軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三章34 『狂気の外側』

――目覚めは闇が切り裂かれ、日光に瞼を焼かれる痛みから始まった。

「――いちゃん?」

消えたはずの体の感覚、手足の指先に温かな血が通い、砕け散ったはずの下半身がしっかり地面を踏みしめている感触。

失われた機能が瞬きの直後に全て戻ってくるという現象は、あらゆる情報を起動したての脳に容赦なく叩き込んで、文字通りに目を回させるほどだった。

気付けば耳鳴りだけが支配していた世界に、人の営みが発する雑音が乱れている。

埃っぽい往来を人々が行き交い、棒立ちのこちらの体を邪魔そうにすいすいとよけて、ちらと迷惑そうな視線を向けてくるのがささくれ立った心に妙に響いた。

「おい、おいっつの! 聞いてんのか?」

と、舌打ちまじりの荒々しい声が間近で聞こえて、ゆらりと目をそちらへ。正面、縦に傷の入った顔をしかめている強面が立っている。

頭ひとつ分はこちらより上背の高い彼は、その白い傷跡を指で軽くなぞり、

「勘弁してくれや、兄ちゃん。ボーっとしてんなよ」

「ぇ、ぁ?」

「なんだその抜けた返事。まぁ、どうでもいいか。それより、どうすんだよ?」

掠れた返事だけがあったことに男は吐息を漏らし、その上で結論を迫る。

その彼の手元にあるのは、大きな掌にちょこんと乗せられた赤い果実――ひどく男の見た目に似合わない組み合わせであり、現実感を損なうものがあった。

ぼんやりとそれを眺めながら、黙ったままでいる。状況の認識力に重大な欠陥が生じている。が、強面の人物にそれを慮るような切っ掛けはなく、

「ふざけるのもいい加減にしろよ? 俺はお前にリンガ、買うのか買わないのか、それだけ聞いてんだ。心して答えろ」

身を乗り出し、カウンター越しに相対していた男の伸ばした腕が胸倉を掴む。そのまま乱暴に引き寄せられ、前のめりになる体が棚に衝突。威力に商品を並べていた棚が揺られ、品物が落ちかける様子に男は慌て、

「な、なにしてんだ! ちゃんと立てよ。ふらっと足の力抜いてやがって……」

「あし……足?」

「腰から下に二本立派についてんだろが。足がなくなった幻覚でも見たか?」

頭に指を当ててくるくると回し、男はそれからその指をこちらの下腹部へ向ける。指に従って視線を下ろせば、そこにあるのは小刻みに震える自分の足だ。ひどく頼りなく揺れるそれは体を支えられず、今はカウンターに上半身を預けていることでどうにか立っている始末だった。

「頼むから悪ふざけはそれまでにしといてくれや。こっちゃただでさえ、普段はあり得ない話ばっかで調子狂わされてんだからよ」

だらりと力なくカウンターに寄りかかる姿に、呆れ顔の男は首を振る。往来でこうしたやり取りをしていては、遠巻きに見ている人々にも悪い影響がある。そのあたりを気にしての彼の発言に、しかし体は微塵も反応しない。

現実を現実と認識できていない。どこかぼやけた感覚が、薄い膜を張ったような不可思議な疎外感があり、全ての情報は脳を素通りしてこぼれ落ちている。

なにをしているのだろう。

なにがあったというのだろう。

なにかがあったような気がするけれど、なんだっただろう。

なにを、なにを、なにを――。

とりとめのない思考は出口を失い、頭蓋という狭い迷宮を延々と堂々巡りしては精神にひたすらの摩耗を強いてくる。そのまま削れ切って、あるいはそのまま消耗し切って消えてしまえば楽になれたのかもしれない。

しかし、そんな孤独の消失感は、

「――スバルくん?」

ふいに鼓膜を震わせた少女の声音に、一瞬で押しのけられていた。

「――――」

声もなく、弾かれたようにというにはゆるやかに、しかし凝然と目を見張って顔を上げた。カウンターの向こう、立ちはだかる男の巨体のその裏に、衝突でずれてしまった品物を棚に並べ直す人物が立っている。

黒を基調としたエプロンドレスに、白いエプロンとホワイトプリム。小柄で華奢な体を忙しく動かし、視線に気付いて愛らしい顔立ちに表情を浮かべず振り返る。肩口までの青い髪がその動きで揺れて、彼女の涼しげな印象をいっそう際立てた。

涙が出た。

「――おい?」

「スバルくん?」

嗚咽が漏れて、ぼやけていく視界。

そこに確かに映り込んでいたはずの少女が曖昧になるのが恐くて、一生懸命に、乱暴にその両目を擦る。なのに少女は遠ざかり、ざわめきは大きくなる。

気付けば体はカウンターの支えを失い、路上に倒れ込んでいた。足先に力と意思は伝わらず、往来に横倒しになりながら涙を流し、ひきつった呼吸を繰り返す。

否、それは呼吸ではない。

「ふへっ……ひひ、はは。へひ、ひははは……」

笑み、だった。

ざわめきが拡大し、向けられる意識の数が加速度的に増していくのがわかる。

誰かが自分を見ている。認識している。孤独ではない。孤立してはいない。それがわかるだけで、こうしてボロキレのように転がる自分が肯定されている。

「どうしたんですか、スバルくん。大丈夫ですか? しっかり……」

回り込むのももどかしく、カウンターを乗り越えた少女が傍らに降り立つ。そうして倒れるこちらの体を抱き起こすのがわかって、

「え?」

無防備に近づいたその体を、逆に思い切り抱きしめ返していた。

唖然と、その抱擁を受け止める少女。彼女の刹那の息遣いが間近にかかり、熱をもったそれがひどく心地よく感じられ、彼女の肩に鼻を埋めるようにさらに強くそれを掻き抱く。

「ど……えぅ、スバルくん? あの……」

なにかを言っている。その一言一言が、単語が、文字一つが、確かにその唇から紡がれている事実が、一秒ごとに福音をもたらすのがわかる。

しっかりと、抱きしめた腕を離さない。かすかに身じろぎする少女も、その抱擁を静かに受け止め、振りほどこうとはしなかった。

その温かい体を、命の鼓動を、他者の存在をこれ以上ないほど身近に感じながら、

「ひは……うひは、ひひひひ」

ナツキ・スバルは――狂人は、ただ静かに笑い続けていた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「これはもう正直、お手上げって言うしかにゃいかなぁ……」

革張りの椅子に腰を下ろして、頬に指を当てながらフェリスはそう断言した。

ネコミミをぴくぴくと震わし、栗色の髪を揺らす麗人は寝台に横たわるスバルを見たあと、気の毒そうな視線をそのベッドの傍らに立つ少女へ向け、

「フェリちゃんがどうにかしてあげられるって、体の傷だけだからネ。体なら外だろうと内側だろうとにゃんとかしたげるけど……心はどうしようもにゃいから」

「……いえ、ご尽力いただいてありがとうございました」

力足らずを謝るフェリスに、腰を折りレムが礼を告げる。が、どこか抑揚を欠いたその声には感情が消えている。普段から意識してやっているものと違い、それは彼女の内心の動揺が大きすぎるが故に起きているものだった。

痛ましいものを見るようにフェリスはレムから目をそらす。頭を下げたままのレムはそんな彼の態度に気付かず、そっと首を傾けるとベッドに寝そべる人物に意識を向けた。

寝台に横たわり、二人から介抱されているのは黒髪の少年――スバルだ。

視線を浴びながらも、その体は自分に意識を向ける相手に反応を返さない。

眠っているわけではない。彼の目はしっかりと開かれ、じっと真上にある天井を真剣に見つめている。時折、思い出したようにひきつったような笑みを浮かべ、それが済むと突然に泣き出したりもする。不安定な状態が続いていた。

その原因がレムにはわからない。

今朝まで、いや正午過ぎに王都の下層区を散策していた間は変わらない彼だった。その態度にいくらかの無理はあったものの、努めて普段通りを振舞おうとしていた彼に、レムもまた普段通り接することで日常は築き上げられていたはずだ。

それなのに、彼の心が砕け散ったのはあまりにも突然のことだった。

なにか、切っ掛けがあったようには思えなかった。

スバルの様子が豹変した瞬間、遺憾にもレムは彼のすぐ隣にいたわけではない。それでも店を手伝いながら、彼と店主の会話は耳に入れていたはずだ。

彼はクルシュの屋敷にリンガを買って帰る相談を店主に持ちかけ、店主はそれがまさか大貴族の屋敷に持ち込まれるとも思わず、商談に気軽に応じようとしていた。その商談の最中、スバルの心は突然に打ち砕かれたのだ。

商い通りの往来に倒れ込み、自分を見ながら嬉しげに悲しげに涙を流し、肺が痙攣しているような歪な笑声を漏らし続けるスバル。

その場を辞し、迷惑を承知でクルシュの邸宅に彼を担ぎ込み、なんらかの魔法的な干渉を受けたものかもしれないとフェリスに無理を言って診察してもらったのだが。

結果は芳しくない。フェリスの手が及ばない次元の問題となれば、それは王都中のどんな偉大な魔法使いを集めても癒すことのできない難事ということだ。

彼の現在の状態に魔法は関係ない。ただ、突然に心が平衡を失っていた。

「こんにゃこと言いたくないけど、どうするの?」

「原因がわからないことには対処のしようが……フェリックス様にはご迷惑を」

「んーん、それは別にいいんだけどネ。実際、変に騒ぎ立てなくなった分、フェリちゃんの治療には都合いい状態と言えにゃくもにゃいし?」

ほとんど無反応で、寝たきりのようなスバルを見下ろしながらフェリスは「でもでも」と言葉を継ぎ、

「治療、続けてもいいのかにゃって思って」

「……どういう、意味でしょうか」

顔を上げ、スバルの無表情から視線を外すと、レムはようやくフェリスを見る。その視線を受け止め、フェリスは「怒らにゃいでほしいんだけど」と前置きして、

「スバルきゅんのゲートを治療するのって、この子が今後の日常生活に支障をきたさないようにしてあげるための計らいでしょ?」

「はい」

「もう、日常生活なんてまともに送れにゃいんだから、体だけ治しても仕方にゃいんじゃないかにゃーって」

「――! スバルくんは!」

「終わってにゃいって、そう言うの? この状態を見て? 本気で? ちょっと色々あったのは事実にゃんだけど、あれぐらいのことでこうまで心が壊れちゃうような人は、もう立ち直ってもどうにもにゃらにゃいと思うけどネ~」

激昂しかけるレムに、あくまでフェリスは疑わしげな態度を崩さない。彼のスバルを見下ろす視線には、はっきりそれとわかる侮蔑の感情があった。

それは『青』の一文字を与えられ、ルグニカを代表する水の魔法使いとして知られる人物にしては、あまりにも冷酷な態度に思えた。

そんなフェリスの態度に押し黙るレムに、フェリスは「誤解しにゃいでほしいんだけど……」と苦笑して首を振り、

「別に、フェリちゃんはスバルきゅんが憎たらしかったり、殊更に嫌ったりしてるからこんな風なこと言ってるわけじゃにゃいからネ」

「ですが……」

「スバルきゅん個人がどうこうって言うんじゃにゃいんだヨ? フェリちゃんはたーだ、純粋に『生きる意思』に欠けてる人間が嫌いにゃの」

唇を尖らせ、反論しようとしたレムを遮り、フェリスはスバルを指差し、

「フェリちゃんが魔法でできるのは、傷を癒したりするぐらいのものだから。そんなフェリちゃんだけど、それなりに忙しく色んな人にこの手を使ってあげてるわけ。みんな生きるのに必死だし、その手伝いをするのは別にいいんじゃにゃい? 感謝されるの嫌いじゃにゃいし、偉い人に貸し作ってクルシュ様のお役にも立てるし?」

「――――」

「でも、生きようとしない人間の体を治すために力を使うにゃんてのは嫌。そんにゃ人間は体が治っても、どうせそのあとで無駄に命を費やすでしょ? それなら終わっちゃいにゃよ。んーん、終わってしまってるの」

ぴしゃりと、そう告げてフェリスはつんと顔を背ける。

その頑なな態度の裏側に、レムはフェリスが見てきただろう命の数に対する真摯さを確かに感じ取る。言い方こそ軽薄さを装っていたが、それは彼がそれまでに見つめてきた生と死から学んだ、彼の中で確立された死生観なのだ。

そして、そうした確固たるものがある人物に対し、門外漢である自分が感情論だけで反論することには意味がなかった。

レムはただ悔しげに、フェリスの言葉に打ちのめされたようにスバルを見る。

スバルは自分が話の中心になっていることにも気付かず、今は聞く者の心に引っ掻き傷を残すような、途切れ途切れの笑声をかすかに漏らしていた。

心が砕け散ってしまったその姿に、レムは自分の胸の内に堪え難い感情が木霊するのを感じる。けれど、それを表に出すことはせずにどうにか抑制した。

それはスバルの名誉を、あるいはロズワールの権威に傷をつけるものであったし、なによりレム自身が抱いてきた想いを裏切るようなものでしかない。

「――少しばかり、フェリスの意見は厳しすぎるところがあるな」

声は唐突に、気まずい沈黙が流れた室内に朗々と響いた。

意識が思考に沈み、その人物の来訪に気付かなかったレムは弾かれたように顔を上げる。対し、ノックしてからの来室に気付いていたフェリスは涼しい顔だ。否、来訪者に彼が向ける瞳は、静かに熱を帯びた心棒者のものであったが。

「クルシュ様」

「弱さが罪である、とまで私は言わない。もっとも、弱いままでいることを是として、それを正さずに現状に甘んじることが罪である、ということには同意見だが」

入室したクルシュは慌てて立ち上がるレムに掌を向け、長い緑髪を揺らしながら寝台の横へ。そして、今も凶笑に歪むスバルの顔を見下ろし、

「なるほど。これは確かに由々しき事態だな。原因はわかっているのか?」

クルシュの問いかけに、フェリスは「いーえ」と肩をすくめてお手上げと手を掲げ、

「レムちゃんの話じゃ突然倒れたってお話ですし、体の隅々まで調べてみましたけど、マナ的に変な干渉を受けたって様子もにゃいですネ」

「北方の……呪術といったものの影響を受けた可能性は? 考え難い話ではあるが、グステコ側から王選関係者への干渉があった可能性がある。あるいは別の陣営の示威行為というのもあるか」

「どっちも考え難いかにゃー。仕掛けてくるには時期が悪すぎるし、そもそもスバルきゅんを狙っても誰に得が? 関係者ならスバルきゅんの醜態っぷりは周知の事実ですし、そもそも呪術含めて魔法的干渉が見当たりません」

「そ・れ・と・も」と音を区切りながら小首を傾げ、フェリスは腕を組んだクルシュの隣にそっと寄り添うと、

「クルシュ様は、フェリちゃんの能力をお疑いになりますか?」

「まさか、だ。私がお前の能力を、人格を、忠誠を疑うことなどあり得ない。仮にお前に正面から短剣で刺されようと、その考えは永遠に変わらない」

「やだ、クルシュ様ってば信じらんない殺し文句……もう、腰砕けですぅ」

くねくねと身悶えるフェリスをさて置き、クルシュは改めてレムを見やる。主従のやり取りを無言で見ていたレムは、その鋭い眼差しに姿勢を正して向き合う。

「フェリスはこう言っている。そして、フェリスが力になれないのであれば、当家でナツキ・スバルの治療ができるものはいない。及ばず、すまない」

「――いいえ、こちらこそ寛大な処置に言葉もありません」

屋敷の主人の謝罪に対して、レムは丁寧にお辞儀して応じる。

事実、言葉を尽くしても礼を尽くしても、返し切れない温情を受けたのだ。

フェリスが手を抜いたなどとは思わないし、クルシュが政治的な敵対者となるエミリアの関係者に恣意的な判断をしたということもない。

水の魔法に関してはレムも多少なり関わりを持つ身だ。フェリスの技術の高さを、そしてスバルの身に起きた異変にそれが意味を為さないこともわかっている。

クルシュの人格についても、たった数日の邂逅ではあるが誠実で実直な人柄である点は疑いようもない。公爵家を若くして、それも女性の身で引き継いだだけの能力と責任感、そして大貴族としての資質が彼女にはある。何度も話し合う場を設けてもらって、言葉を交わした関係だけにそれは明白だった。

つまり、彼女らに落ち度など微塵もない。

この現状はなるべくしてなったどうしようもない状況であり、

「――魔女」

よりいっそう、スバルの身を取り巻く臭気が増したそれが原因であることがレムにだけはしっかりとわかっていた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

スバルの全身を取り巻く魔女の気配――瘴気はその濃度をさらに増していた。

それがスバルが倒れた直接の原因かどうかはわからないが、スバルが倒れる直前にその気配が膨れ上がったことだけは事実である。

レムだけが気付くその臭気に、他の誰も気付くことができない。

それ故に手の施しようがないと判断した彼らの考えを責めることはできなかったし、抜本的な解決ができない自分をさし置いて他者を責めるなど彼女の性格で思い浮かぶはずもない結論であった。

魔女の瘴気を感じ取れるのは、レムが持ち得る極少ない姉に勝る点であった。

ラムが角を失う前より、それなりに鼻が利く体質であったとは思う。大気に満ちるマナのありようを嗅ぎわけることには自信があり、山中で獲物の臭いを追跡することも姉に匹敵した。

ただ、魔女の気配を嗅ぎとれるようになったのは、一族郎党が皆殺しにされた夜を境に新たに獲得した能力であった。

原因はわからない。極限状態に置かれたレムの肉体が、あの夜のことを忘れないために変異した結果なのではないか、と自分では考えていた。

そして、この奇妙な嗅覚に関してはレムは他の誰にも伝えていない。ただ、その身から臭気を漂わせる相手に対しては、常より強い警戒を払うようになった。

生理的な嫌悪感が、先入観が働くのだ。

もっとも、そんな偏見的な考えは、それまでで最も強く魔女の瘴気を漂わせていた少年によって払拭されることとなったのだが。

それでも。

それでも、だ。

この瘴気がもたらすものが、決して善なるものでないことを彼女は、

――鬼はしっかりと、認識していた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――お世話になりました。今日までのご厚意、主に代わりお礼を申し上げます」

腰を折り、深々と礼をするレム。

彼女の前に立つのはクルシュとフェリスの二人であり、彼女ら三人が会するのはクルシュの邸宅の玄関ホール――つまりは、別れの挨拶だった。

「力になれず、すまんな。本来ならばこれで対価を得るなどおこがましい話だが」

「いいえ。申し出を途中で打ち切るのはこちらの都合です。クルシュ様におかれましては最大限のご配慮をいただきました。対価は確かに、支払われて当然です」

わずかに視線を落とすクルシュに、レムは毅然と顔を上げてそう応じる。

それを受け、クルシュは「すまないな」ともう一度だけ謝罪を口にし、それ以上に言葉を尽くすことをしなかった。これから先は形式ばったやり取りにしかならないことを彼女もわかったのだろう。

「にゃんか不完全燃焼にゃんだけど、仕方ないっか。レムちゃんはお達者で。スバルきゅんの方は……お大事に、って言うべきなのかにゃ?」

故に、主に代わって次に口を開いたのはフェリスだった。

指を立てて片目をつむり、彼はレムの後方――扉に背を預けて、だらりとだらしない姿勢で突っ立っているスバルがいる。

相変わらず反応は鈍く、こちらを意識してくれているかも怪しいが、手を引けばついて歩いてくるし、崩れ落ちずに立っているぐらいはできるようになった。時折、ふいに笑い出すのと泣き出すのばかりはどうにもなっていないのだが。

「当家のものの失礼に関しては、こちらもいくら謝罪の言葉を尽くしても足りません。寛大に扱っていただいたこと、心より御礼を」

「契約があり、少なからず言葉を交わした相手だ。無碍に扱うなどできるはずもない。卿にとってはこれからが大変だと思うが」

「それは……覚悟しての、ことですから」

変わらず上体をふらつかせ、薄笑いを浮かべるスバルを横目に、レムはぎゅっと自分のエプロンの裾を掴んで決意を表明する。

かつて、レムは彼に言われた言葉を忘れていない。何回も、何十回も、何百回も頭の中で繰り返し繰り返し、その場面を思い出した。

だから、そうされたことと同じだけのことを、彼に返さなくてはならない。

「卿の申し出に、どうやら応じられそうにないのが残念だ」

思案に沈んだレムにかけられたのは、瞑目したクルシュのそんな言葉だった。

主語のない言葉ではあったが、それがレムとクルシュの間で交わされていた密談の内容に対するものであると理解する。

レムは顎を引き、それから目を伏せるクルシュに首を振ると、

「全てはこちらの力不足です。――残念な結果にはなってしまいましたが、クルシュ様の今後のご活躍をお祈りいたします」

「そちらも、エミリアに伝えてくれ。互いに、魂に恥じぬ戦いをしようと」

そのやり取りだけで、レムはこの場所における自分の役割が終わったことを自覚した。スバルの治療は半ばで打ち切り、そしてロズワールに下された指示も。

どちらのことも、スバルがこの状態では続けようがない。潜在的な敵地であるこの場所で、無防備なスバルをいつまでも引き連れてはいられないのだ。

「屋敷に戻るのはいいけど、当てはあるの?」

「少なくとも、エミリア様とお会いできれば……」

口惜しさを堪えたまま、レムはフェリスの問いかけにそう応じる。

何度声をかけても、何度触れても、どれだけ甲斐甲斐しく接しても、スバルはいつもの彼らしい反応をレムに返してはくれなかった。

そんな状態のスバルでも、時折、意味のある言葉を口にすることもあった。

それが、

「名前……」

「んー?」

「時々ですけれど、名前を口にするんです。レムの名前や、姉様。それに……」

自分の名前がそこにあることを喜ばしく思う反面、その自分の働きかけには一切応じてくれない事実が哀しくもある。

ただ、その呟かれる名前の頻度で、もっとも多い名前は――、

「エミリア様にお会いできたら、なにか変化があるかもしれません」

「でも、手酷い別れ方してるんでしょ? それもまだ三日ぐらいしか経ってにゃいわけだし、時間を置いた方が……って、それが無理にゃのか」

「褒められた手段でないことはわかっています。でも、もうレム個人の判断でどうにかできる状態ではありません。指示を仰ぐためにも、戻らないと」

精いっぱいに、主を気遣う発言をすることでレムは自分の本心を偽る。

そちらを大義名分に、自分の心が本当はなにを望んでいるのか理解していた。

そして、そのことに自分の存在では足りないことが、彼女には悔しかった。

「――ヴィルヘルムがきたな」

ふと、顔を上げたクルシュが目を細める。

彼女の視線を追いかけ、つられて振り返る背後――邸宅の外縁、鉄の門の向こう側に一台の竜車が到着し、御者台に見慣れた老紳士が座っているのが見えた。

「当家にある長距離用の竜車はあれが最後だ。危うく、別の用事で外に出してしまうところだったが」

「運が良かったよネ。これでリーファウス街道突っ切れば、まあ日付が変わるまでにはお屋敷に辿り着けるだろうし」

到着した竜車を見ながら、レムは高度を上げる太陽の輝きにその目を細める。

時間は正午を目前としたところで、今から全力で竜車を走らせれば、なるほど確かに半日ほどで屋敷に着く。到着までわずかとなれば、共感能力で姉にある程度の意思を伝えることも可能となるだろう。

「息災で」

「頑張ってねー」

見送られ、レムは最後にもう一度だけ深々と頭を下げ、それからスバルの手を引くとカルステン邸をあとにする。

門のところでヴィルヘルムから手綱を受け取ると、一言二言会話を交わしてから御者台に乗り込み、

「スバルくん、こちらへ」

「……ぅ、あ?」

腕を引き、御者台の隣にスバルを座らせる。二人で腰掛けるとかなり狭く感じてしまうが、そうして密着しながら片腕を彼の腰に回し、もう片方の手でしっかりと手綱を掴んだ。

これから長い長い時間、この状態で走り続けなければならない。

スバルにかかる負担も心配であったし、屋敷に辿り着いてからも彼を守らなくてはならない。きっと、ロズワールたちはスバルを歓迎はしてくれないだろう。

味方のいなくなってしまうかもしれないスバルの、自分だけは味方でいてあげなくてはならない。

そうでなくては彼は、そうでなくては彼は――。

――決意を深く固めるレムが手綱を引くと、地竜が地面を蹴って走り出す。

ゆっくりと、次第に早まる車輪の動き。

それはまるで、今のレムの心のありようを暗示しているような、そんな感覚を手綱越しに彼女に与えているのだった。