軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第六章60 『ひとつ分の陽だまり』

――『記憶の回廊』と『ルイ・アルネブ』。

「――――」

そう、こちらの問いかけに答えた金髪の少女、ルイの前でスバルは沈黙する。

予想と違った白い空間で、予想もしていなかった少女との邂逅。そして、その少女はあろうことか、訳知り顔で色々と話してくれる雰囲気だが――、

「……そもそも、魔女教とか『暴食』とか、タイザイシキョーってなんじゃらほい」

「あはァっ」

腕を組み、首を傾げたスバルの言葉にルイが口に手を当てて破顔する。

その瞬間だけを切り取れば、幻想的な白亜の光景の中に佇む少女といった名画の一枚になりそうなロケーションだが、スバルの本能は先ほどからうるさく鳴りっ放しだ。

平穏な現代日本で育った結果、あまり役に立たない可能性の高いスバルの生存本能。それがこうまで騒ぐのだから、この少女の異質な存在感は言うまでもない。

それと、これは想定外の事態に見舞われた結果なので、半ば仕方ないことではあるのだが――この訳知り顔の存在に対して、スバルの有する知識がまるで足らない。

今の、魔女教だの大罪司教だの、何ならオドなんちゃらや記憶の回廊にしてもそうだ。もしかすると、こちらの世界では一般的な知識なのかもしれないが、生憎とスバルにはそうした一般常識の持ち合わせがない。

よって、発展的な質問を投げかけることも難しく――、

「――魔女教ってのはサ、早い話、この世界の嫌われ者の集まりだよ」

「お?」

「さすがのお兄さんも、『嫉妬の魔女』って名前ぐらいは聞いたんじゃないの? 魔女教ってのは、その魔女様と縁が深くて……まァ、信者みたいなもんだと思えばいいよ」

「……じゃあ、さっきのは、大罪司教ってことか」

大罪と司教、なかなか組み合わせとして相反するものの雰囲気が強いが、スバルのセンス的にはわりとしっくりくるネーミングだ。

なにせ、それと聞けば一発で、

「悪党の名前だってわかる」

「やだな、やだね、やだよ、やだから、やだってば、やだってのにさァ」

嫌々と首を横に振りつつ、ルイがスバルの視線に自分の細い体を抱く。ただし、その口元から笑みが消える様子はなく、拒んでいるのも形だけ。

本心の見えない少女だ。――否、あやふやで、掴み所がないというべきか。

「そんな言葉で、いたいけな女の子をイジメないでよ、お兄さん。私たちだって傷付くんだよ? 人一倍、繊細で傷付きやすい心の持ち主なんだからサ」

「説得力がねぇよ。それと、その一人称はキャラ付けのつもりか? それとも、一人軍隊みたいなカッコいいアピールかよ。私たちだのあたしたちだの、安定しねぇけど」

「あァ……気にしなくていいよ。ちょっと、自我が多すぎるもんで、どれが主体になるかふわふわしてるだけなんだ。もう、わりと飽き飽きしてるんだけどサ」

言いながら、ルイは軽く視線を下に向け、「でも」と言葉を継ぐと、

「仕方ないよね。お兄ちゃんと兄様からの贈り物なんだし、ちゃんともらってあげなきゃ妹として失格だ。兄妹なんだから助け合わないとサ」

「……そりゃ、兄想いで可愛い妹だな。俺は一人っ子だから羨ましいよ」

「そうかい? 今頃、お兄さんにも弟か妹ができてるかもしれないじゃん?」

「怖いこと言わないでくれる!? 想像したくねぇよ!?」

とはいえ、両親は仲のいい夫婦なので、そんなこともわりと冗談でもない。

あの父母ならば、スバルがいなくなったことで次の子どもを――否、ありえない。

「――――」

スバルがいなくなれば、見つかるまで捜し続けるのがスバルの両親だ。

出ていくときに挨拶も言わなかった息子のことを、母はどう思っただろうか。父はその話を聞いて、どう感じただろうか。

どうか、スバルの異世界召喚が、転生であってくれたならと思う。

いなくなった息子を捜し続ける苦痛を両親に味わわせるぐらいなら、スバルは死んで異世界へきたのだと言ってほしい。その方がずっと楽だ。ずっと、救いがある。

だから――、

「――わかるよ、お兄さん」

「――ッ! ふざけるな!」

床を埋める髪を両手で抱えて、スバルを下から覗き込んでくるルイに激昂する。

今の不安を、口に出していたわけではない。ただ、暗い表情を見て、スバルの心情をわかったように言われただけだ。

それがひどく腹立たしくて、スバルはルイを怒鳴りつけ、背中を向けた。

「お前に俺のことがわかるかよ! 勝手なことばっか言いやが……」

「――父さんと、お母さんに申し訳ないんでしょ? お別れの一つも言えないで、なんて親不孝な息子なんだって後悔してる。ううん、後悔はずっとしてた。今も昔も、ね?」

「――――」

そう、わかった風な、理解者気取りの発言を続けながら、ルイがスバルの背中にそっと抱き着いてくる。

小さな、軽い体。スバルは息を詰め、身を硬くした。

少女に寄り添われたことに、ではない。少女の言葉の内容、そのものに。

その理解者気取りの発言は、しかし間違いなく、スバルの心の一端を言い当てていた。

「どうしてわかるのかって? わかるに決まってるじゃない。だって、あたしたちや私たちほど、お兄さんのことわかってる人間なんて一人もいないんだから」

「――触るな!」

「あん」

腕を振り払い、息を荒らげて距離を取るスバルにルイが唇を尖らせる。

なんなのだ、いったい。この世界の得体の知れない女性は、男に対してスキンシップを取ることに躊躇がないのか。馴れ馴れしすぎる。

ともすれば、その体温に弱った心を委ねてしまいそうになるのが怖い。

「お前は、なんなんだよ! 何が言いたいんだ!」

「あたしたちはただ、お兄さんに安心してほしいだけだってば。大丈夫、大丈夫。ちゃァんと、父さんとお母さんへの想いには区切りはついたよ。一方的かもしれなくても、向き合ったつもりでいる。心はすっきりしたって。表向きはね」

「――――」

嗤いながら、ルイが自分の左腕に右手の爪を立てる。がりがりと、見ていて痛々しくなるぐらいの勢いで、彼女はその細く白い腕を傷付け始めた。

その行いに眉を顰めるスバルに、ルイはやけに赤く、長い舌を見せて、

「表向きは、全然健康。心になァんにも抱えてないみたいに見える。上手だね、お兄さん。上手なのが悲しいね、お兄さん」

ひどく、胸の内を掻き毟られるような発言にスバルは唇を曲げた。

これ以上、付き合うべきではないと、鳴り方に変化を付ける本能の警鐘に従う。

「何が、言いたいのかよくわからねぇよ。よくわからねぇけど、傷になるからやめろ。それで、会話のキャッチボールだ。豪速球はなし。山なりのボールを心掛けよう」

「お互いに?」

「お互いに。そう、例えば……さっきの、大罪司教の話の続きをしよう」

これ以上、ルイの調子に乗せられたくなくて、スバルは話題を一つ前に戻した。

タイザイシキョーが大罪司教とわかれば、大罪と『暴食』という単語の関連性には心当たりがある。

「お前が『暴食』なら、似たようなのがあと六人いるんじゃないか?」

「お兄ちゃんと兄様まで含めたら、ちょうど六人かな? ああ、でも、最近二人減ったから今は四人かも。あの二人も、さっさと死ねばいいのにね」

「……その調子だと、仲間意識は低そうだな」

「当たり前じゃん。大罪司教なんて名乗ってるけど、私たちなんてどうせ世界の嫌われ者の集まりなんだし。呼び方が違うだけで、『魔女』と一緒だもん」

そう言って、ルイはその場にぺたんと膝をつく。そうすると、長い金糸の髪の中に自らが沈むような状態になって、何ともおかしな雰囲気だ。

スバルは頭を掻くと、彼女の髪を踏まない位置で腰を下ろし、「魔女?」と首を傾げた。

「魔女と一緒ってのは、やたらとおっかないって言われてるらしい魔女と?」

「さすがに、『嫉妬の魔女』はあたしたちより性質が悪いから一緒にされたくないけどサ。他は一緒。『魔女』も大罪司教も、呼び方が違うだけで同じものだよ。魔女因子に適合したろくでなしが、時代と立場で違う呼ばれ方してるだけだから」

「――――」

「まァ、今のお兄さんは『魔女』も大罪司教も、私たちのことも忘れてるわけだし、どっちでもいいのかもしれないけどサ。わかる、わかるよ、わかるさ、わかるから、わかってるけど、わかってるからこそ、わかっていたいからこそ……」

「うるせぇ」

「あん」

グダグダと、言葉が波のように襲ってくるのをせき止めて、スバルは顎に手を当てる。

何となくだが、重要な話を聞かされている気もする。スバルには一つもピンとこない話ではあるが、何の収穫もなしにエミリアたちの下へ戻る羽目にはならずに済みそうだ。

だが、スバルがここで考え込むのは、そうした手柄の有無が理由ではない。

スバルがここで考え込むのは、ここまでのルイの受け答えへの、もはや避けようのない違和感――否、既知感というべき感覚だった。

その理由として、思い当たることがあるとすれば――、

「お前って、もしかして神様系?」

「神様系って……あ、これかな? なんか、異世界転生みたいな? よくわかんないけど、あたしたちとそれは関係ないよ。確かに、変な気分になる場所かもしれないけど」

くすくすと嗤い、ルイは自分の金髪を尻に敷いたまま、その場でくるりと身を回し、何もない白い世界をふわりとなびく髪で示した。

「ここは、見ての通りの場所。なァんにもなくなる場所で、だから何もない場所。そんな場所に一人でぽつんといるから、ここの守り神みたいに見えるよね」

「オド・ラグナの揺り籠、だっけ? 記憶の回廊って名称も含めて、頭からケツまで何一つ俺の頭じゃわからないけど」

「ん、ん、ん、んー、そうだね。……早い話、ここは魂が濾される場所だよ」

「魂を、濾す?」

聞き慣れない表現に、スバルは疑問符を頭に浮かべる。

濾す、つまりはろ過するといったことと同じ意味合いだが、それを魂に対して用いることはあまり聞かない。

ただ、ルイは「そうそう」と嬉しげに自分の膝を引き寄せて、

「一度使った雑巾は、洗って干したらまた使うでしょ? 魂もおんなじなんだよ。こびりついた汚れを落として、また綺麗な状態で再利用する」

「その、こびりついた汚れってのは……記憶とか、経験って意味か?」

「その方がわかりやすいなら、それでいいんじゃない? お兄さんの好きにしなよ」

べー、と舌を出したルイに頬を歪め、スバルはぐるりと周囲に首を巡らせる。

相変わらず、白い空間――記憶の回廊には、何かしら目新しいものは存在しない。果てのない白い世界の中、ルイが語ったようなわかりやすい物証も皆無だ。

ここが、仮にルイの言った通りの場所だとしたら、人魂が浮いていたり、あるいはろ過された記憶や経験が何らかの形で可視化されていてもいいのではないか。

「そんなわかりやすいもんでもないのサ」

「そのオド・ラグナって神様はずいぶんと意地悪なんだな」

「神様なんて大層な代物じゃないよ、あんなもの。あれには、そんなご立派な思想とかってものはないんだもん。ただの仕組みサ。世界を壊されないための仕組みだよ」

「仕組み……」

「魔女因子も、加護も、『剣聖』も、『魔女』も、全部眼中にないのサ。オド・ラグナにいいところがあるなら、平等で公平で贔屓目なしの無関心ってだけ」

つまらなそうに目を細め、ルイは引き寄せた膝の間に自分の顔を挟む。白い膝小僧で頬を歪めている彼女を横目に、スバルは小さく息を吐いた。

ここまで、ずいぶんと素直に話をしてくれる少女だ。たぶん、嘘らしい嘘もついていないと考えられる。だからこそ、スバルは息を吐いた。

吐いて、吸って、もう一度吐いて、それから、彼女を見る。

そして、問いかけた。

「――俺の、昨日までの記憶を奪ったのは、お前か?」

「そうだよ?」

下手人は呆気なく、スバルの問いかけに答えた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――――」

問いかけをあっさりと肯定され、スバルは目をつむった。

否定は、あまりされない気がしていた。そういうことをする手合いではないと、ほんのわずかな時間の掛け合いで、察せられた気がしていたのだ。

ルイは、知りすぎていた。彼女は深く、スバルの心情を知りすぎていた。

それこそ、今のナツキ・スバルでは知り得ないことまで含めて、ルイ・アルネブは『ナツキ・スバル』について熟知していた。

それは類稀なる観察眼なんて言葉で誤魔化せる範疇ではなく、だからこそスバルは真っ正直に問い質し、その肯定を得た。

不思議と、胸に湧き上がってくるのは怒りではなく、納得だ。

つまり――、

「――昨日の俺も、やっぱりここにきたってことか」

「厳密には、ちょっと来方が違ったけどね。でもまァ、目的は同じだった。結果がほんのりと違っただけ。でも、すごいね。素敵だね。何回で、ここまでこられたの?」

「――――」

「ねえ、答えてよ、お兄さん。私たちは答えてあげたじゃん。――お兄さんは、あたしたちに食べられてから、何回目のお兄さんなの?」

ぞわりと、そのルイの質問にスバルの背筋を悪寒が駆け上がった。

彼女の瞳は、問いかけは、明らかに『死に戻り』の確信を知るものの在り方だ。

いや、当然だ。当然なのだ。

彼女が『ナツキ・スバル』の記憶を奪ったのなら、その記憶を自由に閲覧できるのだとしたら、彼女が『死に戻り』を知っていることには何の不思議もない。

『死に戻り』は、記憶をなくしたスバルだけが有している力ではなく、間違いなく記憶をなくす前から『ナツキ・スバル』が持っていた力だろう。

きっと、『ナツキ・スバル』はこの力を駆使して、多くの難局を乗り切ってきた。その結果がエミリアやベアトリス、仲間たちの信頼、言わばチート=ズルの証だ。

それを咎めるつもりはスバルにはない。チートだろうと反則技だろうと、誰かの命が懸かった場面であれば利用するに躊躇うべきではない。『ナツキ・スバル』の選択は正しい。だから、『ナツキ・スバル』がいない今、スバルがそれをするのだ。

そうして、利用価値を認め、呑み込んだ『死に戻り』の力。

しかし、その覚悟と裏腹に、スバルには奇妙な不安が、懸念が、胸の内にあった。

その避け難い恐怖を、タブーを、ルイ・アルネブは侵している。

それは――、

「――知られちゃダメってこと? そのことなら、もう遅いよ、お兄さん。だって、私たちがお兄さんと会ったのって、もう昨日のことなんでしょ?」

「――――」

「知られちゃダメの『ルール』なら、とっくの昔に破ってる。でも、記憶の回廊の出来事は簡単には外に漏れない。だから、怖い怖い『魔女』が動かないの」

すっと、地面に手足をついたまま、ルイが胡坐を掻くスバルに顔を寄せる。彼女は年齢不相応な妖艶な笑みを浮かべ、ちろちろと赤い舌を覗かせながら、

「ねえ、お兄さん。何回目?」

その、直接脳髄を舌でつつかれるような声音に、スバルは痺れる疼痛を味わう。

それから、微かに舌と喉を震わせると、

「……五回目、だ」

「――っ! すごい、すごいね、すごいよ、すごいわ、すごいじゃない、すごいんだってば、すごいからこそ、すごいって憧れるからこそ……暴飲ッ! 暴食ッ!」

「ぐぁっ!」

「お腹がはち切れるくらい、お兄さんのことがたまらなく味わいたいわ! あたしたちの経験からすると、食欲と性欲って似てると思うの。性欲って、つまり愛でしょ? つまり私たちは、お兄さんのことを――」

スバルを突き飛ばし、馬乗りになったルイが興奮した顔で熱い息を吐きかけてくる。上気した頬、うっとりとした瞳で、ルイは躊躇わずスバルの首に舌を這わせた。

そのまま、彼女が続けようとした言葉、それが如何なるものか想像がついて――、

『――愛してる』。

と、前回のループで、絶望的な状況下で『死』を望んだスバルに、幾度も投げかけられた愛の言葉が思い出され、心臓が爆ぜた。

「――さ、わるな、この耳年増がっ!」

「――うひ」

目を見開いて、スバルは圧し掛かる少女の襟首を掴むと、そのまま乱暴に白い床へと強引に押し付けた。体勢を入れ替え、今度はスバルが彼女に馬乗りになる。

細い、軽い体だ。床に広がる長い金髪、まるで金色のベッドに寝そべる彼女を押し倒したような姿勢で、スバルはその首を手で押さえ、歯を剥いた。

「油断、したのか? 残念だったな! この体勢なら、俺の方が圧倒的に有利だ! このまま首を絞められたくなかったら、俺の記憶を……」

「返せって? 返さなかったら首を絞めるの? 私たちの、か弱い女の子の首を?」

首を掴まれ、生殺与奪の権利を握られた状態で、ルイは鼻息の荒いスバルを見つめ、先ほどの興奮がちっとも薄れない目のまま唇を緩めた。

そして、緩めた唇から、呪いのような声色で問いかけてくる。

「そんなこと、お兄さんにできちゃうわけ?」

「――できないと、思うのか?」

「思うっていうか、知ってるんだよね。だってほら、今のあたしたちって、お兄さんよりお兄さんのこと知ってるぐらいだし」

言いながら、ルイは両手の人差し指で自分の頬をつついて、挑発するように小首を傾げる。そんな彼女の態度に息を詰め、スバルはルイの首を掴む右手を見下ろした。

少し、スバルの本気を見せてやるために、腕に力を込めてやればいい。

本気であることを証明すれば、ルイも考えを改めるはずだ。

殺せるか、と言われれば、確かにそれは難しい。困難だ。

介錯と、そんな大義名分があっても、スバルは仲間の頭に石を振り下ろせなかった。

だから敵とわかっていても、目の前の、少女の首を、強く絞めることは。

いや、絞めるぐらいはできる。必要なことだ。

エミリアを、ベアトリスを、ラムを、メィリィを、ユリウスを、エキドナを、シャウラを、パトラッシュを、みんなのことを思い浮かべて、そして。

そして――、

「――腕から、力が抜けちゃったね、お兄さん」

「――――」

「ホントに抵抗するつもりはなかったんだよ? だって、ここじゃ私たちって見たままか弱い女の子でしかないから。お兄ちゃんや兄様と違って、あたしたちは食べた人の姿にならないと、力が出せないんだよね」

えい、とルイが自分の頬をつついていた指で、首を掴んでいたスバルの右手をつつく。その弱々しい力で、スバルの掌は呆気なく彼女の首を外れた。

「クソ……っ!」

「そう落ち込まないでよ、お兄さん。上出来だよ、上出来。だって正直……私たちは、お兄さんがここに戻ってこれるなんて思ってなかったぐらいだもん」

「そんなこと、慰めになると思ってんのか?」

押し倒した体勢は継続したまま、地面に寝そべるルイはすでに峠は越した顔だ。その顔を崩して、自分の要求を通すための言葉を捜すが、的確なものが見つからない。

だから結局、負け惜しみのような発言になってしまうスバルを見て、ルイは「あはは」と水槽の中を泳ぐ魚を観察したみたいな声を上げると、

「でもまァ、よかったじゃない。『ナツキ・スバル』の記憶なんか取り戻したら、今のお兄さんは死んじゃうわけだし、自殺なんて馬鹿な真似しないで済んでサ」

「……あ?」

「あれ、何その変な反応。まさか気付いてなかったの? 記憶が戻ったら、今の自分に上書きされて、その存在は消滅する。……これって、死んだのと同じだよね?」

――その、ルイの当然の謎かけの答えを聞くような態度に、スバルは硬直する。

死ぬ。消えてなくなる。そう、はっきりと言われて。

『ナツキ・スバル』の記憶が戻った暁には、今ここにあるスバルの意識は、記憶は、上書きされて消えてなくなるのだと、言われて。

それが『死』ではないかと言われれば、それは――、

「――今、『ナツキ・スバル』は死んでるよね。どこにもいないんだもん。でも、『ナツキ・スバル』が戻ってきたら、今度はお兄さんが死ぬよね。どこにもいけないんだもん」

「――――」

「あのさァ、そこまでして『ナツキ・スバル』って取り戻す価値があるのかい? お兄さんだって、同じことができるはずだろ? お兄さんだって、同じように周りにいる人たちのことを好きになったはずじゃない。周りの人たちだって、おんなじようにお兄さんのことを好きになってくれる。――それの、何が悪いわけ?」

「何が……」

悪いのか、と言われれば、きっと何も悪くなどない。

『ナツキ・スバル』にも、ナツキ・スバルにも、きっと悪いことなど何もない。

スバルは、欠点の多い人間だ。自分で自分が嫌になるぐらい、欠点だらけだ。この世で一番嫌いな人間が誰かと聞かれれば、迷うことなく自分のことだと答えられる。

そのぐらい、どうしようもなく、足りないナツキ・スバル。

だが、事この問題に関しては、スバルに落ち度は何もない。

――あるのは、ひとつ分の陽だまりしかないという、どうしようもない事実だけ。

「俺は、エミリアちゃんたちに……」

『ナツキ・スバル』を、返してあげたかった。

だから、記憶を取り戻すチャンスがあれば、それを手に取ることを躊躇ったりしないのだと、そんな風に自分の中で覚悟を整えていたつもりだった。

しかし、完全に、自分の存在が消えるのは、目を背けていた。

都合のいいことを言えば、二つの記憶が混ざったり、『ナツキ・スバル』のどこかに今のスバルの存在が残ったり、そういうことがあるのではと、何らかのいい形に決着してくれるのではないかと、そんな奇跡が起きることを期待していたのだ。

そんな、スバルの不確かな期待を――、

「どうなんだろね? 記憶、戻った人のこと見たことないからわっかんないなァ」

ルイは、スバルの葛藤を嘲笑うように歯を見せて、猫が鼠を嬲る目つきでいる。

この記憶を奪い取った下手人は、無責任にも、その後のことはわからないとのたまった。これは嘘ではなく、きっと事実だ。

ルイ・アルネブは、他者から奪ったものを元の相手に返すようなことはしない。

だから本当に、記憶が戻った結果、ナツキ・スバルがどうなるかなど知りもしない。

「お兄さん、せっかく生まれた命なんだから、謳歌しなきゃダメだよ」

そんな、無責任な簒奪者が、すぐ近くにあるスバルの顔を見つめて続ける。

「あたしたちが『ナツキ・スバル』の記憶を食べた結果、お兄さんがここにいる。つまり私たちって、お兄さんの生みの親みたいなもんじゃない。その親の目の前で、自分が死ぬ選択肢を選ぼうとするなんて、親不孝ってヤツじゃないの、お兄さん」

「そんな、馬鹿げた話が……っ」

「――記憶が人を形作るんだよ、お兄さん」

「――――」

低く、冷たく、ルイが表情を消して、その一言だけは真剣な声色で言った。

思わず、その響きの鋭さにスバルは息を呑み、黙り込む。

同時に、その言葉を聞いたのは初めてではないと、そんな風にも感じた。その響きは、言葉は、あるいは確か、二度目の『死』を迎える直前にも――、

「今のお兄さんには、今のお兄さんが作った関係がある。新しく、前向きに生き直してみたらいいじゃない。それも一つの手だと思うよ、あたしたちは」

「――――」

「それに、こんなこと言ったらなんだけど……『ナツキ・スバル』って、あんまり理想的な男性像って感じじゃないよ?」

片目を閉じて、ルイが言いづらそうな表情でスバルの心情を殴ってくる。

彼女はなおも、スバルに馬乗りになられたまま、自分の胸の前で両手を組むと、夢見る乙女のような瞳でこちらの黒瞳を見据え――、

「可哀想なエミリア! その生まれがかつての魔女と同じというだけで、誰からも忌避される哀れな娘! ああ、それでも一緒にいてあげる自分はなんて優しいんだろう!」

「な……」

「弱く脆いベアトリス! 頼れるものもなく、たった一人で孤独の時間を過ごしてきた寂しがりな女の子! 暗く危うい道筋を、自分が手を引いてあげなくちゃ!」

驚くスバルの前で、ルイが朗々と続けるのは、スバルの無事を祈り、送り出してくれた二人の少女の名前と、ひどく歪な彼女たちへの心象だ。

それがいったい誰の心象で、ルイが何を言いたいのか、スバルにもわかる。

わかるが、それは。

「献身的で無償の愛を捧げようとするレム! 愚かで美しくて、なんて清らか。きっと彼女は自分以外の、誰かのために必死になることで生きる実感を得る不完全な存在。これこそ、俺という存在が導いてやらなきゃならない!」

「何の……何のつもりだ!?」

「『ナツキ・スバル』が思ってたことの代弁だってば。欲しいのは優越感。いつだって、誰かのためだなんて思っちゃいないサ。都合のいい連中だけ周りにはべらして、手を差し伸べる快感に酔ってる。懐かない子犬には餌もやらない。遠ざける」

「――――」

「そんな『ナツキ・スバル』に、本当に今の自分を譲り渡すつもりなの?」

再度、重ねられる問いかけ。

それはルイからの、『暴食』からの、ナツキ・スバルへの告解の要求だ。

本心を話せと、ルイはスバルに求めている。

死にたくないと、死にたいのかと、仮に死ぬとして、そんな奴のために死ぬのかと。

――否、スバルが死ぬのは、『ナツキ・スバル』のためではない。

――否、スバルはそもそも、死ぬつもりなどなかった。エミリアたちのために、『ナツキ・スバル』を返してあげたいとは思っても、それと自分の死とは。

――否、だが、本当に『ナツキ・スバル』を信用できるのか。少なくとも、『ナツキ・スバル』はメィリィを殺し、理解できない壁の文字まで刻み込んで。

「――さァ、どうしたいの、お兄さん」

「――っ」

言いながら、ルイがその細い腕でスバルの手を掴み、自分の首にあてがった。

またしても、今度は自ら誘導して、スバルの腕がルイの細い首に当てられる。両腕で力を込めれば、きっと容易く折れる。

できないと、結論付けたばかりだ。

だが、それをしないということは、あるいは『ナツキ・スバル』を殺す選択と、同じことになる。――少なくとも、ルイはそう言っている。

仮に、仮にこの細い首を折ったとして、それで『ナツキ・スバル』が戻ってきて、今のスバルが消えるなら、その行動の結果も、見えなくなるだろうか。

だとしたら、ここでスバルが、なけなしの勇気を振り絞り、行動する意味は。

「さァ」

「――――」

「どう? どうする? どうなの? どうするの? どうするのサ? どうしたいの? どうやりたいの? どうとでもできるよ? どうなっちゃってもいいよ? どうしちゃってもいいからサ? どんな風にしたって許してあげるから――」

嬲るように、嘲るように、呪うように、ルイの言葉が、スバルの鼓膜を打つ。

ルイ・アルネブが、『暴食』が、大罪司教が、細い少女が、憎い存在が、生みの親が。

ナツキ・スバルに、『ナツキ・スバル』をどうするのか、選択を迫る。

「さァ」

さあ。

「――どうしたいの? お兄さん」