軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七章52 『恋心は譲れない』

――城に『魂婚術』を使い、無機物にすらオドを通わせている。

それが、螺旋渦巻く屋根瓦を足場とするヨルナのとんでも現象の実態だろう。

アベルは彼女の『魂婚術』が、少なくともスバルたちを追ってきた百人にかけられているだけでも異常なことと話していたが、それどころではない。

自分のお城や煙管にまで、オドの一部を分け与えているのだとしたら。

「そんなの、すごい体に悪そうだ……!」

そもそも、誰かにマナを譲り渡すという行為自体、結構疲れることなのだ。

実際、契約関係にあるベアトリスと定期的にマナのやり取りをしているスバルは、それがどのぐらい大変なことなのか骨身に沁みている。

監視塔に辿り着くための砂海では、必要なこととはいえ、ベアトリスにかなりのマナを持っていかれてヘロヘロになってしまったぐらいだ。

それも、ベアトリス一人とオドで繋がっていて起こったトラブル――そのリスクが、ヨルナの場合は単純計算で百倍以上もある。

その上で、彼女は自分自身でとんでも戦闘を繰り広げる実力があるのだ。

実はみんなに力を分け与えてヘロヘロ状態なんて言われても、踵落としでお城を割ったのだから、とても信じられたものではなかった。

「ははぁ、妙な術技を使いよるもんよ。ったく、どんだけ長生きしても次から次へと知らん技が出てきよるから、ホントに頭の痛ぇもんじゃぜ」

「そういう土壌でありんすから、嘆いても仕方なくござりんしょう。わっちからすれば、オルバルト翁の技術も十分厄介……消しておくに限るでありんす」

「かかかっか! そう簡単に消されやせん……うお!?」

大口を開けて笑ったオルバルトが、直後の敵意に反応して後ろへ飛んだ。

瞬間、オルバルトの足下の屋根が爆ぜ、真下からの衝撃に屋根瓦が打ち上がる。まるで、直前のヨルナを打ち上げた攻撃の意趣返しだ。

しかもオルバルトの一撃と違い、ヨルナのそれは追い縋るように連発される。

ドン、ドン、ドンと音を立てて、後ろへ回転しながら飛んでいくオルバルトを衝撃波が追いかける。それを、ヨルナは空中に固定された瓦の足場の上で、たおやかな指を振るだけで実現していた。

「よっ! ほっ! はっ! やりよる!」

「オルバルト翁も、しぶとくありんす」

「羽虫相手の感想たぁ、年寄り相手がわかってねえ娘っ子じゃぜ。しかし――」

そこで言葉を切り、後方回転するオルバルトが体をひねった。そのまま、逆さの体勢で後ろに振り向くオルバルトを、波打つように持ち上がる屋根が迎え撃つ。

正面から衝撃波で追いかけ、背後から屋根瓦の波濤で挟み撃ち――まるで大海原のように波打つ天守閣の光景は、直視するスバルが目を疑いたくなるものだ。

だが、目を疑うのは直後の出来事も同じこと。

「――――」

波濤の如く押し寄せる屋根瓦、それを目にしたオルバルトは宙を蹴り、自ら屋根瓦へと向かって頭から突っ込む。

見た目は波のようでも、瓦の硬さや重さは失っていない波濤だ。

頭から突っ込んだら、全身を殴られて骨は折れ、頭がぶっ潰される惨劇が起こる。思わず、スバルは抱き着くルイの顔を覆い、「うー!」と彼女の抗議の声を聞いた。

でも、その残酷な結果は起こらなかった。

「土ん中潜る術の応用、ぶっつけでできたワシすごくね?」

衝突の瞬間、水に潜るようにオルバルトが音もなく波濤へ突入し、そのまま押し寄せる屋根の波の尻から飛び出した。踵で瓦の剥げた屋根を擦りながら、オルバルトは白い歯を見せて老獪に笑い、余裕があるかのように振る舞う。

実際、オルバルトはその実力の底は見せていない。

一方でヨルナも、『魂婚術』の恐ろしさこそ露呈したかもしれないが、

「そうして逃げ惑う一方で、オルバルト翁の狙いは果たせるんでありんすか?」

悠然と、空から怪老を見下ろす彼女にも、まだ傷一つ付いていないのだ。

どちらも、力の片鱗しか披露していない。それだけで十分、帝国最高戦力である『九神将』の実力が凄まじいことは証明されているが。

ただ、この調子で戦いが続いても、お互いが譲らず、拮抗は継続する予感があった。

そんな印象を持ったのは、外野で見ているスバルたちだけではなかったらしい。

「やれやれ、耳の痛ぇ話をするもんよ。つっても、『参』が『漆』相手にしぶとく粘られたとあっちゃ、閣下に怒られても仕方ねえわな」

「では、如何にするでありんすか?」

「そうじゃなぁ。ま、ワシもぼんやりと逃げ回っとったわけじゃねえんじゃし……」

整った眉を顰め、そう尋ねるヨルナにオルバルトが自分の顎を撫でる。撫でながら、怪老は頬を歪め、その視線をちらと別の方向へ向けた。

その、爛々と輝く黄色の瞳を、戦いを傍観する二人の子どもたちへと――、

「――っ」

「翁!!」

スッとオルバルトの視線が鋭さを帯び、スバルが身をすくめる。

直後、眉を立てたヨルナが瓦を蹴り、猛然とオルバルトへと飛びかかった。再び、初手と同じようにヨルナの強烈な一撃がオルバルトへと降り注ぐ。

しかし――、

「そんなんじゃから、あんだけ謀反していっぺんも閣下に届かんのじゃぜ」

オルバルトが吐き捨て、ヨルナと比べるべくもなく短い足が跳ね上がる。だが、その靴裏は正面からヨルナの厚底の踵と衝突、衝撃波が二人の長い髪を大きく弾く。

ヨルナが歯を軋らせ、オルバルトが歯を食い縛り、一秒のあとには両者の体が大きく反対方向へ吹っ飛んだ。ヨルナとオルバルト、それぞれ前後に。

そうして、大きく距離が開いたのを見るや、オルバルトは左右の腕を自分の両袖に突っ込み、引き抜く。――抜いた指の間に、黒く丸い塊がそれぞれ四つずつ。

「兵糧丸!?」

「に、見えるじゃろ? けど、これ食ったらやべえことになっちまうんじゃぜ。――なんせ、砕いた火の魔石がぎっしり詰まっとるからよ」

スバルの悲鳴を聞いて、オルバルトが嗤いながら両腕を大きく振った。

彼の言葉を信じるなら、その黒い玉の正体は爆弾だ。それが衝撃に弾かれ、大きな隙を見せたヨルナへと――否、そうではなかった。

「前回の反乱、やり合った連中が連中じゃろ? あいつらじゃと、こういうことはせんかったじゃろうから新鮮じゃぜ?」

そう頬を歪め、オルバルトは爆弾を屋根の上から広々とした空へと投じた。

特に狙いを付けているとも思えない投げ方だが、それで間違いない。――オルバルトにとって、爆弾はただ人がいるところに落ちればいいのだ。

それだけで――、

「聞いた話じゃと、お前さんとこの街の連中はずいぶん頑丈らしいが……それ、うちの里の連中より頑丈だったりすんのかよぅ」

「――下郎っ!」

爆弾のサイズは小さいが、秘められた威力は全くわからない。

それに、ヨルナの『魂婚術』が街のどれぐらいの人にかかっているのかも。つまり、あの爆弾を放置するのはあまりにも無謀だ。

ヨルナも、瞬時に同じ判断を下した。故に――、

「は、あああぁぁぁ!!」

屋根を砕くほど強く足を踏みしめ、ヨルナが大きく腕を振りかぶった。その腕に握られているのは、オルバルトへの攻撃にも使われた煙管だ。

その煙管を握る腕が振り切られ、同時、煙管の先端から溢れる煙も同じ軌跡をなぞり、質量を伴った紫煙がまるで横薙ぎの斬撃のようにカオスフレームの空を一閃する。

――その質量を伴った紫煙が、バラバラに撒かれた爆弾をことごとく捉えた。

直後、凄まじい爆発音が連鎖し、轟音と衝撃波が城の空を染め上げる。爆発の一個はスバルたちの傍で起こって、目が眩み、立っていられなくなった。

「か――」

爆発が起きるとき、耳を塞いで口を開けろとテレビか本で見た気がする。

その両方を怠った結果、スバルの体は大きなダメージを受けた。頭が揺れて、視界が真っ赤に染まる。それぐらい、オルバルトの爆弾は規格外のものだった。

あれを何個も持ち歩いているなんて、オルバルトはどうかしている。

容赦なく、街中にばらまこうとしたことも、明らかに――。

「うあう!」

叫び声がして、スバルの肩が小さな手に揺すられた。

見れば、真っ赤で不明瞭な視界に映り込んでいたのは、血相を変えているルイだ。わなわなと口を震わせ、ルイの青い瞳に涙が溜まっていく。

それを目の当たりにしながら、スバルは「大丈夫」と答えようとして、

「――ぁ」

――赤い視界の端、ヨルナの背後にオルバルトが出現したのを捉えた。

「――――」

投げられた爆弾の対処に追われ、ヨルナは煙管を振り切った姿勢だ。そのすぐ後ろに現れたオルバルトが、腕を引いて手刀を放とうとしている。

狙いはヨルナの背中の真ん中、漫画なら一発で心臓ごと貫くような位置だ。

本当に漫画みたいなことが起こるかはわからない。でも、ヨルナもオルバルトも、漫画みたいな力を持った超人たちなのは、ここまでの戦いで十分見た。

このままだと、ヨルナが死ぬ。だから――、

「ルイ――!」

肩に乗ったルイの手を掴んで、スバルがヨルナたちの方を指差す。

十分、城に入る前に言い聞かせておいた手順、それが実行されて、ルイは大きな丸い目を見開き――次の瞬間、スバルの視界が閃いて、転移が起こった。

そして――、

「あ」

一息入れる間もなく、スバルは呆けた声を漏らした。

理由は単純で、真っ赤にぼやけた視界すらも、突然のぬるい感触に奪われたからだ。それが、いきなり顔に浴びせられた何かの液体が理由だと感覚でわかった。

その感覚を腕で拭おうとして、違和感に気付く。

握ったルイの腕が、あまりにも軽くて。

「なんじゃ、今の? お前さんら、向こうでへたれとったはずじゃろ」

オルバルトの不思議がる声がして、スバルは唖然とした顔を上げた。その視界、首を傾げた怪老の姿があり、彼はぶんぶんと手を振っているところだった。

赤い視界の中で、それよりもなお赤い腕を、ぶんぶんと。

「ルイ……?」

それを見ながら、スバルはルイの名前を呼び、掴んだ手を強く握る。

今すぐ、この場を離れなくちゃいけないと思った。二回、あるいはもっと多く飛ぶことになるかもしれない。たぶん、吐くことになるが、それは我慢だ。

我慢するから、今すぐ、ここから離れないと。

だから――、

「ルイ! 早くしないと……」

「いや、無茶言ったら可哀想じゃって。もう首から上がねえんじゃぜ?」

「――ぇ?」

あっけらかんとした言葉をかけられ、スバルは意味を理解できない。

小さくなって、脳が幼くなって、それのせいでわからないのかもしれない。わからないことを言われて、小さな脳が理解するのを嫌がって、それで。

それで、首から上がないなんて、言われても。

「よくも……やってくれたでありんすなぁ!!」

直後、怒りの声と共に、スバルの頭の上を何かが突き抜け、それを躱すためにオルバルトが大きく横へ跳ねた。直前までオルバルトのいた場所を、一直線に突き抜ける衝撃が走り、直ったばかりの天守閣がまたしても壊れる。

でも、オルバルトはそんなすごい威力の一撃を気にも留めず、

「おお、怖ぇ怖ぇ。じゃが、感謝すべきじゃろ、狐娘」

「なんでありんすと!?」

「その坊主と娘っ子が入ってこんかったら、死んどったのはお前さんじゃぜ? ま、この調子じゃとただの時間の問題なんじゃが」

「――――」

立てた指を振って、オルバルトが気安い調子でそう続ける。

息を詰めたヨルナ、彼女の注意が怪老を外れ、スバルの方を向いた感覚。しかし、スバルはその場にへたり込み、軽いルイの腕を引き寄せるのが精一杯だ。

「る、い……」

視界が赤くて、ルイの姿がちゃんと見えない。

これがスバルの目の異常なのか、それともルイの姿形が真っ赤になってしまっているせいなのか、その区別もつかなかった。

ただ、言えることは一つ。――ルイは、死んでしまった。

スバルが彼女をどうするか、どうしたらいいのか、何の答えも出していないのに。

スバルの言う通りに行動して、その結果、死んでしまった。

スバルが、死なせてしまった。

「童! 童、わっちを見るでありんす!」

ぐいっと、そうして俯いたスバルの顔が、両の頬を手で挟まれて持ち上げられる。

正面、赤い視界に綺麗な女の人の顔があった。それが一目でヨルナだとわからなかったのは、そこにあったヨルナの表情が悲痛なものだったからだ。

昨日、スバルたちや偽皇帝たちに見せた自信満々な顔とも違う。

今日、スバルたちを丁重に扱おうとした優しげな顔とも違う。

今、ヨルナの瞳は揺れて、スバルを苦しげに見つめている。

その理由が、目の前のヨルナの瞳の反射でようやくわかった。

「――ぁ」

膝をついたスバル、その顔はひどい有様だった。

左目の眼球が真っ赤に破裂し、右目の眼球は眼窩からこぼれ、糸を引いていた。爆発の衝撃をちっとも消せなかったせいで、目玉が押し出されたのだ。

まるで、出来の悪いゾンビ映画の特撮みたいで、ちょっとおかしい。

「ひふ」

自分の状況がわかって、吐息をこぼしたスバルの左目だけの視界が揺れる。でも、倒れるのをヨルナの手は許してくれない。

ヨルナは唇を震わせて、「童……っ」とスバルの顔を見つめると、

「――わっちを愛しなんし。今すぐに」

そう、真っ直ぐな瞳で無茶なことを言ってきた。

愛せと、それも今すぐにと、とても無茶なことだ。そもそも、具体的にどうすればいいのかわからないし、人を愛するなんて簡単なことじゃない。

ヨルナは、いい人だと思うし、美人だけど、でも。

「童! わっちを愛すれば、その傷も……」

「かかかっか! おいおい、とんでもねえ話しよる娘っ子じゃぜ、ホント。とんと知らねえんじゃが、愛って簡単に芽生えるもんじゃなくね?」

「黙りなんし!」

後ろから茶々を入れてくるオルバルトを怒鳴り、ヨルナの瞳が深い色を帯びる。

それを間近に見ながら、スバルは掠れた呼吸を繰り返し、ゆっくりとやってくる痛みの波を受け入れる準備を始めていた。

目玉の一個が弾けて、一個が飛び出しても、死ぬほどのケガじゃない。

ルイと違って、首から上もある。だから、このあと、死ぬほど痛いことが起きる。きっと喚いて叫んで、ヨルナにとても迷惑をかける。

これ以上、誰かに迷惑は――、

「童」

一言呼ばれ、スバルの意識がちらと持ち上がる。

その、一瞬の隙を突くみたいに、ヨルナの真剣な顔が近付いてきて。

「――――」

ヨルナの唇が、スバルの唇と重なった。

柔らかい感触が顔に当たり、その息遣いをすぐ間近に感じる。キスされたのだと、それがわかるのに時間がかかった。

小さいからもそうだし、そもそも経験が少ない。乏しい記憶はかなり遠くにあって、それはそれは感動したものだと思ったけれど、これは――。

「わっちの唇は安くありんせん。これで……」

口付けが終わり、顔を離したヨルナの言葉が縋るように途切れる。だが、その先に続くはずだった言葉が何なのか、ぼんやりとスバルにもわかった。

彼女は、こう言いたかったのだ。――これで、自分を愛せるかと。

スバルがヨルナを愛したら、状況が変わる。

きっとそれが、ヨルナの力の源というか、その強さの原因みたいなもので。

だけど――、

「好きな子が、いるから……」

真っ赤な視界の向こう側、遠い場所にいる好きな女の子の顔が浮かんだ。

微笑んだその子を見ると、胸が高鳴る。だから、スバルはヨルナを愛せない。

愛せないから、それを聞いたヨルナの顔が、とても辛そうに強張ったのが辛かった。

「――ま、男と女のことはそううまくは回らんわな」

刹那、ガッカリしたような声と共に、スバルの視界が切り替わった。

「――――」

すぐ目の前にあったヨルナの顔が消えて、見えるのは赤く染まる空だ。

ルイの転移と同じように、急速に切り替わる視界――否、ルイのそれとは違った。

ルイの転移なら、もっと鮮やかに一瞬で世界は違うものを映し出す。

でも、今のスバルに起こったことは、もっと大雑把で、雑なものだ。くるくると視界は回っていて、転移みたいに途切れず、見えるものはちゃんと地続きで。

すぐ下に、跪いたヨルナと、ヨルナの前に立っているオルバルトの姿があった。そのヨルナの隣には倒れている女の子の体があって、それがたぶん、ルイだ。

それともう一つ、ヨルナとオルバルトの間に、何かが、誰かが、立っていて。

それは――、

「――ぁ」

――それは、首から上がなくなった子どもの、幼いスバルの体だった。

「やれやれ、子ども殺すのは精神的にしんどいもんじゃぜ。まぁ、体力的には楽なんじゃけどよ?」

「翁――ッ!!」

血を吐くような叫びと共に、ヨルナの体がオルバルトに突っ込む。それをオルバルトが正面から捌き、二人の体が激突、紅瑠璃城が激しく揺れる。

揺れ、ひび割れ、砕かれ、またしても破壊が広がり、広がり、どうなったか。

そこから先は、スバルにはわからない。

もう、何も、わからない。わからないまま、スバルの頭は屋根の上を弾んで――、

はずんで――。

△▼△▼△▼△

――暗い、暗い空間に引きずり込まれる。

「――――」

何もない、浮かんでいる、手足もない、理解不能の、空も地面もなく、揺蕩っていて、揺れることも、抗うことも、味わうことも、慄くこともない、空間。

幾度も見知ったような、初めて目にするような、

ゆっくりと遠ざかっていくような、果てしなく近付いてくるような。

常闇とさえ思える、そんな漆黒が支配している空間に、響いている。

響いている、すすり泣きが、誰かの泣き声が、存在しない胸を打つ、声が。

『愛してる』

それは、愛の言葉だった。

愛情を訴え、愛情を乞い、愛情をねだり、愛情を譲り、愛情を愛情する声だった。

『愛してる。愛してる。愛してる』

重ねられる愛情、それは本来、色んな感情が込められるはずの言葉。

嬉しいとか、怒ってるとか、悲しいとか、喜んでるとか、そういう、感情の渦。

なのに、ここを、この常闇を埋め尽くさんばかりの愛情は、たった一個だけ。

『愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる――』

その感情の全部に、渦巻く愛情の全部に、『悲しい』だけが詰め込まれている。

悲しみが、悲しいが、悲しさが、悲しく悲しんで、愛情をすすり泣かせている。

すすり泣きが、やまない。

聞いているだけで、死んでしまいたくなるすすり泣きが、やまない。

愛情を悲しみ、愛情は悲しい、愛情が悲しさ、愛情こそ悲しく悲しんで。

すすり泣きながら、愛情する愛情が、悲しみを悲しんで、最後に結ばれる。

『――どこにいるの?』

△▼△▼△▼△

「聞いた話じゃと、お前さんとこの街の連中はずいぶん頑丈らしいが……それ、うちの里の連中より頑丈だったりすんのかよぅ」

「――下郎っ!」

くるくると、回る赤い視界が一転し、鼓膜を打ったのは切迫した声だった。

片方は老人、もう片方は女性――それぞれ、オルバルトとヨルナだとわかる。

わかって、わかったのはそこまでだ。

「え……」

「は、あああぁぁぁ!!」

唖然とした声を漏らした直後、ドンと重々しい音がして、ヨルナの足がお城の屋根を強く踏み砕く。同時に振りかぶられたのは、その手に持った金色の煙管だ。

大きく、横一閃に弧を描いて薙ぎ払われる煙管の一撃、それが凄まじい速度と破壊力を伴って、紫煙をカオスフレームの空に大きく広げる。

それが何のために行われ、何が起こるのかをスバルは知っていた。

知っていたが、知っている知識が現実に追いつく前に、それが起こる。

――ヨルナの紫煙に打たれた爆弾が爆発し、衝撃波が周囲を呑み込んだのだ。

「か――」

ほんの一分前と同じ衝撃を全身に浴びて、スバルの視界が真っ赤に染まる。

小さく何かが割れるような音が聞こえた気がして、赤くなった視界とそれがすぐに繋がった。音を立てて、目玉が破れたのだ。それで、視界が赤くなった。

なら、もう片方の、半分の視界が暗くなったのは――、

「あ、ぎ、ぎゃあああああ――ッ!!」

両手で顔を覆って、スバルは痛みと『理解』の二つに殴られて絶叫する。

『理解』してしまった。自分の目玉が片方は破れ、片方は飛び出したことを。脳が理解を嫌がっている間は、その痛みを無視することもできた。

でも、最初から何が起きたのかわかっていたら、その痛みは無視できない。

「ああが! あぎ、ぎぎぎあああ!!」

「うあう! うあうう!」

その場に背中からひっくり返り、泣き叫んだスバルに小さな体が取りつく。

名前を呼ばれている。わからない。耳もキンとしているし、自分の声がうるさい。痛みが、ドクドクと血の流れる音が聞こえる。それが体の中と外、どっちに流れている血なのかもわからない。痛い、とにかく痛い。痛い痛い痛い痛い、痛い。

誰か、助けて。痛いのはやだ。痛いのは嫌だ。痛いのは、嫌だ。

痛い、痛くて、痛くて痛い痛いから痛くて痛い痛い痛い痛い痛い――。

「わら――」

「おいおい、そりゃ悪手じゃぜ」

「――ッ」

痛みが、頭の中をぐるぐると回って、赤い視界がギラギラと光っている。

すぐ傍で、転げ回ろうとするスバルを押さえつける手があって、それが邪魔だった。もっと大きく声を出して、もっと暴れ回って、痛みを体の外に逃がしたい。

違う、痛いのは顔だ。目と耳だ。だから、もっと別のところが痛かったら、この痛いのがもっと別の場所にいってくれたら。

「うあう! あうあーっ」

ガンガンと、地面に頭をぶつける。強い力に引き起こされる。後ろから羽交い絞めにされて、身動きができない。痛い、痛いのは怖い。嫌だ怖い死んじゃう。

「ぐ……っ」

「かーっ、本気かよ、狐娘。今ので死なねえって、どんな体しとんじゃ。まさか、セシルスが首斬れんかったって言っとったのもそれかよ」

「……子どもを手にかける匹夫に、乙女の秘密を明かすはずもありんせん」

遠くで、誰かが言い争っている。それも、自分の声と、自分を引き止めようとする声とに挟まれて、何も聞こえない。わからない。痛いのが、全部悪い。

そう、全部悪い。赤いのと痛いのと、それが全部悪い。全部、それのせいだ。

「それのせいだ……! それの、それが、それが悪いんだぁ! 俺じゃない! 俺じゃないのに、う、ぎいいいっ!」

「うーっ!!」

ジタバタともがいて、スバルは全部を余所に押し付けようとする。押し付けて、これから逃げられたら、逃げられたらどうするか。

そんなの、逃げてから考える。逃げてから考えるから、だから。

「ぴいぴいと、子どもの泣き声は聞くに堪えんのじゃぜ。――うっせぇわ」

「待ちなんし――!」

必死な女の人の声と、投げやりなしゃがれ声。

それが聞こえたあと、何かが掠れた音を立てながら近付いてくる。頭の後ろの方から、羽交い絞めしている誰かが、ぎゅっとスバルを抱きしめた。

でも、抱きしめて、それでどうにもならない。

だって、また真っ赤で熱い光が膨れ上がって、スバルたちを呑み込んだから。

呑み込んで、痛いのが消えて、それで――。

「聞いた話じゃと、お前さんとこの街の連中はずいぶん頑丈らしいが……それ、うちの里の連中より頑丈だったりすんのかよぅ」

「――下郎っ!」

瞬間、さっき聞こえたばかりの声が、また聞こえて意識が白くなる。

「え……?」

何もかもが唐突に、ぶつっと途切れた直後に再生が始まった。

真っ赤だった視界に他の色が戻って、聞こえなかった耳に風の音を感じて、すぐ傍らに柔らかい少女の体温を感じて、そして――、

「は、あああぁぁぁ!!」

勇ましい女の人の声が高らかに上がって、刹那、凄まじい勢いで腕が振られる。

その、振られた腕の軌跡が描き出す結果は、もう知っている通りだ。

――鳴り響く連続した爆音と、視界を赤く染める衝撃。

「ぎ、ああああ――ッ!!」

顔を覆い、破裂した目玉と、飛び出した目玉の痛みを味わいながら、のけ反ったスバルが背中から屋根の上に倒れ込み、悲鳴を上げる。

「うあう! うああう!」

その倒れた体に、泣きそうな誰かの声が飛びついてくる。

それを感じながら、キンとした音が張り詰める世界を聞きながら、痛みと苦しみを嘆きながら、スバルの頭は涙と怖さと、「どうして」に塗り潰される。

たぶん、死んだ。死んだのだ。

死んでるのはわかる。とても痛くて辛くて、それから遠ざけられて。でも、またすぐにこの場所に戻ってきて、それで死んで、だけど、痛くて、爆発が赤い。

それがわかっていながら、スバルは、「どうして」と頭の中で繰り返した。

――これは、違う。

漠然と、その感覚が頭の中に鳴り響いて、痛みと赤さで押しやられそうになる。でも、これは手放しちゃいけない、絶対の感覚だ。

目玉が破裂して、目玉が飛び出して、鼓膜が破れて、痛くて泣きそうで、このあとまたすぐにひどい死に方をすると、いっそそうして痛みから遠ざけてほしいと、涙と鼻水と涎と、小便を垂れ流しながら、必死の頭で、これを思う。

「おえは、ちが……っ」

「うあう! あう、うー!」

「ひが……おれ、のじゃなひ……っ」

違う。

違う違う違う。

違う違う違う違う違う。

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う――。

「ほえは……ッ」

頭の中を、痛みが埋め尽くす前に、絶対に忘れてはいけないことを、思う。

繰り返し繰り返し、この赤と痛みの世界に、スバルを放り込むこれは、これは――、

「ちがう……っ!」

――ナツキ・スバルの『死に戻り』じゃない、別の何かだと。