軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三章51 『懇願』

なにもかもが白い世界の中に消えていく。

凍てついた自分の肉体は溶けたのか、はたまた砕けたのか、あるいは永遠に氷像の中に残り続けるのか定かではない。

取り残された肉体の結末など、今の自分にはひどくどうでもよかった。

はっきりと、理解できたことはひとつだけ。

繰り返し、繰り返し、そのたびに無残な結末を見届け、繰り返す都度に状況を悪化させて、ついには一番守りたかったものをこの手で壊して、やっと気付けた。

――ナツキ・スバルは誰にも、自分にすら、期待などされていないのだと。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

なくしたはずの五感が突然に戻ってくる感覚は、何度体感しても慣れるようなものではなかった。

体の芯まで冷気が沁み渡り、冷たいという感覚すら失って、白い闇の中にどこまでもどこまでも沈み込んでゆくような喪失感。

全てを失うその感覚がふいに晴れ、瞬きのあとにはなにもかもが元通りなのだ。

あれほど痛めつけられた手足には血が通い、侵され尽くした神経は苦痛など忘れたように通常駆動。肌を刺すような冷気は消失し、日差しは袖をまくらずにいる状態ならば蒸し暑いぐらいのものだった。

「――――」

「――ッ」

「――――ぁ」

立ち尽くす雑踏には右から左から音が飛び交い、死んでいたはずの聴覚に容赦のない復帰を求める仕事量を放り込んでくる。

それら意味を為さない雑音を処理しながら、スバルは自分の手足の動きを確認。二枚に下ろされた両腕も、剣山のようになった右足も、杭打ちで弾けた左足も無事。地面をしっかり踏みしめて、握り拳は固く強く作られている。

全てが元通りだ。失われた自分の肉体の制御が戻り、スバルは安堵する。

そしてなにより――、

「スバルくん、ぼうっとしてどうしたんですか?」

カウンターの向こうで小首を傾げ、心配げに自分を見る青髪の少女の姿があった。

なにもかもに見放されて、どうしようもないほどの無力感に打ちのめされて、自業自得の失望感と喪失感に絶望しながら、為す術もなく犬死して舞い戻って、

「レム」

「はい、スバルくんのレムです。……どうしたんですか?」

短く自分を呼ぶ声に応じて、それからレムはカウンターをくぐって店外へ。佇むスバルの前へくると、その手をこちらの顔の方に伸ばし、頬に触れてくる。

気遣わしげに眉を寄せ、レムはその端正な顔に憂いを浮かべると、

「ごめんなさい、気付かなくて。疲れてしまったんですね。自分の仕事を忘れて別のことに没頭するなんて、レムは従者失格です」

「疲れた……ああ、そう……だな」

頬に触れるレムの手を、持ち上げた手で上から覆う。その触れ合いにレムは驚いたように眉を上げたが、憔悴し切ったスバルの表情と声にそれを保留。

なにか言いたげな彼女の様子に目を向けることもせず、スバルは掌の中に確かにあるレムの存在――その温かみに縋るように、取り逃さないように、

「落っことして、擦り切れて……疲れちまった、な」

それでも、なくしてしまったはずの彼女は確かにここにいるから。

「――スバルくん?」

――もう、目の前のそれだけは手放さないように、スバルは決断した。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

雑踏を足早に通り越し、ゆるやかな斜面を下っていく。

真横を通過する竜車の砂煙に顔をしかめ、しかしスバルの視線は真っ直ぐだ。目的の場所を目指し、進む足取りに迷いはない。

思えばこれまで、この繰り返しの日々の中、スバルは迷ってばかりいたと思う。

己の有り様に迷い、エミリアの心の在り処に迷い、自分の存在意義に迷い、最善の未来を掴むためになにを為せばいいのか迷い、狂気の渦に迷い、生死に迷い、もっと突き詰めれば異世界に迷い込んだ迷い人だ。

だが、そうして足の進め方ひとつにすらまともな感覚を抱けなかったスバルは今、かつてないほどの明確な意思をもって突き進んでいる。

ようやっと理解できたのだ。

ループは、繰り返した日々は、無駄ではなかった。

三度目の世界が、スバルを肉体的にも精神的にも、本当の意味で追い詰めた世界での出来事が、はっきりとそれを教えてくれたのだ。

スバルにできることを。

スバルがやるべきことを。

「――くん!」

迷いの晴れた眼差しは目的を見据え、踏みしめる地を蹴る足は力強い。

体が軽い。心の重圧のなにもかもから解放されて、今のスバルには恐れるものなどなにひとつなかった。

「スバルくん、聞いてくださいっ」

腕を引き、斜面を下り終えると今度は大通り――王都でも最大級の道幅を誇るその通りへ向かう。ぞろぞろと行き交う人々の間を縫うように通り抜けて、人波に逆らいながら進む。

見覚えのある道に差しかかり、スバルの勢いは増すばかりだ。逸る気持ちが息遣いに、足取りに反映されて、弾む肉体に表れている。

ふいに日陰に入り、スバルは日差しを遮った原因であるそれを見上げる。

上に向けた視線の先、視界を覆い尽くすのは王都を取り囲む城壁と、その城壁の切れ間である内外を繋ぐ王都正門――上部に刻み込まれた文字はまだ読めぬ『ハ文字』と『ロ文字』の組み合わせで、『王都ルグニカ』と記されているのだと教わったことがあった。

つまり、スバルの――否、二人の姿は今、王都の正門にあるということであり、

「――スバル、くん!」

それまでなし崩し的についてきていた足が止まり、掴んでいた腕を強引に振り払われる。そうして互いの繋がりが解かれてしまえば、さしものスバルも足を止めるしかない。

立ち止まり、振り返った先、スバルを見つめるレムが困惑に瞳を揺らして、

「どうしたんですか。なにが、あったんですか? 説明してくれないと……」

掴まれていた右腕に左手を添えて、心なしか身を小さくするレムの懇願。

その言葉を聞いて、スバルは彼女の疑問は当然のものだろうなと納得する。彼女からすれば、突然様子の変わったスバルに強引に連れてこられたのだ。そこまでの道すがらでなんの説明もなく、急かすようにされれば怒るのも当たり前だ。

「ああ、悪かったよ、レム。ちょっと俺も色々焦ってたんだ。けっこう、こう、考えなきゃなことがいっぱいあってさ。それで説明省いちまった、悪い」

「もう、困ります。スバルくんが色々考えてくれてるのはレムだってわかっていますけど、それでも一言教えてくれないと。……強引にされるのは嫌いじゃありませんけど」

頬に両手を当てて、ほんのりと赤く染まるレムが安堵の吐息を漏らす。

スバルの声に抑揚が、平静が立ち返っているのを聞き取り、先ほどまでの奇妙な態度がささやかな思い過ごしであったのだと判断したらしい。

なるほど、彼女の安堵を見ればその懸念もわからない話ではない。

『死に戻り』直後のスバルの変質は、ほんの数秒間の出来事しか体感していないレムにとってはそれこそ劇的なものだっただろう。

事実、彼女とスバルの間には『数秒間』と『数日間』の蓄積の差があるのだ。

さらにはスバルはその『数日間』を三度積み重ね、今を形作っている。しかも落ち着いて振り返ってみれば、この時期のスバルの内心の鬱屈さは我ながら目を背けたくなるほどの有り様だったはずだ。

王選の場で恥をさらし、練兵場でユリウスによって半殺しにされ、エミリアとの間に致命的な溝を生み出し、王都に置き去りにされて存在意義を見失った。

クルシュの邸宅で無為の時間を過ごしながら、自分になにができるのか、なにをしなくてはならないのかと、見つからない答えを延々と探しあぐねていた頃。

そんなスバルの迷いが唐突に、文字通り瞬きの間に晴れたのだ。レムからすれば青天の霹靂もいいところだろう。

「ごめんな、心配かけて。もう大丈夫だ。凹んだり凹まされたりでみっともないとこばっか見せてた気がすっけど、やっとわかったから」

「いいえ。スバルくんのことを考えているのはレムにとっては苦ではありませんから。……やっとわかった、ですか?」

迷いの晴れた瞳で語るスバルに、レムも弾むような声で応じる。

こんな風なやり取りを交わせるのも本当に久しぶりで、スバルの内心もささやかな喜びを隠せない。

そして、言葉尻に続いたレムの疑問、スバルはそれに「ああ」と頷き、

「悩みまくって迷走して、方々に迷惑かけまくって正直ごめんなさい気分が半端ねぇんだけど、ようやっと丸く収める方法がわかった。いや、改めて考えると最初から見えてたし、教えてもらってたはずなんだけど……諦め悪いからな、俺」

「そこがスバルくんの素敵なところだと思いますけど……」

小さく言葉を濁しながらのレムの言葉にスバルは苦笑。

それから空を見上げ、その広さと高さを瞳の奥へ注ぎ込む。ずっと変わらず、スバルを見下ろし続けていた世界にとって、きっともどかしい時間が続いたことだろう。

でも、そんな心苦しくなるような時間も、やっと終わらせてやれる。

答えはずっと、すぐ目の前にあったのだ。

スバルがどんなところへ向かっても、どんな無謀に挑んでも、どこまで愚かな行いに走ったとしても、その背中に文句も言わずについてきてくれていた。

そう、

「決めたんだ、レム」

真っ直ぐに、手を伸ばせば届く距離に立つ少女の瞳を見つめる。

肩口までの青い髪が風に揺れ、透き通る双眸にスバルが映し出されている。

小柄な体を包む黒を基調としたエプロンドレスには無駄な装飾が一切なく、彼女の高潔とした性質を体現している。青い髪の上部を飾るホワイトプリムは毅然とし、小さく整った目鼻立ちが愛らしい少女の造形を繊細に飾り立てていた。

「はい、スバルくん」

桃色の唇が微笑を描き、細められた目が優しげに弧を線引く。

響いた声の甘やかさは脳をとろけさせそうな慈愛に満ちていて、たった一言を口にしようとしているスバルにどこまでも蠱惑的に沁み入った。

「まず、竜車を借りよう。王選のごたごたでちょっとばかし受付は混雑してるけど、明日の正午過ぎでも間に合うんだから今ならもうちょい空きがあると思うんだ」

足の速い、体力のある奴がいい。

走り続ける必要がある。昼夜を問わず、軽快に、休む必要なく走れる奴が。

「竜車、ですか……?」

小首を傾げ、スバルの口にした単語を繰り返すレム。

その瞳に浮かぶのは戸惑いであり、少しばかり先を急ぎ過ぎるスバルの話の結論が彼女には見えていないのだろう。

だがしかし、スバルはそんな彼女の当惑に気付かないような素振りで門を手で示し、

「竜車を選んでる間は時間食うかもだから、なんなら空いた時間は食糧だのなんだの買い込んどいた方がいいかもしんないな。あ、俺は携帯食糧にしてもぼそぼそした系統の奴とか苦手な。アレを食うぐらいなら水だけでいい」

義務教育時代に体験学習なる名目で、保存食やら簡易携帯食糧やらを実際に食べてみる授業があったものだが、スバル的にはどっちも『なし』の評価をつけざるを得ない嫌な記憶だ。

調味料関係の発達した元の世界でああなのだから、こちらの世界の場合の保存食などの味の程度などそれこそ信頼度が低い。

「いや、でも逆に魔法的な力が働いてかえって保存食がおいしい可能性も微レ存……!? マヨネーズも作り出せたわけだし、案外、投げる前に挑んでみろの精神が息づいている可能性も……」

「えっと、スバルくん?」

「ん、あ、ごめん、ちょっと思考が変な方向に突っ走ってた。どしたよ?」

横道に逸れ始めた話を訂正し、スバルは口元に優しげな微笑を象ってレムを見る。わずかに腰を屈め、目の前の少女と視線を合わせる計らい付きだ。

その甲斐甲斐しいスバルの態度にレムはほんのわずかだけ押し黙り、それから唇を震わせながら迷いを振り切るように、

「その、ごめんなさい。レムが察しが良くないせいで、スバルくんがなにをしようとしてるのかがわからないんです。あの、なにを……?」

「ああ! そっか、悪かった! ごめん、全然気付かなかった! いや、今俺完全にもうやること話して予定立ててるつもりでいたわ、恥ずいな!」

膝を叩き、スバルは自分の落ち度にあっけらかんと笑ってみせる。

そしてひとしきりその手落ちぶりを笑ったあとで、

「思い知らされたことと思い知ったことと、まぁ色んな経緯を経て俺はこうしてるわけだが、答えはずいぶん前から出てたんだよな」

苦笑、正しく苦笑いが出る。

苦汁を舐めた。後悔を噛みしめた。理不尽と無常に涙を流し、残酷な運命に弄ばれて己と他者の血に塗れて地に塗れた。

その全ての答えが、今ははっきりとわかっている。

「レム」

少女の名前を呼んで、スバルはゆっくりと彼女に手を伸ばした。

差し出された手を見て、レムが次なるスバルの言葉を待っている。その彼女の姿勢に応じるように、スバルはせり上がる想いを舌に乗せて――、

「俺と一緒に、逃げよう。どこまでも」

運命に対する敗北を、はっきりと告げたのだった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「……ぇ?」

告げられた言葉の意味がわからなかったのか、レムの喉から漏れたのは掠れたような吐息だけだった。

そんな彼女の反応を無理もないと思いつつ、スバルは首を横に振り、

「これから俺は王都を出て、ずっと西に……あるいは北に向かう。南の帝国には入れないって話だから、どっちかしか候補がない。寒いのは苦手だから、個人的には西が一押しだ」

「ぇっと、いえ、あの……」

「距離とかもぶっちゃけ曖昧だし、見切り発車もいいとこだから楽な旅路にはならないと思う。あっと、そもそも竜車を返せる当てがない場合はどうすりゃいいんだ? 貸し竜車屋とかより、買い取った方がいいのかな?」

レンタカーのようなシステムなのだろうと思うが、そのあたりの機微は免許取得年齢に達していなかったスバルには疎いところだ。前回、レムが竜車を借りる場面にも同行していなかったため、どういった書面が交わされるのかもわからない。

店側も、そのまま乗り逃げされる可能性を考慮しないで商売をしているとは思えないので、なにかしらうまく条件が交わされているのだと思うが――、

「ま、待ってください!」

と、考え込むスバルにレムが待ったをかけた。

彼女はこちらに掌を向けたまま、珍しくその表情に焦燥感を浮かべ、

「逃げるって……その、どういう意味ですか? 今のスバルくんの言い方だとまるで、ルグニカではない国へ出ていこうとしているような……」

半信半疑を隠せない口ぶりで推測を述べて、それからレムは「あ」と声を漏らすとかすかに表情を明るくし、

「ひょっとして、なにかまたスゴイことを思いついたんですね? エミリア様やロズワール様の助けになるような、そんななにかを……」

「そんなもんはねぇよ、レム」

「え――」

縋るように。スバルの言葉の真意がそうであってほしいのだと希望するように、レムがあまりにも信じ切った未来図を描いてみせる。

だがスバルはそれに対して静かに首を振って、はっきりと否定を口にした。

「言ったろ、逃げるんだ。王都にいても、俺はなにもできない。かといって、屋敷に戻ったところで無力さは変わらない。――それが、わかったんだよ」

無力さが、空虚さが、世界の理不尽さが、スバルの体に重く圧し掛かっていた。

しかし、否定しようとすればするほど絡みついてきていたそれが、動かし難い事実であるのだと認めてしまえば、この身の軽さはどうだろうか。

「だから、俺と逃げよう、レム。ここにいたら駄目なんだ。みんながみんな、俺にそう言い続けた。認めたくなくて、必死こいて否定し続けてきたけど……ああ、そうだよ。俺は、弱かったんだ。誰も俺を必要となんか、しちゃいなかった」

自惚れて、いたのだと思う。

思い違いをしていたのだ。勘違いして、調子に乗っていたのだ。

異世界に落ちて、ちょっとばかり、運命をやり直せる力を与えられて、それで運良く事を運んで二度も、誰かを救えたような気になっていたから間違えたのだ。

自分に誰かを助けられるような力も想いも、資格すらもなかったというのに。

「そんな、こと……」

「ないこたねぇよ。はっきりと、言われたんだ。――言われ続けたんだ」

お前なんか、いらないのだと。

一度目の世界で、スバルはエミリアの願いを無視してクルシュの邸宅を飛び出した。引き止めるレムの言葉も聞かず、招いた結果があの大惨事。

二度目の世界ではその光景を作り出したツケも払わず、現実逃避の挙句にレムの命を壮絶に散らし、またしても誰も救えなかった。

三度目の世界がもっとも唾棄すべき結果を生んだ。道すがら行商人を巻き込み、レムを白鯨に呑まれ、この手でエミリアの命を奪った。魔女教はパックによって皆殺しにされたことだろうが、スバルの死後、パックがあの猛威を国中に向けたとするのならば、その被害はこれまでの比ではないだろう。

もっと早くを、それこそやり直すことのできない日々を遡るのならば、王城での王選――あの場面で、エミリアの力になることすらできなかったではないか。

彼女の隣に立つどころか、横で口を挟んだ上に足を引き、それを挽回するどころか別の候補者の騎士に完膚無きまでに叩きのめされる始末。挙句、エミリアと仲違して、本来ならばぶつけるつもりなどなかった言葉をぶつけて彼女を傷付けた。

「……くはっ」

渇いた笑いが喉で弾けるのがわかった。

思い返せば傑作だ。自分の行動を、考えを、落ち着いて振り返ってその疫病神ぶりがはっきりと痛感できる。

――エミリアのためになりたい? 自分になら誰かを救えるはず? 俺がいなければみんなが駄目になるに違いない?

なんたる妄言。なんたる思い違い。嗚呼、なんたる傲慢さよ。

スバルがやったことなど、エミリアの立場を悪くし、こちらを慮った彼女の心を盛大に裏切って傷付け、付き従ってくれたレムを毎回死なせる愚挙に他ならない。

すごい、みんなこうなることがわかっていたに違いない。

だからみんな、スバルに大人しくしていろと。なにもするなと。お前の力など必要ないと、引っ込んでいろと、消えてしまえとそう言うのだ。

スバルにそう言った周りの皆の方がよほど、未来のことがわかっている。知っているはずなのになにもできず、わからず、理解できないスバルと大違いだ。

ひょっとして、みんなの方こそループしているんじゃないのか?

「そうでなきゃ、俺みたいな無様……誰がさらすんだよ」

惨めだった。これ以上ないほど、自分が憐れでどうしようもなかった。

道化は自分が人に笑われることを覚悟して、そうあるように振舞うからこそ道化足り得る。ならば、観客に指差されて笑われている自覚のなかったスバルは道化ですらない。――ただの、救いようのない愚者だった。

「だから俺は、いなくなることに決めた。それでいいはずだ、いいんだよ。俺なんかがなにしたところで、死体がひとつ……場合によっちゃもっと増えるだけだ」

死体、死体、死体、死体、死体。

知らない誰かの死体。知っている誰かの死体。大切な誰かの死体。大事な誰かの死体。信じていた誰かの死体。信じたいと思った誰かの死体。――きな誰かの死体。

もう、うんざりだった。

どうしてこんな目に遭わなければならないのか。これほど苦しんだのだから、報われたっていいではないか。努力が必ず報われるであるとか、目標を見定めれば何事も叶うであるとか、そんなことが夢物語であることはスバルだってわかっている。

でも、それでも、ほんのささやかでも、最悪を回避したいと願うことは間違っているのか。

「逃げよう、レム。俺も、お前も、ここに……この国にいちゃいけねぇんだ」

なにもかも放り出して、全てを蔑にして、スバルは逃げ出す決意を決めた。

そしてその逃避行に、あらゆるものに後ろ指を差されるだろう決断に、目の前の少女を――レムだけは、一緒に連れて行こうと。

全部を、全てを、放り出そうとしても手放せなかったものがあった。

孤独は恐い。孤独は恐ろしい。この広い世界で、なにもわからない暗闇の世界で、そうするのが正解なのだとわかっていても、庇護を捨ててひとりで走っていくのは恐ろしさが許さなかった。

だから彼女だけは、レムだけは、一緒にきてくれるのではないかと期待があった。

これまでの繰り返しの日々で、彼女だけはスバルと一緒に居続けてくれた。さらした醜態も、みっともない言動も、的外れた生き方も、一緒に見てきてくれた。

その彼女だからこそ、スバルは最後に賭ける価値があるのだと考えていた。

繰り返した時間で三度、全ての世界でスバルはレムを死なせた。

彼女を死なせないためには、屋敷に戻ってはならない。屋敷に辿り着いても、その途上でも、彼女は壮絶に命を散らす結末を迎える。

ならば彼女を王都に引き止めておけばいいのか? そうはならない。王都で時間を過ごしていても、クルシュの邸宅にロズワール邸の異変が伝われば、彼女は領地を救うために王都を飛び出してしまうのだ。

そしてきっと、そうなってしまった彼女を止めることはスバルにはできない。スバルだけがクルシュ邸に残され、終わったあとで顛末を聞かされることになる。

そうして全てを失って、空っぽになってしまう自分の姿がはっきり幻視できるのだ。

レムを死なせないためには、レムにはなにも知られてはならないのだ。

本気でレムを救いたいのならば、ここに残っていてはならないのだ。

「そんなこと急に言われても、レムには……」

そのスバルの懇願に、しかしレムは首を小さく横に振る。

それは否定の仕草のようであったが、事実としては彼女の迷いを表していた。

彼女にはスバルの言い分が唐突過ぎて、消化できるものではないのだ。なにより、判断材料としてスバルが差し出す情報量が少なすぎる。

突然になにもかもを捨てて逃げようと言われても、頷けるはずもない。

けれど、その不条理を理解していながら、それでもスバルはレムに納得してもらわなければならない。

差し出せる情報量の限度が、もう今のスバルにはわからないのだ。

なにを話しても、魔女の呪いに抵触してしまいそうな気がする。

どんな行動を起こしても、理不尽な運命の犠牲になりそうな予感がある。

手詰まりだ。八方ふさがりだ。運命の袋小路に閉じ込められてしまった。

だからスバルに打てる手段は懇願しかない。ひたすらに、彼女の良心に訴えかける。それが卑怯千万だと理解していながら、彼女がスバルへと抱く依存心を利用しているとわかっていながら、だ。

「時間がないんだ。突然なのは本当に悪いと思ってる。本当に、本当にだ。心からお前に悪いと思ってる。……でも、選んでくれ」

「選ぶ……」

「俺か、俺以外か……選んでくれ」

与えられる情報が少ない中で、それも唐突に言い出されたことで、こんな選択を迫る己の卑怯さが、差し迫った状況が憎い。

だが、レムにゆっくりと考える時間を与えることが不都合なのも事実だった。この状況を自分有利に利用していないとはスバルには言い切れない。

考える時間が限られた状況で、目の前に懇願するスバルという依存対象を置いて、それでレムがどんな判断をするか――勝算は、あった。

勝算、あるいはそれは悲願に近い希望であったかもしれない。

レムならば、彼女だけは、スバルの堕落を、逃避を、許してくれるのではないのかという身勝手な希望が。

「竜車を手に入れて、西へ向かおう。ルグニカを出て、ずっと西……カララギだったか? そこで、小さな家でも買って二人で暮らすんだ」

早口に、スバルは思い描く未来図を語り始める。

それは平凡で、穏やかで、きっと不条理や残酷さと無縁のはずの未来で。

「路銀に手ぇつけるからロズワールには悪いけど、なんなら借りるだけってことにしていつか返したっていい。とりあえずは生活の目処が立てば、俺もちゃんと働いてみせるさ。……働いたことねぇけど、きっと大丈夫だ」

高卒未満の上に引きこもり。

根っからのインドア体質でアルバイトすら未経験の身の上。異世界にきてからの勤労も、屋敷での下働き見習いがせいぜいとなれば子供の手習いも同然だ。

きっとまともな仕事にありつくことは至難だろうが、それでも齧りついてでも職を得てみせよう。痛いこと、辛いこと、死ぬことに比べれば全然気楽なものだ。

考えれば考えるほど、スバルの未来は開かれている。

たったひとつの未来だけを目指して、足掻いてもがいて最悪の災厄を招き寄せていた日々を思えば、それがどれだけ幸せなことか。

「慎ましくても、お前がいればきっと頑張れる。誰かが笑顔で家で待っててくれるだけで、どんだけ疲れてもレムが待っててくれるって思えばきっと……!」

逃げた先で、置き去りにした全ての人たちに指差されることとなったとしても、隣にレムがいてくれれば、きっと耐えられると思える。

だから、お願いだから、これ以上の願いはなにもないから――、

「俺を、選んでくれ……ッ」

絞り出すように、手を差し出したまま、懇願する。

「俺を選んでくれれば、俺の全てはお前に捧げる。俺の一生は全部、お前のもんだ。お前に尽くす、お前のためだけに生きる……だから」

正面に立つレムの顔が今は見れない。

どんな顔をされているのか見る勇気がない。勇気など、欠片の持ち合わせもない。それがあったのならきっともっと違う結末が迎えられたはずだ。

臆病で卑怯で情けない自分には、もうなにも残っていないから。

「俺と逃げよう……俺と、生きてくれ……っ」

お前だけは死なないでくれと、心の底から懇願する。

渇き切った声で己の思いの丈をぶちまけて、スバルの鼓動は早く息は荒い。

全力疾走したような疲労感と、打ちのめされた精神的な消耗が激しくスバルを襲っていた。そして、それを為したスバルに圧し掛かる無言の時間。

レムの返事はない。

雑踏の音も今は遠く、公衆の面前でこんな会話を交わす二人を周囲がどう見ているのか――そんな瑣末なことは一切、今は意識に入り込んでこない。

堪え切れず、スバルはギュッとつぶっていた目をかすかに開け、目の前に立つレムの表情をうかがう。

あるいはその表情に、答えが浮かんでいるかもしれない恐怖を堪えながら。

「――――」

無言で、スバルに見られていることにも気付かず、レムは唇を引き結んでいた。

その表情は努めて無表情を作ろうとしているようでありながらも、眉根の間や目尻にかすかに無理が生じ、常の状態を保てていない。

迷いが、戸惑いが、躊躇いが、彼女の中で渦巻いているのがわかった。

今、スバルが口にした言葉の数々が、レムの心を大きく強く激しく揺すぶっている。

沈黙の時間が長く続く。

あるいは永遠とも感じられる時間が、スバルの背に火をつけるような焦燥感をじりじりと押しつけてくる。

しかし、やがて、その時間も終わりを迎える。

「――スバルくん」

優しく、慈愛に満ちた響きが、スバルの名前を呼んでいた。

その声音を、その震えを聞いた瞬間、スバルは己の懇願が届いたものと確信した。

彼女はスバルを受け入れる。スバルの弱さを許し、それをひっくるめてナツキ・スバルという人間を抱きとめてくれる。

万感の思いがこみ上げる。初めて、報われたような気がした。

そしてスバルは顔を上げて、

「レムは、スバルくんと逃げることはできません」

ひどく悲しい顔をしたレムにはっきりと、願いを拒絶された。

「だって」

「――――」

「未来のお話は、笑いながらじゃなきゃダメなんですよ?」

泣き笑いのような表情で、レムはかつて――スバルが語った言葉を口にしたのだ。