軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七章59 『タリッタ・シュドラク』

「――ねエ、タリッタ。私、『星詠み』に選ばれテ、天命を授かったノ」

そうタリッタに打ち明けたのは、同じ『シュドラクの民』のマリウリだった。

『シュドラクの民』は皆、バドハイム密林で生まれ育ち、その生涯を終える。

故に、集落の同胞は全員が家族のような関係であり、マリウリも例外ではない。

ただし、タリッタにとってマリウリは特別親しい間柄だった。その理由は、彼女とタリッタが同じ日に生まれ、同じ場所で産声を上げた魂の姉妹だったからだ。

――シュドラクでは、同じ日に生まれた子らには魂の繋がりがあると考えられる。

その繋がりは親姉妹よりも強いと考えられ、まさしく半身として扱われる。

古くからあるシュドラクの風習であり、魂の姉妹は深い深い絆で結ばれる。クーナとホーリィの二人も、同じ日に生まれた魂の姉妹だ。

あの二人の仲睦まじさを思えば、血の繋がりを越えた絆の存在は理解できよう。

黒髪の先を桃色に染めた美しいシュドラク、それこそがタリッタの魂の姉妹であるマリウリという女性だった。

彼女は優しく穏やかで、引っ込み事案で人見知りするタリッタと相性がよかった。

タリッタも、実の姉のことでよく魂の姉妹に相談を持ちかけた。いずれ族長を継ぐことになる姉、その支えとなる自信がないと、不安を聞いてもらったものだ。

どんな葛藤も、みっともない不安も、マリウリ相手なら自然と打ち明けられた。

だから、マリウリが打ち明けたい秘密があると言ってきたとき、タリッタは彼女の信頼に応えなくてはと、相談されることが嬉しかったのだ。

そして、彼女は言った。

――自分が『星詠み』に選ばれ、果たすべき天命を与えられたのだと。

「天命を果たすことハ、『星詠み』の大事な役目なノ。それはとてモ、とても光栄なことなのヨ、タリッタ」

「よク、わかりませン……。天ガ、マリウリに何を言うんですカ?」

「天ではないワ、タリッタ。星が教えてくれるノ。星ガ、役目を与えてくれるノ。とてもとても大事な役目……本当ハ、誰にも話すつもりはなかったノ。でモ……」

「――――」

「あなたハ、私の魂の姉妹だもノ」

振り返り、そう微笑んだマリウリの信頼に、タリッタは何も言えなくなった。

ただ、魂の姉妹であるマリウリが、タリッタを信じて打ち明けた話だ。それを、自分以外の誰かに口外するなんて考え、タリッタには持てなかった。

それに、そんな思い込みのようなもの、一時の気の迷いとしてすぐに忘れられる。

真に受ける必要のない、ほんの一時の気の迷いだ。タリッタはそう信じることで、マリウリの問題から目を逸らしてしまった。

だが、変化は徐々に、しかし確実に異常となって表れていったのだ。

ある日のことだ。

タリッタやミゼルダが狩りから戻ると、集落の子どもらの面倒を見るマリウリが、知らない歌を歌っていた。――それが、異様なことだった。

集落における『シュドラクの民』は、二つの役割に分けられる。

片方は集落を離れ、獲物を狩ることを生業とする狩猟者の役割。ミゼルダやタリッタ、多くのシュドラクはこちら側に所属する。

そしてもう片方は集落に残り、子を育て、里を守るために働く守護者の役割だ。

マリウリは、その守護者側に属する立場だった。

狩りの腕はてんで上達せず、弓を引けば百発全部外すような破滅的な腕前。でも、料理や裁縫が上手で、子どもたちに歌や昔語りを聞かせるのが得意だった。

だから、マリウリが歌うこと自体は不思議ではない。

マリウリは歌がとても達者で、宴のときには歌え歌えと皆からせがまれるほどだった。

一方、タリッタは守護者の役割の大半がダメで、歌うことも不得手だ。本当に、彼女とは二人で一人、そうでなければ一人前の仕事は全うできないのだと。

それなのに――、

「――マリウリの歌、聞いた覚えのないモノだナ」

「あ、姉上……」

「だガ、いい歌ダ。心地のいイ」

同じ歌に足を止めたミゼルダは、その異常性を気にも留めなかった。

他の、クーナやホーリィたちも同じだ。皆、マリウリが知らない歌を歌っていることに気付いても、それが何を意味するのかは考えない。

タリッタだけが、その歌の出所を恐れ、不安視していた。

天命などと、星がやるべき役目を教えてくれたと、そう語ったマリウリだ。

まさか、その歌まで星から教わったと、そう言い出すのではないかと――。

「違うワ、タリッタ。それは誤解ヨ。星から教わったんじゃなク、もう知っている歌を歌っただけなノ」

「知っていル、歌?」

「そうヨ、知っている歌……私じゃなイ、他の『星詠み』ガ……」

「――ッ、意味がわかりませン!」

タリッタの恐れた答えではなかった。

しかし、ある意味、タリッタが恐れた以上の答えがマリウリからもたらされた。

他の『星詠み』という発言は、彼女が口にした絵空事を忘れていない証拠だ。まだ、あの夢物語が続いている証拠。――否、悪化している証だった。

だが、『星詠み』の話を理解できないタリッタに、マリウリは寂しげな顔をする。

それが彼女の信頼を裏切っているようで、タリッタは理解不能の苦しみに喘いだ。

――その後も、マリウリの『星詠み』との蜜月は続いた。

知らない知識を披露し、知らない歌を歌い、知らない物語を語り、知らない天命とやらを果たすために日々を過ごす。

それは、タリッタの知らないマリウリだった。

いつも、何でもマリウリとは話し合ってきた。

人生において、タリッタが決断にマリウリの意見を求めなかったことなどない。それはマリウリも同じで、彼女の娘の名前だって、そうだった。

それなのに、マリウリの関心はいつも空にあった。

『シュドラクの民』以外に、タリッタや娘以上に何かを優先するように、彼女の人生は徐々に徐々に星に囚われ、天命に縛られていった。

誰かが、星ではない誰かが彼女に入れ知恵をしている。

そう疑って、彼女の身辺をそれとなく探ったこともあった。だが、守護者として集落を離れない彼女に、外の知識を得るための機会などなかった。

それこそ本当に、星の囁きが彼女にあれこれと吹き込んでいるみたいに。

「あなたガ、マリウリを惑わせているのですカ?」

夜空を仰ぎ、木々の隙間から見える星々に問いかける。

マリウリに語りかける星々は、しかし彼女と魂で繋がったタリッタには物言わない。

知られざる知識も、聞いたことのない歌も、やらなければならない天命も――。

「――返セ、私の魂の姉妹ヲ」

弓の弦を強く引いて、タリッタは夜空の、ひと際輝く星に狙いを付ける。

引き絞った弦を離せば、鋭い矢が唸りを上げて夜空へ迫り――当然、どこにも届かないまま空しく落ちる。

星は、タリッタの反逆の意志さえも認めようとはしない。

星は何も語らない。天命も下さない。

ならば、いったい何がマリウリを変えたというのか。それがわからない。

この嘆きを、誰に聞かせるべきなのかも、わからない。

言えない悩みや苦しみは、全てマリウリに聞いてもらってきた。ならば、マリウリが原因の悩みや苦しみは、いったい誰に聞いてもらえばいいのか。

きっと、姉にはわかってもらえない。姉は強くて、悠然としている。

うじうじと何かに悩んだり、足踏みしたりすることはありえない。それに、姉に打ち明けることの恐ろしさは、ただ理解を得られないこと以外にもあった。

『シュドラクの民』の教えと在り方に、今のマリウリは反している。

それを、族長となったミゼルダが認めるだろうか。あるいは危険な思想に至ったことを理由に、マリウリを森から追放することだってありえる。

過去にも一族を追われたものはおり、そのものたちは二度と森へ帰ってこられない。

マリウリと、会えなくなるのは嫌だった。

たとえ今のマリウリが、タリッタと魂の繋がった彼女と変わってしまっても。

だから、タリッタは抱える懊悩を、ずっと自分の胸の内に仕舞い込んで。

そして――、

「――どうしよウ、タリッタ。私、『星詠み』なのニ」

――そして、毎夜見る悪夢と同じ、あの日の出来事が本当に始まる。

△▼△▼△▼△

戦況の変化を感じ取り、戦場の全員が各々に対応を始める。

事ここに至り、神経を鋭敏に尖らせた面々に後れを取るものはいない。

『大災』が暴れ、荒れ狂う影が周囲を呑み込み、削り取り、終焉が拡大する。

しかし、その災厄に対して抗うと心に決めたものたちは、誰一人として怯まない。それは最初の壁を越えたものたちの、得難い褒賞だ。

『大災』へ挑むには条件がある。

それは戦士であること。――これは、戦う力を持つものという意味だ。同時に、抗える心を持つものという意味でもある。

力と心、どちらが欠けていたとしても、戦士として戦場へ立つことはできない。

逆を言えば、その両方を持ち合わせていると証明さえできれば、『大災』へと挑むことへの壁というものは他にはなかった。

「うあう!」

声にならない声を上げ、歯を食い縛りながら影の攻撃を躱し続けるルイ。

彼女はカオスフレームに縁も所縁もなく、この都市が滅ぶか否かの瀬戸際には一切関わりがない。都市が消えてなくなっても、痛くも痒くもない立場だ。

幼く、ひ弱に見える彼女が懸命に『大災』に喰らいつくのは、それ以外の理由のため。

それがルイに力と心を与えているなら、誰も引き止める権利はない。

そしてそれは、ルイだけに限った話ではない。

小柄な体で蛮刀を振り回すミディアムも、己の首に青龍刀を宛がったアルも、体内の『虫』の力を総動員するカフマも、片目に炎を灯した魔都の住民たちも、いずれもルイに負けず劣らず、『大災』を相手に退かない覚悟を抱いたものたちだ。

それぞれに理由は違っても、魔都を滅ぼさんとする『大災』へ挑む理由がある。

そうして最初の壁を乗り越えたものたちにとって、『大災』の行動は安直で、その危険性と裏腹に対処に困り果てるという次元ではなかった。

――『大災』は生き物ではない。これが、最大の要因だ。

『大災』は、もはやそういう類の災いであり、滅びの現象そのものと言える。

触れればあらゆるものを削り取る影、ぶよぶよと蠢く不定形の本体は攻撃が通ったという確信さえ持たせない。――しかし、それだけだ。

「こっちの攻撃に対応したり、出方を変えるって脳みそもねぇ」

瓦礫を足場に戦場を駆け抜け、周囲に指示を飛ばしながらアルは『大災』を睨む。

体の芯から漏れ出す怯えは消す術がないが、空元気と状況把握でいくらか心に猶予を持たせることはできた。その猶予が、アルに思考の余地を与える。

『大災』の行動は有体に言えばワンパターンだ。

近付くものを振り払い、あるいは取り込み、妨害がなければさらなる被害の拡大のために蠢いて周囲を呑み込み始める。

だが、アルを含めた防衛戦力が、『大災』にそれ以上の拡大をさせない。

攻撃を叩き込み、あるいは影の氾濫の標的となって的を散らし、餌を与えて咀嚼の間を作ることで時間を浪費させる。その繰り返しだ。

これで『大災』が生き物であれば、学習し、対応を学んで戦況を変えただろう。

もしくは感情的になることで行動パターンに変化が生じ、やはり戦況は激変したはず。だが、それが起こらないから、この戦力でもかろうじて押しとどめることができる。

ただし――、

「――全員、下がる準備をするでありんす」

踏み込み一つで大地が破砕し、突き上がる衝撃波が『大災』の巨体を二つに割る。

無論、『大災』は蠢いてすぐに元の一つへと戻るが、目に見えるレベルのダメージを与えることができるのが、この魔都の女主人の絶対的な支配力だ。

それをやってのけたヨルナ・ミシグレが、厚底の下駄で高々と靴音を鳴らし、波濤の如く押し寄せる影の一撃を大地を引っぺがすようにして防ぎ切る。

「ヨルナちゃん!」

「下がりなんし! 口惜しいでありんすが、あの男の言う通りにしんしょう」

「あの男って、アベルちん?」

暴風の中で会話が交わされ、ミディアムの問いにヨルナが細い顎を引く。彼女の切れ長な瞳が見やるのは、戦場を俯瞰する高台に佇む鬼面の美丈夫だ。

戦いに混じる能力はないにしても、逃げるでもなくそこにいるのは何らかの意地か。

いずれにせよ、その頭の中で巡らされた知覚により、練られた策はヨルナへ伝えられ、彼女はそれを実行すると採択した。

ならば――、

「――この都市をそっくり呑ませ、妾が内より爆ぜさせるでありんす。それ以外、あの乱行を行う災いの芽を摘む術はありんせん」

「できるのか?」

「城一つぶつけて足りぬと言うのであれば、あとは街一つぶつけてみるだけ。もっとも、それで足りなくば、わっちを皇妃にして国をぶつけるしかありんせんが」

「そのようなこと、臣下の一人として断固としてお諌めせねばならん!」

ヨルナの作戦を聞いて、その余計な一言に顔を赤くしたカフマが怒鳴る。が、その実直な虫籠族の戦士はすぐに表情を切り替え、「承知した」と頷いた。

そのヨルナの都市を捨てるという決断が、彼女にとって身を切る痛みを伴う選択であることを理解したが故の首肯だろう。

カフマの短い答えを聞いて、ヨルナは微かに目を伏せ、すぐに嫣然と微笑む。

「何のことはありんせん。わっちとわっちを愛するものたちが揃えば、このような都市はまた容易く形を成すでありんす。――安らぎは、わっちと共に」

胸に手を当てて、そう述べるヨルナに反対意見はない。

事実として、ヨルナの切り札がどれだけの威力を発揮するかはわからないが、現時点で彼女のそれ以外に、『大災』相手の決め手がないのもわかり切っていた。

故に――、

「――みんなで戦いながら下がる! 大急ぎで!」

ミディアムの言い放ったその一言が、魔都の攻防戦の最後の策を決行する合図だった。

△▼△▼△▼△

――毎夜見る悪夢の始まりは、月が白く凍えた肌寒い夜のことだった。

『星詠み』を自称し、知らない知識を披露するようになったマリウリ。

その知識の出所を同胞たちは気に留めないが、タリッタの恐れは日毎に増した。だが、誰にも自らの抱える懊悩を明かすことはできなかった。

マリウリは、タリッタ以外の誰にも自分が『星詠み』になったと話していなかった。打算があったのではなく、単純な絆の問題だ。

魂の姉妹同士でのみ、交わされる誓いや秘密というものがある。

シュドラクに帰属意識の強いクーナとホーリィの二人も、自分たち以外の同胞に話していない秘密が存在しているはずだ。

マリウリにとってのそれが、タリッタに打ち明けた『星詠み』という役割。そして、魂の姉妹が信頼して打ち明けた秘密を、余所に漏らすなんて考えられない。

だから、タリッタの懊悩は誰にも共有されないまま、延々と胸を苛み続けた。

だが、その日々は唐突に、思いがけない形で終わりを迎えることとなる。

それは――、

「――どうしよウ、タリッタ。私、『星詠み』なのニ」

愕然と、そうこぼしたマリウリの言葉に、タリッタは瞠目して動けなくなった。

何故なら、彼女の口からこぼれたのは弱々しい嘆きの声だけではなく、その胸元までをしとどに濡らす赤々とした鮮血もだったからだ。

元々、体の丈夫な方ではなかった。

彼女が狩猟者でなく、守護者の仕事をしていたのは、狩りの技量の未熟さだけが理由ではなく、そうした体の弱さも理由だった。

子どもの頃は寝込むことも頻繁にあった。それも、大人になったことで頻度が減り、きっともう大丈夫だと、誰もが油断していたということなのだろう。

病魔はゆっくりと、取り返しがつかないほど彼女の奥底を蝕んでいたというのに。

血の気の失せた顔で、何度も吐血を繰り返すマリウリ。その体は日に日に痩せ細り、その生命の灯火が消えかけているのは誰の目にも明らかだった。

故に――、

「あとはマリウリの気力次第ダ、タリッタ」

「あネ、うエ……」

「マリウリと過ごセ。最期まデ。それが魂の姉妹の役目ダ」

薬湯を飲ませ、そう言い残したミゼルダの言葉がタリッタに圧し掛かる。

魂の姉妹の役目、それはまるで天命だ。

必ず果たせと、そう天にも等しい姉に言われた天命。

他のシュドラクも、クーナやホーリィといった付き合いの長い面々が、それぞれにマリウリと言葉を交わし、タリッタに一言残して去っていく。

誰もが、これがマリウリと話せる最後の機会だとわかっていた。

そして、マリウリの最期を見届けるのは、彼女と同じ日に生まれ、しかし違う日に死ぬことになる魂の姉妹、タリッタしかいないのだと。

「マー……」

まだ事情のわからないマリウリの幼い娘が、母の手を握り、そっと頬擦りする。

周りに促され、理解し切れない別れを告げて、母と子とが最後の別れを終える。明日もまた会えると、信じて疑わない無邪気な娘と、死の床にある母の別れが。

「おやすミ」

手を振る我が子に別れを告げ、代わる代わる言葉をかけた同胞との別れも済ませ、自らの死と向き合うマリウリは立派だった。

その芯の強さは、タリッタが信じ、愛したマリウリに相違なかった。

しかし――、

「どうしよウ、タリッタ。まだ私、天命を果たせてないのニ……」

「マリウリ……」

「それを残したまマ、なんテ……私、何のためニ」

タリッタと二人きりになった途端、張り詰めたものが音を立てて切れる。

血の気が引く以上に顔を青ざめさせ、マリウリが案じるのは目前に迫る『死』でも、我が子の未来でもなく、星の囁きなんてわけのわからないものだった。

何のためにと、その瞳に涙を浮かべて絶望するマリウリ。

その涙と表情に、彼女よりも先にタリッタの方が絶望した。

「まダ、まだそんなことを言うんですカ……!」

「タリッタ……」

「天命なんテ、そんなものはなイ。ありませン! あなたハ、シュドラクのマリウリ! それ以外の何でもないのニ、それ以外の何が欲しいというんでス!」

シュドラクとして生き、シュドラクとして死ぬ。

それこそが、最も大事なことで、最も優先すべきことのはずだ。

シュドラクの一人であったマリウリが、シュドラクとして死ぬために必要な――、

「――生まれタ、意味」

「……イ、ミ?」

「それガ、欲しいノ」

この期に及んで、天命にその価値を見出すマリウリの言葉がタリッタを貫いた。

シュドラクに生まれ、シュドラクとして生き、シュドラクとして死ぬ。

それ以上の何を求めるのかと問われ、彼女は生まれた意味が欲しいと答えた。

――娘もいる。タリッタもいる。シュドラクもいる。なのに、意味が欲しいと。

彼女は、マリウリはその瞬間、自らに流れる血を無意味と切り捨てたのだ。

血を裏切り、まやかしでしかない星の囁きにこそ価値があるのだと言い切った。

それは、タリッタにとって許し難い裏切りだった。

だから――、

「――もウ、やめてくださイ」

「――――」

「私ハ、あなたの魂の姉妹……その私の前デ、生まれた意味なんテ」

これ以上は聞くに堪えないと、タリッタは冷たい刃でマリウリに意思表明した。

抜いた短刀の切っ先が、マリウリの青白い喉にそっと宛がわれる。その刃の冷たさと鋭さが、マリウリを正気に戻し、発言を撤回してくれればと願った。

無論、『死』を目前にしたマリウリに、こんな脅しは通じないかもしれない。

しかし、タリッタには他の術が思いつかなかった。だから、こんな方法しか。

でも、それはタリッタの、人生最大の失敗だった。

「そうだワ、タリッタ。――私にハ、あなたがいタ」

「エ?」

血の気の失せた顔で、マリウリがタリッタへと焦点を合わせた。

その目の色が、タリッタの知るどのマリウリとも違って見えて、体が硬直する。

その刹那が命取りになった。――マリウリの。

「マリウリ……!?」

ぎゅっと、マリウリの細い手がタリッタの手に重なり、宛がわれる刃を押し下げる。

とっさにタリッタは抵抗しようとしたが、一瞬の混乱と、マリウリのものとは思えない腕力に阻まれ、叶わなかった。

獣の分厚い皮膚に対抗するための刃だ。

鋭く研がれたそれは、マリウリの体を水面のように切り裂き、血を流させた。嫌な音と感触があり、短刀の先端がマリウリの胸を致命的に抉ったとわかる。

「すぐニ……! すぐに手当てヲ……!」

「ダメヨ、タリッタ! あなたにハ、役割があるノ……っ」

「馬鹿なことを言わないでくださいイ! 今ハ、それどころジャ……」

「聞いテ!」

「――ッ」

血を吐くような――否、文字通り血を吐きながらの絶叫だった。

短刀に胸を抉られ、刻一刻と命の灯火を弱らせながら、しかしマリウリの腕はタリッタを逃そうとしない。口の端に血泡を浮かべ、彼女の目がタリッタを見る。

今にも失われかけている命に縋り付き、それに強引に爪を立てながら、

「千夜、超えた先デ、私ハ……あなたハ、旅人と出会う……」

「――――」

「旅人ハ、この大地を滅ぼす『大災』の味方……だかラ、それヲ、殺さないト……」

「マリウリ……」

「ころサ、なイ、ト……」

「マリウリ? ……マリウリ!」

吐血と共に紡がれる苦痛に満ちた声が、タリッタの腕から力を奪う。

いつしか、マリウリの信じ難い腕力は消えていた。その時点で立ち上がり、誰かを呼ぶべきだった。――否、呼んでも手遅れだ。全部遅い。

マリウリの魂はすでに、死神にその指をかけられ、連れ去られる寸前だった。

それを一秒でも先延ばしにしているのは、妄執めいた想いだけ。

「黒い髪ト、黒い目ノ、旅人……ヲ、殺しテ」

「――――」

「『大災』ヲ、止めテ、タリッタ……それガ、私の役目……。もウ、私は果たせなイ、かラ……お願イ、タリッタ……私ノ、魂ノ、姉妹……」

「ア、あなたハ、ここでそれヲ……ッ」

血を流し、最後の力を懇願に使うマリウリを初めてタリッタは憎んだ。

これまで必死に、タリッタが魂の繋がりを理由に彼女を引き止めようとしてきた。それを全部無視したのに、最後の最後でそれを持ち出してくるなんて。

あまりに卑怯で、そして、タリッタの心の臓を狙い撃ちにした言葉だった。

タリッタの涙声、それを聞いて、マリウリの瞳がわずかに揺れる。

そのまま、マリウリの体の力が抜け、ゆっくりと、その頭がくたりと落ちて、

「――ゥ、ァ、タ」

「マリウリ?」

「――――」

「マリウリ!!」

最後に、弱々しく掠れた息が漏れて、それが最後だった。

ぐったりと、胸に短刀を突き立てたまま、鼓動を止めたマリウリの体。タリッタは数秒だけ呆けて、すぐに小屋から飛び出し、姉たちを呼ぼうとした。

だが――、

「――ァ」

小屋の扉を開け放ち、外へ飛び出そうとしたタリッタの足が止まった。

そこに、いてはならない小さな影が座り込んでいたのだ。

病床の母を案じてか、幼いなりに嫌な予感を覚えたのか。

いずれにせよ、大人たちの目を掻い潜り、優秀な狩猟者となり得る資質を、絶対に発揮してはならない夜に発揮した幼子が。

母の血を浴びて、滂沱と涙を流すタリッタを、ウタカタが見つめていた。

△▼△▼△▼△

『大災』の影が荒れ狂い、激震が魔都を内から外へとひび割れさせる。

ヨルナの決断が魔都の住民たちへ行き渡り、それぞれが故郷となった地を捨てる。

苦渋の決断があった。彼らにとって、ここは行き場のない自分たちを受け入れてくれた最果ての地であり、隠れ潜まなくていいという自由があった。

その全てが失われるとあって、これを嘆かずいられようか。

しかし――、

「命あれば、わっちが救ってみせりんす。新しい魔都をその目に拝むためにも、遅れをとることなきよう急ぐでありんす」

魔都の女主人、寄る辺なきモノたちの最後の砦がそう告げるから、人々は再起と再建を信じ、住み慣れた我が家を、故郷を後ろに走り出せた。

破壊が魔都を呑み込み、打ち砕いて、それを為す『大災』の規模が拡大する。

振るわれる影が厚みを増し、蠢く漆黒の総量は見る間に倍の倍へと膨れ上がった。

規模の拡大と影の増量は、そのまま『大災』の危険度の増大を意味する。

薙ぎ払われる範囲が一挙に広がり、抉り取られる大地と街並みを横目にしながら、ヨルナは人的被害を最小限に抑える功労者――アルの活躍に舌を巻いた。

「ミディアム嬢ちゃん! 下がれ! もういい! これ以上は今の嬢ちゃんじゃ逃げ切れねぇ! 潮時だ!」

「う~! 悔しい! でも、ごめん!」

そう叫んだアルの判断を信用し、蛮刀を担いだミディアムが一目散に逃げる。

その背中を追って放たれた影の弾幕は、横合いから飛び出した茨が壁となって防ぎ、小さな体で危険な囮役を果たした少女の逃走が果たされる。

「触角の兄ちゃん、助かった! けど、あんたもそろそろ……」

「そろそろなんだ? まさか、自分に退けとでも言うつもりか? だとしたら、このカフマ・イルルクス! 断じてそのような話は聞けん!」

「いや、言いそうなキャラだと思ったけど、本気で言ったよ」

「何か!!」

「何でもね」

肩をすくめ、アルがカフマの怒号にゆるゆると首を振る。

正味、カフマの援護がなければ『大災』との戦いはもっと危うくなっていただろう。その助力には感謝するが、彼の暑苦しさには気をやられる。

ともあれ――、

「――狐の姉ちゃん!」

「気に入らぬ呼び方でありんすが、わかっておりんす」

自分に投げかけられるアルの声に、ヨルナは顎を引いて頷く。

都市の中央から外苑へ抜けて、『大災』からの撤退戦はいよいよ大詰めだ。魔都を放棄するヨルナの決定が周知され、住民たちの避難もかなりの部分が完了した。

あとは決断した通り、魔都を呑み込んだ『大災』へと、しでかしたことの報いを受けさせてやればいい。――何かの間違いで、その必要がなくなればとも思うが。

「それは、未練でありんしょう」

唐突に『大災』が限界を迎え、その端から崩れて消え去ったり、いきなり弱点が露出してそれだけ攻撃すればよくなったり、そんな都合のいい奇跡は起こらない。

やり合ってわかった。――あの『大災』は、無尽蔵に暴れ続ける災厄だ。

止めなければ、魔都に留まらず、もっともっと多くのものが被害に呑まれる。

それを防ぐために、大切な魔都を犠牲にしなければならない。

「――――」

目をつむり、ヨルナは一瞬だけ、躊躇いと後悔に思いを馳せた。

ヨルナの『魂婚術』は、『魂婚術』という術式の歴史の中でも特殊な代物だ。

本来、個人が持ち得る魂の総量は、どれだけ個人差があろうと大差には至らない。しかし、ヨルナはとある事情で他者の数千倍の大きさの魂を持っている。

望んだ力ではなかった。ともすれば、手放したいとすら思っているものだ。

それが役立った結果が今の立場だが、それを役立てねばならない機会の訪れは予想していなかった。――否、考えることを避けていたというべきだろう。

だから、いざというときに決断するのに時間を要してしまった。

それを――、

「――あの男には」

見抜かれたのだと、ヨルナは遠目に見える鬼面の男の姿を振り返る。

もはや滅亡を免れない魔都の外苑に立ちながら、腕を組んだ男は小揺るぎもしない。その視線の無感情は、『大災』を止めるための犠牲を当然と見ているが故か。

そうだとしても、あの場から動かずに結末を見届けんとしているのは、ヨルナの決断を促したことへの、あの男なりの仁義だったのかもしれない。

「――っ、あの馬鹿!」

刹那、『大災』相手に渾身を叩き込む決意をするヨルナの鼓膜を罵声が打った。

見れば、悪罵を叫んだのは『大災』を眺めやるアルであり、覆面に覆われた彼の視線を辿って、ヨルナもアルが何を罵ったのか理解した。

『大災』の周囲、瓦礫を蹴り、跳ね回って牽制を続ける矮躯――ルイだ。

金色の髪を躍らせ、白い装いを土埃で汚した少女が、大きく肩を上下させ、その全身を汗でぐっしょりと濡らしながらも『大災』へと仕掛け続けている。

ルイの目的は一つ、あの『大災』の始まりの中心にいた黒髪の少年――、

「あの童は」

救う手立てが見出せないと、ヨルナは苦渋の内にそう決断していた。

あるいはそれは魔都を捨てるのと同等か、それ以上に彼女の身を切る痛みを伴った。

この策が成ったとき、鎮まった『大災』が内に取り込んだものがどうなるか。戻ってくるのであれば、そこにあの黒髪の少年も含まれるかもしれない。

だが、その可能性が針の穴よりも小さなものであることはヨルナもわかっていた。

だから、ルイの決死の抗いが、無意味に終わるともわかってしまって。

「あの少女を引き戻さねば!」

「ふざけろ! あんなガキ、放っとけ! そもそもあいつは……」

「あの娘が、なんだ!?」

「あいつは……ッ」

跳び回るルイの姿に、声を上げたカフマがアルを睨みつける。その鋭い視線を浴び、ルイに思うところがあるらしいアルは言葉を詰まらせた。

ヨルナは、ルイを救いたい。――ルイの願いが叶えられない以上、せめて彼女の命だけは救ってやりたかった。

もしかしたら、一緒に死ぬ方が幸せなこともある。

それを、ルイもあの闇に取り込まれた少年相手に望むかもしれないが。

「クソ、クソクソクソ、チクショウ! なんでオレが、あいつのことでこんな悩まなきゃなんねぇんだ! 恨むぞ、兄弟!」

荒々しくそう叫んで、アルがその声音を裏切らない勢いで走り出した。

彼の向かう先は、『大災』を相手に縦横無尽に跳び回るルイの下だ。あの漆黒の暴威相手に狙いを定めさせない俊敏なルイ、しかし――、

「見えてんだよ!」

「う!?」

降りかかる瓦礫の雨や影の余波を躱しながら、アルはまるでルイがどう動くのかわかっているかのような的確さで回り込み、少女の体を横抱きにさらった。

そのまま、組み付いた二人を狙って放たれる影の嵐に対しても、アルは信じ難いほどスレスレでそれらを避け、ギリギリの射程外へ逃れる。

「うー! うあう! あーう!」

「――寝てろ!」

「うっ」

その間も、ルイはアルの腕の中でもがき、その手を必死に『大災』へと伸ばそうとしていた。だが、アルが青龍刀の柄で非情の一撃を打ち込み、ルイの頭がくたりと落ちる。

そのまま、ルイの小さな体を抱き上げ、アルが『大災』に背を向けて走り出す。

「触角!」

「カフマ・イルルクスだ!」

切羽詰まった声に応じて、カフマの茨が逃げるアルへと逃走路を展開する。その茨の道に駆け込むアルを、『大災』が追いかけ、追いかけ、追い詰める。

しかし、茨はアルのための道を作りながら、『大災』を阻む壁をも作り出す。

攻防一体の凄まじい援護射撃に、ルイを担いだアルが戦場を駆け抜け、そして――、

「――やれ、ヨルナ・ミシグレ!!」

最後の一手、断行を促す一声が背後からかけられ、ヨルナが両手を正面へ突き出す。

仕草自体に意味はない。それは城を呑まれたときと同じだ。ただ、ヨルナがどれだけの犠牲を払い、これを為すのかを知らしめるための行い。

「わっちは主を、愛しんせん」

その一言を以て、魔都カオスフレームの大部分を呑んだ『大災』へと、ヨルナの魂が炸裂する。その威力、まさしく街そのものをぶつけるが如し――、

爆ぜる衝撃が爆風のようなものを生み出し、凄まじい風が魔都を吹き飛ばした。

衝撃波に揉まれ、魔都を構成するあらゆるものが壊れ、砕かれ、消し飛んでいく。その中で、衝撃の中心にあった『大災』も破壊に呑まれ、破られる。

そのまま、都市そのものを引き換えに放たれた一撃が、『大災』を打ち消し――、

「――足らぬか」

やまぬ暴風と噴煙がたなびく中に、静かな男の声が響く。

それが、誰もが顔を伏せずにおれなかった状況下で、なおも下を向かなかった男の一声だったとわかり、全身を脱力させるヨルナが息を詰めた。

渾身の一撃を浴びて、それでもなお、噴煙の向こうに蠢く闇の気配がある。

届きはした。だが、足りなかったと、そう奥歯を軋らせる結末が――。

「――ぁ」

動かなくてはと、失望を上塗りする決意が立ち上がる前に、ヨルナの声が漏れた。

理由は簡単だ。――自分より早く、動くものがあったから。

ただしそれは、殺し切れなかった『大災』の残り火ではない。

それは――、

「――タンザ?」

吹き飛んだ宿の地下から飛び出した、小柄な鹿人の少女の姿だった。

△▼△▼△▼△

「ウー、見てタ。マー、ターのデ、自分刺しタ」

一部始終を目撃した幼子、マリウリの娘であるウタカタの証言が決め手だった。

マリウリの体にはタリッタの短刀が刺さり、タリッタは浴びた血を拭おうともしていなかった。誰の目にも、タリッタがマリウリを殺したと思われる惨状だ。

しかし、それを他でもないマリウリの娘が覆し、タリッタの穢れを否定した。

――同族殺しは魂が穢れ、祖霊と同じ土へ還ることは許されない。

それがシュドラクの最も忌避する、『シュドラクの穢れ』だ。

その疑惑は、ウタカタの証言に否定された。もっとも――、

「あの刺さり方ダ。それニ、タリッタが狙うなら苦しまぬ場所を狙っただろウ。あれハ、私の妹の仕業ではなイ」

刃の刺さり方と、そもそもの傷の位置。

それを一瞥しただけで、ミゼルダはマリウリが自刃した事実を言い当てた。

他のシュドラクも、目敏いものは同じことに気付いたし、そうでないものもミゼルダの意見を聞いて納得する。

ミゼルダが族長で、実の妹であるタリッタを庇ったと判断したのではない。

むしろ、その逆だ。――ミゼルダだけは、絶対にタリッタを庇おうとはしない。姉妹の情がないのではなく、ミゼルダがシュドラクの中のシュドラクだからだ。

そのシュドラクとしての血の濃さこそが、ミゼルダの判断の根拠となる。

タリッタに非はなく、その短刀を奪ったマリウリが自刃したと決着した。

病の苦しみから逃れるためか、あるいは己の最期を病魔ではなく、自らの手に委ねたのかもしれない。後者であればよいと、それがシュドラクの見解となった。

だが――、

「私ガ、マリウリを死なせタ……」

他ならぬ、タリッタ自身はそうは思えなかった。

タリッタは、自分が聞きたくない言葉を言わせないために、それ以上の呪いを残させないために、マリウリの口を塞ぐために短刀を抜いたのだ。

そのタリッタの短慮がなければ、マリウリはああして死ぬことはなかった。

何より――、

「――天命」

死の淵で、マリウリは自らに下った天命をタリッタに聞かせた。

これまで、天命が下ったと話すことはあっても、マリウリは内容を決して語ろうとはしなかった。それを、死の床で初めてタリッタに聞かせたのだ。

「――『大災』」

滅びを免れるための天命と、そして滅びこそが『大災』だと、マリウリは語った。

それを防ぐための対抗策、その実行こそがマリウリの天命だと。

「――黒髪、黒目ノ、旅人」

千夜先に現れるという旅人、本当にそんなものがいるのだろうか。

その旅人の死が、『大災』とまで呼ばれる滅びをどうして遠ざけられるというのか。

ただ、最後の最後まで、マリウリは天命を、『星詠み』の役目を信じていた。

それを全うできないことで、自分の人生を無意味だったと感じてしまうほどに。

「無意味なんテ……」

ありえないと、タリッタはそうはっきり断言できる。

いったいどれだけ、マリウリの言葉に、優しさに、救われてきただろうか。

彼女がいてくれて、タリッタはシュドラクらしい姉への劣等感に潰されずに済んだ。彼女の支えなくして、今日までのタリッタはなかっただろう。

それもマリウリの功績だ。意味がなかったなんて、誰にも言わせない。

何よりも、マリウリにはお腹を痛めて産んだ子が、ウタカタがいるのだ。

「全部ヲ、無意味だなんて言わせなイ……」

強く歯を噛んで、夜空を見上げる。

満天の星空は変わらず、タリッタに何かを教え聞かせるようなことはない。

当然だ。星は何かを語ったりしない。マリウリは、まやかしに心を囚われていた。

それでも、彼女がそのまやかしに救いを求め、誓いを立てていたのなら。

「星なんテ、全て砕け散ってしまえばいイ……!」

そう、憎悪を夜空に向けながら、しかし、同時にタリッタは希う。

この森に、マリウリに囁いた通りに旅人とやらをもたらせと。

絶望と未練に支配されたマリウリの魂は、祖霊の下へ辿り着けずに彷徨い続ける。

その絶望と未練を断ち切らなくては、魂の姉妹が救われない。

あの最後のひと時のことは、まだ幼いウタカタも知る由のない秘密。

血で繋がった家族すら立ち入れない、魂の姉妹だけの秘密なのだ。

「きっト、私の矢デ――」

旅人を射殺し、マリウリの未練を断ち切ってみせる。

そのために、旅人の訪れを待って、待って、待って待って待ち続けて、そして――、

――あの日、待ち望んだ旅人の姿に、タリッタは弓を引いたのだ。

「――レム!!」

放たれた強弓が的を外し、黒髪黒目の旅人が傍らの少女を庇って飛んだ。

その心の臓に狙いを付け、奥歯を噛みしめながら、タリッタの心の臓が強く跳ねる。

千夜、過ぎて森に現れた黒髪の旅人。

心の臓が凍るような衝撃に打たれながら、タリッタは弓をつがえ、狩人となった。

冷静に、冷静に、矢の先端は標的に狙いを定め。

しかし、その魂は燃えるような喝采に吠えていた。吠えていた。吠えていた。

吠えて、いたのだ。

△▼△▼△▼△

――鹿人の少女が飛び出した瞬間、世界から音が消失した。

直前の、『大災』を中心とした凄まじい衝撃波は、文字通り世界を揺るがし、都市そのものを吹き飛ばす勢いで災厄を打ち砕かんと炸裂した。

全身に強烈な風と衝撃を浴びて、これの数千、数万倍の威力の衝撃を浴びれば、どんな存在も粉々に砕け散ると確信されたほどだ。

しかし、そんな確信さえも塗り潰して、『大災』は滅びを耐え抜いた。

噴煙の彼方、健在とは言い難くも、存在の消滅を免れた『大災』の気配を感じて、片膝をついた我が身が震えるのを、傍観者となったタリッタは自覚していた。

ルイが、ミディアムが、アルが、街の人々が、必死で行った抗いを見ていた。

自らの在り方を定められず、踊らされ続けた天命とすら向き合えず、血の色に染まったマリウリの顔を思い出しながら、『大災』を前にタリッタは動けなかった。

その不甲斐ないタリッタを置き去りにするように、誰もが自らの役割を全うする。

都市の支配者たるヨルナ・ミシグレが、愛する都市を犠牲に一撃を放ったように。

その一撃が足りなかったと見るや、潜んだ場所から飛び出した鹿人の少女のように。

「――――」

猛然と、その右の瞳を燃やして走るキモノ姿の少女は、宿に現れた使いの少女だ。

タンザと名乗った少女の行く先には、たなびく噴煙とその向こうの『大災』がいる。いったい、何をするつもりなのか、タリッタにはわからない。

ただ――、

「――やめなんし!!」

震える足を叱咤し、駆け抜ける少女の背に叫んだヨルナの反応が、タリッタにタンザの狙いと覚悟を図らずも理解させた。

タンザは命懸けで、何らかの手法を以て『大災』へ挑もうとしている。

ヨルナはそれに心当たりがあり、そして少女を愛するが故に止めようとしている。

だが、あの少女を止めるということは、魔都を犠牲に放った一撃で動きの止まった『大災』、それを滅ぼせる千載一遇の機会を逃すということだ。

あるいは、『九神将』の一人たるヨルナがその気になれば、これ以外の方法で『大災』を追い込み、打ち払うこともできるのかもしれない。

――本当にそうだろうか?

「――っ」

希望的観測を抱こうとした自分を呪い、タリッタは静かに息を呑んだ。

その視線を周囲に巡らせ、タリッタは状況を変える手立てと、切っ掛けを欲する。自分以外の誰かが、何らかの行動を起こすことさえ望んだ。

しかし、吹き飛ばされた瓦礫の残骸と、それらに揉まれて転がった人々には、この状況に対処する余力がない。――あるのは、タリッタだけ。

必死の攻防に参加することを躊躇い、嵐が過ぎるのを耐え忍ぼうとしていたタリッタだけが、この場で唯一の選択肢を持つことになった。

そして――、

「――タリッタ」

微かな呼び声に視線が向けば、タリッタは高台で体を起こした男の姿を見る。

アベルだ。鬼面の内から血を流した彼が、その黒瞳でタリッタを見据え、言葉にするのではなく、そっと指を天へと向けた。

空を見ろと、そう言っているのではない。

アベルが示したのは天、そうでなければ星だ。――すなわち、天命だ。

選べと、タリッタに決断が強いられる。

「――――」

血染めのマリウリの最期と、黒髪黒目の旅人を殺せという天命が脳裏に蘇る。

それを為せば、『大災』による滅びを免れ、マリウリの魂も楔から解き放たれよう。

故に――、

「――――」

タリッタは静かに澱みなく、矢筒から抜いた矢を弓につがえ、狙いを付ける。

これまでに何千、何万回と繰り返してきた狩猟の技法、それがタリッタを、怯えて戸惑い、役目を果たせない愚かな娘から、一人の狩人へと変貌させる。

世界を救う方法を選べと、そう居丈高に言われるなら、その通りにしてやろう。

もとより、星の囁きに、天の命題に対するタリッタの答えは決まっていた。

すなわち――、

「――天命なんテ、知りたくもなイ」

弦が弾かれ、つがえられた矢が風を切りながら猛然と空を走った。

そしてそれは狙い違わず、立ち上がり、走り出そうとした長身の女の足を射抜く。

驚愕の声を上げて、女がその場につんのめり、前のめりに倒れた。

白い面に焦りと驚きを刻み、女が悲痛に手を伸ばし、声を上げる。

それが、『大災』へ突き進む少女の名前を呼ぶ声だと、音の消えた世界でも、タリッタにはよくわかった。

それでも、選んだのだ。

――『魂の姉妹』に託された天命に背いて、命懸けで突き進んだ少女の本懐を遂げさせることを。

「――ヨルナ様」

地を蹴り、噴煙の向こうへ飛び込む寸前、少女の唇が愛おしむようにその名を呼んだ。

そして、小柄な体は土煙の彼方、待ち受ける『大災』へと呑み込まれ――、

――凄まじい、魔都炸裂に匹敵する二度目の衝撃が『大災』を今度こそ吹き飛ばした。