まで、猶予がないのは偽セシルスも同じなのに。

「否定はしない。でも他に気掛かりがあるとそういう顔ですね」

考えあぐねるスバル、その濁した言葉の先を偽セシルスが本能だけで摘まんでくる。

スバルの顔色や言動を読んだとかではなく、たぶん山勘だ。直感だ。それで正解を引いてくるのが、偽セシルスたちみたいな奴らなのだ。

そういう、一握りの怪物たちがひしめく世界だから、スバルの覚悟が問われるのだ。

負けないし、負けてはいけないという、覚悟が。

「セッシー、これから島でとんでもないことが起こる。たぶん、帝都からきた奴らがしでかすんだ。具体的に何とは言えないんだけど……」

「深刻な様子からすると口に出すのもおぞましい出来事……あの鹿人のお嬢さんやバッスーの『合』の方々の窮地。いえ死地といった感じでしょうか」

「――ッ」

「いやあ、バッスーの反応は目覚ましくて心地がいいですね! しかしそうですか。ようよう兆しがあったということは喜ばしい。待ちくたびれて死ぬとこです!」

口を開けて笑いながら、偽セシルスが威勢よく足を踏み鳴らした。

その、トラブル大歓迎とばかりの反応に呆気に取られ、それからスバルは歯を剥きながら前のめりに相手との距離を詰めた。

「セッシー! 冗談じゃねぇんだ! みんながヤバいんだよ!」

「それはより重畳! 冗談でないなら何よりです。ここで全部が作り話の思い過ごしなんて言われる方が白けますから大歓迎ですよ。危機と窮地と困難、大助かり!」

「――っ!」

「それとも、まさか僕が無条件にバッスーの味方をするとでも?」

事の重大さがわかっていないと、そう訴えたスバルに偽セシルスの声が低くなる。まるで、わかっていないのはスバルの方だとでも言いたげな眼光。

その切れ長な青い瞳に刃のような冷たさを覚え、スバルは息を呑んだ。

そうして押し黙るスバルに、偽セシルスはにかっと笑いかけ、

「――ここですよ、ここ」

と、そうスバルに真っ直ぐ言葉をぶつけ、その場でくるっと回って両手を広げた。

この剣奴孤島の中腹、島と湖の半分を見渡せる高台を舞台とするかのように。偽セシルスは空を仰いで、大きく口を開けると――、

「まさしくここが分水嶺! 無条件に僕を味方にできるかと問いましたが、その条件を満たす方法がこの瞬間とお伝えしましょう」

「今、この瞬間……」

「ええ、ええ、そうです! バッスーは僕を予感で魅せ! 期待で繋がり! 駆け引きで笑わし! そして山場で証明するんです!」

「――――」

「さあさ、剣に貫かれた狼! この過酷で残酷な大地を見下ろし続ける観覧者の方々も照覧あれ! いったい誰が、このセシルス・セグムントを魅せるのかを!」

空の彼方にいる観客、その存在を確信していなければできないような大発声。

掛け値なしに、その正気を疑われて当然の偽セシルスの奇行、きっとこの島の誰もが目を逸らし、耳も傾けない彼の行いに、しかしスバルは奇妙な確信を得た。

偽セシルスは――違う、セシルス・セグムントは、本物だ。

この本物の怪物は、本気で世界と話せると信じているし、そして実際に世界に意思があったとしたら、世界は彼に釘付けになっている。

それだけの存在感と説得力が、この小さな怪物にはみなぎっているのだ。

「お前を……」

「なんです?」

「お前を、俺の仲間にする。こき使ってやるって、そう決めたよ」

圧倒されながら、そんな場合ではないのに、スバルは自分の胸に手を当てて言った。

しっかりと相手を見据え、そう宣言した。

「――その無謀、嫌いじゃないです、むしろ好き」

笑みを孕んだ口調で、しかしセシルスはこれまでと同じ屈託のない笑みではなく、ただ唇を緩めるだけの微笑でスバルに応えた。

それはセシルスが正しく、スバルを挑戦者と認めた証だったのかもしれない。

その直後――、

「――ふむ」

笑みを浮かべた唇を引き締め、セシルスがそっと自分の顎を指で撫でた。

その、形のいい鼻から滴った血が伝い落ちる顎を。

「な……っ」

セシルスの鼻からこぼれる鮮血を見て、スバルは慌てて手すりの向こうを見る。

見下ろせる島内、建物の中や地下まで透けて見えるわけじゃないが、それでもちらほらと見える範囲に、倒れている人影がいくつもあるのがわかった。

始まったのだ、大虐殺が。

スバルがこうして、状況の整理と可能性の熟慮に時間を使ってしまった間に。

島中の人間に『死』が猛威を振るい、それは例外なしに命を刈り取っていく。

そう、例外なしに――。

「よっと」

「セッシー!?」

手すりから体を離し、鼻の奥につんとしたものを感じながらも、スバルは自分のすぐ傍らに座り込んだセシルスの方を気にする。

セシルスは手すりの柵に背中を預けて、その場にどっかりと胡坐を掻いていた。

悠長な態度、でも手で押さえている鼻からの血は止まっていない。

「だ、大丈夫、なのか?」

「いやあ、厳しそうです。これはなかなか強敵が相手ですよ、バッスー。相手にとって不足なしってところじゃありませんか」

「言ってる場合か!? 鼻血も、目からも!」

「ふむ……ここじゃ一滴も血を流していないのが自慢だったんですけどね」

話している間にも、座るセシルスの瞳から血が流れ出した。

見ていられないほどひどいことになりつつあるセシルスだが、溢れる血を鼻から流し切って、声の調子をちっとも変えていないのが恐ろしい。

でも、セシルスの一番怖いところは、そこじゃなくて。

「死ぬのが、怖くないのか……?」

「人は死にますからね」

「――――」

目前に迫るものが『死』だと理解していながら、セシルスの答えには迷いがなかった。

迷いも、戸惑いも、恐れも、不安も、緊張も、後悔も、ない。

スバルのように、死んだその先があるわけじゃないはずだ。

それなのに、セシルスには、生き物が最も怖がるはずの『死』への恐怖心がない。

そうして、『死』を恐れる姿を見せないまま――、

「――――」

鼻を押さえる手を下ろし、血で汚れた袖を隠すように腕に巻いて、セシルスが背中を柵に預けたままで動かなくなる。

俯いて瞼を閉じたまま、ピクリとも動かなくなった。

それが意味するところが、スバルにもはっきりとわかる。

そして――、

「ごほっ」

咳込む口に当てた手が血に染まり、『死』はスバルの間近にも迫っていた。

△▼△▼△▼△

同じ、そう同じ惨状が剣奴孤島の全体を支配していた。

「――――」

ゆっくりと足を引きずりながら、スバルは島の中を歩き回り、生存者を探した。

だが、セシルスさえもその候補から外れた今、スバルのボロボロの期待に応えてくれるような、そんな存在が現れることはなかった。

「タンザ、たちも、ヌル爺さんも……」

みんな、倒れて命を落としていた。

呆気に取られ、起こった出来事が理解できない顔でいるみんなの瞼を閉じて、軽く顔を拭ってやるのが、スバルにできる精一杯だった。

「ごめん、タンザ……」

失敗した。順序を間違えた。

タンザたちにも危ないことを伝えて、何かしらの対策をさせてやるべきだった。

高台に上がる前にタンザたちと合流して、せめて一緒にいてやれば。この頼りのない場所で不安がる女の子を、何もわからないまま死なせないで済んだのに。

彼女たちの死体を見つけるまで、そんな当たり前のことに頭が回らなかった。

「――――」

島の中を巡って、やっぱり看守たちが死んでいるのを見届けた。

死に方は剣奴たちと同じで、みんな顔から血を流して死んでいる。その足で、剣闘獣が閉じ込められた檻を見にいくと、そいつらもみんな死んでいた。

檻の中に倒れて、目や鼻から血を流して、人間と同じ死に方をしていた。

「……俺の方が、丈夫ってことかな」

ほとんど死にそうな状態で、死んでいる剣闘獣に笑えない冗談が出てくる。

息がしづらいのは、鼻血ですっかり鼻が塞がってしまったからだ。目も潤んで霞んで、指で拭うとぼんやりと赤いカーテンがかかったみたいになる。

スバルにだけ、ゆっくりと近付いてくる死神がいやらしい。

そのいやらしい死神に、スバルは震える中指を立てた。

そして――、

「――お前さん、こんなところで何してるんだ?」

孤島の中層、中庭と呼ばれる場所で、死神が自分の首の骨を鳴らして呟いた。

黒いバンダナを巻いて、好青年ぶった顔つきをした死神――トッド。彼は自分に向けて中指を立てるスバルを見ながら、ゆっくり歩み寄ってくる。

「見ての通り、島の奴は根こそぎ死んだと思ったが……」

手際よく大振りのナイフを抜くトッドは、スバルを見ながら怪訝な顔だ。

色々と、説明のつかない事態に陥っていると考えているのだろう。ここで生きている人間と会ったのが、トッドにとっては予想外のことのはずだ。

待ち伏せされていた感覚に陥ったのも、トッドは不気味に思ったはず。

でも、スバルはここで待っていれば彼がくるとわかっていた。

会わずに済むなら会いたくなかったが、これはどうしても避けられない対面だ。

もう、誰も生き残っていなくて、スバルが死んでしまうまでの間に、話をすることができる可能性があるのは、この死神だけだった。

「――――」

油断のない目つきだが、近付いてくる足取りには躊躇がない。それはスバルを侮っているというより、スバルを問題視していない態度だ。

子どもだから舐めている、のではない。

冗談や比喩表現抜きに、スバルはもう死にそうだった。死にそうな、もう何もできない子どもにまで過剰な警戒心を抱くなら、それは慎重ではなく、臆病だ。

トッドは狡猾で慎重だが、臆病ではないという話で。

――対して、馬鹿さで女の子の『死』を見過ごしてしまったスバルは考える。

待ち構えたトッドの登場は願い通りでも、この先の展開まで望み通りかはわからない。

たとえチャンスでも、トッドは容易くヒントをくれる人間ではない。幼気な死にゆく子ども相手でも、冥土の土産をくれるような優しさはないのだ。

だったら、どうしたらこの冷血な死神相手に、何かしらの情報を持ち帰れる。

たぶん、一個だけだ。

ものすごくうまくいっても、手に入る情報は一個だけ。

その一個を、会心のものにしなければいけない。

「――――」

一歩、また一歩と、スバルとトッドとの距離が縮んでいく。

この距離がゼロになった途端、相手が無言でスバルを刺し殺しても驚かない。血が足りない頭と体で、最善の正解を引き当てなくては。

この、島の大虐殺をやったのはトッドだ。聞いても仕方ない。

誰が生き残っているのか。それを聞いても無駄だ。意味がない。

アラキアはどこにいるのか。知りたいが、答えてくれるとは思えない。無駄だ。

グスタフはどうしているのか。それもアラキアと同じで、無駄撃ちになる。

なら、あとは、この大虐殺の、方法か。

「――――」

毒ガスは、ない。その選択肢を、スバルは頭の中から消した。

セシルスと島の中腹、高台で出くわしたのは、スバルがそこに居座ることを決めていたから。――もしも虐殺の答えが毒ガスなら、風の強い高台は安全かもしれないと。

でも、結果的にスバルもセシルスも、大虐殺の被害からは逃げられなかった。島の外にいたものも倒れていた時点で、毒ガスの可能性はかなり低かった。

なら、あとの可能性は――、

「――ぁ」

アラキアの、魔法。トッドと連れ立って現れたアラキアが、何かしらの虐殺魔法を使って島の剣奴を、看守を、剣闘獣を、全滅させた。

その、確信が得られれば、次は、次はもっと、ちゃんと。

確信が、得られれば――。

『――ここですよ、ここ』

瞬間、スバルの脳裏を幻聴が支配した。

もう、どこにもいないはずの千両役者の声が、スバルの弱々しい思考に熱を生む。

そして、その熱に急き立てられるみたいに口を開けて――、

「――呪則だ!!」

一度は消して、消し切れなかった可能性を、声を大にして死神にぶつけた。

その、血走ったスバルの声が、逃れようのない攻撃となって死神を捉える。そして、その叫び声を聞いた刹那、死神――トッドが動いた。

「死ね」

訝しげな気配も、面倒そうな空気も、何もかもが掻き消えて殺意だけが残った。

正気の状態で見ていたら、気を失いそうなぐらいドロッと濃密な殺意。それを瞳と、手の中のナイフに宿して、トッドがスバルへと一息に飛びつく。

「か」

突き出される冷たい刃が、スバルの胸に深々と埋まった。

一ミリの容赦もなく、ナイフが胸の中の大事なものを全部掻き回して、絶対に助からないようにひねりながら抜かれる。

噴き出した血が跳ねて、トッドの無表情を鮮血が汚した。

「――おぼ」

刺して抜かれて、その勢いで体が硬い地面に倒れ込む。経験したことのない勢いで血が喉を溢れ返って、ごぼっと吐き出した血に『薬』の包みが混じっていた。

噛んで、包みを破るのに失敗した。でも、これは『薬』は必要ない傷だった。

「口の中から、正気か?」

その、真っ赤に染まった包みを指で拾って、鼻を鳴らしたトッドが呟く。臭いだけで、中身が危ないとわかったのか、それとも口から出てきて察しがついたのか。

どっちでも、関係ない。もう、スバルには届かないことだ。

ただ、ただ、言えることがあると、すれば、それは。

「……こ」

「――なんだ?」

「い、っこ」

一個、掴んだ。

顔色を変えて、何よりも優先して、急いでスバルを殺した。

だから、掴んだ。

「じ――」

掴んで、掴んで、それで、死んだ。

死んだ代わりに、掴んだ。

――剣奴孤島ギヌンハイブを殺すのは、存在しないはずの『呪則』なのだと。