軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

後幕 つらい記憶も、いつかは思い出になるようです

公館を訪れた、次の日。

出国の手続きをするために、アンジェリーナは国境検問所に向かう。手には、一通の手紙を握りしめていた。船着場までの道を歩きながら、少し後ろを歩いていたアレスティオを振り返る。

「昨日のうちに出発したということは、ジャミル様は別行動なのですね」

「おう。なんでもセザイア帝国の皇太子殿下に用事があるみたいでな。先に向かっていてほしいとさ」

「本当、いつもお忙しい方ですね!」

アンジェリーナは目を丸くした。

次の行先はもう決まっている。

ムダルガンド、宝具は聖騎士の剣。ムダルガンドは同盟と盟主、そして魔装迷宮で有名なところ。

「どんな場所なのでしょう、楽しみですね!」

アンジェリーナは表に大きく「招待状」と書かれた手紙を鞄にしまうと、期待に胸を膨らませながら、顔を上げる。

横を流れる運河を滑るように舟が進んでいく。咲き乱れる花と人の装いには、国を訪れた日と変わることなく鮮やかな色があふれていた。

様々な出来事があったけれど、あいかわらずラグイアーナ王国は美しい。

レンガの道を踏みしめながら、アンジェリーナは弾むような足取りでジルベルトにもらったばかりの婚約指輪を光に透かせる。

「キラキラしてる、きれいだー!」

銀の金具に小さなダイヤモンドが輝いて、真昼の空に浮かぶ星みたいだ。

無邪気にはしゃぐアンジェリーナに、アレスティオが微笑ましいという顔をする。

「よかったなー、ジル。アンジェリーナがすごい喜んでる。がんばって商品選んだかいがあったじゃないか……っておい、歩き方おかしいけど大丈夫か⁉︎」

アレスティオの隣を歩くジルベルトの足取りがなんだか危うい。

ジルベルトは赤くなった目元を片手で覆った。

「……すまない、アンジュが尊くて直視できないんだ」

「ほー、そうか。よかったな。俺だって婚約者が欲しいのに、とっととしあわせになりやがって。うらやましいー、いいなぁ」

生温い目で、そう答えるアレスティオの台詞は棒読みだ。アレスティオは周囲をふわふわと飛びながら散歩しているルベルを振り向いた。

「ルベルー、邪魔だったらジルの後頭部に火を吹いていいぞ」

承知したとでもいうようにルベルが「ガー」と鳴いて、口から小さな火を吹いた。途端にジルベルトはギョッとした顔をする。

「おいルベル、あっさり承知するんじゃない。髪が燃えるだろう、最悪死ぬぞ!」

「髪ならまた生えてくる。しかもルベルの火力制御は完璧だ。問題ないな!」

さらっと言い返してアレスティオは周囲を見回した。

すれ違うラグイアーナ王国の人々は皆、どこか落ち着かないような、不安そうな顔をしている。

「第一王子殿下……もうすぐに国王陛下になるのか。彼が帰国したら、人の顔も以前のような明るい雰囲気に戻ると思っていたのだけど。ちょっと思っていた感じとは違うな」

「彼が王になればこの国の考え方を根本から変えようとするだろう。今までのやり方とは大きく変わる。そのことに不安があるのだろうな」

「その気持ち、よくわかります」

人にとって取り巻く環境が大きく変わるのは、こわいことでもある。

ラグイアーナ王国で身にしみてそのことを学んだアンジェリーナはうなずいた。けれど次の瞬間、しあわせそうな顔でジルベルトと視線を合わせる。

「でも一歩前に進んだおかげで、二人をつなぐ新たな 縁(えん) が手に入りました」

アンジェリーナは指輪をはめた手をジルベルトの手とつないだ。

現状を変えたからこそ、恋人から婚約者へと昇格した。無理やりではない、アンジェリーナが受けると決めた婚約。婚約にはつらい記憶しかなかったのに、それがこんなにしあわせなものに変わるとは思いもしなかった。

「そういえば、これはフェレスが教えてくれたのだが」

思い出した顔で、ジルベルトは小さく笑った。

「二人で署名した婚約届を送っただろう。父は届出を一読して無表情のまま決裁印を押したかと思うと、『自分で出しに行くから』と側近に言い置いて、廊下をスキップしながら担当官へ届けに行ったらしい」

「……スキップ、賢王様が?」

理解が追いつかなくてアンジェリーナは固まった。

ジルベルトの父親である賢王ウィフトギルス様は鉄壁の無表情を誇る、常に冷静沈着な人だったはずだ。

「しかも事務室に到着した父は表情を変えることなく『これを最速で処理してくれ』と担当官に手渡したあと、またスキップしながら執務室まで戻ったそうだ。その結果、間違った情報がばら撒かれて、小一時間ばかり各部署の業務が停止した」

「すみません、ちょっと言っている意味がわからないのですけれど⁉︎」

アンジェリーナが署名したのは婚約届のはずだ。決して現場を混乱におとしいれるような、恐ろしい書面などではない。うろたえたアンジェリーナの顔を見て、ジルベルトは小さく笑った。

「普段会うことのない王が目の前にいて、声と態度は別人のように弾んでいる。しかも差し出した書類は王族の婚約届、超重要書類だ。担当官は、それで余計に混乱したのかもな」

情報過多と極度の緊張で倒れ、担当官は医務室のお世話になったそうだ。しかも王のスキップが、違う場所で別の波紋を呼んだらしい。

「フェレスの部屋には特務部隊の隊員が飛び込んできて、真っ青な顔でこう言ったそうだ。『陛下にそっくりな魔物がスキップしながら城内を徘徊しているそうです』、と……滅多に動じることがないフェレスでさえ、笑顔でペンを取り落としたらしいから相当だ」

「それは大騒ぎでしょうねー」

「あとで父は義母上にきつく叱られたらしい。『はしゃぐなら、もっとわかりやすくはしゃいでください』とな」

「賢王様……」

ウィフトギルス様は表情が変わらないだけで優しい人だ。叱られて、わかりにくくしょげている王の顔を思い浮かべてアンジェリーナはそっと涙を拭った。そしてジルベルトと視線を合わせる。

「でも、それだけよろこんでくれたということなら、本当に感謝しかありませんね」

「そうだな」

ジルベルトの視線を追って、アンジェリーナは雲一つない青空を見上げた。

遠くから見守ってくれる人がいて、隣に愛する人がいる。

幸運という言葉を文字にするとしたら、きっとこういうことだろう。

――――

船着場にたどり着くと、アンジェリーナは近くで劇場の看板を見つけた。前回とは違う字体でユニウム・ラグイアーナオペラの文字が踊っている。

「新たな演目が始まったようですね。しかも今日が初日です」

「演目が刷新されたのは帰国早々に第一王子殿下が『嘆きの魔唱姫』の上演を禁じたからだ。実話という謳い文句でありながら虚偽の内容が含まれているとして、上演を指示したテオドーロと公爵家にも厳しい処分が科された」

「オペラですから創作物ですよね、それなのに嘘をついたと?」

「そもそも『敵役である公爵令嬢本人が上演を望んだ』という前提から大嘘だった」

表情に怒りをにじませて、ジルベルトは眉をひそめた。

悪役令嬢という役柄のために作り上げられた虚構の悪行。それが美しいオペラの音楽に乗せて、世界にばら撒かれたわけだ。イグレーテは何も言わなかったけれど、どれだけ悔しい思いをしただろう。

青ざめた顔で、アンジェリーナは身を震わせた。

「やっぱり私、魔のつくものよりも人間のほうがこわいです」

「否定はできないな。それでも今回のことをきっかけに、イグレーテ嬢の名誉と生活環境が改善できたのは救いか」

アンジェリーナと並んで歩きながらジルベルトは、ほっと息を吐く。

名誉が回復した今も、イグレーテは湖畔で暮らしている。二度と国政には関わりたくないという彼女の意向を汲んで、第一王子殿下が許可したからだ。

今後はジャミルの手配した研究者達と交流しながら、ケルピーの生態と研究を続けるそうだ。

最後に会ったとき、イグレーテは「今が一番しあわせだ」と言っていた。

変わることのなかった優しい声を思い出して、アンジェリーナは天を見上げる。

「最初ラグイアーナ王に『うっかり』と言われたとき、仕事を断るという選択もありました。けれどその先に精霊様がいて、イグレーテがつらい思いを抱えていた。救わなければならない存在があったとわかった今は、仕事を受けてよかったと思います」

するとジルベルトは感心したようにうなずいて、アンジェリーナの頭をなでた。

「ちゃんと聖女らしいことが言えるのにな。どうして口調はこんなに軽いんだ?」

「性格ですかねー? 今回の経験を活かせるか、今後に乞うご期待です!」

「だからそれを軽いと言うんだ」

あきれた顔をしたジルベルトにアンジェリーナは笑ってごまかした。

そして、ふと思い出した顔で首をかしげる。

「そういえば最後まで疑問に思っていたのですが。第一王女殿下の声が、どうしてジルには効かなかったのでしょうね? 取り巻きの方々は深く魅了されていたのに」

「そのことだが、あのあとアレスやジャミルとも話したんだ。聞くか?」

「もちろんです!」

「おそらく『魔法ではない』というところが鍵なんだ。好意の振り幅が人の心に直結する」

ジルベルトは一呼吸おいて、きっぱりと言い切った。

「生理的に無理だから魅了されなかったという結論になった」

「は、そんな単純な理由でですか⁉︎」

あまりにも単純で、アンジェリーナはポカンとした顔をする。

「でもジルは最初に会ったとき、魅入られたように見ていたではありませんか!」

「あのときは本気で魔物の類かと疑ったからだ。王女である以前に、あんなぶっ飛んだ思考回路の人間がいるとは思わないだろう。魔物が王女に化けていると言われたほうがまだ納得がいく。無防備なところでアンジュが襲われたら危険じゃないか」

「それはまあ……そういうことだったのですねー」

ジルベルトは魅入られていたわけではなく、警戒心が極振りして目が離せなかったというのが真相らしい。

「では取り巻きの方は、もとから好感度が高かったので、王女殿下の声を聞いて好意がさらに爆上げされたということでしょうか?」

「おそらくな。貴族として王族に気に入られたいという名誉欲のようなものはあっただろうし、欲求が高い人間ほど魅入られる確率が高くなる。逆に私には素地となる好意がないから、好感度が上がることはない」

「ですがそんな単純な理由で、好悪の感情にここまで落差がつくものでしょうか?」

「そうだとする確証はないが、絶対にないとも言い切れない。人の心ほど、複雑で読めない動きをするものはないからな」

反論しようとして、アンジェリーナは言葉につまった。

自分にも理屈では説明のつかない感情に突き動かされた記憶があったからだ。

「それではジルが王女殿下に関わったときの寒気と、体の震えというのも」

「あきらかに拒絶反応だろうな。もしくは虫の知らせというものか。心と体は繋がっているから嫌悪感が体に出た」

「魔法ではないからこそ、越えられない壁が存在したということでしょうか」

「そういうことになるな」

ジルベルトはアンジェリーナの手を捕まえて軽く握った。二人の間でつないだ手を掲げてみせると小さく笑った。

「ほら、全然違う。だから安心していい」

満足げなジルベルトの笑顔が直撃したアンジェリーナはほんの少しだけ頬を赤くする。心拍数が上がって、アンジェリーナの胸の奥で心臓が大きく音を立てた。

今回みたいなことが頻繁にあったら、たぶん私の心臓がもたない。

王女殿下と話すジルベルトの姿を見て、アンジェリーナの胸の奥に突如として湧き上がった黒い感情と痛み。それが嫉妬とか、執着心と呼ばれるものだということをアンジェリーナは学んだ。けれど感情で動いたことが二人の距離を縮めることもある、それがわかったことは大きな収穫だ。

つないだ手をしっかりと握り返して、アンジェリーナは顔を上げる。視線の先で、劇場の窓が大きく開いた。

海鳥が飛び立ち、窓を通過して周囲に風が生まれる。

途端に待ち焦がれていたような人々の歓声が、わっと上がった。突然の出来事と周囲の熱量にアンジェリーナは目を丸くする。

「皆さん、急にどうしたのです⁉︎」

同じように顔を上げたジルベルトは、周囲の会話に耳をかたむける。それからポスターの説明文に目を止めた。

「どうやら公演初日に歌姫の歌を聴きに来たらしいな」

「これから歌うのですか?」

「ユニウム・ラグイアーナオペラの伝統だ。新たな演目が上演されるとき、公演の盛況と国の安寧を願って、主演の歌姫は歌を海の神に捧げる。声が届くようにと、ああして窓を大きく開け放つそうだ」

「素敵、そういう伝統があるのですか」

「今回の演目、主役は歌姫セイレーンだ。きっと彼女が歌うのだろう」

ジルベルトの説明を聞きながらアンジェリーナは耳を澄ませる。やがて吹き抜ける風に乗って、音楽が流れてきた。

離れた場所にいるから途切れるところはあるけれど、明瞭に歌声が響いていた。声量のある人だから、きっと遠いところまであの魅惑的な声は届いていることだろう。

歌に聞きほれていたアンジェリーナは、ふと魔のつくものの気配を感じて視線を向けた。すると劇場から少し離れた岩礁の上に誰かがいる。

……陸地から離れた場所に人が?

一見すると人間の女性のようで、豊かな赤褐色の髪を風になびかせて、華奢な上半身を岩に預けている。何気なく彼女の足元を見たアンジェリーナはギョッとして固まった。

人間の足の代わりに、魚のような尾びれが生えていたからだ。

岩に打ちつける海水が跳ねて、下半身を覆う鱗が陽光を弾く。尾びれは曲に合わせて調子をとるように海面を軽く叩いていた。

まさに劇場の壁に浮き彫りにされている姿そのまま。アンジェリーナは呆然としてつぶやいた。

「セイレーン、本当にいたんだ……」

しかも曲の音に合わせてセイレーンの唇が開いたり閉じたりしている。さすがに距離があって歌声は聞こえないけれど、歌姫の声に合わせて唇が動き、あきらかに声を合わせている様子だ。

アンジェリーナの魔除けの力が、声に宿ったわずかな魔力を感知する。

「……これ、魔唱だ。本物の、魔唱姫」

「どうした、アンジュ」

アンジェリーナは無言でセイレーンを指す。ジルベルトもまた、セイレーンを見つけたようで固まった。

滅多に表情に出さないジルベルトが、衝撃のあまりに呆然と口を開いている。きっと自分も同じ顔をしているだろうと思うとアンジェリーナはちょっと笑ってしまった。すると今度は、アレスティオが固まって動かないジルベルトの視線を追った。

「ジル、どうし」

た、という音だけが虚空に消える。その代わりに彼の震える指が岩を指した。堪えきれなかった様子でアレスティオが叫んだ。

「セイレー……、モガッ」

「黙れ、他の人間が気づくだろう!」

ジルベルトがあせった顔でアレスティオの口元を押さえると、アンジェリーナは周囲を見回した。運がいいことに人々は歌声に魅了されているようで、誰も気づいていなかった。ほっとした顔で、アンジェリーナは岩礁に視線を戻した。

するとアンジェリーナの存在に気づいたようで、セイレーンと視線が合う。彼女は目を見開いた次の瞬間、嫣然と微笑んだ。

くっきりと口角を上げて、指先を唇に当てる。

……内緒にして、お願いね?

風に乗ってセイレーンの声が聞こえたような気がした。

片目を軽くつぶって、いたずらめいた表情で笑うと、セイレーンは静かに身をひるがえした。高く尾びれを跳ね上げて一気に飛び込むと、深く潜っていく。

逃げた気配を追えば、どんどん遠く離れて、最後は海の彼方へと溶けるように消えていった。やがて歌姫の歌は終わり、劇場の窓が閉じる。

すべてを見届けたアンジェリーナは深く息を吐いた。

「いやまさか、あんなところに観客として来ているとは思いませんでしたね!」

何が来たとは、決して言わないけれど。

アンジェリーナは乾いた笑い声を立てる。ジルベルトの手から解放された後も、アレスティオは呆然としていた。

「アンジェリーナ。あれ、本物か?」

「おそらくは。たぶん船乗りの噂で歌姫セイレーンのことを聞いたのでしょう。興味があって、歌を聴きにきたのかもしれません。すばらしい歌声に満足して帰っていきました」

きっと戻ったら、彼女は仲間達に誇らしく語るのだろう。

セイレーンと呼ばれる人間の歌姫がとてもすばらしかったということを。

アンジェリーナはセイレーンの消えていった遠く離れた海の先を見つめる。

「第一王子殿下が国王陛下になられたら、きっとご苦労も多いと思います。ですが悪い結果にはならないと思いますよ」

「どうしてそう言える?」

「歌姫が国の安寧を願って、祝福に満ちた歌を捧げたのですから。セイレーンですら聞きほれた歌声は、きっと天の端まで届いて御心にもかなうでしょう」

アンジェリーナは水平線から視線を外し、空を見上げる。

空の青が、清められたように澄んでいた。これなら間違いなく天の端まで歌は届いたはずだ。アンジェリーナの上司の耳にも入って、大変よろこんでいるに違いない。

同時に歌姫へと拍手喝采を贈るおばあさまの姿を思い描いて、ふふっと笑った。

「ラグイアーナ王国の未来が定まって、イグレーテが落ち着いたら。そのときはセイレーンに会ったことを彼女に伝えたいですね!」

アンジェリーナが微笑むと、ジルベルトは軽く手を挙げた。

「手紙を書けばいいんじゃないか? 手紙なら、いつでも好きなときに読めるだろう。彼女の宛先はわかっているし、必要な魔力はここにある」

「お手紙ですか、いいですね!」

「なんて書くんだ?」

「そうですねー。まずはセイレーンが思っていたよりもたくましく、元気に暮らしているみたいだということでしょうか」

他には何を書くか。アンジェリーナは頭を悩ませる。

歌姫の歌声がすばらしく、セイレーンが聞きほれていたことも書こう。きっと歌姫にも伝わるに違いない。そして最後には、こう書いて送りたかった。

つらい記憶も、いつかは思い出になるということを。